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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
門司戦記(六) 城内不穏の巻
――――――――――――――――――――――――――――
門司戦記 〜雷雲の陣〜
――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――
(六) 城内不穏の巻 
―――――――――――――


総大将・小早川隆景の決死の入城に、
門司城城内は喜びに湧いた。


「隆景様! よくぞ、よくぞこのような死地まで、
お越し下さいました! よくぞ…!」


嬉し涙をにじませながら感謝の言葉を震わすのは、
門司城城代の仁保隆慰(にほ たかやす)だった。


「この仁保隆慰、隆景様のお手を煩わすほど
大友に追い詰められ、面目次第もございませぬ!」

「いや、隆慰はここまでよく耐え抜いてくれた。
見事な戦功だよ」

「隆景様〜! ありがたきお言葉にございます!」


想いがこみ上げむせび泣く仁保隆慰に、
小早川隆景は優しく微笑んだ。

隆慰のあまりの男泣きに、
城代の三角山城を落とされ門司城に逃げ込んでいた
杉彦三郎(すぎ ひこさぶろう)をはじめ、
門司城の将兵たちの目は涙に潤んだ。


仁保隆慰、杉彦三郎ら門司城の主将の多くは、
もともと、毛利氏に滅ぼされた
周防長門の大内氏の旧臣である。

毛利氏の中では譜代の家臣ではないため、
「いつか毛利からは見捨てられるのではないか」
という不安の中で戦っていた。

しかし、新参者が認められるためには、
何としても城を守りぬいて軍功を見せるしかなく、
城を落とされて敵に降ったところで、
また新参者の扱いが繰り返されるだけである。

そんな辛い奮起の中で憔悴しきっている彼らにとって、
総大将の小早川隆景自らが救援に駆け付けたことは、
何事にも代えがたい喜びであった。

小早川隆景は自ら、門司城の諸将の労をねぎらい、
城の堅守への勇気を与えた。

門司城内の士気は一気に湧きあがる。



総大将を出迎えた諸将たちが持ち場に戻った後、
隆景は、赤間関代官・堀立直正に案内され、
出丸の一つに張られた小さな幕舎に入った。

そこには、他の将兵たちから身を隠すように
弘中方明が隆景を待っていた。


「やあ、しばらくぶりだね、方明さん」

「隆景様。ご無事の入城、何よりです」


朗らかな笑顔の小早川隆景の姿を見て、
弘中方明は一礼する。

初陣以来の頼れる戦友である方明に近寄り、
再会の喜びもほどほどに、
隆景は密談の体勢を取った。


「方明さん、どう感じる?」

「隔たりは深いですね」

「やっぱり……」


かつて息の合った戦に明け暮れていた
戦友二人の会話は、最小限度の短いものだった。

しかし、その内容は実に密度が濃い。


小早川隆景は、門司城の危機の報を聞いた時、
その戦線の状勢に一つ気がかりなことがあり、
それを探らせる意味もあって、
先鋒の児玉就方の副将に、旧知の弘中方明を付けた。

隆景の意を受けた方明は、
門司城の中から情報収集に尽力していたのである。


「聞いたよ。就方と一悶着あったらしいね」

「お恥ずかしながら」

「やっぱりこの件は、思った以上に深刻だね」

「恐らく、敵もそこを衝いてくるでしょう」


小早川隆景が問題視して弘中方明に探らせた、
二人のいう「隔たり」とは何か。

それは、毛利陣中における、
毛利譜代と旧大内勢との間の根深い確執だった。


もともと安芸国吉田荘(=広島県安芸高田市)という
山奥の小勢力だった毛利氏は、
機に乗って、大勢力であった周防国(=山口県東)の
戦国大名・大内氏を攻め滅ぼした。

その勝因には、
毛利の「百万一心」の信条の存在が大きかった。

「百万一心」の字は、
「一日一力一心」を書き崩せる。

つまり「百万一心」とは、
家中全員が常に力と心を一つに合わせれば、
成功を勝ち取ることができる、という意味である。

これが、安芸国の国人領主の頃は大きな力となった。

盟主たる毛利元就を中心にして
元就の次男・吉川元春が養子に入った吉川氏、
三男の小早川隆景が養子に入った小早川氏ら、
周辺の国人領主たちが一致団結し、着々と力をつけた。

ところが、大内という大勢力を呑み込んだ時に、
毛利は大内時代を凌駕する大国へと膨張した。

すると、毛利家中で、
安芸国の国人時代からの譜代の家臣と、
大内征伐の際に降伏して加わった大内の旧臣という
二つの大きな門閥ができてしまった。

互いの派閥意識が大きくなってくると、
そこに妬みや嫉みが生まれ、連携力がなくなってくる。

いわゆる大組織病である。

毛利という組織が大きくなったことで、
内は毛利譜代と旧大内家臣との派閥割れ、
外は大友氏や四国勢などの新たな敵対勢力と、
内外に問題が増大していた。

小早川隆景が門司城の戦況で気になっていたのは、
その旧大内の家臣たちの心情だった。

毛利譜代の家臣たちは、
出雲国(=島根県東)の尼子討伐に集中しており、
門司城は仁保隆慰らをはじめ、
大内の旧臣である将らに任せていた。

今ここで、彼らが毛利に見捨てられたと感じ、
門司城を捨てるようなことがあれば、
防長の旧大内の将たちは一気に毛利に反発し、
毛利は尼子攻めどころではなくなるだろう。

果たして、毛利と旧大内の確執はどれほど大きいのか。

小早川隆景はそれを
弘中方明に探らせていたのである。

しかし、そもそも旧大内家臣である弘中方明が
毛利譜代の児玉就方とまさにその理由で揉めており、
問題は根深いものだということを痛感した。

この問題を根本的に片付けない限り、
毛利の国家経営はいつまでも安寧を得られない。

小早川隆景はそう考えていた。


「敵もそこを衝いてくる、……というのは?」

「大友勢が旧大内とのつながりを利用する、
ということです。
恐らく隆景様のご入城も、敵方に知られています」

「……内通者だね」

「十中八九は」

「そうだよね。実害はもう出てるかい」

「杉殿に三角山城陥落の時の詳細を聞き込んだのですが
どうも不審な点が多すぎます」

「その時から既に始まっていたのか……。
まさか、彦三郎ではないよね」

「ええ、杉殿に二心はないでしょう。
しかし、他の誰なのか、まだ確証がつかめませぬ。
今しばらくお待ち願えませんか」

「分かった、頼んだよ」


弘中方明が着目したのは、
門司城の支城である三角山城が落ちた時のことである。

三角山城は門司城と同じく、地に恵まれた山城で、
本丸のある山上からは広く山麓が見渡せ、
またその本丸へ登る経路は西側一方のみで、
他の方角は堅牢な曲輪に囲まれている。

毛利の将・杉彦三郎が城代を務めるこの三角山城が
わずか一日で大友軍に落とされたと聞いて、
門司城に逃げ延びてきた杉彦三郎に、
弘中方明はその時の様子をつぶさに訊いた。

杉彦三郎も、
いきなり虚を突かれて城を奪われたことに
どこか納得のいかない部分が多いと感じていた。

そして、陥落当日の配備などを掘り下げていくと、
大友に内通した者が城内にいたのではないか、
という疑念が起こってきたのである。

もしそれが、門司城に逃げ込んだ杉彦三郎と共に
今も門司城へと入り込んでいるならば……。

しかし、それはまだ確証のない推測に過ぎない。

それを裏付けるために、
弘中方明は門司城内を密やかに見回っていた。

小早川隆景が戦略立案に専念するためには、
この疑惑の根を押さえておかなければならない、
と弘中方明は強く思っていた。

それは、厳島の戦いの後に約六年間、
毛利にも大内にも属さず
武家としての空白の期間を持つ弘中方明だからこそ
従事できる裏の仕事でもあった。


小早川隆景は深く溜め息をつきながら、つぶやく。


「はあ。家中が一丸となるべきこんな時に、
毛利だ大内だなんていうつまらない群れ根性、
なくなる術はないものかなあ」


幕舎の出入口で外の様子を伺っていた堀立直正が
聴き耳のない様子を確認して、隆景を慰める。


「隆景様の胸中、お察し致します。
関門の圏域でそのような懸念があること、
赤間関代官たる拙者の不徳の致すところです。
我々も、何とか解決に動きまする」

「いつも、世話をかけるね」

「なあに。商人とて縄張り争いを生き抜くもの。
このような厄介事、日常茶飯事でござる。
あとは、この方明の働きに賭けましょうや」


堀立直正は弘中方明の肩を強く叩きながら言った。

よろける方明を見て、隆景は笑う。


「方明さんのことだ、
どうせ見当はついてるんでしょ?」

「……隆景様には隠しごとはできませんな。
お任せ下さい。二日以内には突き止めましょう」


方明はかしこまって、隆景に告げた。

隆景も強くうなずく。

小早川隆景は、無理をして門司城に入城したことを
改めて正しい選択だったと確信した。

この戦、門司城と赤間関の連携が何より重要だが、
この件については弘中方明との密な情報確認が
何よりも必要なことであった。

城内を隠密に動く弘中方明の働きが鍵だ。

小早川隆景は、弘中方明にその命運を託した。



十月七日の夜半。

明神曲輪(みょうじんくるわ)を一段下に見下ろす
出丸の端の暗い土手の縁で、
二人の毛利の将が城下の包囲網を指差しながら、
何やらひそひそと話し合っている。

その暗闇の中で、
弘中方明は火のついた松明を持って
さりげなく近寄っていく。

背後の明るみと足音に気付いた二人は、
共に腰の刀の柄に手を添え、さっと振り返った。

弘中方明は、手にした松明の炎で
その二将の顔を照らす――――。

(つづく)





