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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
門司戦記(三) 敵陣突破の巻

―――――――――――――――――――――――――――― 
門司戦記 〜雷雲の陣〜
――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――
(三) 敵陣突破の巻 
―――――――――――――


児玉就方率いる毛利水軍が、三角山城へ向かう。

門司城入城のための陽動作戦である。


砲撃の済んだポルトガル船の撤退により、
門司城の包囲を再開しようとしていた大友軍は、
支城の三角山城へ向かう敵水軍の動きに慌てる。

児玉隊の門司上陸を阻もうと、
大友軍の臼杵鑑速・吉弘鑑理らは
急いで三角山麓の門司ヶ浜へと兵を動かした。

それによって、大友軍の門司城包囲は遅れ、
その隙に堀立直正率いる赤間関の毛利一隊は、
敵の目を盗んで門司城下へ接岸した。


門司城は、独特の地形をしている。

企救半島(きく半島)の最北端にある
標高175mの小山に築かれた山城だが、
陸側は絶壁になっており登るのは至難の業である。

逆に海側のほうがなだらかな尾根になっているため、
門司城本丸に上がるには海側に回り込む必要がある。

そのなだらかな尾根は明神尾(みょうじんお)と呼ばれ、
入城を阻む出丸や曲輪(くるわ)が
何重にも設けられていた。

登山口に設けられている最初の曲輪は、
明神曲輪(みょうじんくるわ)と呼ばれている。

その明神曲輪の先の海岸には、
一千年以上もの昔に創建されたという
和布刈神社(めかりじんじゃ)が鎮座している。

明神尾の名は恐らく、
この由緒ある和布刈神社の背後だからであろう。

堀立直正ら毛利勢百五十は、
この和布刈神社のそばの岩場にひっそりと舟をつけた。


「急げ!」

堀立直正の指示を受けて、赤間関の毛利兵たちは、
舟で運んできた兵糧や武具などを
明神尾へと次々に運び上げていく。

また境内一帯の敵陣には、
大友勢が置いている武具などもあり、
どさくさに紛れてそれらも運び入れた。

ところが思いのほか早く、敵軍の鬨の声が聞こえた。

ポルトガル船の砲撃を避けて
東の田野浦(たのうら)方面に移っていた大友軍の一隊が、
海岸線を伝って和布刈神社へと攻めてきたのである。

三角山城方面に兵を割いたため大友軍の兵数は少なく、
またここは山と海に挟まれた地形のため
大軍が一度に来ることもない。

まだ全ての物資を運び終えていない毛利隊を後ろに見て、
堀立直正は慎重に、応戦すべく刀を抜いた。


「おまえが大将か!」


その大友勢の先頭の武者が甲高い声を上げて、
堀立直正に突っ込んでくる。

見ると十代ぐらいの若者、いや少年に見えた。

堀立直正は、やや拍子抜けした。

豪傑揃いと聞いていた大友軍の先頭が若造なのを見て、
毛利がなめられているとさえ思った。


「堀立壱岐守が相手だ、小僧」

「そうか、おまえが赤間の代官だな。
小野弾介の槍、とくと見ろ!」


小野弾介(おのだんすけ)と名乗った少年は、
長い槍を構えながら突進してきた。

直正はその槍を刀で薙ぎ払おうとした。

ところが、小野弾介の槍先がその刀身を絡め取り、
高い金属音を立てて、刀は手から弾き飛んでしまった。


「馬鹿なっ……!」


一瞬の出来事に、堀立直正の全身に戦慄が走る。

すかさず、小野弾介の槍が襲ってきて、
直正はとっさに後方へと退く。

小野弾介は冷徹な笑みを浮かべながら、
武器を失った堀立直正にとどめの一撃を繰り出した。


だがその槍の刃は直正に届く前に、
もう一本の槍に食い止められていた。

弘中方明だった。

舟の漕ぎ手たちに赤間関へ引く指示を出していて、
参戦に一歩遅れていたのである。

獲物を邪魔され眉を引きつらせる小野弾介に、
弘中方明はにやりと口角で笑いながら問う。


「おまえ、若いのにやるなあ。誰だ」

「大友の一番槍、小野弾介だ。おまえこそ誰だ」

「毛利の将、弘中河内守」

「知らねえな」


二人の槍使いは互いの槍を合わせながら名乗り合う。


「親父さん、行け! ここは俺に任せろ」


小野弾介の槍を払いながら方明は叫ぶ。

堀立直正は我に返り、
毛利兵と共に明神尾へと走り込む。

目の前の敵大将を逃がすことに苛立って、
小野弾介は雄叫びを上げながら
弘中方明に攻撃を浴びせた。

方明はその突きを受け流していく。

関門海峡の波の音を背に、
二つの槍が幾度もかち合う。


二人の槍使いの勝負は互角に見えた。

だが、二十合ほど打ち合った頃。

小野弾介が怒り狂ったように大きく哮けり、
渾身の力でその槍を突き出した時、
弘中方明はそれを交わしながら胸元に入り込んだ。

そして槍から離した片手で弾介の襟をつかみ取り、
弾介が重心を載せた足を蹴り上げると、
弾介の身体は高く宙に舞い、海へと投げ出された。

水しぶきが上がる。

上から覗き込むと、放られた小野弾介は
ずぶ濡れのまま岩にしがみついていた。

弘中方明は見下ろしながら声をかける。


「なかなか強いな、若いの」

「くっ……!」

「冷静になれば、とてつもなく強い槍使いになるよ。
頭は冷えたか」

「この野郎!」


方明の言葉にさらに怒りが沸騰する小野弾介だが、
岩に足を打ちつけられた痛みで、
波にさらわれないように岩を抱くのが精一杯である。


そこに今一人、長槍を携えた大友の武者が
「弾介、弾介!」
と呼びながら、後ろから駆け寄ってきた。


「由布様!」

「ゆふ?」


小野弾介の放った言葉に聞き覚えのあった弘中方明は、
由布と呼ばれたその武者に目をやった。

すると、風を切りながら鋭い槍先が迫ってきた。

間一髪でその攻撃を弾き返した方明は、
槍を強く交えながら
遅れてやって来たその大友の武者とにらみ合った。


「ゆふ……。そうか、
戸次鑑連(べっきあきつら)の一番槍という
由布源兵衛(ゆふげんべえ)だな」

「それがしを知っているのか。そう言うおぬしは」

「弘中河内守方明」

「ほう……、おぬしが岩国の雲将か。
相手にとって不足はないわ」


二人は名乗り合うと、壮絶な一騎討ちを始めた。


由布惟信(ゆふこれのぶ)。

通名は源兵衛。

豊州三老でも最強と名高い戸次鑑連の軍勢において、
常に先鋒を任されるほど信任の厚い勇将で、
数知れない一番槍を果たしてきた槍使いである。

槍を得意とする者は、他国の槍使いが気に掛かるようで、
由布惟信も弘中方明も互いの名を聞き及んでいた。


両者の槍は、激しい火花を散らした。

お互い一歩も譲らず、
二十合、三十合と撃ち合っていく。

その壮絶な斬り合いに、足下の小野弾介をはじめ、
周囲を囲む両軍の兵たちも固唾を飲む。

どちらが相手を呑むか、全く予想できなかった。


ところが、
互角に続く勝負をいきなり中断させたのは、
弘中方明だった。

頃合いを見て、ふっとその槍先を下ろす。

闘志を自ら引いた相手に、
由布惟信は調子を失って尋ねる。


「何だ」

「とりあえず、ここまでにしよう」

「どうした河内守。息が上がったか」

「いや、あいつを助けたほうがいい」


弘中方明は、海の岩場を指し示した。

早鞆の瀬戸の潮が次第に高くなってきて、
小野弾介は必死に岩にしがみ付いていた。

このままでは波にさらわれてしまうかもしれない。


「これから波が高くなるぜ」

「……いいだろう。勝負は引き分けだ」

「ああ。どうせまたすぐに会うさ」


弘中方明は笑うと、
明神尾に上がる毛利兵たちを追って消えた。

由布惟信は大友兵たちと共に、
海に浸かった小野弾介を引き上げて手当をした。


「由布様、すみません。不覚でした」

「気にするな。初陣にしては上出来だ。
別に負けたわけでもない」

「はい」

「陣形を整えよ!」


肩を叩いて若き小野弾介を励ました由布惟信は、
落ち着いて包囲陣を敷き直す指示を将兵たちに出した。

小勢の毛利軍に門司城へと突破されてしまったが、
由布惟信は特に深く気にしてはいなかった。

門司城の攻略は、これからなのだから。



門司ヶ浜に近づきながら上陸せず
船首を本州に戻した児玉就方隊を見送りながら
別の毛利勢が門司城へ入ったことを聞かされ、
大友軍の臼杵鑑速・吉弘鑑理は地団太を踏んだ。

そして、門司城の包囲は
怒りと共に強化されていく。


逆に、門司城は歓喜の声に湧いていた。


南蛮船からの突然の砲撃に晒された
門司城城内の兵たちは、憔悴しきっていた。

見たこともない砲弾と炎柱に威嚇され続け、
兵糧も武具も底を尽きかけていて、
落城寸前だったのである。

門司城を守っていた城主・仁保隆慰(にほたかやす)、
また支城・三角山城を大友勢に陥落されて
門司城に落ち延びていた
三角山城城主・杉彦三郎(すぎひこさぶろう)たちは、
弘中方明や堀立直正の救援に、咽び泣いた。

救援兵や物資の数はわずかではあるが、
毛利水軍の本隊が赤間関に着くまでには
持ちこたえられる可能性が十分に高まった。

やがて到着する毛利水軍本隊と、
どのように連携して大友軍に立ち向かうのかが、
これからの門司城の将たちの課題である。



再び城下を取り囲み始めた大友軍の陣を見下ろし、
弘中方明は一人、つぶやいていた。


「由布源兵衛に、小野弾介か……。
大友の強さ、侮れないな」


実際に手合わせをして、
噂に聞いていた由布惟信の強さを知った。

そして、恐らくこれからまた大きく成長して
その強さを諸国に見せるであろう、
若武者・小野弾介。

そのような層の厚い強者軍団を束ねる、
豊州三老最強の名将・戸次鑑連とは……。

弘中方明はこれまで数多くの戦に参加し、
大内氏、尼子氏、毛利氏などの猛将たちを見てきたが、
大友氏はそれらとは桁違いの強さに違いない。

九州という新たな地に足を伸ばした毛利にとって、
大友軍はこれまで以上の大きな壁となるだろう。

この最強の敵を、
門司から撃退することができるのか。

弘中方明は、天を見上げた。

関門海峡や門司城を包み込む大空を、
無数の雲が流れていく。


堀立直正や弘中方明の敵陣突破から十六日後、
いよいよ毛利水軍の本隊一万が、赤間関に着く。

一万の毛利水軍を率いる総大将は、
毛利元就の三男にして毛利一の知恵者、
小早川隆景(こばやかわたかかげ)。

厳島の戦いで打ち破った大内水軍、
瀬戸内の荒海で勢力を張っていた村上水軍をも吸収し、
西国無双の水軍と化していた毛利水軍が、
門司の対岸に続々とその軍船を並べ始めた。


毛利方の総大将・小早川隆景の着陣によって、
門司城の攻防戦はさらに激しさを増す――――。


(つづく)


 


――――――――――――――――
『門司戦記』武将列伝 [三]
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■由布惟信 (ゆふ これのぶ)

大友家家臣。豊後国由布(=大分県由布市)の由布家の
当主だが、豊州三老筆頭の戸次鑑連に心酔し、戸次氏の
陪臣となって幾度となく一番槍の戦功を先駆けた勇将。
鑑連の死後は鑑連の養子・立花宗茂に付き従い、柳川藩
初代藩主となった宗茂を内政面からも支援した実力者。
| 『厳島戦記』 | 04:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
門司戦記(二) 赤間出撃の巻

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門司戦記 〜雷雲の陣〜
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(二) 赤間出撃の巻 
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大友義鎮の要請を受けたポルトガル船が
関門海峡から門司城へ向けて大砲を撃ち尽くし、
東の周防灘へと退き始めた。

その動きを確認した弘中方明は、
赤間関代官・堀立直正の兵たちと共に、
門司城救出のために小舟に飛び乗った。


ところが、野太い声がその出撃を制した。

「おい、勝手に何をやっている!」


その声の主は、
赤間関に就いたばかりの毛利の将、
児玉就方(こだまなりかた)であった。


児玉就方は、毛利氏の古参の重臣である。

「厳島の戦い」では毛利元就に従って厳島に渡り、
その勝利に大きく貢献しており、
現在は毛利元就の三男・小早川隆景の下で
水軍の指揮を任されている。

兄の児玉就忠(なりただ)は
毛利家の奉行として内政の手腕を振るっているが、
弟の就方は武勇に長け、軍事面で毛利家を支えている。

この兄弟は、能力だけではなく性格も正反対で、
兄の就忠は家中一とも言える温和な人間だが、
弟の就方は軍中一の荒くれ者で、
厳しい怒号が絶えない気難しい性格の将であった。


大友氏が門司城奪還に向けて
大軍を動かしたことを知った小早川隆景は、
第一の援軍として児玉就方と弘中方明を向かわせた。

一足先についた副将の弘中方明が、
大将である自分の到着も待たず
命令も乞わずに出撃をしようとしていることに、
児玉就方は完全に憤っていた。

方明はすぐに弁明した。


「事態が急を要しますゆえ」

「誰の許しがあって、出ようとしている?」

「しかし、機会は今をおいて他にありません」

「勝手な真似をするなと言ってるんだ!」

「手遅れになりますよ」


就方は怒声を浴びせるが、
方明も一向に動じない。

堀立直正はじめ、赤間関の守備兵たちは
就方のあまりの剣幕に硬直している。

最初は冷静に反論していた弘中方明であったが、
児玉就方のある言葉から、態度が一転する。


「おい、方明。
大内の旧臣同士、助け合いたいのは分かる。
だが、毛利の大局をないがしろにするんじゃねえ」

「……何だって」

「旧大内の馴れ合いで、
毛利の戦い方の邪魔をするなと言ってるんだ」

「あ?」


聞き捨てならぬと、
弘中方明は児玉就方に歩み寄った。

就方も負けじと見下ろしながら鋭い眼光を放つ。


「いいか。門司城は厳島の宮尾城に地形が似ている。
厳島合戦の時のように、奇襲戦法を用いて
大友を一気に殲滅するのが、毛利のやり方だ」

「馬鹿なことを……」

「馬鹿だと。ならば方明、おまえの勇み足で
その毛利の奇襲戦法が台無しになったら、
おまえは責任を取れるんだろうな?」


児玉就方は弘中方明の眼前に強く指を差したが、
方明は「ふざけるな!!」と叫んで、
就方の手をバシリと大きく叩きつけた。

眉を吊り上がらせる就方に、
方明は睨み返しながら容赦なく言葉をぶつける。


「厳島の奇襲のようにだって?
あんた、いつまでそんな古いこと言ってんだ」

「何?」

「厳島の戦いなど、もうとっくに過去の遺物だ。
あれほどの奇跡的な奇襲の機会を待っていたら、
門司城はあっという間に大友に落とされるぞ」

「貴様…。厳島の戦を、使えぬ遺物と言うのか」

「厳島では、大内軍を率いていた陶晴賢が
古い戦い方にこだわっていたから隙があった。
今の相手は、南蛮船まで持ち出してくる大友軍だ。
あんたのように古い例にしがみつくことが、
あの時の大内のように隙になるのが分からないのか!」

