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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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門司戦記(五) 隆景着到の巻

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門司戦記 〜雷雲の陣〜
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(五) 隆景着到の巻 
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永禄四年(1561年)九月十八日。

赤間関(=山口県下関市)に、
毛利水軍の軍船が東から続々と着陣してきた。

関門海峡の西岸に次々と並ぶ毛利の船体。

ポルトガル船が門司城に艦砲射撃を行ない、
弘中方明らが門司城に突入した日から、
十六日後のことである。

その数、一万余。


既に一足先に赤間関に先鋒隊として到着していた
児玉就方(こだまなりかた)は、
将船から降り立つ水軍総大将を出迎えた。

その総大将は、
小早川隆景(こばやかわたかかげ)。

毛利元就の三男である。

小早川家に養子に入ってその当主となり、
瀬戸内海きっての強さを誇る小早川水軍を
統括する立場となったことから、
いまや毛利水軍全体を束ねる総大将となっていた。

この時、
小早川隆景はまだ二十八歳。

若いながらも水軍の用兵術は西国一と言われ、
毛利家中きっての知恵者とも評されていた。


その後方には、小早川隆景の連れてきた
毛利水軍の諸将たちが姿を並べる。

小早川隆景のすぐ後ろに控えるのは、
毛利水軍の中でも主力の小早川水軍を統率する
海戦の達人、浦宗勝(うらむねかつ)。

そして、さらにその後ろには
桂元親(かつらもとちか)、
赤川元吉(あかがわもとよし)など、
各水軍を指揮する諸将が居並んでいる。


「お待ちしておりました、隆景様」

「やあ、就方。遅れてすまないね。
本当は一昨日には着きたかったんだけど、
途中でちょっとした交戦があってね」


小早川隆景は、相変わらずの明朗な笑顔で、
児玉就方に遅刻の理由を述べた。

毛利氏は現在、長年の敵対勢力であった
出雲国(=島根県東)の尼子晴久(あまこはるひさ)を
攻め滅ぼすことに全力を注いでいる。

ところが、豊後国の大友氏が
門司城奪還のために大軍で北上している報を聞き、
毛利氏を束ねる大御所・毛利元就(もとなり)は、
長男で元当主の毛利隆元(たかもと)、
そして三男の小早川隆景に水軍一万八千を預け、
門司城救援に向かわせた。

その時、尼子氏と大友氏の挟撃の混乱を見て、
長門国(=山口県西)に潜伏していた
旧大内氏の残党たちが密かに決起の準備を始めた。

ちょうど長門に向かっていた隆元と隆景は、
長門沿岸にくすぶっていた大内残党たちを討滅。

その鎮圧に二日を有し、赤間関への進軍が遅れた。

毛利隆元は長門国内の混乱収拾のために
防府(=山口県防府市)に八千の兵と共に残り、
小早川隆景が一万の主力を引き連れて
赤間関まで西進してきたのである。


「ところで就方、戦況はどうかな」

「はっ。堀立壱岐守と弘中河内守が
三百の赤間守備隊を率いて門司城内に突入。
兵糧と武具を補充できたため城内の士気は上がり、
いまだ大友軍を寄せ付けておりません」

「そうか。でも、そんなに長くは持たないよね」

「はい。門司城にいる杉彦三郎からも、
つい先ほど援軍要請の連絡がありました。
しかし、赤間守備隊が門司城へと出た今は
我らが赤間関を守るしかなく、
隆景様の到着を待つほうがよいと」

「そうだね。さすがは就方、賢明な判断だと思う。
じゃあすぐに、軍議にかかろう」


児玉就方から簡単に現況を聞いた小早川隆景は、
すぐに幕舎に移って諸将たちと策を練った。



城主として守っていた三角山城を大友氏に落とされ
門司城に退いた杉彦三郎からの報告によると、
門司城を包囲する大友軍は三万余。

小早川隆景率いる一万の毛利水軍の到来により、
大友軍はその奇襲を警戒し、
平地が広く兵を多く置ける田野浦や
門司ヶ浜などの地の守備を強化し始めたとのこと。

そのため、門司城に入城する最短の出入り口であり
堀立直正や弘中方明らもその突破口とした
明神曲輪(みょうじんくるわ)の先は、
大友軍の守備が比較的手薄になっているという。