――――――――――――――――
『門司戦記』武将列伝 [六]
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■堀立直正 (ほたて なおまさ)

毛利臣下の赤間関(=山口県下関市)代官。元は安芸国
(=広島県西)を拠点とする海運商人で、娘の夫である
弘中方明の推挙で、山奥出身の毛利氏の経済顧問として
軍中に加わり、関門海峡の通商圏の確保や東征のための
物資補給など、財政と物流の確立に大きく尽力した。
| 『厳島戦記』 | 13:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
門司戦記(五) 隆景着到の巻

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門司戦記 〜雷雲の陣〜
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(五) 隆景着到の巻 
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永禄四年(1561年)九月十八日。

赤間関(=山口県下関市)に、
毛利水軍の軍船が東から続々と着陣してきた。

関門海峡の西岸に次々と並ぶ毛利の船体。

ポルトガル船が門司城に艦砲射撃を行ない、
弘中方明らが門司城に突入した日から、
十六日後のことである。

その数、一万余。


既に一足先に赤間関に先鋒隊として到着していた
児玉就方(こだまなりかた)は、
将船から降り立つ水軍総大将を出迎えた。

その総大将は、
小早川隆景(こばやかわたかかげ)。

毛利元就の三男である。

小早川家に養子に入ってその当主となり、
瀬戸内海きっての強さを誇る小早川水軍を
統括する立場となったことから、
いまや毛利水軍全体を束ねる総大将となっていた。

この時、
小早川隆景はまだ二十八歳。

若いながらも水軍の用兵術は西国一と言われ、
毛利家中きっての知恵者とも評されていた。


その後方には、小早川隆景の連れてきた
毛利水軍の諸将たちが姿を並べる。

小早川隆景のすぐ後ろに控えるのは、
毛利水軍の中でも主力の小早川水軍を統率する
海戦の達人、浦宗勝(うらむねかつ)。

そして、さらにその後ろには
桂元親(かつらもとちか)、
赤川元吉(あかがわもとよし)など、
各水軍を指揮する諸将が居並んでいる。


「お待ちしておりました、隆景様」

「やあ、就方。遅れてすまないね。
本当は一昨日には着きたかったんだけど、
途中でちょっとした交戦があってね」


小早川隆景は、相変わらずの明朗な笑顔で、
児玉就方に遅刻の理由を述べた。

毛利氏は現在、長年の敵対勢力であった
出雲国(=島根県東)の尼子晴久(あまこはるひさ)を
攻め滅ぼすことに全力を注いでいる。

ところが、豊後国の大友氏が
門司城奪還のために大軍で北上している報を聞き、
毛利氏を束ねる大御所・毛利元就(もとなり)は、
長男で元当主の毛利隆元(たかもと)、
そして三男の小早川隆景に水軍一万八千を預け、
門司城救援に向かわせた。

その時、尼子氏と大友氏の挟撃の混乱を見て、
長門国(=山口県西)に潜伏していた
旧大内氏の残党たちが密かに決起の準備を始めた。

ちょうど長門に向かっていた隆元と隆景は、
長門沿岸にくすぶっていた大内残党たちを討滅。

その鎮圧に二日を有し、赤間関への進軍が遅れた。

毛利隆元は長門国内の混乱収拾のために
防府(=山口県防府市)に八千の兵と共に残り、
小早川隆景が一万の主力を引き連れて
赤間関まで西進してきたのである。


「ところで就方、戦況はどうかな」

「はっ。堀立壱岐守と弘中河内守が
三百の赤間守備隊を率いて門司城内に突入。
兵糧と武具を補充できたため城内の士気は上がり、
いまだ大友軍を寄せ付けておりません」

「そうか。でも、そんなに長くは持たないよね」

「はい。門司城にいる杉彦三郎からも、
つい先ほど援軍要請の連絡がありました。
しかし、赤間守備隊が門司城へと出た今は
我らが赤間関を守るしかなく、
隆景様の到着を待つほうがよいと」

「そうだね。さすがは就方、賢明な判断だと思う。
じゃあすぐに、軍議にかかろう」


児玉就方から簡単に現況を聞いた小早川隆景は、
すぐに幕舎に移って諸将たちと策を練った。



城主として守っていた三角山城を大友氏に落とされ
門司城に退いた杉彦三郎からの報告によると、
門司城を包囲する大友軍は三万余。

小早川隆景率いる一万の毛利水軍の到来により、
大友軍はその奇襲を警戒し、
平地が広く兵を多く置ける田野浦や
門司ヶ浜などの地の守備を強化し始めたとのこと。

そのため、門司城に入城する最短の出入り口であり
堀立直正や弘中方明らもその突破口とした
明神曲輪(みょうじんくるわ)の先は、
大友軍の守備が比較的手薄になっているという。


「どうぞ門司城に入ってくれと言わんばかりだな」


矢盾で組んだ軍机の上に広げられた海峡の地図を
諸将が覗き込む中、
総大将の小早川隆景は深く潜考した。

これが大友軍の策略だと怪しむ声も将から出たが、
明神曲輪の先は海と山に囲まれた細い地であり、
大軍が一度に素早く動けるはずもない。

和布刈神社付近に上陸した直後に
大軍で挟撃するといった奇襲作戦などは
ここでは実行できないことも、敵は分かっているはずだ。

つい先日、突破作戦が成功した場所だけが、
敵の包囲網にぽっかりと孔を開けている。

大友氏が何を狙っているのか、読めない。

本当に、毛利水軍の大友陣への奇襲を警戒して
広い平地に兵を固めているだけなのかもしれない。

そんな思案を諸将が重ねる中、
小早川隆景はいきなり、一見関係のなさそうな質問を
児玉就方にぶつけた。


「そう言えば、就方。
方明さんと何か揉め事はなかったか?」


児玉就方は予想外の問いに面食らう。


小早川隆景が、本来は家臣であるはずの弘中方明を
「方明さん」と親しげに呼ぶのには理由がある。

かつて毛利氏が大内氏に従属していた時、
安芸国の守護代は弘中隆包(たかかね)であり、
隆景が小早川家の当主の座を継ぐ際、
隆包の代官としてそれを取り仕切ったのは、
隆包の弟である弘中方明であった。

もともと岩国水軍を指揮していた弘中方明は、
小早川水軍を率いることになった隆景の補佐として
大内氏の備後神辺城(=広島県福山市)攻略の際の
隆景の初陣にも同行し、その成功を支えた。

隆景の傍らで水軍用兵の基礎を伝授した方明は、
隆景にとっては兄のような存在だった。

その弘中方明が、兄が討死した厳島の戦いの後に
仏門に入り、最近になって毛利氏に加わったため、
隆景にはまだ方明は家臣のようには思えず、
どこか旧友のような親しみやすさが抜けなかった。

隆景は、毛利氏に武家として復帰した弘中方明の
初めての仕事として、児玉就方の副将に任じ、
門司救援のために赤間関へと向かわせたのである。


「……と申しますと?」

「方明さんが門司城へと渡る時に、
その作戦はすんなりと決まったの?」

「……いや、実はお恥ずかしい話ですが……」


児玉就方は言いにくそうに、
その時のことを正直に小早川隆景に申告した。

弘中方明の考えを、毛利譜代としての目から見て
旧大内の家臣たちの馴れ合いだと罵ったことである。

児玉就方と弘中方明は一触即発になりながらも、
毛利の問題を理解して、戦略を分かち合った。

小早川隆景は児玉就方の話を聞いて、
怒るわけでもなく、呆れるわけでもなく、
「そうか…」とつぶやき、
目を瞑りながらただ納得したようにうなずく。

諸将たちは隆景の質問の意図がまったく理解できず、
互いに顔を見合わせていた。

隆景はしばらく思い悩むと、
パッと目を見開いて、諸将に告げた。


「いずれにせよ、門司城には補給が必要だ。
明朝、闇に紛れて、八百の兵を門司城に入れる。
そして、できる限りの兵糧と矢を運び入れるのだ」

「承知つかまつりました。
誰がその任に当たりましょう」


児玉就方が小早川隆景に問う。

毛利の諸将は誰もが
その対岸への決死隊を率いる覚悟はできており、
自分に下知をと待ち構えていたが、
隆景の返答は意外なものだった。


「私が行こう」

「なりませぬ!」


隆景の発言に間髪を入れず反対の声を挙げたのは
小早川隆景の懐刀、浦宗勝である。

普段は寡黙な宗勝も、
好奇心あふれる隆景の突発的な衝動の時には
声を荒げて制止する。


「あなた様は、この毛利水軍一万の総大将ですぞ。
総大将が水軍を残して対岸に渡って、なんと致します。
将船にて全軍の指揮に集中なさいませ」

「いや、この戦いは対岸からではなく、
城から包囲網の様子を直接正確につかむかどうかで
命運が決まる。私が門司城に入れば、
確実に大内の動きを読んで策を作ることができる」