「何だと!」


二人の睨み合いの火花が、陣に緊張を張り詰める。


「奇襲失敗の責任? そんなの、いくらでも取ってやる。
ならば聞こう、就方殿」

「何だ」

「今ここで門司城を奪われたら
九州の勢力の侵攻を防ぐ一大拠点を失うことになる。
尼子攻めをしている大殿も、背後から窮地に陥るぞ。
あんた、そうなったらその責任は取れるんだろうな?」

「……!」

「いまは城の包囲を解いて下がっている大友勢が、
砲撃の終了と共に、再び城を頑丈に囲むだろう。
門司城を救う機会は、その直前である今しかない」

「……」

「今度の敵は馬鹿じゃない。手練な豊州三老だ。
この機に突破不能な包囲陣を敷くだろう。
毛利を西からの脅威から守れるのは、今だけだ。
全て、あんたの決断にかかってるんだぞ、就方殿!」

「……!」


大殿の名を出した方明の反論に、
児玉就方はひるんだ。

方明が「大殿」と呼んだ毛利元就は現在、
出雲国(=島根県東)の
尼子一族との死闘に専念している。

これまで大内氏と尼子氏の勢力に挟まれ続けた
毛利氏が、ようやく大内氏を滅ぼし、
尼子氏への戦に注力できるようになったのに、
大友氏の脅威が大きくなれば、尼子討伐はまた挫折する。

方明が語った「豊州三老」とは、
豊後の大友家の軍事を支える三人の宿老のことで、

・戸次鑑連(べっきあきつら)
・臼杵鑑速(うすきあきすみ)
・吉弘鑑理(よしひろあきまさ)

の三名を指す。

大友氏を九州一の大国へと押し上げた名将たちだが、
今回の門司城奪還のために、
この豊州三老が全員、豊後から出征をしている。

そんな軍事の天才が揃った敵に対して、
生半可な兵法では絶対に太刀打ちができない。

弘中方明はそう感じていた。


児玉就方は、厳島の戦いの完勝の体験から、
大友軍を一気に殲滅させることを頭に描いていた。

副将の弘中方明が門司上陸を焦っているのは、
かつて同僚だった門司城主・仁保隆慰を救うためという、
旧大内勢の単なる馴れ合いだと捉えていた。

しかし、弘中方明の反論は違った。

門司城の死守こそが、
毛利氏の東への展開のための最重要事項である、
という核心を突いた理屈だった。

この門司城の戦いは、単なる西方への対処ではなく、
毛利氏全体を揺るがす重要な問題なのだ、
ということを児玉就方は思い知らされた。


就方は鋭い眼光を方明にぶつけていたが、
方明の話を理解すると、
フッと肩の力を抜いて、口元を緩めた。


「道理だな……。方明、許せ。
確かに、門司城の堅守が何より大事だ」

「……児玉殿。私もこの無礼、お許し下さい」

「いや、今は毛利だ旧大内だと言っている場合ではない。
やはり水軍の用は、俺よりおまえのほうが上だ。
おまえの考えに従おう」

「ありがとうございます」


安芸国(=広島県西)の山奥から出てきた毛利氏にとって、
今の強力な水軍を築けたのは、弘中氏の力が大きかった。

かつて弘中隆包が安芸国守護代となった時、
弘中隆包は小早川隆景の養子縁組と当主就任を後押しし、
海戦に強い小早川水軍を育て上げた。

その際、小早川隆景に水軍の兵法を教え込んだのが、
大内水軍を仕切る名将・冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)から
兵法を学び岩国水軍を指揮していた、弟の弘中方明だった。

やがて、毛利氏が大内氏から離反して安芸を奪取した際、
児玉就方は海に面した草津城の城主となり、
毛利水軍を統率する立場となり、厳島の海戦に挑んだ。

いまや毛利水軍の主将の一人である児玉就方も、
大内水軍で鍛えた弘中方明に学ぶことは多かった。


「俺もおまえと共に門司城に向かったほうがよいか」

「いえ、就方殿には三角山城を目指して頂きます」


方明は、門司城の南に見える
美しい三角形の小山を指差した。

その形の通り、三角山城(みすみやまじょう)と言い、
門司城を守る重要な支城であったが、
現在は大友軍によって落とされていた。


「ただし、三角山城は攻める素振りだけで結構です。
大友勢の注意を三角山城攻めの毛利水軍に
引きつけている間に、我々が門司城に突入します」

「分かった。いいだろう」

「これが成功すれば、門司城は救われます。
児玉殿はまさに、毛利を救う英雄となりましょう」

「ふん、言うわ」


児玉就方は鼻で笑うように答えながら、
率いてきた毛利水軍へ出撃準備を言い渡す。

つい先ほどまで一発触発だったとは思えぬほど、
児玉就方と弘中方明は、互いの作戦を一瞬で理解し合い、
迅速に行動へと移していく。


それが、今の毛利水軍の強さの源でもあった。

水軍の強さは、組織力である。

個別の武力ではなく、総力戦なのである。

百万一心――――。

皆が心を一つにし、一つの大きな力を作る。

その信条で覇を広げてきた毛利氏にとって、
総力戦が重要な水軍の力は、
全国でも比類なきほどの強さを誇っていた。

大将と副将の連携が何よりも大事であることを、
児玉就方も弘中方明も十分に分かっていたのである。



関門海峡に、銅鑼や太鼓の音がけたたましく鳴り響く。

児玉就方率いる毛利水軍が、
赤間関から対岸の三角山城に向かって出撃する。

砲撃するポルトガル船が去って、
再び門司城の包囲に取りかかろうとしていた大友勢は、
毛利の矛先が三角山城に向いているのを見て、
大いに動揺し、統率が乱れてきた。

そしてその動揺の隙を縫って、
弘中方明と堀立直正は、少数の小舟と共に、
門司城へ直接突入を図る。

大友勢の包囲網が完成する前に
瀕死の門司城に入城できるのか――――。

弘中方明はその大博打に身を投げ打つかのように、
関門海峡へと飛び出した。


(つづく)




――――――――――――――――
『門司戦記』武将列伝 [二]
――――――――――――――――

■児玉就方 (こだまなりかた)

毛利家家臣。安芸国草津城城主。勇猛果敢な古参の将で、
厳島の戦いの前後より毛利水軍を率いるようになる。
その後大友軍、土佐一条軍、尼子軍、織田軍など数々の
敵勢力を相手に水軍を率い参戦した。行政執務に優れた
毛利五奉行の一人・児玉就忠(なりただ)は実兄。


| 『厳島戦記』 | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
門司戦記(一) 門司砲撃の巻

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門司戦記 〜雷雲の陣〜
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(一) 門司砲撃の巻 
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強烈な爆発の音が、沿岸の兵たちの鼓膜を突き抜け、
凄絶な炎柱の姿が、その網膜に焼き付けられる。

海峡とその沿岸に映し出された、
見たこともないその惨劇に、
誰もが恐怖のあまり、膝をがくがくと振るわせる。

それもそのはずである。

それは、我が国日本の長い歴史において
いや、世界の歴史においても前例のない、
史上初めての艦砲射撃であった。



永禄四年(1561年)九月二日。

歴史に残るその出来事は、関門海峡で起こった。


長門国(=山口県西)と豊前国(=福岡県東)の
間に流れる、本州と九州とを別ける関門海峡は、
西日本の海運貿易の生命線として
古来よりその覇権争いが絶えない場所である。

その関門海峡に大型のポルトガル船が出現し、
海峡に突き出た山城、門司城(=福岡県北九州市)へ
次々に大砲を撃った。

史上初の艦砲射撃だから、当然誰も見たことがない。

言葉では言い表せない戦慄が、
沿岸の守備兵たちの冷静さを打ちのめしていく。


「あれが……大砲か……!」

轟音を聞いて幕舎から飛び出してきた
堀立直正(ほたてなおまさ)は、
冷静を装いつつも、鳴り止まぬ胸の鼓動に焦る―――。


赤間関(=山口県下関市)代官である堀立直正は、
もともとは安芸国(=広島県東)の商人である。

安芸国の山奥から本州に覇を広げた毛利氏が、
瀬戸内海の通商や国防の強化を必要とするに際し、
弘中氏が婚姻関係のある堀立直正を推挙した。

そして商人時代の経験を活かし、赤間関代官となって
海運の取りまとめや村上水軍との交渉を行なう、
いわば毛利氏の経済顧問も兼ねることとなった。


かつて関門地域は、周防国(=山口県東)を本拠とする
大内氏が長らく勢力を張っていたが、
天文二十四年(1555年)、毛利元就(もうりもとなり)が
「厳島の戦い」にて大内軍の主力部隊を壊滅させ、
弘治三年(1557年)に大内氏を滅亡させてからは、
毛利氏がその勢力の版図を受け継いだ。

だが、それは同時に、
九州豊後国(=大分県南)を拠点に勢力を広げる
大友義鎮(おおともよししげ)との
摩擦の始まりでもあった。




当初、大友義鎮の勢力下にあった門司城は、
大友家臣・怒留湯主水(ぬるゆもんど)が守っていたが、
毛利元就の軍勢が海を越えて攻め落とし、
毛利家臣・仁保隆康(にほたかやす)が城主として入った。

大友氏当主・大友義鎮は、
南蛮国など海外との交易に熱心な守護大名だから、
重要航路である関門海峡を両岸で抑えられるのは
生命線を絶たれるも同然であった。

そこで大友義鎮は、門司城の奪還を目指し、
ちょうど豊後府内(=大分県大分市)に寄港していた
ポルトガル船に依頼し、関門海峡まで船を動かして
門司城を砲撃させたのである。


商人として海外の航海事情にも詳しい堀立直正は、
艦砲の存在については知識として知っていたが、
その眼で直接見るのは初めてのことである。

呆然として対岸の味方の危機を眺めている兵たちを見て、
堀立直正は(責任者の自分が何とかしなくては)と
心に奮気を打ち付け、刀を高く掲げた。


「皆の者、門司城を守るのだ!
あの大船に乗り込み、敵を斬り伏せるぞ!」


目の前の巨大な南蛮帆船にどう対処するのか。

それは堀立直正も明確な答えを持っていなかった。

突然やってきたその海上要塞は何者なのかも
誰もほとんど分かっていないのである。

しかし、門司城の危機を救うためには、
何としてでもあの砲撃を停止させるしかない。

堀立直正の言葉に我に返った毛利兵たちは、
戸惑いながらも次々に刀を取り、兜の緒を締め、
決死の覚悟で出撃準備に取り掛かる―――。


「待て! 早まるな!」


大急ぎで舟に乗り込もうとする決死隊の背後から、
彼らを必死に止める声が近づいてきた。

堀立直正は、
かつて聴き慣れたその声を聞いて振り向いた。


「おまえ………、方明じゃないか!」


その声の主は、直正の娘が嫁いだ武将、
弘中方明(ひろなかかたあき)だった。


弘中方明は、大内家重臣の評定衆の一人で、
安芸国守護代でもあった
弘中隆包(ひろなかたかかね)の弟である。

兄の片腕として大内氏に尽くしていたが、
先の「厳島の戦い」で兄が毛利氏に討たれてからは、
毛利に義父・堀立直正を推挙し、その姿を消していた。

義理の父子の、久々の再会であった。


「方明……、今までどうしていたんだ。
……六年ぶりぐらいか?」

「親父さん、想い出話は後だ。
小早川隆景(こばやかわたかかげ)様からの命で、
児玉就方(こだまなりかた)殿の副将として来た」

「おおっ、隆景様からの応援か」

「ああ。児玉殿も、もうすぐ兵を率いて参られる。
親父さん、今、あの南蛮船に向かっていってはダメだ」

「しかし……、あのままでは門司城が……」

「気をしっかり持て、親父さん!
あの船は必ず、すぐに撤退する」


弘中方明は、義父直正の肩をつかんで
大きく揺らしながら説いた。


「奴らは、早鞆の瀬戸の急流を分かっていない。
奴らが見てきたのどかな大海とはわけが違う」


関門海峡は古来より、
その特殊な地形による凄まじい急流から、
「早鞆の瀬戸(はやとものせと)」と呼ばれてきた。

常に船の難破が絶えないほどの難所でもあり、
平安末期にここで起こった「壇ノ浦の戦い」で、
その急流の変化により平家が大敗を喫し
滅亡した歴史も、その凄まじさを物語っている。

そんな激しく波打つ海上から砲撃の狙いを定めても、
その揺れから、そう簡単に命中するものではない。

実際、ポルトガル船から次々と放たれている砲弾は、
門司城の本丸には命中することなく、
流れ落ちて周囲の斜面を削り取っている。


「それに、あれはそもそも商船だ。
南蛮商人も、利が尽きればすぐに退散するさ」


弘中方明は、冷静に現状を分析していた。

ポルトガル船は貿易船であり、侵略の戦艦ではない。

積んでいる大砲も、戦争用の大砲ではなく、
襲来する海賊などへの脅嚇や防衛の意味合いが大きい。

大友義鎮は交易とキリスト教布教の許可への対価として
門司城への威嚇の協力を打診したはずで、
ある程度の砲撃でその義理が十分果たせたならば、
ポルトガル人も早々に手を引くであろう。

南蛮商人にとって、
異国間の殺し合いへの介入には利がないからだ。


商人の理という視点からの分析を聞かされて、
商人出の堀立直正は、ようやく正気を取り戻してきた。

どれだけの砲弾を搭載しているのか分からず
いつまで砲撃が続くのか予測できないことが不安だったが、
商売人としての引き際の考え方に、
その手がかりがあった。

しかし、そこからが武士としての戦略である。

落ち着いて聞き始めた堀立直正や将兵たちに対して、
弘中方明はさらに語った。


「機会が来るとしたら、
ポルトガル船が諦めたその瞬間だ」

「諦めた瞬間……」

「奴らは間もなく、砲撃をやめて大分に帰るだろう。
門司城の応援に突入するのは、その瞬間だ。
その機を逃さないように、準備したほうがいい」

「お、おう。者ども、
門司城への出撃準備を早急に整え、待機だ!」


堀立直正が、改めて将兵たちに指示を出した。
毛利兵たちは急いで準備を進める。

ポルトガル船が来るまでは、
大友軍の大軍が門司城を取り囲んでいた。

しかし、ポルトガル船の艦砲射撃と連動して、
大友軍は味方からの爆撃を受けないように、
一時的に門司城の包囲網を解いて後方へ退いていた。

門司城に応援部隊が入城する機会があるなら、
ポルトガル船が退き、
大友軍が再び城を取り囲むまでの時間をおいて他にない。


(それまで、今しばらくたえてくれ、
隆慰殿……!)

