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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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門司戦記(四) 東明寺城の巻

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門司戦記 〜雷雲の陣〜
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(四) 東明寺城の巻 
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門司城のある企救半島は
大半が山で占められ、平地が少ない。

そのため、三万を超える大軍勢の大友軍は、
平地という平地をびっしりと埋め尽くし、
天嶮の門司城に精神的な圧力で迫っていた。


この日、大友軍の本陣は、
東明寺城(とうみょうじ城)に置かれていた。

二年前の永禄二年(1559年)に、
小早川隆景率いる毛利軍が門司城を落とした際、
大友軍が門司城奪還のために
やや南方の小高い東明寺山に築いた出城である。

門司城を北に眺めることができる小山であり、
山頂は平たくなっているため、
幕営を並べるにも適した場所であった。

この東明寺城の大友本陣で、
諸将が集まって軍議が開かれていた。


上座に構える総大将は、
大友家第二十一代当主、
大友義鎮(よししげ)である。

齢は三十。

十年前、「二階崩れの変」と呼ばれる政変で
命を落とした父・大友義鑑(よしあき)に代わって、
嫡男として若くして家督を継いだ人物である。

混乱極まる大友の家臣団をまとめ上げながら、
九州の周辺諸国へと影響力を広げ、
室町幕府との関係や南蛮との貿易を強化するなど、
着々と国の力を固めていった。


大友義鎮には、かつて二人の弟がいた。

次男の晴英(はるひで)、
三男の塩市丸(しおいちまる)である。

このうち、長男の義鎮と次男の晴英の母は、
周防国(=山口県東)の戦国大名であった
大内義隆(おおうちよしたか)の妹である。

三男の塩市丸は側室の子であったが、
父・大友義鑑はこの側室と塩市丸を溺愛し、
そのうち、嫡男の義鎮を廃嫡して、
塩市丸に家督を継がせようと考え始めていた。

そして義鑑は、義鎮派の家臣を次々と粛清。

天文十九年(1550年)、
身の危険を感じた義鎮派の家臣数名が、
大友氏居館に夜襲し、
二階で就寝していた大友義鑑と塩市丸を殺害した。

この豊後の政変を、「二階崩れの変」という。


当主とその後継者候補が一度に殺され、
混乱しかけた大友家中は、
義鎮派の家臣たちの尽力で何とかまとまり、
大友義鎮が嫡男として家督を継ぐことになった。

ところが、翌年の天文二十年(1551年)、
大友氏の運命を変える出来事が、国外で起こった。

周防国山口で、守護大名の大内義隆(よしたか)が、
家臣の陶隆房(すえおきふさ)に
大寧寺に追い詰められて、自刃し命を失ったのである。

この周防の政変を、「大寧寺の変」という。

大内義隆は、大友義鎮や晴英の叔父にあたる。

大内氏家臣の陶隆房は、大内義隆の死に伴い、
その甥である大友晴英を大内の当主に迎えたいと、
晴英の兄である義鎮に打診してきた。

晴英は、母の実家の役に立てるならばと、
進んで山口に移り住んで大内氏の当主の座を継ぎ、
大内義長(おおうちよしなが)と改名した。

そして、家臣筆頭の陶隆房は、
大内義長の旧名・大友晴英から一字を賜り、
陶晴賢(すえはるかた)と名を変えた。

古来より、関門海峡を挟んで
度々衝突を起こしていた大友氏と大内氏だが、
この時、兄弟で両家を治めることにより、
両家の軋轢はなくなり、協調路線となった。


ところが、大内氏の中の一勢力であった
安芸国(=広島県西)の毛利元就(もうりもとなり)が
大内義長・陶晴賢の国家経営に対して謀反を起こす。

天文二十四年(1555年)、
毛利元就は「厳島の戦い」で、
大軍勢であった大内本軍を一夜にして壊滅させた。

この戦いで、大内義長の新政権を支えていた
陶晴賢、弘中隆包などの重臣たちが討死。

新生大内氏は一気に弱体化し、
弘治三年(1557年)、当主大内義長は、
毛利氏によって追い詰められて、自害した。

それにより、毛利氏は周防・長門を手中に収め、
関門海峡を挟んで大友義鎮の勢力に接することになった。

こうして、大友義鎮は、
毛利元就と交戦状態になったのである。

大友義鎮にとって、毛利氏は実弟の仇。

門司城を毛利氏から奪還することは、
関門海峡の制海権の確保という意味もあるが、
義鎮の弟の仇討ちという意味合いも大きく、
大友勢は総力を挙げて門司へ進軍してきたのである。