「ご冗談を申されますな。
総大将が物見のような真似をなさって、
この大勢の水軍を一体誰が束ねるというのですか」

「おぬしだ、宗勝」

「!?」


即座に答えが返ってくる時の小早川隆景は、
既に戦略が固まりかけている証拠である。

好奇心から来る冗談を口にしているのではなく、
何か深い理由があってのことだと、浦宗勝は直感した。

隆景は続ける。


「杉彦三郎の報告だけではまだ不明な点も多い。
だから、正しく確認したいことがいくつかある」

「……」

「私が門司城から眼下の海も陸も正確に把握し、
そこから対岸のおぬしたちに命令を出す。
おぬしはその指示に従って、就方らと共に、
門司城の城兵と連携して水軍を動かすのだ」

「……しかし、隆景様が乗り込むのはあまりに危険。
この宗勝、共に参ってその身をお守り致します」

「いや、私の指示の本質を遠くから正確に読みつつ
これだけの水軍を操れるのは、おぬししかいない」


浦宗勝は、以前は乃美宗勝(のみむねかつ)という名で、
父が養子に入っていた浦氏の名籍を継いで、
現在の浦宗勝へと改名した。

生家の乃美氏は、隆景が小早川氏に入る前から
小早川水軍を率いていた提督の家系であり、
宗勝も小早川水軍の用兵を誰よりも身に付けており、
毛利水軍の中でも主軸の将であった。

「厳島の戦い」でも毛利に勝利をもたらした
主君小早川隆景との阿吽の呼吸は国内外に知られ、
瀬戸内海で勢力を持っていた村上水軍をも引きこみ、
毛利の海戦力を大きく担っている。


「それならば、私どもがお供致します!」


浦宗勝に代わって大きく名乗り出たのは、
二人の若々しい武者。

冷泉元豊(れいぜいもととよ)、
冷泉元満(もとみつ)の兄弟であった。

彼らは、かつて大内氏の水軍を束ねていた
名将・冷泉隆豊(たかとよ)の子息たちである。

冷泉隆豊は「大寧寺の変」の時、
主君の大内義隆の最期まで傍に付き従い
陶隆房主導の反乱軍を相手に凄絶な討死をした。

その時まだ幼かった彼らは、安芸国の平賀氏に預けられ、
成人してから毛利氏に仕えることになり、
当主の毛利隆元から「元」の一字を名にもらった。

元豊と元満は父と同じく水軍の将として成長し、
小早川隆景の下、毛利水軍に加わっていた。


「よくぞ申した、元豊、元満。
父譲りのそなたらの武勇に、我が命を託そう。
夜明け前に、八百の兵と共に門司城に向かう!」


小早川隆景は、冷泉兄弟の勇気に応え、
諸将たちと今一度連絡の伝え方を確認した後に、
渡海準備に取り掛かった。


そして翌日未明。

小早川隆景は冷泉兄弟と共に、
一千の兵を率いて密やかに和布刈神社へと渡った。

児玉就方は敵の注意を別に引きつけるため、
南岸にて慌ただしく出航の準備のような動きを見せた。

門司を埋め尽くす大友軍はそちらに気を取られたのか、
毛利軍一千の上陸には全く無反応だった。

そのため、小早川隆景らは悠々と明神曲輪にたどり着き、
城内へと兵糧を運び込むことができた。


大友軍が包囲する門司城に、
小早川隆景が密かに入城する。

総大将が敵の包囲網の真っただ中に移ったことなど、
決して敵軍には知られてはならないこと。

しかし、小早川隆景が門司城に入ったことは、
ある理由から、
大内軍に完全に筒抜けていたのである――――。


総大将を誘い出して門司城に閉じ込めることが、
大内軍第一の策略家・田北民部の謀略だったのか。

それとも、それが敵の謀計であることを既に、
毛利軍随一の知恵者・小早川隆景は見抜いていたのか。

いつの世も、策謀は戦場を駆け、
計略は戦地に踊るもの。


両軍の権謀がぶつかり合って、
やがて門司城下は
血の海の死闘の場と化すことになるのだが――――。

(つづく)


 

――――――――――――――――
『門司戦記』武将列伝 [五]
――――――――――――――――

■小早川隆景 (こばやかわ たかかげ)

毛利元就の三男。小早川家の当主となり、毛利隆元・
吉川元春の二人の兄と共に毛利家を支える。毛利水軍を
統率して厳島の戦い、門司城攻略、伊予遠征、木津川口の
戦いなどで軍略を奮う。天下統一を果たした豊臣秀吉の
政権下では五大老の一人として国政にも大きく関与する。
| 『厳島戦記』 | 13:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
門司戦記(四) 東明寺城の巻

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門司戦記 〜雷雲の陣〜
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(四) 東明寺城の巻 
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門司城のある企救半島は
大半が山で占められ、平地が少ない。