弘中方明は、心の中で
対岸にいる旧友の無事を願う。

門司城を守る仁保隆慰は、
弘中方明が大内軍にいた頃の同僚だったのである。


急流に船体の揺れるポルトガル船から、
一つ、また一つと、門司城に砲弾が発射され、
周辺の郭や土塁に爆発の炎がほとばしる。

海峡には砲煙が立ち込め、対岸の景色を薄く包む。


「戦は……。
これから戦は、変わる」


いまだかつて見たことがない戦争を見ながら、
弘中方明はつぶやいた。

堀立直正はそれにうなずきながら語る。


「ああ。あんな化け物のような兵器、
早鞆の瀬戸でなければ、一国をも崩しかねん。
今までの戦い方は、通用しなくなるのかもな…」


弘中方明はその時、
兄・弘中隆包の言葉を思い出していた。

弘中隆包は剣や弓に優れた勇将であったが、
「いずれ、刀など要らぬ世が来る」
というのが口癖であった。

日明貿易を独占していた大内氏は、
種子島への伝来よりも早く鉄砲を入手しており、
当主・大内義隆はそれを狩猟の道具と見ていたが、
弘中隆包は兵器としての可能性を見出していた。

「将来の戦争は必ず、
刀や槍では太刀打ちできない戦い方になる」

鉄砲を手にしてそう語っていた弘中隆包は、
天文二十三年(1554年)に、戦友・陶晴賢の救援として
石見三本松城(=島根県津和野町)に現れた際、
自ら鉄砲を手にして敵将を撃ち取っている。

旧式の戦い方を引きずる大内軍に付き従った兄が
命を落とした「厳島の戦い」から六年。

そのわずかな年月の間に、
艦砲射撃という戦法にまで時代が進化をしていることが、
今まさに目の前で実証されている。


「これからの戦い方は、何もかも変わっていく。
過去を捨てきれない者が負ける世なんだ……」


弘中方明は、時代の潮目を感じながら、
自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


そして一時が過ぎ、
ひと通りの砲撃を終えたポルトガル船は、
決定打となる命中の成果を残せないまま、
大分を目指して東の周防灘へと帰り始めた。

読み通りである。

好機到来とばかりに、堀立直正率いる毛利軍は、
刀を手にして続々と舟に乗り込んだ。

そして、応援に駆け付けた弘中方明もまた、
門司城を救うべく愛槍を抱えて舟に飛び乗る――――。



日本史上初の艦砲射撃というこの事件は、
西日本の長き乱世の歴史の中においては、
ほんの一瞬の出来事に過ぎなかった。

しかし、これがやがて、
何万人もの将兵が入り乱れ、
何千人もの死者が出ることになる
血塗られた「門司城の戦い」の嚆矢となる――――。


(つづく)





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『門司戦記』武将列伝 [一]
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■弘中方明 (ひろなかかたあき)

毛利家家臣。元は大内氏の重臣であった弘中隆包を支え
周防岩国(=山口県岩国市)の水軍を指揮していたが、
「厳島の戦い」で兄が討死した後、毛利に従属。門司城の
戦い、木津川口の戦いなどで連戦。毛利を支えた小早川隆景
の水軍用兵の師であり、赤間関代官・堀立直正の娘婿。
| 『厳島戦記』 | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(四十六) 百万一心の巻


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 厳島戦記(四十六) 百万一心の巻
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                        終章「厳島海戦後」


 天文二十四年(1555)十月に
 「厳島の戦い」で大内本軍を破った毛利元就は、
 そのまま大内氏の本領である周防国(=山口県東部)、
 長門国(=山口県西部)へと攻め進んだ。

 陶晴賢・弘中隆包の両翼を失った大内軍にはその勢威なく、
 周防の堅城もことごとく毛利軍の武力と調略で落とされ、
 大内家臣同士でも内紛が起こる始末だった。

 京の都を模して作られた山口の街は防衛する城塞がないため、
 毛利軍が山口に接近すると、当主・大内義長は、
 長門国守護代の内藤隆世の居城・且山城へと逃げた。

 毛利軍の謀略によって、内藤隆世も開城して自害。

 追い詰められた大内義長は、
 功山寺長福院(=山口県下関市)にて自刃した。

 弘治三年(1557)四月三日のことである。


 西国の盟主として一時は日本最大の勢力を誇った
 防長の名門・大内氏は、はかなく滅亡したのであった。

 「厳島の戦い」からたった二年の間に、
 毛利元就は主家の大内氏を滅ぼし、
 防長二国をも手中に収めることになったのである

 安芸の龍・毛利元就は、
 こうして天下という大空に躍り出る一雄となった――――。



 最後に、その後の毛利と、
 弘中隆包の縁者の行方について、書き連ねていこう。



 大内氏を破った毛利元就はその後、
 出雲国(=島根県東部)の尼子氏と覇を争う。

 その遠征の途中、永禄六年(1569)、
 元就の嫡男・毛利隆元が急死した。
 元就よりも早い、四十一歳の死であった。

 長男の死に悲しんだ元就は、尼子氏への謀略を強化。
 最盛期の大内氏でも落とせなかった月山富田城を攻め落とし、
 尼子氏を滅ぼして西国の覇者へと駆け昇る。

 次に、九州豊後国(=大分県南部)の大友義鎮、
 後の大友宗麟との北九州の覇権を賭けた激闘となるが、
 元亀二年(1571年)六月、
 安芸の龍・毛利元就は七五年の長き人生を終えた。

 早逝した毛利隆元の嫡男・毛利輝元が、
 その後の毛利家当主となる。


 毛利軍の躍進には、弘中方明が元就に推挙した義父、
 安芸の武家商人・堀立直正の経済力の援護も大きかった。

 堀立直正は赤間関(=山口県下関市)の代官に任命され、
 関門海峡の通商管理と瀬戸内の海運を一手に担い、
 その後も毛利家の奉行として尽力した。

 経済顧問として、資金面から毛利氏を大きく支えたのである。


 弘中方明の名は、毛利が大友と対立を始めた後に現れる。

 元就との約束通り、毛利が大内を滅ぼして後、
 琥珀院から還俗して毛利水軍に加わったと思われる。


 その後、尾張国(=愛知県)の織田信長が西へと勢力を広げ、
 毛利氏は織田氏と勢力範囲を接することとなる。

 毛利輝元は、叔父の吉川元春、小早川隆景に支えられ、
 「百万一心」の信条の下、強固な団結力を作り上げる。

 天正四年(1576)の「木津川口の戦い」では、
 毛利水軍と織田水軍が大阪湾で激突するが、
 小早川水軍、乃美水軍、村上水軍らを擁する毛利水軍の中に、
 弘中就慰(なりやす)の率いる弘中水軍の名がある。

 この弘中就慰という将こそ、
 毛利元就の名の一字の拝領が許された、弘中方明である。

 大友氏や織田氏との戦いの中で、
 弘中方明は毛利水軍の一翼としてその力を振るった。


 織田信長の死後、その家臣・豊臣秀吉が全国を統一する。

 毛利輝元は豊臣秀吉から大きく信頼を受け、
 周防や安芸をはじめ、百二十万石もの大きな所領を安堵される。

 弘中隆包の守護代時代より港湾化が始まった太田川河口に
 広島城を築城した毛利輝元は、吉田郡山城より移り住み、
 これより安芸の拠点は吉田郡山から広島へと移る。


 毛利元就の次男・吉川元春は、天正十四年(1586)、
 豊臣秀吉の九州征伐に同行する途上、
 豊前国小倉城(=福岡県北九州市)にて死去。
 享年五十七歳。

 若くして厳島にて名将弘中隆包を龍ヶ馬場に追い詰め、
 その後も連戦無敗の剛勇を世に知らしめた勇将は、
 長男の元長、次男の広家らに、
 敵将・弘中隆包より教わった教訓を強く伝えたという。


 毛利元就の三男・小早川隆景は、豊臣秀吉から大きく信任を受け、
 徳川家康や前田利家らに並ぶ豊臣政権の五大老に、
 陪臣の身にも関わらず、主君の毛利輝元と共に列した。

 秀吉の隆景に対する信頼は強大で、親族である羽柴秀俊を、
 小早川氏の養子として送り出したほどである。
 これが関ヶ原の戦いで注目される、小早川秀秋である。

 小早川隆景は慶長二年(1597年)に死去。享年六十五歳。


 また毛利元就の九男で、元春や隆景の末弟にあたる才菊丸は、
 豊臣秀吉から「秀」の一文字を賜ると同時に、
 元春や隆景が心服していた亡き弘中隆包の名を借りて
 毛利秀包(ひでかね)と改名し、秀吉から重用された。


 このように、毛利家は日本の政治に大きく関与していった。


 
 慶長五年(1600年)、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が起こる。

 毛利輝元は、石田三成らによって
 徳川家康に対抗する西軍の総大将に祭り上げられる。


 この頃、吉川元春の次男・吉川広家が吉川氏当主を継いで
 毛利輝元の補佐にあたっていたが、
 吉川広家は当初から、毛利家が存続するためには
 徳川家康に帰順すべきであると主張していた。

 吉川広家は、父・吉川元春から、

 「吉川家は、毛利家嫡流の存続と発展に強く尽力し、
  目先の現に惑わされず、本質を見抜くべし」

 と、幼少期より強く教えられていた。

 これは、吉川元春が若き日に参戦した「厳島の戦い」にて、
 心酔する敵将・弘中隆包から教わったことなのだという。
 子の吉川広家もその教訓を胸に刻んでいた。

 毛利軍の先鋒として「関ヶ原の戦い」に参戦した吉川広家は、
 不動の体制で、後続する毛利軍本隊を拘束。

 「関ヶ原の戦い」は吉川広家の予測通り東軍勝利に終わり、
 広家の機転により関ヶ原では動かなかった毛利家は、
 西軍の総大将でありながら、周防・長門の所領を安堵された。

 この防長二国はもともと吉川広家に与えられる予定であり、
 広家はそれを毛利宗家に譲った形と言われている。

 防長二国に移封された毛利氏は、
 本拠を長門の萩(=山口県萩市)に置くことになった。

 だが、この毛利氏の減封が引き金となって、
 毛利宗家と吉川家には次第に確執が生まれるようになる。

 吉川広家に始まる吉川氏は、
 三万石の周防岩国(=山口県岩国市)に収まることになったが、
 萩の毛利家にとっては東の防衛という意味もあり、
 岩国藩の立藩も、幕末まで許されることはなかった。


 吉川氏によって治められることになったこの岩国は、
 かつて弘中三河守隆包が領主として治めていた地である。

 弘中氏に縁の深い吉川氏が岩国の領主になったことは、
 数奇な因果とも言える。

 弘中隆包は、嫡男弘中隆佐と共に厳島にて討死したが、
 亀太郎というわずか三歳の遺児がいた。

 後に毛利家家臣となった弘中方明の手引きにより、
 亀太郎は、周防新宮(=山口県周南市)にて
 方明の家臣・小山弥右エ門によって養育されたという。

 その後の亀太郎の行方は、しばらくは分からなくなり、
 弘中隆包の血統は途絶えたかと思われていた。



 関ヶ原を乗り切って初代岩国領主となった吉川広家は、
 やがて家督を嫡男・吉川広正に譲って隠居し、
 次男の吉川彦次郎を連れて、
 岩国の通津(つづ)という村に移り住んだ。

 ところが、吉川広家が通津に連れてきた家臣の多くは
 岩国の中心部にある浄土真宗の押谷山西福寺の門徒だったが、
 この通津の地には浄土真宗の寺院がない。

 困った家臣たちのために動いたのが、吉川彦次郎である。
 
 通津の高照寺山にある真言宗常福寺が
 住職が去ったため無住の空寺になっていることを知り、
 これを改修して浄土真宗の寺院を建立することを、
 岩国領主である兄の吉川広正に願い出た。

 吉川広正は、開基の住職がいることを建立の条件とする。

 そこで彦次郎は、釈善超という僧をどこからか連れてきた。

 寛永七年(1630)に、岩国にて釈了善という僧が
 岩国にて浄土真宗正蓮寺を開いたのが、
 釈善超は、この釈了善の子である。

 調べてみると、正蓮寺開祖の釈了善こそが、
 出家後の弘中亀太郎であることが判明した。

 つまり、釈善超は正統な弘中隆包の血流だったのである。

 祖父の心酔する弘中隆包の血筋が見つかったことで、
 吉川広正は感動し、寺院の建立を快諾。

 寛永元年(1624)年、浄土真宗光照寺が
 釈善超によって開基された。

 岩国の信徒たちは、
 かつての領主・弘中隆包の血が残されたことを喜び、
 それを許可した今の領主・吉川広正を慕った。


 翌年、吉川広家は通津の地にて逝去。

 吉川彦次郎は吉川広正の推挙により、
 当時の毛利当主・毛利秀就から
 平生大野(=山口県平生町)の地を与えられ、
 通津を拠点として平生の開拓事業を進めていく。

 その後、吉川彦次郎は毛利就頼の名を与えられた。

 幕末まで続く毛利宗家と岩国吉川家の確執の中、
 吉川家の中でただ一人、この毛利就頼だけが、
 毛利姓への復姓を認められている。
 
 毛利就頼の家系は、家老職の大野毛利家として幕末まで続いた。


 一方、吉川広正の後を継いで三代目の岩国領主となった
 嫡男の吉川広喜(ひろよし)は、
 かつて旧領主・弘中隆包も手を焼いていた
 錦川の洪水にも耐え得る、画期的な橋梁の架橋に着手する。

 この橋は完成後に「錦帯橋」(きんたいきょう)と名付けられ、
 現在もその姿が保たれ、岩国最大の観光地となっている。

 吉川広嘉も、叔父の彦次郎が建立に尽力した光照寺を大切にし、
 その寺地を高照寺山から通津の海岸沿いへと移した。

 海辺に移った浄土真宗光照寺は、専徳寺と名を変え今に至る。



 江戸時代末期、毛利氏の長州藩は下関戦争で外国と戦い、
 幕府から長州征伐を受けて危機に瀕したが、
 討幕運動の旗頭となって江戸幕府を終焉させ、
 長州藩出身の逸材が明治政府の要人に名を連ねることになる。

 討幕に務めた長州藩士の中に弘中姓の者も散見されるが、
 これらは戦国時代に毛利に帰順した
 弘中方明の子孫だと思われる。

 弘中隆包の子孫は寺社に、
 弘中方明の子孫は武家にその血脈を残していったのである。

 そのため、今でも山口県には弘中姓の者が多い。 



 毛利元就の手がけた安芸国の経済振興は、
 毛利が安芸国から移封された後も受け継がれていき、
 いまや広島県は、
 かつて繁栄を極めた山口県をはるかに凌ぐ経済圏となった。

 だが、その基礎を築いた安芸国守護代・弘中隆包の名は、
 毛利藩の英雄毛利元就の名の陰に消えていった。


 厳島の戦いで討死した弘中隆包の遺体は、
 岩国市今津の大応寺に埋葬されていたが、
 特に目立った墓碑もなく、地元民からも忘れられていた。

 昭和十六年(1941)、ある証券会社の社長が、
 弘中隆包の偉業を顕彰するべきであるだと主張をし、
 隆包の血統である釈善超が開基した岩国通津の専徳寺に、
 弘中隆包の墓を移設し建立し直すことが決まった。