大友氏には優れた武将が多くおり、
それぞれが各方面への戦に明け暮れていたが、
門司城攻めにはそれら諸将が集結していた。

九州一の勢力を作り上げた名将たちが、
軍議にずらりと顔を揃える。


当主大友義鎮の左に座るのは、
大友家臣団の宿老、吉岡長増(よしおかながます)。

大友氏の政務を取り仕切る内政の達人で、
三万もの大軍勢を門司まで遠征させながらも
その兵糧や武具の調達や補給が滞りないのは、
まさにこの吉岡長増の手腕によるものである。


その隣には、
田北民部(たきたみんぶ)が着座する。

調略に長けており、その戦略によって
大友氏に各地での勝利をもたらしてきた人物である。

一時は毛利氏に奪われていた
三角山城(みすみやま城)などの門司各地の支城を、
次々と落としてきたのも彼の諜略によるものだった。


彼ら文官に向かって、大友義鎮の右側には、
智勇を兼ね備えた歴戦の武官たちが居並ぶ。

その中でも、「豊州三老」と呼ばれる三人の将は、
大内義鎮の勢力を九州一へと押し上げた
最大の功労者とも言える名将たちで、
普段は各方面に遠征を重ねる彼らが
こうして戦場で一堂に介するのは珍しい光景だった。


まずは、臼杵鑑速(うすきあきすみ)。

武勇だけではなく、外交術にも長けた武将であり、
周辺諸国との連携や敵への降伏勧告など、
その交渉手腕によって戦況を我が物にしてきた。

南西の肥後国(=熊本県)にまで
大友氏が勢力を広げることができたのは、
臼杵鑑速の軍事能力の賜物であった。


次に、吉弘鑑理(よしひろあきまさ)。

卓越した武力を持つ勇将で、
肥前国(=佐賀県・長崎県)にまでその武勇を見せつけ、
大友氏の影響力を西へと伸ばすのに大きく尽力した。

長男の鎮信(よしのぶ)、二男の鎮理(しげまさ)も
父に劣らぬ豪傑としての素質を持つ若者であり、
吉弘氏の大友家中における発言力は大きかった。


そして、大友義鎮の右手に坐するのは、
大友家随一にして西国無双の猛将と名高い、
戸次鑑連(べっきあきつら)である。

大友義鎮が「二階崩れの変」の後に
無事に大友氏の家督を継ぐことができたのは、
混乱する大本家臣団を彼がまとめ上げたためであり、
まさに大友義鎮の腹心中の腹心と言える。

戸次鑑連は、戦場には常に輿に乗って現れ、
輿ごと敵軍の中へ突入し打ち崩すため、
周辺諸国の諸将からは
「豊後の雷神」「豊州の鬼」と恐れられていた。

さらに戸次軍は、由布惟信、小野弾介などの
優れた武者を多く抱えていたため、
大友氏のあらゆる戦において一番槍、一番乗りを果たし、
九州では比類なき最強の部隊と言われていた。


また、大友氏の武官にはこれら豊州三老の他にも、
伊美弾正(いみだんじょう)、
竹田津則康(たけだつのりやす)、
一万田源介(いちまんだげんすけ)、
宗像重正(むなかたしげまさ)、
大庭作介(おおばさくすけ)など、
名だたる豪傑が居並んで、闘志を剥き出しにしていた。