そのため、三万を超える大軍勢の大友軍は、
平地という平地をびっしりと埋め尽くし、
天嶮の門司城に精神的な圧力で迫っていた。


この日、大友軍の本陣は、
東明寺城(とうみょうじ城)に置かれていた。

二年前の永禄二年(1559年)に、
小早川隆景率いる毛利軍が門司城を落とした際、
大友軍が門司城奪還のために
やや南方の小高い東明寺山に築いた出城である。

門司城を北に眺めることができる小山であり、
山頂は平たくなっているため、
幕営を並べるにも適した場所であった。

この東明寺城の大友本陣で、
諸将が集まって軍議が開かれていた。


上座に構える総大将は、
大友家第二十一代当主、
大友義鎮(よししげ)である。

齢は三十。

十年前、「二階崩れの変」と呼ばれる政変で
命を落とした父・大友義鑑(よしあき)に代わって、
嫡男として若くして家督を継いだ人物である。

混乱極まる大友の家臣団をまとめ上げながら、
九州の周辺諸国へと影響力を広げ、
室町幕府との関係や南蛮との貿易を強化するなど、
着々と国の力を固めていった。


大友義鎮には、かつて二人の弟がいた。

次男の晴英(はるひで)、
三男の塩市丸(しおいちまる)である。

このうち、長男の義鎮と次男の晴英の母は、
周防国(=山口県東)の戦国大名であった
大内義隆(おおうちよしたか)の妹である。

三男の塩市丸は側室の子であったが、
父・大友義鑑はこの側室と塩市丸を溺愛し、
そのうち、嫡男の義鎮を廃嫡して、
塩市丸に家督を継がせようと考え始めていた。

そして義鑑は、義鎮派の家臣を次々と粛清。

天文十九年(1550年)、
身の危険を感じた義鎮派の家臣数名が、
大友氏居館に夜襲し、
二階で就寝していた大友義鑑と塩市丸を殺害した。

この豊後の政変を、「二階崩れの変」という。


当主とその後継者候補が一度に殺され、
混乱しかけた大友家中は、
義鎮派の家臣たちの尽力で何とかまとまり、
大友義鎮が嫡男として家督を継ぐことになった。

ところが、翌年の天文二十年(1551年)、
大友氏の運命を変える出来事が、国外で起こった。

周防国山口で、守護大名の大内義隆(よしたか)が、
家臣の陶隆房(すえおきふさ)に
大寧寺に追い詰められて、自刃し命を失ったのである。

この周防の政変を、「大寧寺の変」という。

大内義隆は、大友義鎮や晴英の叔父にあたる。

大内氏家臣の陶隆房は、大内義隆の死に伴い、
その甥である大友晴英を大内の当主に迎えたいと、
晴英の兄である義鎮に打診してきた。

晴英は、母の実家の役に立てるならばと、
進んで山口に移り住んで大内氏の当主の座を継ぎ、
大内義長(おおうちよしなが)と改名した。

そして、家臣筆頭の陶隆房は、
大内義長の旧名・大友晴英から一字を賜り、
陶晴賢(すえはるかた)と名を変えた。

古来より、関門海峡を挟んで
度々衝突を起こしていた大友氏と大内氏だが、
この時、兄弟で両家を治めることにより、
両家の軋轢はなくなり、協調路線となった。


ところが、大内氏の中の一勢力であった
安芸国(=広島県西)の毛利元就(もうりもとなり)が
大内義長・陶晴賢の国家経営に対して謀反を起こす。

天文二十四年(1555年)、
毛利元就は「厳島の戦い」で、
大軍勢であった大内本軍を一夜にして壊滅させた。

この戦いで、大内義長の新政権を支えていた
陶晴賢、弘中隆包などの重臣たちが討死。

新生大内氏は一気に弱体化し、
弘治三年(1557年)、当主大内義長は、
毛利氏によって追い詰められて、自害した。

それにより、毛利氏は周防・長門を手中に収め、
関門海峡を挟んで大友義鎮の勢力に接することになった。

こうして、大友義鎮は、
毛利元就と交戦状態になったのである。

大友義鎮にとって、毛利氏は実弟の仇。

門司城を毛利氏から奪還することは、
関門海峡の制海権の確保という意味もあるが、
義鎮の弟の仇討ちという意味合いも大きく、
大友勢は総力を挙げて門司へ進軍してきたのである。



大友氏には優れた武将が多くおり、
それぞれが各方面への戦に明け暮れていたが、
門司城攻めにはそれら諸将が集結していた。

九州一の勢力を作り上げた名将たちが、
軍議にずらりと顔を揃える。


当主大友義鎮の左に座るのは、
大友家臣団の宿老、吉岡長増(よしおかながます)。

大友氏の政務を取り仕切る内政の達人で、
三万もの大軍勢を門司まで遠征させながらも
その兵糧や武具の調達や補給が滞りないのは、
まさにこの吉岡長増の手腕によるものである。


その隣には、
田北民部(たきたみんぶ)が着座する。

調略に長けており、その戦略によって
大友氏に各地での勝利をもたらしてきた人物である。

一時は毛利氏に奪われていた
三角山城(みすみやま城)などの門司各地の支城を、
次々と落としてきたのも彼の諜略によるものだった。


彼ら文官に向かって、大友義鎮の右側には、
智勇を兼ね備えた歴戦の武官たちが居並ぶ。

その中でも、「豊州三老」と呼ばれる三人の将は、
大内義鎮の勢力を九州一へと押し上げた
最大の功労者とも言える名将たちで、
普段は各方面に遠征を重ねる彼らが
こうして戦場で一堂に介するのは珍しい光景だった。


まずは、臼杵鑑速(うすきあきすみ)。

武勇だけではなく、外交術にも長けた武将であり、
周辺諸国との連携や敵への降伏勧告など、
その交渉手腕によって戦況を我が物にしてきた。

南西の肥後国(=熊本県)にまで
大友氏が勢力を広げることができたのは、
臼杵鑑速の軍事能力の賜物であった。


次に、吉弘鑑理(よしひろあきまさ)。

卓越した武力を持つ勇将で、
肥前国(=佐賀県・長崎県)にまでその武勇を見せつけ、
大友氏の影響力を西へと伸ばすのに大きく尽力した。

長男の鎮信(よしのぶ)、二男の鎮理(しげまさ)も
父に劣らぬ豪傑としての素質を持つ若者であり、
吉弘氏の大友家中における発言力は大きかった。


そして、大友義鎮の右手に坐するのは、
大友家随一にして西国無双の猛将と名高い、
戸次鑑連(べっきあきつら)である。

大友義鎮が「二階崩れの変」の後に
無事に大友氏の家督を継ぐことができたのは、
混乱する大本家臣団を彼がまとめ上げたためであり、
まさに大友義鎮の腹心中の腹心と言える。

戸次鑑連は、戦場には常に輿に乗って現れ、
輿ごと敵軍の中へ突入し打ち崩すため、
周辺諸国の諸将からは
「豊後の雷神」「豊州の鬼」と恐れられていた。

さらに戸次軍は、由布惟信、小野弾介などの
優れた武者を多く抱えていたため、
大友氏のあらゆる戦において一番槍、一番乗りを果たし、
九州では比類なき最強の部隊と言われていた。


また、大友氏の武官にはこれら豊州三老の他にも、
伊美弾正(いみだんじょう)、
竹田津則康(たけだつのりやす)、
一万田源介(いちまんだげんすけ)、
宗像重正(むなかたしげまさ)、
大庭作介(おおばさくすけ)など、
名だたる豪傑が居並んで、闘志を剥き出しにしていた。



大軍を門司に遠征させている大内軍は、
何としてでも決着を早めたいと願っていた。

だが、門司城の攻略にもたついている間に、
小早川隆景(こばやかわたかかげ)率いる
毛利水軍本隊が、対岸の赤間関に到着してしまった。

対岸でこちらを伺う敵軍を牽制しながら、
いかに確実に門司城を攻め落とすか。

その策を評定ために、まず口火を切ったのは
宿老の吉岡長増だった。


「南蛮船の砲撃で毛利は委縮するかと思うたが、
その隙を突いて門司城に入った兵もあったそうだ。
戸次殿、いかほどかご存知か」

「我が家臣、由布源兵衛惟信の報告によると、
門司城に入城した毛利兵は約三百。
率いるは赤間関代官、堀立直正だったとのこと。
兵糧や武具を幾ばくか運び入れた模様」


戸次鑑連が把握している情報を
冷静に諸将に提供する。

大友義鎮も諸将も、
その三百の毛利兵の入城に関しては、
それほど気にしていなかった。

問題は、小早川隆景が東から引き連れてきた、
赤間関に並ぶ約一万の毛利水軍である。

水軍は、海を自由に駆る。

つまり、門司を埋め尽くしている大友軍を、
どこからでも急襲できるということでもある。


「毛利は厳島の海戦で、
宮島に密集させた大内軍を奇襲にて打ち破った。
その同じ轍を踏むことだけは、避けねばならぬ」


大友義鎮は軍扇で門司周辺の地図を指しながら、
臣下たちに心情を吐露した。

諸将が思い思いの考えを述べ始める。


「厳島合戦は、嵐の中の奇襲が功を奏しましたが、
この海峡は対岸まで近く、相手は丸見えです。
たとえ嵐でも、相手の動きは見えまする」

「しかし、海峡が狭いということは同時に、
攻めようと思えばいつでも来るということでもある。
海側も迅速に反応する心構えが必要であろう」

「上陸させなければいいだけの話でござる。
陸にさえ上がらなければ、水軍など恐るるに足らぬ」

「いや、船から火矢など射かけられてみよ。
それが燃え広がれば我が方の被害も甚大じゃ。
やっかいな敵であることは間違いない」


大友軍は九州随一とも言える軍事力を持っているが、
それは陸戦で猛烈な力を発揮する軍隊である。

海戦が巧みな相手との対決は初めてのこととあって、
誰もが考えがまとまらないのか、
諸将から次々に出てくる意見はみな異なっていた。

そんな中、一人薄ら笑いをしている田北民部を見て、
大友義鎮は田北民部に問う。


「民部。何かもう策がある顔だな」

「御意にございます」

「頼もしい。申してみよ」

「はっ。先日、堀立直正らが
我が軍の包囲を抜けて門司城に入ったこと、
我らにとっては好機と存じます」

「なんと」


老猾な軍略家である田北民部の発言に、
それまでざわついていた諸将の注目が集まる。

不敵な笑みをこぼしながら、田北民部は続けた。


「あやつらの門司城入城が、次の策の引き金でござる。
うまくいけば、毛利本隊を一網打尽にできます」

「まさか、三角山城の時の……」

「さすがは殿でございます。
常に敵中に火種を備えておくことこそ我らが妙計。
今こそ、その火種の使い時と言えましょう」


何かに気付いた大友義鎮に、
田北民部は冷酷に微笑しながらうなずいた。

既に、田北民部の諜略は進行していたのである。

そして、その諜略の全容が、
田北民部によって諸将らに静かに伝えられる――――。



九州門司を兵で埋め尽くす三万の大友軍と、
本州赤間関に軍船を並べ尽くす一万の毛利軍。

夜になると、両軍の篝火が轟々と燃え盛り、
関門海峡は両岸から明るく照らされ、
まるで炎の参道のごとく闇夜に浮き上がっていた。

この一触即発の海峡において今、
新たな激突の瞬間が始まる――――。 


(つづく)


 

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『門司戦記』武将列伝 [四]
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■大友義鎮 (おおとも よししげ)