 弘中隆包の生涯を刻む大きな碑文が作られる計画であったが、
 世は太平洋戦争へと突入し、資材も職人も調達できず、
 質素な墓碑が建てられるのみとなった。

 「元岩国城主 弘中三河守源隆包朝臣墓」

 とのみ刻まれた墓碑は、
 今もその墓と共に通津の専徳寺境内に建つ。


 
 弘中隆包の最期の地となった厳島は、
 一般的に「安芸の宮島」と呼ばれるようになり、
 「日本三景」の景勝の一つに数えられ、
 現在では多くの観光客を集める観光地となっている。

 平成八年(1996)十二月、
 「厳島の戦い」を見守った厳島神社が、
 ユネスコの世界文化遺産に登録。

 世界にもその名が知られ、
 海外からも多くの観光客が訪れるようになった。

 広島、そして厳島は、
 弘中方明が遠く夢見た異国の地の人々にも
 その名の知られる場所になったのである。


 今日も、厳島には多くの観光客が訪れる。

 宮島口からフェリーで厳島に渡ると、
 その先には厳島神社が構え、
 その背後に峻嶮の駒ヶ林の峰が海を見下ろす。

 人々を迎える心地よい島の風と、軽やかな空の雲は、
 我らに無言で何かを教えてくれているのかもしれない。


 (完)
| 『厳島戦記』 | 14:47 | comments(1) | trackbacks(0) |
厳島戦記(四十五) 飛龍乗雲の巻


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 厳島戦記(四十五) 飛龍乗雲の巻
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                       終章「厳島海戦後」




 毛利軍の乾坤一擲の奇襲は、大勝利に終わった。


 天文二十四年(1555)十月一日、
 大内軍総大将の陶晴賢が、厳島大江浦にて自刃。

 同三日、大内軍軍監の弘中隆包が龍ヶ馬場にて討死。

 二万もの大軍であった大内軍本隊は、壊滅した。

 これが世にいう、西国の勢力図を一変させた
 「厳島の戦い」である。


 だが、陶晴賢・弘中隆包の双璧を失ったとはいえ、
 大内家には当主大内義長が周防山口に健在であり、
 防長の大内全勢力を集めれば、二万を超える軍勢が残っている。

 大内に反旗を翻した毛利は、突き進んでいくしかない。
 もはや、後退する道は残されていなかった。


 大勝後の毛利元就の采配は、素早かった。

 十月五日に首実検を済ませた後、
 まずは神域である厳島を血生臭い戦に巻き込んだことを神に詫び、
 厳島神社への今後の寄進を約束した。

 そして、血を忌み嫌う厳島の長年の風習に則り、
 大勢の大内軍の屍体を全て周防本土へと送った上で、
 血に汚れた厳島の地面の土を全て堀り集め、島外へと捨てた。

 厳島での戦の贖いを終えた毛利本隊は、十月十二日に周防へ上陸。

 岩国(=山口県岩国市)に本陣を構え、防長経略の拠点とした。

 毛利父子が盟友・弘中隆包を厳島にて討ち取ったのは
 時代の皮肉であったが、その弘中隆包の領土である岩国に
 拠点を定めることになったのもまた、運命の妙とも言える。


 岩国を足場にして、
 毛利元就、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景らは、
 周辺の大内の諸城を次々と攻略していった。

 大内傘下の城主たちは、次々と毛利に打ち取られ、
 また次々と毛利に降伏していき、
 大内は瞬く間にその勢威を失っていくのであった――――――。

 

 弘中隆包の居城であった岩国の亀尾城は小山の山上にあり、
 軍事拠点よりも行政拠点の意味合いの強い城であったため、
 大軍を居留させるには向いていなかった。

 そのため、毛利元就・隆元父子は岩国の永興寺に本陣を構え、
 次男・吉川元春は岩国中津の武家屋敷、
 三男・小早川隆景は琥珀院にて駐留していた。


 そんなある日、永興寺にて行なわれていた軍議に、
 末弟の小早川隆景が琥珀院から遅れてやってきたかと思うと、
 意味ありげな笑顔で口を開いた。


 「遅れて申し訳ありませぬ。ところで父上、兄上。
  琥珀院にいる、三蔵主という僧をご存知ですか」

 「三蔵主? いや、聞かぬ名だ…」


 毛利元就は周防の事情に通じているが、その名は記憶にない。

 長男の隆元、次男の元春に視線を送るが、
 二人とも首をかしげるばかりである。


 「ならば、今すぐにでもお会いなされませ」

 「一体、何だというのだ」

 「お会いすれば分かります。さあ」


 小早川隆景の強引な勧めで、元就、隆元、元春は、
 わずかな手勢を連れて、琥珀院へと向かった。


 小早川軍が駐屯する琥珀院は、大軍屯営に適した広い境内があり、
 大内家の大軍が東西へ移動する時にもよく使われていた。

 毛利征伐のために東進した江良房栄もこの琥珀院に駐留し、
 主君の陶晴賢の疑心により、弘中隆包にこの地で討たれた。

 毛利元就も山口への出仕時には琥珀院を利用したことがあったが、
 三蔵主という僧がいたかどうかは、全く覚えていない。


 琥珀院の広間に一人、
 質素な法衣をまとった僧がかしこまっている。

 元就と三兄弟たちはその上座に座ったが、
 目の前で頭を下げている僧の顔を見て、
 あまりの驚きに目を剥いた。


 「おぬし……、方明殿ではないか……!」


 驚きの声が広間に響き渡る。

 その僧は弘中隆包の弟、弘中河内守方明であった。

 兄隆包が悲運の渡海をした後、出家をしていたのである。

 毛利軍が厳島から容易に周防岩国に入ることができたのは、
 弘中隆包が岩国勢と共に厳島に向かい壊滅しただけでなく、
 方明が出家して大内家から離脱していたためであった。 


 毛利元就は、目を細めて語りかけた。


 「方明殿。琥珀院におられたのか……」

 「お久しぶりにございます」

 「まさか、三蔵主と名乗る僧が、おぬしだったとはな。
  三蔵主とはまた、悟りのある名だ」

 「かつて山口で、ザビエルという南蛮人と出会った時に、
  異国の話を多く聞きましたゆえ、遠き地に想いを馳せて、
  玄奘三蔵の御名を拝借した次第です」


 山口の政変の際、弘中方明は宣教師フランシスコ・ザビエルを
 この岩国から九州へと立たせる手立てを任された。

 ザビエルから遠き南蛮の地からの旅の話を聞いた時、
 瀬戸内海だけが全世界であった方明は、
 広い異国の世界へと想いを強く募らせていたのであった。

 三蔵主という名は、天竺へ巡礼したとされる
 玄奘三蔵、いわゆる三蔵法師の名を借りたものだという。


 元就は、微笑んで方明に言う。

  
 「我らは先日、厳島に奇襲して大内本軍を葬った。
  方明殿、その時おぬしは、厳島におられなかったか」

 「さあ」

 「実は、隆景が大江浦から一将が脱出するのを見ている。
  武吉も長槍を持った将の舟を取り逃がしたと言うのじゃ」

 「俗世のことはもう、とうに昔のこと。忘れました」


 大江浦まで陶晴賢を追っていた小早川隆景も、
 大野瀬戸を封鎖していた村上水軍の頭領・村上武吉も、
 実は厳島から離れていく方明の舟を目にしていたのである。

 しかし、隆景も武吉も、弘中方明は大きな恩のある将。
 意図的に見逃したと思われる。

 そして、その報告を曖昧に受けていた毛利元就もまた、
 その正体が弘中方明であることを何となく感じていたのであった。


 目の前の毛利父子にも、そして厳島の昔話にも興味を示さず
 何の感情もないままに座する方明に、元就は言葉を続ける。


 「隆包殿は、龍ヶ馬場にて立派な最期を果たされた。
  おぬしは我らを恨んでおろうの」

 「いえ。毛利も陶も恨むなというのが、兄の遺言です」

 「そうか……。隆包殿は、そのように申されておったのか……」

 「はい。そして私にはとうに過去のこと」

 「これも天命だ。我らは弘中家に恨みがあったわけではない。
  方明殿。今後は我らに力を貸してくれぬか」

 「ご冗談を……。私は、ただの駆け出しの坊主です」


 弘中方明は自嘲気味の涼しい顔を見せるだけである。

 隆元、元春、隆景の三兄弟が困惑しながら見守る中、
 毛利元就は説き続けた。


 「おぬしの商才は守護代殿を助け、今の安芸の発展の基礎を作った。
  そしてその軍才は、我らの小早川水軍や乃美水軍に息づいている。
  おぬしの才を買いたいのだ。我らには必要な才だ」

 「もし私に才があったのなら、兄のために尽くしきりました。
  今の私には、兄の死を弔うぐらいの力しかございませぬ」

 「我らは決して、隆包殿が守ったものを蹂躙したいわけではない。
  隆包殿が築いたものを、継承していきたいだけなのだ」

 「……」

 「隆包殿が手掛けた防芸の発展を、わしらは受け継ぐつもりだ。
  そのために、隆包殿の業を陰で支えてきた方明殿の
  水軍用兵の軍才、そして海運の商才を借りたいのだ」


 毛利家はもともと安芸国の内陸部に留まっていた勢力である。

 「厳島の戦い」にて瀬戸内海まで勢力を伸ばしたものの、
 まだまだ海運や貿易についての術については疎い。

 そのため、水軍の用兵にも長け、村上水軍とのつながりも深く、
 海に通じている弘中方明の才覚を、元就は欲していた。

 守護代として安芸国(=広島県西部)を発展させていった
 弘中隆包の行政力には、弟方明の存在が欠かせなかったのである。



 「方明殿。おぬしを何としてでも召し抱えたい。
  しかし、厳島の奇襲に全てをなげうった我ら毛利が今、
  おぬしに用意できる禄は、三百貫しかない」

 「……はははは」


 元就の誘いの報酬を聞いて、
 無表情だった方明は突然高らかに笑い始めた。


 「不満か」

 「私はかつて兄と共に、この琥珀院にて江良房栄を斬りました。
  江良もまた、元就殿に三百貫で内応を誘われていましたな」

 「そうだ。断られたがな」

 「その琥珀院で、その時と同じ三百貫を提示されるとは、
  運命とは面白いものでございます」

 「今の毛利では、福原広俊や桂元澄ら譜代の将でも三百貫の禄。
  江良房栄の剛勇も、それぐらい本気で手に入れたかった。
  そして方明殿、おぬしの軍才と商才もそれほどまでに惜しむ。
  隆包殿の事績を継ぐには、おぬしの才は欠かせぬ」

 「……」


 弘中方明は、懇々と解く毛利元就の瞳を見つめた。

 元就の兄隆包に対する想いには、曇りが見えない。
 方明は、観念したかのように言った。


 「我が兄が目指した安芸の繁栄を、継承するおつもりですか」

 「無論。安芸を、周防長門よりも栄える国にするつもりじゃ」

 「……分かりました」

 「おお」

 「私の商才を買って下さるとおっしゃるならば、
  私の義父である堀立壱岐守直正を奉行にお召しなさいませ」

 「堀立殿を」

 「彼は安芸の築港を考える際には欠かせぬ人物。
  私などよりも、はるかに商才に長けた人物でございます。
  彼ならば、防芸の発展に全力を尽くしてくれましょう」

 
 弘中方明の妻の父・堀立直正は、
 佐東大田川(=広島市の太田川)を拠点とする武家商人で、
 村上水軍や瀬戸内の海運業者たちと深いつながりを持っており、
 瀬戸内の経済を語る上では欠かせない人物である。

 弘中隆包が安芸国守護代時代に安芸の経済力を高めたのも、
 方明と婚姻関係にある堀立氏の財力は欠かせなかった。


 「ありがたい。掘立壱岐守殿にも力になってもらいたい。
  だが方明殿、おぬしの軍才も捨て置けぬ」

 「何を。我が弘中は毛利軍に大敗したのでございます。
  私の軍才の無さが、兄と岩国兵を死に追いやったようなもの」

 「それは違うぞ、方明殿」


 毛利元就は、弘中方明の自虐の言葉を強く止めた。


 「才は寄るものを選んでこそ輝くものだ。
  龍が天に昇るためには、雲が欠かせぬ。
  だが、天に昇らぬ虎には、雲を活かせぬ」

 「……」

 「安芸の龍を天に届ける雲になってもらえぬか、方明殿」


 毛利隆元ら三兄弟は以前から、弘中隆包を風の将、
 弟の弘中方明を雲の将と評していた。

 風の将は、龍ヶ馬場に散った。

 残る雲の将・弘中河内守方明に対して、
 周防の虎を破った安芸の龍・毛利元就は、天下を語る。


 龍は、雲を必要としていた。


 「私は離脱したとはいえ、大内は我が古巣。
  兄が命を賭して仕えた大内に、弓は引く真似はできませぬ」

 「大内を討つのが、わしの最後の目的ではない。
  瀬戸内の発展を継ぐために、大内を討たねばならぬだけだ。
  大内から西国を継いだあかつきには、おぬしを迎えたい」

 「いつの話でございますか。私は仏の道に邁進し、
  三年後には一人前の僧になる心つもりでございます」

 「ならば、三年以内に必ず、大内から防長を継ごう」

 「たった三年で、できますか」

 「必ず」


 毛利元就の曇りない眼光に、弘中方明は折れた。
 心を鎮めながら、床に手をつき答える。 


 「……分かりました。元就様が三年で防長を制覇されたなら、
  この河内守方明、黙って毛利に従いましょう」

 「この元就、三年で必ず、おぬしに認められる龍となろう。
  その時には、我が名を一字、受け取ってもらえぬか」

 「その時には、ありがたく」


 弘中方明は、頭を下げた。

 毛利元就は嬉しそうに笑って、その髭を揺らす。

 緊迫した二人の対話を目にしていた吉川元春、小早川隆景は、
 喜んで進み出て、弘中方明の手を取った。

 その様子を見て、毛利元就と隆元は笑い合った。



 毛利軍はこの後、岩国を拠点にして防長経略を開始。
 次々と大内の支城を破り、西へ西へと勢力を拡大していった。

 そして毛利元就は、弘中方明に誓ったとおり、
 三年以内に大内義長を滅ぼし、
 防長と周防を手中に収めて瀬戸内の覇者となる。

 それを見届けた弘中方明もまた、毛利元就に誓ったとおり、
 還俗して毛利傘下へと合流したのであった─────。


 毛利元就の死後、毛利家は関ヶ原の戦いを経て、
 長州藩として幕末まで続いていく。

 その長州藩は明治維新の旗頭として全国へと雄飛していくが、
 その長州志士の中に、弘中姓の者も多く散見される。

 毛利家は厳島の戦いの際に敵対した大内家や陶家を
 ことごとく滅ぼしたが、
 同じ敵対勢力であった弘中家が迎え入れられ存続したことは、
 毛利元就と弘中隆包の友情が成した結果と言えよう。
 

 そして─────。
 


 (つづく)
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厳島戦記(四十四) 修羅一人の巻


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 厳島戦記(四十四) 修羅一人の巻
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                       第七部「厳島奇襲戦」