大軍を門司に遠征させている大内軍は、
何としてでも決着を早めたいと願っていた。

だが、門司城の攻略にもたついている間に、
小早川隆景(こばやかわたかかげ)率いる
毛利水軍本隊が、対岸の赤間関に到着してしまった。

対岸でこちらを伺う敵軍を牽制しながら、
いかに確実に門司城を攻め落とすか。

その策を評定ために、まず口火を切ったのは
宿老の吉岡長増だった。


「南蛮船の砲撃で毛利は委縮するかと思うたが、
その隙を突いて門司城に入った兵もあったそうだ。
戸次殿、いかほどかご存知か」

「我が家臣、由布源兵衛惟信の報告によると、
門司城に入城した毛利兵は約三百。
率いるは赤間関代官、堀立直正だったとのこと。
兵糧や武具を幾ばくか運び入れた模様」


戸次鑑連が把握している情報を
冷静に諸将に提供する。

大友義鎮も諸将も、
その三百の毛利兵の入城に関しては、
それほど気にしていなかった。

問題は、小早川隆景が東から引き連れてきた、
赤間関に並ぶ約一万の毛利水軍である。

水軍は、海を自由に駆る。

つまり、門司を埋め尽くしている大友軍を、
どこからでも急襲できるということでもある。


「毛利は厳島の海戦で、
宮島に密集させた大内軍を奇襲にて打ち破った。
その同じ轍を踏むことだけは、避けねばならぬ」


大友義鎮は軍扇で門司周辺の地図を指しながら、
臣下たちに心情を吐露した。

諸将が思い思いの考えを述べ始める。


「厳島合戦は、嵐の中の奇襲が功を奏しましたが、
この海峡は対岸まで近く、相手は丸見えです。
たとえ嵐でも、相手の動きは見えまする」

「しかし、海峡が狭いということは同時に、
攻めようと思えばいつでも来るということでもある。
海側も迅速に反応する心構えが必要であろう」

「上陸させなければいいだけの話でござる。
陸にさえ上がらなければ、水軍など恐るるに足らぬ」

「いや、船から火矢など射かけられてみよ。
それが燃え広がれば我が方の被害も甚大じゃ。
やっかいな敵であることは間違いない」


大友軍は九州随一とも言える軍事力を持っているが、
それは陸戦で猛烈な力を発揮する軍隊である。

海戦が巧みな相手との対決は初めてのこととあって、
誰もが考えがまとまらないのか、
諸将から次々に出てくる意見はみな異なっていた。

そんな中、一人薄ら笑いをしている田北民部を見て、
大友義鎮は田北民部に問う。


「民部。何かもう策がある顔だな」

「御意にございます」

「頼もしい。申してみよ」

「はっ。先日、堀立直正らが
我が軍の包囲を抜けて門司城に入ったこと、
我らにとっては好機と存じます」

「なんと」


老猾な軍略家である田北民部の発言に、
それまでざわついていた諸将の注目が集まる。

不敵な笑みをこぼしながら、田北民部は続けた。


「あやつらの門司城入城が、次の策の引き金でござる。
うまくいけば、毛利本隊を一網打尽にできます」

「まさか、三角山城の時の……」

「さすがは殿でございます。
常に敵中に火種を備えておくことこそ我らが妙計。
今こそ、その火種の使い時と言えましょう」


何かに気付いた大友義鎮に、
田北民部は冷酷に微笑しながらうなずいた。

既に、田北民部の諜略は進行していたのである。

そして、その諜略の全容が、
田北民部によって諸将らに静かに伝えられる――――。



九州門司を兵で埋め尽くす三万の大友軍と、
本州赤間関に軍船を並べ尽くす一万の毛利軍。

夜になると、両軍の篝火が轟々と燃え盛り、
関門海峡は両岸から明るく照らされ、
まるで炎の参道のごとく闇夜に浮き上がっていた。

この一触即発の海峡において今、
新たな激突の瞬間が始まる――――。 


(つづく)


 

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『門司戦記』武将列伝 [四]
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■大友義鎮 (おおとも よししげ)

豊後国(=大分県南)の守護大名。「二階崩れの変」の
後に若くして家督を継ぎ、その外交力と経済力で室町幕府
から豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後の九州六か国の
守護および九州探題の職を受け、名実共に九州最大の大名
となる。後に大友宗麟と名を変え、キリシタン大名となる。
| 『厳島戦記』 | 15:38 | comments(0) | trackbacks(0) |









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