豊後国(=大分県南)の守護大名。「二階崩れの変」の
後に若くして家督を継ぎ、その外交力と経済力で室町幕府
から豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後の九州六か国の
守護および九州探題の職を受け、名実共に九州最大の大名
となる。後に大友宗麟と名を変え、キリシタン大名となる。
| 『厳島戦記』 | 15:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
門司戦記(三) 敵陣突破の巻

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門司戦記 〜雷雲の陣〜
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(三) 敵陣突破の巻 
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児玉就方率いる毛利水軍が、三角山城へ向かう。

門司城入城のための陽動作戦である。


砲撃の済んだポルトガル船の撤退により、
門司城の包囲を再開しようとしていた大友軍は、
支城の三角山城へ向かう敵水軍の動きに慌てる。

児玉隊の門司上陸を阻もうと、
大友軍の臼杵鑑速・吉弘鑑理らは
急いで三角山麓の門司ヶ浜へと兵を動かした。

それによって、大友軍の門司城包囲は遅れ、
その隙に堀立直正率いる赤間関の毛利一隊は、
敵の目を盗んで門司城下へ接岸した。


門司城は、独特の地形をしている。

企救半島(きく半島)の最北端にある
標高175mの小山に築かれた山城だが、
陸側は絶壁になっており登るのは至難の業である。

逆に海側のほうがなだらかな尾根になっているため、
門司城本丸に上がるには海側に回り込む必要がある。

そのなだらかな尾根は明神尾(みょうじんお)と呼ばれ、
入城を阻む出丸や曲輪(くるわ)が
何重にも設けられていた。

登山口に設けられている最初の曲輪は、
明神曲輪(みょうじんくるわ)と呼ばれている。

その明神曲輪の先の海岸には、
一千年以上もの昔に創建されたという
和布刈神社(めかりじんじゃ)が鎮座している。

明神尾の名は恐らく、
この由緒ある和布刈神社の背後だからであろう。

堀立直正ら毛利勢百五十は、
この和布刈神社のそばの岩場にひっそりと舟をつけた。


「急げ!」

堀立直正の指示を受けて、赤間関の毛利兵たちは、
舟で運んできた兵糧や武具などを
明神尾へと次々に運び上げていく。

また境内一帯の敵陣には、
大友勢が置いている武具などもあり、
どさくさに紛れてそれらも運び入れた。

ところが思いのほか早く、敵軍の鬨の声が聞こえた。

ポルトガル船の砲撃を避けて
東の田野浦(たのうら)方面に移っていた大友軍の一隊が、
海岸線を伝って和布刈神社へと攻めてきたのである。

三角山城方面に兵を割いたため大友軍の兵数は少なく、
またここは山と海に挟まれた地形のため
大軍が一度に来ることもない。

まだ全ての物資を運び終えていない毛利隊を後ろに見て、
堀立直正は慎重に、応戦すべく刀を抜いた。


「おまえが大将か!」


その大友勢の先頭の武者が甲高い声を上げて、
堀立直正に突っ込んでくる。

見ると十代ぐらいの若者、いや少年に見えた。

堀立直正は、やや拍子抜けした。

豪傑揃いと聞いていた大友軍の先頭が若造なのを見て、
毛利がなめられているとさえ思った。


「堀立壱岐守が相手だ、小僧」

「そうか、おまえが赤間の代官だな。
小野弾介の槍、とくと見ろ!」


小野弾介(おのだんすけ)と名乗った少年は、
長い槍を構えながら突進してきた。

直正はその槍を刀で薙ぎ払おうとした。

ところが、小野弾介の槍先がその刀身を絡め取り、
高い金属音を立てて、刀は手から弾き飛んでしまった。


「馬鹿なっ……!」


一瞬の出来事に、堀立直正の全身に戦慄が走る。

すかさず、小野弾介の槍が襲ってきて、
直正はとっさに後方へと退く。

小野弾介は冷徹な笑みを浮かべながら、
武器を失った堀立直正にとどめの一撃を繰り出した。


だがその槍の刃は直正に届く前に、
もう一本の槍に食い止められていた。

弘中方明だった。

舟の漕ぎ手たちに赤間関へ引く指示を出していて、
参戦に一歩遅れていたのである。

獲物を邪魔され眉を引きつらせる小野弾介に、
弘中方明はにやりと口角で笑いながら問う。


「おまえ、若いのにやるなあ。誰だ」

「大友の一番槍、小野弾介だ。おまえこそ誰だ」

「毛利の将、弘中河内守」

「知らねえな」


二人の槍使いは互いの槍を合わせながら名乗り合う。


「親父さん、行け! ここは俺に任せろ」


小野弾介の槍を払いながら方明は叫ぶ。

堀立直正は我に返り、
毛利兵と共に明神尾へと走り込む。

目の前の敵大将を逃がすことに苛立って、
小野弾介は雄叫びを上げながら
弘中方明に攻撃を浴びせた。

方明はその突きを受け流していく。

関門海峡の波の音を背に、
二つの槍が幾度もかち合う。


二人の槍使いの勝負は互角に見えた。

だが、二十合ほど打ち合った頃。

小野弾介が怒り狂ったように大きく哮けり、
渾身の力でその槍を突き出した時、
弘中方明はそれを交わしながら胸元に入り込んだ。

そして槍から離した片手で弾介の襟をつかみ取り、
弾介が重心を載せた足を蹴り上げると、
弾介の身体は高く宙に舞い、海へと投げ出された。

水しぶきが上がる。

上から覗き込むと、放られた小野弾介は
ずぶ濡れのまま岩にしがみついていた。

弘中方明は見下ろしながら声をかける。


「なかなか強いな、若いの」

「くっ……!」

「冷静になれば、とてつもなく強い槍使いになるよ。
頭は冷えたか」

「この野郎!」


方明の言葉にさらに怒りが沸騰する小野弾介だが、
岩に足を打ちつけられた痛みで、
波にさらわれないように岩を抱くのが精一杯である。


そこに今一人、長槍を携えた大友の武者が
「弾介、弾介!」
と呼びながら、後ろから駆け寄ってきた。


「由布様!」

「ゆふ?」


小野弾介の放った言葉に聞き覚えのあった弘中方明は、
由布と呼ばれたその武者に目をやった。

すると、風を切りながら鋭い槍先が迫ってきた。

間一髪でその攻撃を弾き返した方明は、
槍を強く交えながら
遅れてやって来たその大友の武者とにらみ合った。


「ゆふ……。そうか、
戸次鑑連(べっきあきつら)の一番槍という
由布源兵衛(ゆふげんべえ)だな」

「それがしを知っているのか。そう言うおぬしは」

「弘中河内守方明」

「ほう……、おぬしが岩国の雲将か。
相手にとって不足はないわ」


二人は名乗り合うと、壮絶な一騎討ちを始めた。


由布惟信(ゆふこれのぶ)。

通名は源兵衛。

豊州三老でも最強と名高い戸次鑑連の軍勢において、
常に先鋒を任されるほど信任の厚い勇将で、
数知れない一番槍を果たしてきた槍使いである。

槍を得意とする者は、他国の槍使いが気に掛かるようで、
由布惟信も弘中方明も互いの名を聞き及んでいた。


両者の槍は、激しい火花を散らした。

お互い一歩も譲らず、
二十合、三十合と撃ち合っていく。

その壮絶な斬り合いに、足下の小野弾介をはじめ、
周囲を囲む両軍の兵たちも固唾を飲む。

どちらが相手を呑むか、全く予想できなかった。


ところが、
互角に続く勝負をいきなり中断させたのは、
弘中方明だった。

頃合いを見て、ふっとその槍先を下ろす。

闘志を自ら引いた相手に、
由布惟信は調子を失って尋ねる。


「何だ」

「とりあえず、ここまでにしよう」

「どうした河内守。息が上がったか」

「いや、あいつを助けたほうがいい」


弘中方明は、海の岩場を指し示した。

早鞆の瀬戸の潮が次第に高くなってきて、
小野弾介は必死に岩にしがみ付いていた。

このままでは波にさらわれてしまうかもしれない。


「これから波が高くなるぜ」

「……いいだろう。勝負は引き分けだ」

「ああ。どうせまたすぐに会うさ」


弘中方明は笑うと、
明神尾に上がる毛利兵たちを追って消えた。

由布惟信は大友兵たちと共に、
海に浸かった小野弾介を引き上げて手当をした。


「由布様、すみません。不覚でした」

「気にするな。初陣にしては上出来だ。
別に負けたわけでもない」

「はい」

「陣形を整えよ!」


肩を叩いて若き小野弾介を励ました由布惟信は、
落ち着いて包囲陣を敷き直す指示を将兵たちに出した。

小勢の毛利軍に門司城へと突破されてしまったが、
由布惟信は特に深く気にしてはいなかった。

門司城の攻略は、これからなのだから。



門司ヶ浜に近づきながら上陸せず
船首を本州に戻した児玉就方隊を見送りながら
別の毛利勢が門司城へ入ったことを聞かされ、
大友軍の臼杵鑑速・吉弘鑑理は地団太を踏んだ。