 悪夢というのは、
 このような光景を指すのであろうか。

 たった一人の将が、
 現実の中に悪夢を作り上げていく。


 龍ヶ馬場に降り立った阿修羅は、
 連なる毛利軍の先鋒兵たちをことごとく斬り裂いていった。

 肉を裂き、骨を砕く音が、
 兵たちの断末魔の声に混ざって絶え間なく天に響く。

 晴天の照りつける純白の岩場が、
 瞬く間に赤い鮮血に染まる―――――。


 厳島に渡った二万人の大内軍の中でただ一人生き残った
 最後の将・弘中三河守隆包は、
 次々と毛利勢を斬り伏せながら屍を越えていく。

 その前進を、誰も止めることができない。


 血にまみれた毛利の先陣は、やがて怖れに崩れ始めた。

 歯をガチガチと震わせながら後ずさりする者、
 腰を抜かして地に這いながら逃げ出す者、
 そして勇敢にも立ち向かって頭を一撃で砕かれる者…

 酸鼻の冥府と変じた光景に、毛利兵たちは狼狽する。


 そして、修羅の歩みの先の一直線上には、
 毛利元就の次男、吉川元春の姿があった。
  


 「元春様をお守りしろ!!」


 「奴を近づけるな!!」


 阿曽沼広秀や熊谷信直ら毛利軍の将たちは、
 叫びながら吉川元春の脇を固めた。

 弘中隆包討伐の命により敵に向いていた毛利の目が、
 次第に守りへと向けられる。

 それほどまでに、修羅と化した弘中隆包の気魄は
 吉川元春と周囲の将兵たちを震え上がらせていた。


 「あれは、もはや人ではない……」


 「人ではない、だと…。
  では我々は、いったい何と闘ってるのだ……!」


 阿曽沼広秀と熊谷信直が、狼狽しながら言い合う。

 吉川元春は、
 修羅と化して血飛沫の中をゆっくりこちらに向かってくる
 弘中隆包の姿を、固唾を呑みながら見つめる。


 「弘中殿……!」


 元春は下唇をぐっと噛み締め、身構える。

 毛利軍随一の豪傑と名高い吉川元春だが、
 博奕尾、滝小路での対決に続き、
 ここでもまた背筋を凍らせていた。



 何十人、いや何百人が斬り伏せられたのであろう。

 毛利勢は容赦なく刃に斬り倒されていき、
 いよいよ兵たちがバラバラと後退していく中、
 たった一人、弘中隆包の前に立ちはだかった武者がいた。

 彼は、弘中隆包に太刀をかざして大きく叫ぶ。


 「弘中三河守殿! この太刀を覚えておいでか!」


 その声を聞き、修羅の歩みははたと止まった。

 百騎百血に染まった弘中隆包の眼が、その太刀に向く。
 そして隆包はゆっくりと口を開いた。


 「……それは、かつて私が授けた太刀だ。井上殿」


 「さよう。弘中殿よりこの手に賜った名刀、
  『駒切の太刀』にござる」


 弘中隆包の前に立ち塞がった凛々しい武者は、
 十年以上も前、安芸高山城(広島県三原市)にて
 山名理興の猛攻から弘中隆包の応援に命を救われた、
 阿曽沼広秀家臣、井上源右衛門であった。

 かつて、高山城外で馬上の山名理興に刀を折られた源右衛門は、
 その命を救ってくれた弘中隆包の太刀を譲り受けた。

 その時、その太刀の名を聞かれた弘中隆包によって、
 「駒切」(こまぎり)ととっさに名付けられた。

 井上源右衛門はその「駒切」を誉れの名刀として愛用し、
 各地へ転戦しながらその太刀を振るってきた。


 そして武士として大きく成長したその井上源右衛門が、
 命の恩人である弘中隆包の眼前に、
 彼から譲り受けた太刀を持って現れたのである。

 まさに運命の皮肉としか言いようがない。


 「この源右衛門、あの時より弘中殿に憧れ、
  弘中殿のような武士を目指して戦ってまいった」


 「……」


 「拙者が、この太刀に相応しき武士になれたかどうか。
  その資格を、我が武にてお訊ねしたい」


 「いいだろう……。
  その太刀とこの首、取り換えてみせよ」


 「いざ、参る!」



 井上源右衛門は、地を蹴った。

 全身全霊を込めて、
 駒切の刃を弘中隆包に素早く叩きつける。

 駒切が空気を裂く音が走った。

 その一連の動きのあまりの速さに、
 後方の毛利の兵たちの眼には、
 その刃が弘中隆包の首を貫通したかのような残像が見えた。

 ところが、弘中隆包は一歩も動くことなく、
 掲げた太刀でその一撃を完全に受けきっていた。

 血と土に赤黒くまみれた弘中隆包の顔から、
 不敵な笑みと鋭い眼光がこぼれるのを見て、
 源右衛門の背筋にゾクリと悪寒が走る。

 ふと気が付くと、駒切は強く弾き返され、
 隆包の太刀は瞬く間に頭上から振り下ろされていた。

 源右衛門は間一髪その一撃を受け流す。


 弘中隆包と井上源右衛門の凄まじい剣戟が繰り広げられ、
 龍ヶ馬場には幾重にも火花が舞った。


 何十合と打ち合う修羅と武者の凄絶な一騎討ちを、
 隊列が崩れたままの毛利勢は、手に汗を握りながら見守る。

 吉川元春も遠くからその様子を見つめ、
 横にいた阿曽沼広秀に問いかける。


 「弘中殿と互角に戦うあの者は、誰だ」


 「我が家臣、井上源右衛門にございます」


 「……あの者に託すしかない」

 

 毛利軍の誰もが、
 井上源右衛門の奮戦を心に強く願った。

 もはやこの者しか、
 弘中隆包の歩みを止められる者はいない。

 言葉も出せず動けもしない毛利勢の静寂の中、
 火花が弾け散る烈しい激闘の音が、
 龍ヶ馬場から厳島全土に響き渡るかのようであった。
 


 長い死闘の中、ついに両者の均衡が崩れる時が来た。


 井上源右衛門が足元の岩を踏み外し、
 ぐらりと倒れかけたのである。

 「ああっ!!」と、毛利勢から大きな声が挙がる。


 その体勢の崩れを、無心の修羅は見逃さなかった。
 弘中隆包は大きく太刀を振りかざした。

 井上源右衛門は瞬時に死を悟り、
 意識が飛んだ―――――。



 ―――――まさか……。

 井上源右衛門はふと我に返った。

 生きている……。

 命がまだこの世にあることを悟り、そして刮眼して驚く。


 源右衛門が無意識に繰り出した駒切の刃は、
 相手の肉体を貫いていた。


 弘中隆包が振り上げたはずの右手の中に、太刀がない。
 握る力も尽き、地に落としていたのである。


 井上源右衛門は、相手を見て震えた。

 そこに立ち尽くす弘中三河守隆包の姿は、
 三日間の炎天下に干され、糧と水を断たれ、
 まるで死に際の老人のようにげっそりと痩せ細っていた。

 隆包を貫いた駒切の刃も、鮮血が伝わり流れることもなく、
 ドロリとした粘血と赤い粉を絡め取るばかり。

 弘中隆包の体内には、血液が残されていなかったのである。
 ただ気力だけで、その武を振るい続けていたのであった。

 隆包の眼には、もはや生気の眼光はなかった。

 もしかしたら、弘中隆包という人間は、
 修羅と化す前に、既に事切れていたのかもしれない。


 隆包を刺した源右衛門は、
 唇を震わせながら、刃を体で呑み込んでいる隆包に言う。


 「この駒切、末代までの家宝と致します……」


 「……要らぬ―――――」


 隆包の干からびた唇から、言葉が小さく漏れた。


 「やがて来よう―――――。
  刀など要らぬ世が……、いずれ―――――」


 その口元は、
 まるで微笑んでいるかのように見えた。


 そして弘中隆包は、力を失い、
 源右衛門の足元の地にドサリと落ちた。

 修羅は、もう二度と動くことはなかった。



 天文二十四年(1555)十月三日。

 国の発展にその智勇を振るい尽くし、
 疾風のごとく西国を駆け抜けた元安芸国守護代、
 弘中三河守隆包は、
 龍ヶ馬場にて壮絶な討死を果たした。

 享年には諸説あり。
 老齢であったとも若年であったとも言われるが、
 一説には三十四歳とも、また一説には三十五歳とも言う。



 最後の強敵・弘中隆包がその地に堕ちた時、
 吉川元春をはじめ、隆包一人を取り囲んでいた毛利勢からは、
 しばらくは誰からも鬨の声は上がらなかった。

 今の毛利の基盤である安芸国の経済と政情を築き上げた
 大恩ある守護代を今、自らの手で屠ったからである。

 敵将というより、主君を手にかけてしまったような
 沈痛な面持ちだった。


 弘中隆包を討ち取った井上源右衛門は、
 その首を取ることも忘れ、
 しばらく呆然とそこに立ち尽くした。


 そして、溢れ流れる涙を拭おうともせず、

 「うおぉぉぉぉぉぉっ!!」

 と雄叫びを上げたかと思うと、
 駒切の太刀を龍ヶ馬場の大岩に力強く突き立てた。

 すると、太刀は砕け跳ぶことはなく突き刺さり、
 ピシピシッと音を立てながら、大岩に大きな亀裂が走った。

 一本の太刀が、頑強な岩石を裂いたのである。

 周囲の毛利の将兵たちは、言葉を失う。

 井上源右衛門はそのままガクリと膝をつき、
 止めどなく泣いた。

 最後の血液の一滴までも失った敵将に、
 その涙の潤いを与えるかのように―――――。



 猛将弘中隆包を討ち取るという大功を挙げた
 阿曽沼広秀家臣・井上源右衛門の名は、
 どの歴史史料にも、
 この厳島の戦い以降、なぜか一切出てこない。

 龍ヶ馬場での武勲以降の彼の行方は、
 そして駒切の太刀がその後どうなったのかは、
 誰も知らない。


 また、井上源右衛門が名刀駒切にて
 龍ヶ馬場の岩石を斬り割いたという伝説も、
 それ以降は次第に人々の心から忘れられていった。

 ただ、全く植物の生えていなかった峻嶮の龍ヶ馬場は、
 その亀裂の隙間から次第に草木が芽生え始め、
 周辺に樹木が茂るようになり、
 やがて自然に恵まれた名跡と化していった。

 駒切の太刀により木々に覆われるようになったからなのか、
 後世の龍ヶ馬場は、いつの頃からか
 「駒ヶ林」と呼ばれるようになった。



 総大将陶晴賢の自害後の二日後に、
 最後の一将・弘中隆包が駒ヶ林にて討死したことで、
 「厳島の戦い」は、本当の終結を迎えた。


 陶晴賢の首はしばらく見つからなかったが、
 自害から五日後、小姓の乙若が降伏してその所在を吐いたため、
 首実検により陶晴賢の首が断定された。

 毛利軍は、わずか三千の兵での奇襲ながら、
 四千五百を超える首級を挙げた。

 毛利軍の圧倒的勝利である。


 
 天文二十四年(1555)十月に起こった、
 中国の覇権を大きく塗り替えることになる「厳島の戦い」。

 同じ月、二十四年続いた「天文」の元号は、改元となった。

 新しく始まった元号は「弘治」。

 安芸国の人民たちは
 まるで同月に死した名将の一字が残ったような偶然を
 密やかに感じたのであった―――――。



 西国の運命は、この「厳島の戦い」によって、
 瞬く間に大きく流転していく。


 (終章へつづく)
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厳島戦記(四十三) 龍ヶ馬場の巻


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 厳島戦記(四十三) 龍ヶ馬場の巻
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                       第七部「厳島奇襲戦」