「どうぞ門司城に入ってくれと言わんばかりだな」


矢盾で組んだ軍机の上に広げられた海峡の地図を
諸将が覗き込む中、
総大将の小早川隆景は深く潜考した。

これが大友軍の策略だと怪しむ声も将から出たが、
明神曲輪の先は海と山に囲まれた細い地であり、
大軍が一度に素早く動けるはずもない。

和布刈神社付近に上陸した直後に
大軍で挟撃するといった奇襲作戦などは
ここでは実行できないことも、敵は分かっているはずだ。

つい先日、突破作戦が成功した場所だけが、
敵の包囲網にぽっかりと孔を開けている。

大友氏が何を狙っているのか、読めない。

本当に、毛利水軍の大友陣への奇襲を警戒して
広い平地に兵を固めているだけなのかもしれない。

そんな思案を諸将が重ねる中、
小早川隆景はいきなり、一見関係のなさそうな質問を
児玉就方にぶつけた。


「そう言えば、就方。
方明さんと何か揉め事はなかったか?」


児玉就方は予想外の問いに面食らう。


小早川隆景が、本来は家臣であるはずの弘中方明を
「方明さん」と親しげに呼ぶのには理由がある。

かつて毛利氏が大内氏に従属していた時、
安芸国の守護代は弘中隆包(たかかね)であり、
隆景が小早川家の当主の座を継ぐ際、
隆包の代官としてそれを取り仕切ったのは、
隆包の弟である弘中方明であった。

もともと岩国水軍を指揮していた弘中方明は、
小早川水軍を率いることになった隆景の補佐として
大内氏の備後神辺城(=広島県福山市)攻略の際の
隆景の初陣にも同行し、その成功を支えた。

隆景の傍らで水軍用兵の基礎を伝授した方明は、
隆景にとっては兄のような存在だった。

その弘中方明が、兄が討死した厳島の戦いの後に
仏門に入り、最近になって毛利氏に加わったため、
隆景にはまだ方明は家臣のようには思えず、
どこか旧友のような親しみやすさが抜けなかった。

隆景は、毛利氏に武家として復帰した弘中方明の
初めての仕事として、児玉就方の副将に任じ、
門司救援のために赤間関へと向かわせたのである。


「……と申しますと?」

「方明さんが門司城へと渡る時に、
その作戦はすんなりと決まったの?」

「……いや、実はお恥ずかしい話ですが……」


児玉就方は言いにくそうに、
その時のことを正直に小早川隆景に申告した。

弘中方明の考えを、毛利譜代としての目から見て
旧大内の家臣たちの馴れ合いだと罵ったことである。

児玉就方と弘中方明は一触即発になりながらも、
毛利の問題を理解して、戦略を分かち合った。

小早川隆景は児玉就方の話を聞いて、
怒るわけでもなく、呆れるわけでもなく、
「そうか…」とつぶやき、
目を瞑りながらただ納得したようにうなずく。

諸将たちは隆景の質問の意図がまったく理解できず、
互いに顔を見合わせていた。

隆景はしばらく思い悩むと、
パッと目を見開いて、諸将に告げた。


「いずれにせよ、門司城には補給が必要だ。
明朝、闇に紛れて、八百の兵を門司城に入れる。
そして、できる限りの兵糧と矢を運び入れるのだ」

「承知つかまつりました。
誰がその任に当たりましょう」


児玉就方が小早川隆景に問う。

毛利の諸将は誰もが
その対岸への決死隊を率いる覚悟はできており、
自分に下知をと待ち構えていたが、
隆景の返答は意外なものだった。


「私が行こう」

「なりませぬ!」


隆景の発言に間髪を入れず反対の声を挙げたのは
小早川隆景の懐刀、浦宗勝である。

普段は寡黙な宗勝も、
好奇心あふれる隆景の突発的な衝動の時には
声を荒げて制止する。


「あなた様は、この毛利水軍一万の総大将ですぞ。
総大将が水軍を残して対岸に渡って、なんと致します。
将船にて全軍の指揮に集中なさいませ」

「いや、この戦いは対岸からではなく、
城から包囲網の様子を直接正確につかむかどうかで
命運が決まる。私が門司城に入れば、
確実に大内の動きを読んで策を作ることができる」