そして、門司城の包囲は
怒りと共に強化されていく。


逆に、門司城は歓喜の声に湧いていた。


南蛮船からの突然の砲撃に晒された
門司城城内の兵たちは、憔悴しきっていた。

見たこともない砲弾と炎柱に威嚇され続け、
兵糧も武具も底を尽きかけていて、
落城寸前だったのである。

門司城を守っていた城主・仁保隆慰(にほたかやす)、
また支城・三角山城を大友勢に陥落されて
門司城に落ち延びていた
三角山城城主・杉彦三郎(すぎひこさぶろう)たちは、
弘中方明や堀立直正の救援に、咽び泣いた。

救援兵や物資の数はわずかではあるが、
毛利水軍の本隊が赤間関に着くまでには
持ちこたえられる可能性が十分に高まった。

やがて到着する毛利水軍本隊と、
どのように連携して大友軍に立ち向かうのかが、
これからの門司城の将たちの課題である。



再び城下を取り囲み始めた大友軍の陣を見下ろし、
弘中方明は一人、つぶやいていた。


「由布源兵衛に、小野弾介か……。
大友の強さ、侮れないな」


実際に手合わせをして、
噂に聞いていた由布惟信の強さを知った。

そして、恐らくこれからまた大きく成長して
その強さを諸国に見せるであろう、
若武者・小野弾介。

そのような層の厚い強者軍団を束ねる、
豊州三老最強の名将・戸次鑑連とは……。

弘中方明はこれまで数多くの戦に参加し、
大内氏、尼子氏、毛利氏などの猛将たちを見てきたが、
大友氏はそれらとは桁違いの強さに違いない。

九州という新たな地に足を伸ばした毛利にとって、
大友軍はこれまで以上の大きな壁となるだろう。

この最強の敵を、
門司から撃退することができるのか。

弘中方明は、天を見上げた。

関門海峡や門司城を包み込む大空を、
無数の雲が流れていく。


堀立直正や弘中方明の敵陣突破から十六日後、
いよいよ毛利水軍の本隊一万が、赤間関に着く。

一万の毛利水軍を率いる総大将は、
毛利元就の三男にして毛利一の知恵者、
小早川隆景(こばやかわたかかげ)。

厳島の戦いで打ち破った大内水軍、
瀬戸内の荒海で勢力を張っていた村上水軍をも吸収し、
西国無双の水軍と化していた毛利水軍が、
門司の対岸に続々とその軍船を並べ始めた。


毛利方の総大将・小早川隆景の着陣によって、
門司城の攻防戦はさらに激しさを増す――――。


(つづく)


 


――――――――――――――――
『門司戦記』武将列伝 [三]
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■由布惟信 (ゆふ これのぶ)

大友家家臣。豊後国由布(=大分県由布市)の由布家の
当主だが、豊州三老筆頭の戸次鑑連に心酔し、戸次氏の
陪臣となって幾度となく一番槍の戦功を先駆けた勇将。
鑑連の死後は鑑連の養子・立花宗茂に付き従い、柳川藩
初代藩主となった宗茂を内政面からも支援した実力者。
| 『厳島戦記』 | 04:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
門司戦記(二) 赤間出撃の巻

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門司戦記 〜雷雲の陣〜
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(二) 赤間出撃の巻 
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大友義鎮の要請を受けたポルトガル船が
関門海峡から門司城へ向けて大砲を撃ち尽くし、
東の周防灘へと退き始めた。

その動きを確認した弘中方明は、
赤間関代官・堀立直正の兵たちと共に、
門司城救出のために小舟に飛び乗った。


ところが、野太い声がその出撃を制した。

「おい、勝手に何をやっている!」


その声の主は、
赤間関に就いたばかりの毛利の将、
児玉就方(こだまなりかた)であった。


児玉就方は、毛利氏の古参の重臣である。

「厳島の戦い」では毛利元就に従って厳島に渡り、
その勝利に大きく貢献しており、
現在は毛利元就の三男・小早川隆景の下で
水軍の指揮を任されている。

兄の児玉就忠(なりただ)は
毛利家の奉行として内政の手腕を振るっているが、
弟の就方は武勇に長け、軍事面で毛利家を支えている。

この兄弟は、能力だけではなく性格も正反対で、
兄の就忠は家中一とも言える温和な人間だが、
弟の就方は軍中一の荒くれ者で、
厳しい怒号が絶えない気難しい性格の将であった。


大友氏が門司城奪還に向けて
大軍を動かしたことを知った小早川隆景は、
第一の援軍として児玉就方と弘中方明を向かわせた。

一足先についた副将の弘中方明が、
大将である自分の到着も待たず
命令も乞わずに出撃をしようとしていることに、
児玉就方は完全に憤っていた。

方明はすぐに弁明した。


「事態が急を要しますゆえ」

「誰の許しがあって、出ようとしている?」

「しかし、機会は今をおいて他にありません」

「勝手な真似をするなと言ってるんだ!」

「手遅れになりますよ」


就方は怒声を浴びせるが、
方明も一向に動じない。

堀立直正はじめ、赤間関の守備兵たちは
就方のあまりの剣幕に硬直している。

最初は冷静に反論していた弘中方明であったが、
児玉就方のある言葉から、態度が一転する。


「おい、方明。
大内の旧臣同士、助け合いたいのは分かる。
だが、毛利の大局をないがしろにするんじゃねえ」

「……何だって」

「旧大内の馴れ合いで、
毛利の戦い方の邪魔をするなと言ってるんだ」

「あ?」


聞き捨てならぬと、
弘中方明は児玉就方に歩み寄った。

就方も負けじと見下ろしながら鋭い眼光を放つ。


「いいか。門司城は厳島の宮尾城に地形が似ている。
厳島合戦の時のように、奇襲戦法を用いて
大友を一気に殲滅するのが、毛利のやり方だ」

「馬鹿なことを……」

「馬鹿だと。ならば方明、おまえの勇み足で
その毛利の奇襲戦法が台無しになったら、
おまえは責任を取れるんだろうな?」


児玉就方は弘中方明の眼前に強く指を差したが、
方明は「ふざけるな!!」と叫んで、
就方の手をバシリと大きく叩きつけた。

眉を吊り上がらせる就方に、
方明は睨み返しながら容赦なく言葉をぶつける。


「厳島の奇襲のようにだって?
あんた、いつまでそんな古いこと言ってんだ」

「何?」

「厳島の戦いなど、もうとっくに過去の遺物だ。
あれほどの奇跡的な奇襲の機会を待っていたら、
門司城はあっという間に大友に落とされるぞ」

「貴様…。厳島の戦を、使えぬ遺物と言うのか」

「厳島では、大内軍を率いていた陶晴賢が
古い戦い方にこだわっていたから隙があった。
今の相手は、南蛮船まで持ち出してくる大友軍だ。
あんたのように古い例にしがみつくことが、
あの時の大内のように隙になるのが分からないのか!」

「何だと!」


二人の睨み合いの火花が、陣に緊張を張り詰める。


「奇襲失敗の責任? そんなの、いくらでも取ってやる。
ならば聞こう、就方殿」

「何だ」

「今ここで門司城を奪われたら
九州の勢力の侵攻を防ぐ一大拠点を失うことになる。
尼子攻めをしている大殿も、背後から窮地に陥るぞ。
あんた、そうなったらその責任は取れるんだろうな?」

「……!」

「いまは城の包囲を解いて下がっている大友勢が、
砲撃の終了と共に、再び城を頑丈に囲むだろう。
門司城を救う機会は、その直前である今しかない」

「……」

「今度の敵は馬鹿じゃない。手練な豊州三老だ。
この機に突破不能な包囲陣を敷くだろう。
毛利を西からの脅威から守れるのは、今だけだ。
全て、あんたの決断にかかってるんだぞ、就方殿!」

「……!」


大殿の名を出した方明の反論に、
児玉就方はひるんだ。

方明が「大殿」と呼んだ毛利元就は現在、
出雲国(=島根県東)の
尼子一族との死闘に専念している。

これまで大内氏と尼子氏の勢力に挟まれ続けた
毛利氏が、ようやく大内氏を滅ぼし、
尼子氏への戦に注力できるようになったのに、
大友氏の脅威が大きくなれば、尼子討伐はまた挫折する。

方明が語った「豊州三老」とは、
豊後の大友家の軍事を支える三人の宿老のことで、

・戸次鑑連(べっきあきつら)
・臼杵鑑速(うすきあきすみ)
・吉弘鑑理(よしひろあきまさ)