 天文二十四年(1555)十月一日、
 総大将陶晴賢の指揮する二万もの大内軍は、
 毛利元就の奇襲によって、わずか一日で厳島にて壊滅した。

 大内軍の将兵らはことごとくその首を討たれ、
 また逃げる途中で瀬戸内海の藻屑となって沈んでいった。

 やがて、陶晴賢の鎧を着けた首無しの屍体が発見され、
 総大将の自害が明白となり、
 毛利軍は大勝利を収めたことを確信した。


 だが、毛利元就はまだ、
 全軍に勝利の鬨を上げさせることはなかった。


 大内軍にはまだ、防芸無二の勇将、
 弘中三河守隆包が残っていたからである。


 大内家への忠義の塊である弘中隆包は、
 いくら死地へと追い込んで投降を迫ったとしても、
 二君に仕えることを選ぶことはないであろう。

 さらに、総大将の陶晴賢が命を落としたと言っても、
 周防山口にはまだ当主の大内義長が健在であり、
 防長合わせても軽く総勢二万以上の兵力が残っている。

 その周防山口に弘中隆包を帰すのは、
 獣の群れの中に旗頭の獅子を放つようなものである。
 
 名将の雄渾は、必ずや後の毛利への脅威となる。

 その芽を摘むのは、虎の牢に押し込めた今しかない。

 厳島に渡る前から、いや陶との決別を決めた時から、
 鬼になる覚悟はとうにできている。


 「どんな手を用いてでも、弘中三河守を討て!
  弘中を踏み越えない限り、毛利の雄飛はあり得ぬ」


 毛利元就は容赦なく、全軍に隆包追討を命じた。



 弘中隆包は滝小路での吉川元春との激闘の後、
 弥山山麓の大聖院の裏手に陣を張った。

 総大将の陶晴賢を海へと逃がすために、
 自分たちは囮となって山の方向へと退いたのである。

 この時、弘中隆包の手勢はわずか百騎ばかりであったが、
 隙を見ては毛利軍の各部隊を急襲し、敵軍を混乱させた。

 毛利元就の嫡男・毛利隆元が張った陣も、
 一度、弘中隆包隊に急襲された。

 隆元を守っていた粟屋春俊は弘中隆包に斬り捨てられ、
 毛利隆元は一時絶体絶命の危機に陥った。

 だが、この時も博奕尾の時のように、
 毛利隆元の「百万一心」の信念は揺るがなかった。

 味方の部隊が続々と隆元の救援に駆けつけ、
 弘中隆包は再び窮地を迎え、また風と共に消えた。


 陶晴賢の屍が発見されその自害が知れ渡ると、
 晴賢を追っていた小早川隆景らが毛利本軍に合流し、
 残る弘中隆包隊を全力で潰しにかかった。

 弘中隆包の部隊は驚異的な奮戦ぶりで敵を脅かすも、
 寡兵ではとてもその毛利軍の猛攻を防ぎきれず、
 山へ、上へと後退せざるを得なかった。

 そして弘中隆包らは、龍ヶ馬場へと追い詰められていった。



 龍ヶ馬場―――――。

 厳島の最高峰は弥山(みせん)という霊峰であるが、
 弥山が豊富な木々に恵まれ動物の楽園であるのに対し、
 厳島第二の標高を誇る龍ヶ馬場は、断崖絶壁の岩場である。

 草木はほとんどないが、視界を遮るものがないため、
 ここからは厳島の全域が見渡すことができる。

 毛利軍の主力が、続々とこの龍ヶ馬場を取り囲むのを見て、
 弘中隆包は親友陶晴賢が既に命を絶ったことを悟った。


 眼下では、毛利軍の先鋒・吉川元春の部隊が、
 次々に柵を張り巡らせ、我らの退路を完全に封鎖している。

 毛利軍は全力で、弘中軍の掃討に集中し始めた。



 「安芸の龍に追い詰められた場所が、龍ヶ馬場か―――――。
  我らの命運も、これまでかのう」


 敵の動きを遠くに眺めながら、
 弘中隆包は自嘲気味につぶやいた。

 周囲の部下たちは、口々に励ましの言葉を放つ。


 「何を仰せにございますか。我々は誇りある岩国の武人。
  最後まで殿をお守りする所存でございます」


 隆包は、彼らの言葉に優しく微笑んだ。

 瀬戸内海の静謐、安芸国の発展を支えてきた岩国の志士たち。
 彼らは一縷の希望を捨てず、ひたすら忠義に尽くしている。

 今の隆包にとって、彼らの恩に報いることができるのは、
 その希望を否定しないことぐらいであった。



 龍ヶ馬場はその峻嶮さから、一度に大勢で攻撃ができない。
 同時に数人が登れる程度しかない岩道が頂まで続く。

 そのため、天険の要害とも言えた。

 何度か毛利軍は、弘中隊の五倍以上の兵力で突入を試みたが、
 どうしても先頭部隊は先細りとなり、
 弘中隊の壮烈な守備によって、次々にその屍を晒し続ける。


 だが、次第に弘中隆包の部隊は苦しめられることになる。


 その第一の理由は、秋晴れの陽射しである。

 龍ヶ馬場は岩肌ばかりで、植物がほとんど生えていない。
 当然、川や池などもなく水が確保できず、
 採って食べるような実や根の類もない。

 そこに、真夏と見紛うような暑い陽射しが照りつける。

 食糧もなく、水もなく、
 弘中軍は全員、容赦なく体力を奪われていった。


 さらに、毛利元就の鬼謀が走る。

 弘中隆包に直接投降を呼びかけても、断固拒否される。

 そこで元就は、隆包の周囲の郎党たちに、
 「武器を捨てて投稿すれば、無条件にその命は助ける」
 と再三伝えたのである。


 弘中隆包と毛利元就は共に手を携えて安芸国を豊かにした間柄。

 二人の友情は、誰しも知るところである。

 弘中隆包の郎党たちは、自分たちが毛利に投降することで、
 毛利元就に主君隆包の助命を嘆願できる、と考えた。

 隆包と元就、双方にとって対立は本意ではなかったはずだ。
 隆包は我々のために帰順し、主君の死は免れる。
 そう考えた郎党も多かった。

 そのため、弘中隆包の命を救うべく、
 自ら投降する者が多数現れた。

 ところが、これは毛利元就の罠であった。
 毛利軍に下った兵たちは、ことごとくその首を討たれたのである。

 弘中隆包は決して屈服することはない。
 そうなると投降してきた者は全て内応の種になるからである。

 こうして、弘中隆包の部隊は毛利の猛攻を防ぎながらも、
 その兵の数は次第に減っていった。



 とは言うものの、龍ヶ馬場を堅く包囲する
 吉川元春や熊谷信直らの軍も、度々危機に陥った。

 守勢だけでは生き延びられないと悟る弘中隆包隊は、
 隙をついては岩場から飛び出し、
 包囲する毛利の軍兵たちに斬りかかり、
 致命傷を与えては再び岩場へと戻り消えていった。

 風のように現れてその刃を振るい、
 風のように消えていく敵軍に、毛利軍先鋒は手を焼いた。

 そこで、毛利元就は党内の残党狩りを行なっていた
 毛利隆元、福原貞俊らの手勢も包囲陣に加え、
 弘中隊が飛び出してくると大勢で囲み返り討ちを与えた。


 夜が明け、昼が来て、また夜が来て、夜が明ける。

 龍ヶ馬場での激闘は三日間にも及んだ。

 時間が経つにつれて、
 投降する者は騙し討ちに遭い、奇襲する者も討ち倒され、
 弘中隊の生き残りはわずかに十一騎となっていた。

 そして兵糧も水もない弘中隊は、
 疲労困憊の極致に追い詰められたのであった―――――。



 十月三日の朝が明けた。


 この日、しびれを切らした毛利軍はついに、
 弘中隊を殲滅するべく、龍ヶ馬場への総力突入を決めた。

 そして、弘中隆包も、
 「毛利が一斉突入するとしたら今日だろう」と読んでいた。

 だがこの時点で、弘中隆包をはじめ郎党たちの中で、
 傷を負っていない者は一人もいなかった。

 加えて、三日間飲まず食わずで、ろくに睡眠も取れず、
 強い陽射しに晒されて、誰もがボロ切れのようになっていた。

 特に弘中隆包は、敵兵からの攻撃の集中が凄まじく、
 無数の刀傷と矢傷を受け、血にまみれており、
 もはや気力だけで生きていると言っても過言では無かった。


 弘中隊十一騎がぐったりと岩場にもたれているのを余所に、
 山の中腹で弘中隊を取り囲む毛利軍の中から、
 無数の銅鑼や鐘の音がけたたましく鳴った。

 そして気迫に満ちた喊声が駆け上がってくる。


 それを聞いて、気力を振り絞って立ち上がったのは
 隆包の嫡男、弘中隆佐(たかすけ)であった。


 「父上。私が斬り込んでまいります。
  もし少しでも毛利軍に隙を切り拓くことができたなら、
  父上は私を気にせず、包囲網を突破して下され」


 「我々もお供します!」「拙者も!」


 わずか十二歳の若武者の言葉に奮い立たされ、
 残りの九人の郎党も、刀や槍を杖にして体を起こした。

 深手の矢傷と刀傷から血が止まらず、
 肩で息をしながら岩に腰掛けていた弘中隆包は、
 しばらく全員を見つめ、そしてゆっくりとうなづいた。


 隆佐は、父隆包の前でその瞳を見つめながら言った。


 「今生のお別れにございます。父上」


 「……ああ。私も、すぐに参ろう」


 隆包は、痛みに耐えながら隆佐の言葉に答えた。

 隆佐の顔は、澄みきっていた。

 思えば、西国各地を転戦した父とは、ろくに話もできなかった。
 きっとこれが、父子の最後の会話になる。

 しかし隆佐はこの短い言葉のやり取りだけで、
 父と何十年分もの会話を重ね心を通わせた心地がしていた。

 もう思い残すことはない─────。


 隆佐と郎党らは、弘中隆包に深く一例をすると、
 武器を掲げて「いざ!」と龍ヶ馬場の岩場を駆け下りた。

 隆佐を先頭にした十人の武者たちは、
 駆けあがってきた数百名の毛利勢の中に飛び込む。

 弘中隆佐たちはあっという間に取り囲まれたが、
 その苛烈さは凄まじく、彼らの振るう覚悟の宿る刃の前に、
 毛利勢は次々に倒されていった。

 青い晴天と白い岩場を背景に、赤い鮮血がほとばしる。

 だがその力闘も空しく、寡は衆に敵せず、
 弘中隊の郎党は次々に押さえつけられ、その首を斬られた。


 そして、弘中隆佐の周囲を守っていた従者が全員討ち取られた時、
 吉川元春勢の小坂越中守という者が岩の陰から放った矢が、
 隆佐の左肩に深々と突き刺さった。

 その痛みに隆佐の身体の均衡が崩れると同時に、
 熊谷信直の家臣の末田新右衛門という者が素早く取っ組み、
 二人はもつれながら岩の上に倒れ込んだ。

 手傷多く三日間飲まず食わずだった弘中隆佐は
 敵を跳ね除ける余力も残されておらず、
 取り押さえられたまま
 末田新右衛門にその首を討たれたのであった。

 将来を有望視された少年の、若すぎる最期であった。



 目の前にいた弘中隊の手勢を全滅させた毛利軍の先鋒は
 皆刀や槍を天に突き上げ、鬨の声を放った。

 中でも弘中隆佐の首を上げた末田新右衛門は

 「弘中中務少輔隆佐、この末田新右衛門が討ち取ったり!」

 とその功を叫び
 幼い敵の首を高く掲げた。

 毛利の先鋒隊は、その歓びに大いに沸き立った。



 だが、その時─────。


 頭上から熱い突風が吹き降りてきた。

 毛利の兵たちは即座に殺気を感じ、
 歓喜に突き上げた手や武器の先を見上げる。


 「………!!」


 そこには宙を跳ぶ一人の武者の姿があった。

 血と土にまみれ鈍く黒光りする鎧の姿。


 そしてその鎧が
 ガシャンと地に降り立つ音を立てたその瞬間、
 ドサリと、何かの塊が地に落ちる鈍い音がして、

 「ぎゃあああああっ!!!」

 と大きな悲鳴が上がった。


 兵たちは目を見開き、驚愕した。


 地に落ちたのは、
 隆佐の首を髪からつかんでいた右腕だった。

 そして右から鮮血を吹き出し絶叫をしているのは、
 末田新右衛門だったのである。


 末田の腕一本を斬り落として血を滴らせる太刀を握り、
 鬼神の如き険相で立つ武者。

 
 岩国の疾風、弘中三河守隆包であった。


 「み、三河守だ!」


 怯えたように叫んだ毛利兵は、
 叫び終わる頃には、
 その弘中三河守に頭上から一刀の元に斬り落とされていた。

 慌てて刀を構えた兵たちも、
 一人は瞬く間にその首を斬り落とされ、
 その横の一人は次の瞬間に鳩尾を太刀で貫かれて倒れ込む。

 その後ろの兵は剣を振り上げたところを突き刺され、
 その横で咄嗟に距離を取ろうとした兵は
 一瞬にして刀を飛ばされ、太刀で頭を叩き砕かれた。

 焦って飛びかかろうとする毛利の先鋒の兵たちは、
 誰一人としてその太刀筋を目で追えず、
 一瞬にして十人、十一人と斬り捨てられていく。

 次々と宙に血飛沫が舞い、肉片が飛ぶ。


 冥府の修羅と化した弘中隆包の前に、
 毛利軍は無残にも、先頭から順に斬り倒されていく。


 「化け物だ……」


 敵を追い詰めているはずの毛利の兵たちに、戦慄が走った。

 龍ヶ馬場への道をズラリと並んで駆け上がる毛利軍が、
 たった一人の将の前に血泡の池を作っていく。

 まるで簡単に草を刈りながら進むかのように、
 弘中隆包は迫りくる敵兵を瞬時に斬り伏せながら、
 血の池の中を一歩ずつ進み始めた。


 友を失い、子を失い、そして勝機を失った隆包は、
 それでもまだ、大軍の敵に足を進める。

 その歩みの先に、何があるのか―――――。



 厳島にただ一人残され、毛利三千騎に包囲された
 大内軍随一の驍将、弘中三河守隆包。

 大内の覇業を支え、備後を経略し、筑前を平定し、
 安芸国の経済を大きく発展させ、大きな功を残しながら、
 後世には毛利の雄飛の陰にその名が隠れることになる。

 その悲運の勇将の最後の死闘が今、
 戦国史の埋もれた系譜に、生き様を刻む―――――。


 (つづく)
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厳島戦記(四十二) 全薑自刃の巻


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 厳島戦記(四十二) 全薑自刃の巻
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                       第七部「厳島奇襲戦」




 大江浦の白浜に、刃のかち合う金属音が響き渡る。


 共に周防の大内の発展のために身を尽くしてきた
 陶晴賢と弘中方明の壮絶な一騎打ちの気魄は、
 晴賢の従者たちの足を震わせた。


 主晴賢を見守る伊香賀房明、山崎勘解由らは、
 刀の柄に手をかけながらも、主君の加勢に踏み出せなかった。

 晴賢の尋常ならぬ殺気は手出し無用の気を発し、
 また晴賢の猛勇は必ず道を拓くと思われたからである。

 現に、五合、十合と打ち込む陶晴賢の太刀筋に、
 弘中方明は最初から防戦一方を強いられているように見えた。


 「どうした、最初の威勢はどうした!」


 「くっ……!」


 晴賢の太刀は容赦なく方明に次々と振り下ろされ、
 方明はその攻撃を槍で左右へと受け流す。

 周防の虎、西国無双の侍大将と謳われた陶晴賢の太刀捌きは、
 噂に違わぬ卓越したものであった。

 弘中方明が槍の名手と言えども、反撃の隙を簡単に与えない。
 方明が力尽きるのは時間の問題に思えた。


 ところが、二十合、三十合と刃を重ねていくうちに、
 弘中方明の槍先が段々と陶晴賢を狙い始め、
 晴賢も防戦を強いられていく。

 方明の調子が戻ってきたわけではなく、
 方明がその流れになるように戦いを進めていたかのようである。

 あわや槍先が咽喉を貫く寸前まで突き出されたのを、
 陶晴賢はかろうじて刀で払い、難を逃れた。

 そして半歩下がり、
 ゼイゼイと肩で息をしながら太刀を握り直す。

 方明は素早く攻撃の構えに戻っていた。


 「息が上がってきているな。
  それに、剛勇は健在だが、昔みたいなキレがないぜ!」


 「……おのれぇっ!」


 陶晴賢は眼を血走らせながら、さらに刀身に力を込めた。


 確かに、次第に体が重くなり、敏捷性が失われていく。
 それに比べて、方明の攻撃は鋭さが全く衰えない。

 武術から離れたことによる衰えか? いや違う!
 年齢からくる衰えか、違う!