「ご冗談を申されますな。
総大将が物見のような真似をなさって、
この大勢の水軍を一体誰が束ねるというのですか」

「おぬしだ、宗勝」

「!?」


即座に答えが返ってくる時の小早川隆景は、
既に戦略が固まりかけている証拠である。

好奇心から来る冗談を口にしているのではなく、
何か深い理由があってのことだと、浦宗勝は直感した。

隆景は続ける。


「杉彦三郎の報告だけではまだ不明な点も多い。
だから、正しく確認したいことがいくつかある」

「……」

「私が門司城から眼下の海も陸も正確に把握し、
そこから対岸のおぬしたちに命令を出す。
おぬしはその指示に従って、就方らと共に、
門司城の城兵と連携して水軍を動かすのだ」

「……しかし、隆景様が乗り込むのはあまりに危険。
この宗勝、共に参ってその身をお守り致します」

「いや、私の指示の本質を遠くから正確に読みつつ
これだけの水軍を操れるのは、おぬししかいない」


浦宗勝は、以前は乃美宗勝(のみむねかつ)という名で、
父が養子に入っていた浦氏の名籍を継いで、
現在の浦宗勝へと改名した。

生家の乃美氏は、隆景が小早川氏に入る前から
小早川水軍を率いていた提督の家系であり、
宗勝も小早川水軍の用兵を誰よりも身に付けており、
毛利水軍の中でも主軸の将であった。

「厳島の戦い」でも毛利に勝利をもたらした
主君小早川隆景との阿吽の呼吸は国内外に知られ、
瀬戸内海で勢力を持っていた村上水軍をも引きこみ、
毛利の海戦力を大きく担っている。


「それならば、私どもがお供致します!」


浦宗勝に代わって大きく名乗り出たのは、
二人の若々しい武者。

冷泉元豊(れいぜいもととよ)、
冷泉元満(もとみつ)の兄弟であった。

彼らは、かつて大内氏の水軍を束ねていた
名将・冷泉隆豊(たかとよ)の子息たちである。

冷泉隆豊は「大寧寺の変」の時、
主君の大内義隆の最期まで傍に付き従い
陶隆房主導の反乱軍を相手に凄絶な討死をした。

その時まだ幼かった彼らは、安芸国の平賀氏に預けられ、
成人してから毛利氏に仕えることになり、
当主の毛利隆元から「元」の一字を名にもらった。

元豊と元満は父と同じく水軍の将として成長し、
小早川隆景の下、毛利水軍に加わっていた。


「よくぞ申した、元豊、元満。
父譲りのそなたらの武勇に、我が命を託そう。
夜明け前に、八百の兵と共に門司城に向かう!」


小早川隆景は、冷泉兄弟の勇気に応え、
諸将たちと今一度連絡の伝え方を確認した後に、
渡海準備に取り掛かった。


そして翌日未明。

小早川隆景は冷泉兄弟と共に、
一千の兵を率いて密やかに和布刈神社へと渡った。

児玉就方は敵の注意を別に引きつけるため、
南岸にて慌ただしく出航の準備のような動きを見せた。

門司を埋め尽くす大友軍はそちらに気を取られたのか、
毛利軍一千の上陸には全く無反応だった。

そのため、小早川隆景らは悠々と明神曲輪にたどり着き、
城内へと兵糧を運び込むことができた。


大友軍が包囲する門司城に、
小早川隆景が密かに入城する。

総大将が敵の包囲網の真っただ中に移ったことなど、
決して敵軍には知られてはならないこと。

しかし、小早川隆景が門司城に入ったことは、
ある理由から、
大内軍に完全に筒抜けていたのである――――。


総大将を誘い出して門司城に閉じ込めることが、
大内軍第一の策略家・田北民部の謀略だったのか。

それとも、それが敵の謀計であることを既に、
毛利軍随一の知恵者・小早川隆景は見抜いていたのか。

いつの世も、策謀は戦場を駆け、
計略は戦地に踊るもの。


両軍の権謀がぶつかり合って、
やがて門司城下は
血の海の死闘の場と化すことになるのだが――――。

(つづく)


 

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『門司戦記』武将列伝 [五]
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■小早川隆景 (こばやかわ たかかげ)

毛利元就の三男。小早川家の当主となり、毛利隆元・
吉川元春の二人の兄と共に毛利家を支える。毛利水軍を
統率して厳島の戦い、門司城攻略、伊予遠征、木津川口の
戦いなどで軍略を奮う。天下統一を果たした豊臣秀吉の
政権下では五大老の一人として国政にも大きく関与する。
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