の三名を指す。

大友氏を九州一の大国へと押し上げた名将たちだが、
今回の門司城奪還のために、
この豊州三老が全員、豊後から出征をしている。

そんな軍事の天才が揃った敵に対して、
生半可な兵法では絶対に太刀打ちができない。

弘中方明はそう感じていた。


児玉就方は、厳島の戦いの完勝の体験から、
大友軍を一気に殲滅させることを頭に描いていた。

副将の弘中方明が門司上陸を焦っているのは、
かつて同僚だった門司城主・仁保隆慰を救うためという、
旧大内勢の単なる馴れ合いだと捉えていた。

しかし、弘中方明の反論は違った。

門司城の死守こそが、
毛利氏の東への展開のための最重要事項である、
という核心を突いた理屈だった。

この門司城の戦いは、単なる西方への対処ではなく、
毛利氏全体を揺るがす重要な問題なのだ、
ということを児玉就方は思い知らされた。


就方は鋭い眼光を方明にぶつけていたが、
方明の話を理解すると、
フッと肩の力を抜いて、口元を緩めた。


「道理だな……。方明、許せ。
確かに、門司城の堅守が何より大事だ」

「……児玉殿。私もこの無礼、お許し下さい」

「いや、今は毛利だ旧大内だと言っている場合ではない。
やはり水軍の用は、俺よりおまえのほうが上だ。
おまえの考えに従おう」

「ありがとうございます」


安芸国(=広島県西)の山奥から出てきた毛利氏にとって、
今の強力な水軍を築けたのは、弘中氏の力が大きかった。

かつて弘中隆包が安芸国守護代となった時、
弘中隆包は小早川隆景の養子縁組と当主就任を後押しし、
海戦に強い小早川水軍を育て上げた。

その際、小早川隆景に水軍の兵法を教え込んだのが、
大内水軍を仕切る名将・冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)から
兵法を学び岩国水軍を指揮していた、弟の弘中方明だった。

やがて、毛利氏が大内氏から離反して安芸を奪取した際、
児玉就方は海に面した草津城の城主となり、
毛利水軍を統率する立場となり、厳島の海戦に挑んだ。

いまや毛利水軍の主将の一人である児玉就方も、
大内水軍で鍛えた弘中方明に学ぶことは多かった。


「俺もおまえと共に門司城に向かったほうがよいか」

「いえ、就方殿には三角山城を目指して頂きます」


方明は、門司城の南に見える
美しい三角形の小山を指差した。

その形の通り、三角山城(みすみやまじょう)と言い、
門司城を守る重要な支城であったが、
現在は大友軍によって落とされていた。


「ただし、三角山城は攻める素振りだけで結構です。
大友勢の注意を三角山城攻めの毛利水軍に
引きつけている間に、我々が門司城に突入します」

「分かった。いいだろう」

「これが成功すれば、門司城は救われます。
児玉殿はまさに、毛利を救う英雄となりましょう」

「ふん、言うわ」


児玉就方は鼻で笑うように答えながら、
率いてきた毛利水軍へ出撃準備を言い渡す。

つい先ほどまで一発触発だったとは思えぬほど、
児玉就方と弘中方明は、互いの作戦を一瞬で理解し合い、
迅速に行動へと移していく。


それが、今の毛利水軍の強さの源でもあった。

水軍の強さは、組織力である。

個別の武力ではなく、総力戦なのである。

百万一心――――。

皆が心を一つにし、一つの大きな力を作る。

その信条で覇を広げてきた毛利氏にとって、
総力戦が重要な水軍の力は、
全国でも比類なきほどの強さを誇っていた。

大将と副将の連携が何よりも大事であることを、
児玉就方も弘中方明も十分に分かっていたのである。



関門海峡に、銅鑼や太鼓の音がけたたましく鳴り響く。

児玉就方率いる毛利水軍が、
赤間関から対岸の三角山城に向かって出撃する。

砲撃するポルトガル船が去って、
再び門司城の包囲に取りかかろうとしていた大友勢は、
毛利の矛先が三角山城に向いているのを見て、
大いに動揺し、統率が乱れてきた。

そしてその動揺の隙を縫って、
弘中方明と堀立直正は、少数の小舟と共に、
門司城へ直接突入を図る。

大友勢の包囲網が完成する前に
瀕死の門司城に入城できるのか――――。

弘中方明はその大博打に身を投げ打つかのように、
関門海峡へと飛び出した。


(つづく)




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『門司戦記』武将列伝 [二]
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■児玉就方 (こだまなりかた)

毛利家家臣。安芸国草津城城主。勇猛果敢な古参の将で、
厳島の戦いの前後より毛利水軍を率いるようになる。
その後大友軍、土佐一条軍、尼子軍、織田軍など数々の
敵勢力を相手に水軍を率い参戦した。行政執務に優れた
毛利五奉行の一人・児玉就忠(なりただ)は実兄。


| 『厳島戦記』 | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
門司戦記(一) 門司砲撃の巻

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門司戦記 〜雷雲の陣〜
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(一) 門司砲撃の巻 
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強烈な爆発の音が、沿岸の兵たちの鼓膜を突き抜け、
凄絶な炎柱の姿が、その網膜に焼き付けられる。

海峡とその沿岸に映し出された、
見たこともないその惨劇に、
誰もが恐怖のあまり、膝をがくがくと振るわせる。

それもそのはずである。

それは、我が国日本の長い歴史において
いや、世界の歴史においても前例のない、
史上初めての艦砲射撃であった。



永禄四年(1561年)九月二日。

歴史に残るその出来事は、関門海峡で起こった。


長門国(=山口県西)と豊前国(=福岡県東)の
間に流れる、本州と九州とを別ける関門海峡は、
西日本の海運貿易の生命線として
古来よりその覇権争いが絶えない場所である。

その関門海峡に大型のポルトガル船が出現し、
海峡に突き出た山城、門司城(=福岡県北九州市)へ
次々に大砲を撃った。

史上初の艦砲射撃だから、当然誰も見たことがない。

言葉では言い表せない戦慄が、
沿岸の守備兵たちの冷静さを打ちのめしていく。


「あれが……大砲か……!」

轟音を聞いて幕舎から飛び出してきた
堀立直正(ほたてなおまさ)は、
冷静を装いつつも、鳴り止まぬ胸の鼓動に焦る―――。


赤間関(=山口県下関市)代官である堀立直正は、
もともとは安芸国(=広島県東)の商人である。

安芸国の山奥から本州に覇を広げた毛利氏が、
瀬戸内海の通商や国防の強化を必要とするに際し、
弘中氏が婚姻関係のある堀立直正を推挙した。

そして商人時代の経験を活かし、赤間関代官となって
海運の取りまとめや村上水軍との交渉を行なう、
いわば毛利氏の経済顧問も兼ねることとなった。


かつて関門地域は、周防国(=山口県東)を本拠とする
大内氏が長らく勢力を張っていたが、
天文二十四年(1555年)、毛利元就(もうりもとなり)が
「厳島の戦い」にて大内軍の主力部隊を壊滅させ、
弘治三年(1557年)に大内氏を滅亡させてからは、
毛利氏がその勢力の版図を受け継いだ。

だが、それは同時に、
九州豊後国(=大分県南)を拠点に勢力を広げる
大友義鎮(おおともよししげ)との
摩擦の始まりでもあった。




当初、大友義鎮の勢力下にあった門司城は、
大友家臣・怒留湯主水(ぬるゆもんど)が守っていたが、
毛利元就の軍勢が海を越えて攻め落とし、
毛利家臣・仁保隆康(にほたかやす)が城主として入った。

大友氏当主・大友義鎮は、
南蛮国など海外との交易に熱心な守護大名だから、
重要航路である関門海峡を両岸で抑えられるのは
生命線を絶たれるも同然であった。

そこで大友義鎮は、門司城の奪還を目指し、
ちょうど豊後府内(=大分県大分市)に寄港していた
ポルトガル船に依頼し、関門海峡まで船を動かして
門司城を砲撃させたのである。