 晴賢が自らの弱体化を認めるわけにはいかなかった。


 そして、その怒りを太刀に込めて大きく振るった。

 その全身全霊の一撃は、まるで雲をつかむかのように、
 残像という名の空を斬った。


 そこに、一閃した槍の刃が晴賢の右肩を強く衝く。


 「ぐぅっっ!!」


 その衝撃で陶晴賢の身体は半回転して吹っ飛び、
 手にした太刀は砂に落ち、晴賢は膝から崩れ落ちた。

 後方の従者たちは揃って「ああっ!」と驚きの声を漏らす。

 そこから、陶晴賢は立ち上がることができなかった。



 「勝負あったな……」


 あまりの激痛に左手で肩を押さえてうずくまる陶晴賢の前に、
 弘中方明は槍先を向け、晴賢を見下ろして言った。


 「ここは武芸場のような板間でも、試合場のような土でもない。
  船の上のように、足を取られやすい砂の上だ。
  戦地にはそれぞれ、体力や敏捷さを奪われない戦い方がある。
  あんたも武人の頃なら、本能で分かったはずだ」


 「……」


 「あんたはもう、昔の虎じゃない。
  しかもその傷だ。
  あんたはこれ以上、自分で人を殺せはしない」



 方明はゆっくりと槍先を晴賢から引いた。

 晴賢の後方に控える伊香賀房明ら家臣たちは我に返り、
 刀を抜いて方明に切りかかろうとしたが、
 晴賢は痛みに耐えながら手を上げ、その動きを制した。


 殺さない意志を見せる方明を見上げ、
 膝をつき肩を押さえたままの晴賢は口を開く。


 「方明……。俺を恨んでいるか」


 「恨みはしない。兄だってあんたを恨んではいない。
  それどころか、毛利も陶も恨むなと、俺に命じたんだ」

 
 「隆包殿が……」


 「だが俺は、あんたからは、世話になった日々を惜しまれても
  渡海を阻んだことを恨まれても、仕方がない。
  惜しむなら俺の不肖を惜しみ、恨むなら俺を不義を恨め。
  そして俺のことを……あの世で兄に詫びてくれ」


 「………」


 しばらくの沈黙の後、弘中方明は身を翻し、
 家臣小山弥右エ門が押さえていた小舟に飛び乗った。

 そして方明の合図とともに、弥右エ門は黙って櫂を付く。

 小舟はゆっくりと、大江浦の浜から離れ始めた。


 「兄上、さらば――――」


 神域・厳島を舟上から一度見渡した弘中方明は、
 そうつぶやくと周防へと向き直し、
 そこから決して厳島の岸を振り返ることはなかった。

 これが兄弟二人の、本当の決別となった――――。




 伊香賀房明らはうずくまる陶晴賢に駆け寄り、
 槍に突かれて血の止まらない右肩を布で縛って、肩を貸した。

 晴賢は、方明に武人の誇りを刺激されたからなのか、
 地に落ちた自分の太刀を再び拾い上げる。

 だが、陶晴賢はもはや力尽きたかのように気力を失い、
 そこから遠くへは動くことはできなかった。


 泥と砂に汚れたその顔は、
 何かを悟ったかのように晴れやかに見えた。

 大江浦近くの人目のつかない林の中で、
 晴賢は腰を下ろし、太刀を見つめた。


 「確かにもう、俺は追撃する敵兵を殺す力は残っていまい。
  誰かの命を断つならば、この身ぐらいだのう……」


 「殿……!」「晴賢様……!」


 七人の臣下たちは、無念がこみ上げ泣きじゃくった。

 何とか追撃を逃れて脱出を試みようと進言したが、
 陶晴賢は微笑んで、かぶりを振った。


 「かつて西楚王項羽は、垓下にて漢軍に敗れた際、
  まだ江東に勢力を残しながら、烏江で自刃したという。
  大将一人が逃げ渡っても、誇りは共にはついて来ぬ」


 遠き中国の西楚の覇王の逸話を語る陶晴賢の目には、
 もはや自決という道しか映っていなかった。


 「虎とて、自らの死期を知るわ…。
  最後は武人らしく、潔く散るを選ぶ」



 晴賢は、方明との決闘で振るった太刀を、
 脇に控える伊香賀房明に差し出した。


 「この太刀は、名将弘中隆包が不忠の血からその刃を守り、
  弟に我が身へと大切に返させた誉れ高き太刀である。
  この太刀をそなたに授け、介錯を託す」


 伊香賀房明は、陶晴賢の乳兄弟であり
 一族同然に行動を共にしてきた信頼ある股肱の家臣である。

 晴賢から太刀を受け取った伊香賀房明は、
 涙を拭いて立ち上がり、晴賢の背後に構えた。


 陶晴賢は懐剣を取り出して腹に当て、
 目を閉じて静かに辞世の句を詠む。
 


 「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも

    この有様の 定まれる身に」


 何も惜しむこともない。何も恨むこともない。
 最初からこの末路は運命だったのであろう―――――。



 晴賢の脳裏に、
 大寧寺の炎に散った先主大内義隆の姿と、
 滝小路の敵中に残った旧友弘中隆包の姿が浮かぶ。


 (我が不義を許したまえ、義隆様。
  そして、我が不肖を責めよ、隆包殿―――――)


 晴賢は一呼吸置くと目を見開く。


 そして、懐剣を握り締め、その刃で腹を横一文字に切り裂いた。

 管理職色に浸かっていた陶晴賢が、
 最後に武人として見せた姿であった。



 西国無双の侍大将と謳われ、大内家臣団の筆頭として、
 大内家を立て直すために文弱の主君大内義隆を討ち、
 その大国の全権を握った、周防の虎。

 出家して全薑入道と号した陶晴賢は、
 厳島にて自らの刃でその波乱の生涯を閉じた。


 天文二十四年(1555)十月一日、陶晴賢自刃。

 享年三十五歳。



 伊香賀房明ら近侍は、せめてもの毛利への抵抗として、
 陶晴賢の死体を敵の手に渡らせないために、
 見つけにくい岩場の陰に隠した。
 
 そして、晴賢の身に付けていた袷に晴賢の首を包み、
 厳島のさらに南方にある青海苔浜まで移動した。

 もちろんここにも島外に脱出する舟などはなく、
 山崎勘解由、垣並佐渡守は互いに刺し違えて絶命した。
 他の臣下たちもそれに続いた。

 毛利は自分たちの死体の周囲を捜索するに違いない、
 と判断した伊香賀房明は、
 さらに外れた山中にまで晴賢の首を持ち込んで草の陰に隠し、
 自分はまた再び海辺に出て、自害を果たした。
 
 このような忠臣たちの最期のささやかな抵抗のため、
 陶晴賢の首は、しばらくは見つからなかったという。



 陶晴賢の島外脱出を助けるため
 大元浦付近で楯となって奮戦していた大和興武は、
 旧知の仲であった毛利家家臣・香川光景と取っ組み合いになり、
 香川の家臣たちに取り押さえて生け捕りにされた。


 また、江良房栄や宮川房長と共に
 「富田の三房」に数えらえた猛将の一人・三浦房清は、
 陶軍敗走の殿を務めて獅子奮迅の働きを見せていたが、
 小早川隆景勢の猛追撃でことごとく手勢を失っていった。

 最後の一人になりながらも、
 三浦房清は追撃する毛利勢を次々に斬り倒しては、
 主君陶晴賢の後を追って後退していった。

 そして厳島の南の青海苔浜まで出てきたが、
 そこに山崎勘解由、垣並佐渡守らが死している姿を見て、
 陶晴賢は島を逃げられず自刃を果たしたことを悟った。

 追いついた毛利勢は休息する三浦房清に矢を射かけ、
 小早川隆景を援護していた吉川元春家臣・二宮俊実らが
 取り押さえてその首を取った。


 こうして、陶晴賢が厳島に引き連れた周防の武将たちは、
 ことごとく毛利軍に討ち取られていった。

 二万の大軍は、見る影もなく壊滅したのである。



 陶晴賢、厳島にて自刃。


 大内軍総大将の自害をもって、
 歴史に名高い「厳島の戦い」は毛利軍の圧勝に終わった─────。

 後世の多くの史書には、そう刻まれている。


 だが、毛利元就をはじめ毛利軍の誰もが、
 総大将陶晴賢の死後もしばらく、
 その矛は安心して下ろせなかった。


 周防の猛虎を狩ったと言えども、
 この厳島にはまだ、
 それ以上の脅威が残っていたからである。


 そう、安芸の龍が天に昇るために
 超えなければならない最大の壁、

 岩国の風神が─────。


 (つづく)
| 『厳島戦記』 | 19:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(四十一) 大江浦浜の巻


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 厳島戦記(四十一) 大江浦浜の巻
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                       第七部「厳島奇襲戦」




 西国にその名の轟いた周防の虎も、
 いまや毛利軍の追撃を受け、その猛牙を失っていた。

 その陶晴賢一行が突然そろって喜悦の声を挙げたのは、
 弘中隆包からその名を聞いた大江浦の浜に出て、
 そこに一艘の隻影を見つけた時であった。


 疲れを忘れて砂の上を走り寄った陶晴賢は、
 浜に着けられたその舟の前に立つ武者の顔を確認すると
 その表情に喜びの花を咲かせた。


 「おお……。
  おぬし、来てくれたのか……!」


 陶晴賢を守る家臣たちも、涙ぐんで喜びを口にする。


 「河内守殿!」


 「河内守殿っ……!」



 舟を背にして立つその武者は、
 陶晴賢たちが厳島に渡る際に周防岩国に残っていたはずの
 弘中河内守方明であった。


 大内家臣団の要職に就いた兄・弘中隆包の代役の副将として
 岩国水軍を統率し、瀬戸内海を知り尽くした男。

 陶晴賢は、改めて弘中方明の頼もしさを痛感し、
 その功を讃えようと声をかけようとした。


 その時、弘中方明は硬い表情を一つも変えることなく、
 地に立てた槍を持ち上げ、
 今一度力強くその端を地に打ち付けた。

 砂の鈍い音が鳴る。

 一瞬ビクリと慌てた陶晴賢一行を前に、
 方明は堂々と言い放った。


 「この舟は、我が主、
  弘中三河守隆包を迎えるために用意したものだ。
  誠に恐縮ながら、入道殿らには別の舟を探されたい」


 「……!?」



 予想外の言葉に、陶晴賢の動きが止まる。

 伊香賀房明、山崎勘解由ら、陶の近習たちも
 一瞬言葉を失ったが、
 ふと我に返ると方明に怒号を浴びせた。 


 「河内守殿。総大将に何を申されるのだ!」

 「その無礼、大内への逆心のそしりをまぬがれぬぞ」

 「何を言っているのか分かっているのか、方明殿!」


 そんなけたたましい怒声を受けても、
 方明の険しい表情は何一つ変わらない。

 笑顔の消えた陶晴賢は、一度深く呼吸をして、
 方明にゆっくりと命じた。


 「方明。我が軍は毛利の奇襲によって、かくも壊滅状態となった。
  すぐそこまで、毛利の追手が迫ってきている。
  俺は山口に返り、大内を立て直さねばならぬ。舟に乗せよ」



 陶晴賢と弘中方明は、幼少の頃からの知り合いである。

 晴賢の幼馴染である弘中隆包の弟であるから、
 気心が知れていて、多少の無礼にも腹は立たない。

 いつもの冗談の一つだと思い優しく微笑む陶晴賢に対し、
 以前から陽気な方明の眼は、全く笑っていない。

 方明は眉一つ動かさず、晴賢に言った。


 「今、その舟に乗っている漕ぎ手は、我が家臣小山弥右エ門だ。
  弥右エ門は、その主である俺の命しか聞かない。
  同じように、俺も晴賢殿の命は聞くつもりはない」


 「何だと……?」


 陶晴賢の眉が、吊り上る。

 名の出た小山弥右エ門も、小波に揺れる舟の上で、
 弘中方明の次の命を待つかのように無表情でかしこまっている。


 陶晴賢と弘中方明の間に、張り詰めた空気が走った。


 「晴賢様は大内家の全権を預かる総大将ぞ!」

 「晴賢様の命に背くは、大内に背くも同じだぞ!」

 「いかに直接の主の命でなくとも、
  味方の総大将を見棄てるなど、大逆罪になりますぞ!」


 怒りに歯を軋らせる晴賢の背後で、家臣たちが叫ぶ。

 そんな声を相手にすることもなく、
 弘中方明は高らかに言い切った。


 「味方…? 俺の眼には、この大江浦に味方など見えない」


 「何ィィ……?」


 陶晴賢の顔が次第に怒りにひきつっていく。

 相手を鋭く見つめながら、弘中方明は言う。


 「晴賢殿……。かつて、あんたは俺の憧れだった。
  若き頃は西国無双の侍大将とまで謳われるほど武芸に秀で、
  我が兄でさえ手合わせで勝てないことが何度もあった。
  俺は兄の横で、あんたのような将になりたいと願っていた」


 元服前から兄の横で陶晴賢の武芸を見ていた方明には、
 武芸百般をこなす陶晴賢は武人の模範として写っていた。

 元服前の方明は、その憧れの晴賢に、
 機会あるごとに武芸の鍛錬のための手合わせを願ったものだった。


 「だがその後、大内の総大将として昇格したあんたはどうだ。
  出雲の月山富田城への遠征を強行して大敗を招き、
  山口で内乱を起こして主君義隆公を大寧寺に自刃させ、
  明国との貿易を打ち切られて財政は逼迫するようになった」


 「……」


 「その軍略や内政に、我が兄隆包がどれだけ辛苦を重ね、
  どれだけの危機に直面したか、あんた分かるのか」


 陶晴賢には、言いかえす言葉がすぐには見つからない。

 確かに、晴賢は若い頃にはその武で鳴らしたが、
 今この敗走の状況を見れば、
 どう言いわけしても何の説得力もない。

 厳島渡海の危険性を説く弘中隆包の意見を一蹴した上に、
 今まさに、弘中隆包を残して
 この厳島から脱出しようとしているからである。


 方明の弁は続く。


 「出雲攻略に大敗し、兄と共に退路の殿を務めた時にも、
  周防の内乱で炎上する山口に潜り込んだ時にも、
  俺は幾度となく危険な目に遭った。
  なぜこのような目に遭うのか、その時は単なる運命だと思った。
  だが、俺は筑前宗像への遠征の時から分かり始めた。
  俺たちの本当の敵は、何だったのかってことを」


 「……」


 「俺たちの敵は、尼子でも毛利でもない。
  総大将の大器に到底及ばない、陶晴賢の小器だったとな」


 「……!」


 陶晴賢は心を雷で貫かれたような衝撃を受けた。

 信頼されていると思っていた相手から不信を通告されるのは、
 誰にとっても悲劇である。

 次第に周囲を信じられなくなってきた陶晴賢が
 最も信用していた友が、弘中三河守隆包である。
 その隆包の実弟から本音を聞き、晴賢の心がぐらりと揺れる。


 家臣たちが「無礼だぞ!」と騒ぎ立てる中、
 陶晴賢と弘中方明はせめぎ合うように互いを睨んでいた。

 晴賢は、唸るように声を出す。


 「俺が、総大将の器ではないと言うか……」


 「あんたも自分では何となく分かっているんじゃないのか。
  出雲で大敗し、明国に貿易を断られ、
  やがて吉見が裏切り、毛利が翻り、村上水軍も敵方に付いた。
  そして今、こうして大軍が壊滅し、絶体絶命に陥っている」


 「……勝敗は、兵家の常だ」


 「それは、正しき戦略に基づいている時の言葉だ!」


 弘中方明は陶晴賢に向かって一直線に指差し、一喝した。

 その戦慄が、大江浦に砂を揺らすかのように駆け抜ける。


 弘中方明は、陶晴賢の総大将としての指揮能力の無さを、
 いつの頃からか許せなくなっていた。


 その兆しは、筑前宗像の山田事件の時であった。

 兄と共に宗像氏の相続内乱の平定に向かった時に、
 方明のすぐ目の前で、
 菊姫をはじめ無抵抗の女性数名が無残に斬殺された。

 その時から、大内の権勢を一手に握っていた陶晴賢は、
 弘中隆包を信頼しているように見せながらも、
 隆包の知らないところで勝手に陰謀を企てているのではないか、
 と方明は思い始めていた。

 そして、その後に瀬戸内の警固料に勝手に着手していたことが
 発覚したことで、それは確信に変わっていく。

 さらに、陶晴賢の施策は全てが裏目に出ており、
 兄の奮闘も虚しく、大内の政治は悪化の一途を辿るばかりである。

 方明はそこから、三本松城攻め、山口内乱、出雲遠征と
 陶晴賢の着手したものを逆算して振り返ったところ、
 陶晴賢の方策は全て、弘中方明が取り組んできたことを
 ことごとく台無しにする失策であることが分かってきた。