商人として海外の航海事情にも詳しい堀立直正は、
艦砲の存在については知識として知っていたが、
その眼で直接見るのは初めてのことである。

呆然として対岸の味方の危機を眺めている兵たちを見て、
堀立直正は(責任者の自分が何とかしなくては)と
心に奮気を打ち付け、刀を高く掲げた。


「皆の者、門司城を守るのだ!
あの大船に乗り込み、敵を斬り伏せるぞ!」


目の前の巨大な南蛮帆船にどう対処するのか。

それは堀立直正も明確な答えを持っていなかった。

突然やってきたその海上要塞は何者なのかも
誰もほとんど分かっていないのである。

しかし、門司城の危機を救うためには、
何としてでもあの砲撃を停止させるしかない。

堀立直正の言葉に我に返った毛利兵たちは、
戸惑いながらも次々に刀を取り、兜の緒を締め、
決死の覚悟で出撃準備に取り掛かる―――。


「待て! 早まるな!」


大急ぎで舟に乗り込もうとする決死隊の背後から、
彼らを必死に止める声が近づいてきた。

堀立直正は、
かつて聴き慣れたその声を聞いて振り向いた。


「おまえ………、方明じゃないか!」


その声の主は、直正の娘が嫁いだ武将、
弘中方明(ひろなかかたあき)だった。


弘中方明は、大内家重臣の評定衆の一人で、
安芸国守護代でもあった
弘中隆包(ひろなかたかかね)の弟である。

兄の片腕として大内氏に尽くしていたが、
先の「厳島の戦い」で兄が毛利氏に討たれてからは、
毛利に義父・堀立直正を推挙し、その姿を消していた。

義理の父子の、久々の再会であった。


「方明……、今までどうしていたんだ。
……六年ぶりぐらいか?」

「親父さん、想い出話は後だ。
小早川隆景(こばやかわたかかげ)様からの命で、
児玉就方(こだまなりかた)殿の副将として来た」

「おおっ、隆景様からの応援か」

「ああ。児玉殿も、もうすぐ兵を率いて参られる。
親父さん、今、あの南蛮船に向かっていってはダメだ」

「しかし……、あのままでは門司城が……」

「気をしっかり持て、親父さん!
あの船は必ず、すぐに撤退する」


弘中方明は、義父直正の肩をつかんで
大きく揺らしながら説いた。


「奴らは、早鞆の瀬戸の急流を分かっていない。
奴らが見てきたのどかな大海とはわけが違う」


関門海峡は古来より、
その特殊な地形による凄まじい急流から、
「早鞆の瀬戸(はやとものせと)」と呼ばれてきた。

常に船の難破が絶えないほどの難所でもあり、
平安末期にここで起こった「壇ノ浦の戦い」で、
その急流の変化により平家が大敗を喫し
滅亡した歴史も、その凄まじさを物語っている。

そんな激しく波打つ海上から砲撃の狙いを定めても、
その揺れから、そう簡単に命中するものではない。

実際、ポルトガル船から次々と放たれている砲弾は、
門司城の本丸には命中することなく、
流れ落ちて周囲の斜面を削り取っている。


「それに、あれはそもそも商船だ。
南蛮商人も、利が尽きればすぐに退散するさ」


弘中方明は、冷静に現状を分析していた。

ポルトガル船は貿易船であり、侵略の戦艦ではない。

積んでいる大砲も、戦争用の大砲ではなく、
襲来する海賊などへの脅嚇や防衛の意味合いが大きい。

大友義鎮は交易とキリスト教布教の許可への対価として
門司城への威嚇の協力を打診したはずで、
ある程度の砲撃でその義理が十分果たせたならば、
ポルトガル人も早々に手を引くであろう。

南蛮商人にとって、
異国間の殺し合いへの介入には利がないからだ。


商人の理という視点からの分析を聞かされて、
商人出の堀立直正は、ようやく正気を取り戻してきた。

どれだけの砲弾を搭載しているのか分からず
いつまで砲撃が続くのか予測できないことが不安だったが、
商売人としての引き際の考え方に、
その手がかりがあった。

しかし、そこからが武士としての戦略である。

落ち着いて聞き始めた堀立直正や将兵たちに対して、
弘中方明はさらに語った。


「機会が来るとしたら、
ポルトガル船が諦めたその瞬間だ」

「諦めた瞬間……」

「奴らは間もなく、砲撃をやめて大分に帰るだろう。
門司城の応援に突入するのは、その瞬間だ。
その機を逃さないように、準備したほうがいい」

「お、おう。者ども、
門司城への出撃準備を早急に整え、待機だ!」


堀立直正が、改めて将兵たちに指示を出した。
毛利兵たちは急いで準備を進める。

ポルトガル船が来るまでは、
大友軍の大軍が門司城を取り囲んでいた。

しかし、ポルトガル船の艦砲射撃と連動して、
大友軍は味方からの爆撃を受けないように、
一時的に門司城の包囲網を解いて後方へ退いていた。

門司城に応援部隊が入城する機会があるなら、
ポルトガル船が退き、
大友軍が再び城を取り囲むまでの時間をおいて他にない。


(それまで、今しばらくたえてくれ、
隆慰殿……!)

弘中方明は、心の中で
対岸にいる旧友の無事を願う。

門司城を守る仁保隆慰は、
弘中方明が大内軍にいた頃の同僚だったのである。


急流に船体の揺れるポルトガル船から、
一つ、また一つと、門司城に砲弾が発射され、
周辺の郭や土塁に爆発の炎がほとばしる。

海峡には砲煙が立ち込め、対岸の景色を薄く包む。


「戦は……。
これから戦は、変わる」


いまだかつて見たことがない戦争を見ながら、
弘中方明はつぶやいた。

堀立直正はそれにうなずきながら語る。


「ああ。あんな化け物のような兵器、
早鞆の瀬戸でなければ、一国をも崩しかねん。
今までの戦い方は、通用しなくなるのかもな…」


弘中方明はその時、
兄・弘中隆包の言葉を思い出していた。

弘中隆包は剣や弓に優れた勇将であったが、
「いずれ、刀など要らぬ世が来る」
というのが口癖であった。

日明貿易を独占していた大内氏は、
種子島への伝来よりも早く鉄砲を入手しており、
当主・大内義隆はそれを狩猟の道具と見ていたが、
弘中隆包は兵器としての可能性を見出していた。

「将来の戦争は必ず、
刀や槍では太刀打ちできない戦い方になる」

鉄砲を手にしてそう語っていた弘中隆包は、
天文二十三年(1554年)に、戦友・陶晴賢の救援として
石見三本松城(=島根県津和野町)に現れた際、
自ら鉄砲を手にして敵将を撃ち取っている。

旧式の戦い方を引きずる大内軍に付き従った兄が
命を落とした「厳島の戦い」から六年。

そのわずかな年月の間に、
艦砲射撃という戦法にまで時代が進化をしていることが、
今まさに目の前で実証されている。


「これからの戦い方は、何もかも変わっていく。
過去を捨てきれない者が負ける世なんだ……」


弘中方明は、時代の潮目を感じながら、
自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


そして一時が過ぎ、
ひと通りの砲撃を終えたポルトガル船は、
決定打となる命中の成果を残せないまま、
大分を目指して東の周防灘へと帰り始めた。

読み通りである。

好機到来とばかりに、堀立直正率いる毛利軍は、
刀を手にして続々と舟に乗り込んだ。

そして、応援に駆け付けた弘中方明もまた、
門司城を救うべく愛槍を抱えて舟に飛び乗る――――。



日本史上初の艦砲射撃というこの事件は、
西日本の長き乱世の歴史の中においては、
ほんの一瞬の出来事に過ぎなかった。

しかし、これがやがて、
何万人もの将兵が入り乱れ、
何千人もの死者が出ることになる
血塗られた「門司城の戦い」の嚆矢となる――――。


(つづく)





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『門司戦記』武将列伝 [一]
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■弘中方明 (ひろなかかたあき)

毛利家家臣。元は大内氏の重臣であった弘中隆包を支え
周防岩国(=山口県岩国市)の水軍を指揮していたが、
「厳島の戦い」で兄が討死した後、毛利に従属。門司城の
戦い、木津川口の戦いなどで連戦。毛利を支えた小早川隆景
の水軍用兵の師であり、赤間関代官・堀立直正の娘婿。
| 『厳島戦記』 | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
『門司戦記 〜雷雲の陣〜』がスタートします!

2012年9月まで、「Timestageメールマガジン」にて、
Timestageメンバーの一人・弘中勝による初の歴史小説っぽい歴史物語『厳島戦記』を
2年にわたって実験的連載させて頂いていましたが、
今年2月より、その実質的続編となる歴史物語を
同じく「Timestageメールマガジン」にて新たに実験連載することになりました。

新連載のタイトルは『門司戦記 〜雷雲の陣〜』です。

『厳島戦記』は1555年の「厳島の戦い」に至る15年間の物語でしたが、
『門司戦記』はその約6年後、舞台は九州に移り、
1560年前後に起きた「門司城の戦い」を巡る物語になります。

「門司城の戦い」は安芸の毛利元就と豊後の大友宗麟の勢力が激突した戦争。
続編なので当然、『厳島戦記』に登場した武将たちも多数出てきますが、
新たな敵として九州の猛者たちも次々と登場します。

よろしければ、また最後までお付き合い頂けますと幸いです。

「Timestageメールマガジン」は無料で登録することができます。


舞台となる、福岡県北九州市の門司城址。
筆者である弘中勝の生まれ故郷でもあります。
門司城址の様子は弘中勝の「発想源ブログ」をご覧下さい。
| Timestageからの諸連絡 | 22:41 | comments(0) | trackbacks(0) |