 かつて陶晴賢は、その武芸を絶賛された人物である。

 その好評価が固定観念として先行していて、
 陶晴賢の指揮能力の低さについては気が付かなかったのである。

 その晴賢が、弘中隆包の全力の諫言を退けて、
 隆包が死地だと先読みした厳島への渡海を強行した。

 晴賢一人の無能さのために、
 兄はこんなにも辛酸を嘗めてきたのか―――――。

 弘中方明の陶晴賢に対する怒りは、頂点に達していた。


 そして、厳島に来てみれば兄隆包の予言通りの大敗。

 この大敗を予言した隆包が厳島に渡る前夜、
 方明は万が一のために大江浦にて待つと進言したが、
 隆包からは強く断られた。

 隆包の命令に反して、大江浦まで来てみたが、
 そこに兄は現れず、総大将の陶晴賢だけがやってきた―――――。

 方明には、それがどういうことなのか、
 兄の性格から考えるとすぐに理解できた。

 大内陣営は誰一人として奇襲を予期していた兄に味方せず、
 毛利軍の奇襲を受けても兄一人では到底防ぎきれない。

 ただ、この方明が禁を破って大江浦まで来ているのではと感じ、
 親友である陶晴賢に大江浦まで逃げるように導き、
 自分はまた楯となって毛利に立ち向かったに違いない。

 そして、その逃げてきた陶晴賢が
 毛利の追撃をそこまで受けているということは、
 兄は今ごろはもう、自らの予言通りに―――――。


 方明の言葉に、無念が重く圧し掛かる。


 「出雲出陣の反対、瀬戸内の政情安定、厳島を避ける陸路……。
  弘中隆包は、常にあんたの横で正しい戦略を立てていた。
  総大将がその弘中隆包を正しく用いることができていたら、
  ―――――いや、弘中隆包が総大将であったなら、
  大内は今日のような大敗を招くことはなかった―――――!」
 

 「……」


 「これが、何か分かるか」


 弘中方明は陶晴賢の足元に、一振りの太刀を投げ捨てた。

 ドサリと砂浜に横たわったその太刀を見下ろして、
 晴賢は思わず息を飲む。


 それは、しばらく自分の手元から離れており、
 久しぶりに目にする、愛用の太刀だった。


 「あんたが兄に預けた、あんたの太刀だ。
  あんたは、これを人に預けていたことすら忘れていただろう」


 「……」


 陶晴賢の視線は、足元の太刀に向いたまま動かない。


 晴賢には、方明の言いたいことは分かっていた。

 晴賢は総大将になってからというもの、
 江良房栄や三浦房清など、武勇に優れたものに武を任せ、
 自分は彼らを指揮するだけの仕事となった。

 自ら太刀を振るわなくなったのは、いつの頃からだろう――――。
 いつから武人という自覚が無くなったのだろう。

 しかし、自分は武官筆頭であり、周防国の守護代であり、
 人の上に立つということは、そういうことなのだ――――。


 晴賢がそう心でうなずいた時に、
 方明はさらに言葉を浴びせた。


 「弘中隆包は、安芸守護代に就いても、文官筆頭に任じられても、
  自らの手を使って、全ての問題を解決してきた。
  自らの足で地を歩き、安芸を豊かにし、筑前の内紛を鎮めた。
  江良房栄が裏切った時も、兄はあんたのその太刀を使わず、
  自らの手に自らの太刀を握り、江良を誅殺したんだ」


 「……」


 確かに、晴賢が隆包に太刀を預けたのは、
 江良房栄に翻意の疑惑が立ち、殺害を頼んだ時である。

 だが、弘中隆包がその太刀を用いなかったことは、
 晴賢にとっては初耳だった。


 「弘中隆包とは、常に自ら結果を出す大将だったのだ。
  それに比べて、あんたはどうだ。
  自らの太刀の所在をも忘れているほどだ。
  かつての誉れも虚しく、身体に肉も付いているではないか」


 「……」


 「あんたは以前に、大内義隆公や奉行人の相良武任を
  文弱の徒として嫌い、その命を追い詰めた。
  だが、自ら汗をかかなくなったあんたは、似た者になった」


 「……調子に乗るな、方明!!」


 ついに、虎が咆えた。

 その目は血走り、まさに獲物に飢えた猛虎の眼を髣髴させる。
 内に秘めた獰猛さが、蘇ってきたかのようである。

 特に公家の臭い漂う相良武任と同じ文弱扱いをされたことが
 今にも触発しそうな陶晴賢の逆鱗を刺激した。


 「俺が、相良武任と同じだと……!?」

 
 方明が、ニヤリと片方の口角を上げる。


 「虎の心は、少しは残っていたか」


 「方明……。この俺を敵に回すか……」


 「最初からあんたは、俺たちの味方じゃなかった。
  大内や兄を破滅に追いやったのは、あんただ」


 「死を選びたいようだな、方明」


 「あんたも、周防の虎、西国無双の侍大将と言われた男だ。
  総大将の器ではないが、侍大将程度の働きなら大物だろう。
  あの頃の武心と誇りがまだあんたにも残っているというなら、
  その太刀で俺をねじ伏せ、この舟を奪い取ることだ」


 「後悔するなよ……」


 怒髪天を衝き憤怒の湯気を立たせる陶晴賢は、
 ゆっくりと足元の太刀をつかんだ。

 そして刀身を抜き放ち、鞘を砂浜に投げ捨てる。


 弘中方明も両手で槍を握り、構えた。


 「十二年前、あんたが強行した出雲遠征の失敗で、
  大内晴持様は揖屋沖で溺死された。
  そして四年前、あんたが起こした周防山口の内乱で、
  大内義隆様は仙崎湾を出られず自刃された。
  自分だけそう安々と海を渡って逃げられると思うなよ」


 「貴様……」


 「海と風そして雲が、あんたを許しはしない」


 方明の槍の刃先が、海面の陽光を受けてキラリと光る。

 晴賢の太刀もまた、怒りの炎に燃えていた。


 「本気でこの晴賢に勝てると思っているのか」
 

 「俺は、元服前は、幾度の手合わせでも、
  御前試合でも、あんたには一度も勝てたことはない。
  だが、虎が獲物の獲り方を忘れた今はどうかな」


 「虎の爪牙は、いつまでも西国無双よ。
  覚悟しろ。貴様のごとき薄情者には、死あるのみだ」


 「口上はそこまでにしておこうか。
  あとは、その刃で語れ─────!」



 両者は互いに不敵な笑みを浮かべたかと思うと、
 どちらも素早く砂を蹴った。


 太刀と槍の刃が強くぶつかり、火花が散る。


 周防の猛虎、陶晴賢。
 そして、岩国の流雲、弘中方明。


 生来の友情で結ばれていた二将が今、
 その生死を賭けた運命の決闘に身を投じた─────。


 (つづく)
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厳島戦記(四十) 阿鼻叫喚の巻


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 厳島戦記(四十) 阿鼻叫喚の巻
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                       第七部「厳島奇襲戦」




 「元春様!」

 「殿!」


 紅蓮の火炎に包まれゆく滝小路の中で、
 将兵たちの急き立てる声が飛ぶ。

 吉川元春の頭の中には、
 心の師である弘中三河守隆包の残した命題が駆け廻り、
 彼らの声はほとんど双耳に入ってこない。
 

 炎へと消え行く名将・弘中隆包を討つか。
 海へと逃げ行く総大将・陶晴賢を追うか。

 どちらの道を決断すべきなのか―――――。


 かつて父元就は、当主である兄の隆元には
 我ら兄弟以上の「決断力」がある、と言った。

 しかし今、父や兄の決断力に頼る時間は残されていない。
 自分自身の将としての決断力だけが問われているのだ。


 弘中隆包が与えた試練とは、何か。


 (選ぶ道を見誤ってはならぬ―――――)

 (どの道を選ぶべきか。
  毛利の未来は貴殿の決断にかかっている―――――)

 (目先の現に惑わされず、本質を見抜け―――――)

 (毛利家の将来にとっての最良の道を考え、
  判断するのだ―――――)

 (厳島の冥応は、こうして毛利に下りたのだ―――――)


 弘中隆包の「最後の教え」が、
 吉川元春の脳裏に逆流しながら浮かび上がっていく。

 そしてそれらが次第に絡み合っていった時、
 元春にはまるで判じ物の解法に触れたかのように、
 ハッと目を見開いた。


 (厳島の冥応? 毛利家の将来?
  本質とは……? では、目先の現とは? 
  どの道を選ぶべきか……、どの道?
  どちらの道、ではなく、どの道……?)


 弘中隆包の発した一言一句を手繰り寄せていった元春には、
 答えの片鱗が見えた。

 毛利家次男としての自分が本質と見るべき、
 毛利の将来の形とは―――――。

 弘中隆包の息の根を止めることか?

 陶晴賢を捕えることか?

 否。

 弘中隆包も陶晴賢も、目先の現―――――。


 吉川元春は瞬時に踵を返し、全軍に号令を出した。


 「陶が失せても、弘中が逃げても、苦しからず。
  まずは鎮火に努めるのだ。
  決して、厳島神殿を焼いてはならん!!」



 元春の号令後の吉川軍の動きは、素早かった。

 逃げ惑う大内軍には目もくれず、
 誰もが消火第一に務めた。

 昨夜の嵐で弥山方面から流れ落ちる川の水量も多く、
 兵たちは桶や兜を使って次々と水を汲んで火元に撒いた。

 滝小路を焦がす炎は、吉川隊の尽力で次第に消えていった。

 そして、火災はそれほど広範囲に広がることなく、
 美しい真紅の厳島神社は戦災から免れたのであった。


 吉川元春は、毛利家の発展に必要な本質を見抜いた。

 それは、敗軍の将を仕留めることではない。

 神域を奇襲の戦場に選んだ毛利家にとって、
 一千年もの由緒を持つ厳島神社を消失することがあれば、
 家名に拭えない最大の汚点を後世へと残すことになる。

 自ら招いた災いから厳島神社を守り抜くことこそ、
 今の、そして今後の毛利にとっての
 第一の選択肢だと考えたのである。

 決断の岐路は、二択ではなかったのだ。


 吉川元春は、この滝小路での的確で正しい判断により、
 武勇一辺倒ではない名将だということを
 後世まで語り継がれることとなる。

 この後、不敗の名将としてその名を轟かせる吉川元春だが、
 周囲からこの滝小路の英断について尋ねられても、
 元春は決して深くは語ろうとはしなかったという。

 その決断には心の師の導きがあったことを、
 吉川元春は深く心の底に抱え込んでいたのであろう。


 そして、後にその名を轟かす吉川元春が、
 絶体絶命の危機にまで追い詰められたこの滝小路は、
 いつしかその相手の将・弘中隆包の名を取って
 別称を「弘中戦地」と呼ばれるようになった―――――。



 さて、弘中隆包にその危局を救われ、
 大野瀬戸の海岸線へと逃げていった総大将の陶晴賢は、
 阿鼻叫喚の地獄絵図と化した厳島の様子を見て、
 憔悴しきっていた。

 昨夜まで意気揚々と士気にあふれた大内本軍の大軍勢が、
 毛利勢によって次々と斬り殺され、
 海へと逃げ惑う大内軍の将兵たちも村上水軍の包囲網に捕えられ、
 また大野瀬戸へと溺れ沈んでいく。

 陶晴賢の目には、信じ難い大虐殺の光景が焼き映されていった。


 三浦房清や大和興武が楯となって小早川隆景隊の追撃を防ぎ、
 陶晴賢は伊香賀房明、山崎勘解由ら家臣に守られながら、
 数日前に上陸した地である大元浦まで逃げてきた。

 だが、着岸していたはずの多数の軍船は、一隻もなかった。

 敗走した大内軍の兵たちが、この地獄の厳島から脱出しようと、
 総大将も見捨て、我先にと勝手に船を出したのである。

 しかし、それらの船も大野瀬戸に並ぶ村上水軍にことごとく捕まり、
 ほとんどが本土に渡ることができず虐殺されている様子が、
 大元浦の浜からも見て取れた。


 栄えある大内家の総大将として輝かしい地位にあった陶晴賢は、
 見る影もない泥まみれの姿で、大元浦に呆然と立ち尽くした。

 この厳島の海域を治めているのは、自分である。

 その自分が、目の前の対岸にすら渡ることができないのか。
 我が身を送る船を残す兵が、一人もいなかったのか。


 古来より、大きな堤も蟻の一穴によって決壊するという。

 家督を継いでより築き上げてきた栄光という名の大堤防が、
 毛利による一刺しでもろくも崩れていく感じがした。

 肩を落とす陶晴賢の顔には、もはや生気すら感じられない。


 「殿、大元浦が敵に押さえられているならば、
  西の大江浦まで逃げおおせるべき、
  弘中殿はそう言っていましたぞ」


 伊香賀房明の言葉を聞き、陶晴賢は我に返った。

 そう、弘中隆包はこの晴賢を逃がすために、
 猛将吉川元春の前に残って奮戦しているのではないか。

 ここで諦めるようならば、
 決死の殿を務める弘中隆包に申し訳が立たない。


 「そうであった。大江浦だ。
  大江浦まで辿りつけと、弘中殿は言っておった」


 陶晴賢の眼に、光が戻った。

 弘中隆包に守られた命、必ず生きねばならぬ―――――。

 背後には小早川隆景ら毛利勢の追撃の声が聞こえる。
 一刻も早く、西へと逃げ行かねばならない。

 大江浦から西は、波打ち際が進みにくい岩場になっており、
 陶晴賢とその郎党たちは、息を切らしながら、
 その岩場を登り、波に打たれながら西へと向かっていった。

 厳島神社の大鳥居が、やがて視界から消えていく。

 必ずや再起を図り、再びこの厳島を支配下に置こう。

 陶晴賢は捲土重来を誓いながら、
 波しぶきに濡れる顔を拭い、重い足を進めた。



 いつしか、陶晴賢に随従する将兵は、
 伊香賀房明、山崎勘解由、垣並佐渡守、小姓の乙若ら、
 わずか七名になっていた。

 二万人の大軍勢を率いて厳島へ渡った陶晴賢は、
 わずか一昼夜にして惨めな落ち武者となったのである。

 その無念さを噛み締めながら岩場を越えていくと、
 やがて弘中隆包の指示した、大江浦の浜が見えてきた。


 「殿、舟が! 小舟がございます!」

 少年の乙若が浜を指差し、歓喜の声を上げた。

 その指の先には、確かに小さな舟が一艘、
 総大将の陶晴賢を待って泊まっていたのである。

 諸将からも欣喜雀躍の声が挙がる。


 「おお……」


 一兵卒までもが総大将を見棄てて勝手に軍船を出す中、
 総大将を見棄てず待っている者が
 たった一人でもいた残っていたことに、
 陶晴賢は歓びに声が詰まり、思わず涙がこぼれそうになった。


 「周防へ帰れるぞ―――――!」


 陶晴賢は沸き立つ喜びに震えながら、
 敗走の疲労感も一瞬で吹き飛び、
 大江浦の浜に待つ小舟へと全力で駆け寄っていった。


 (つづく)
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