Calendar
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>
CATEGORIES
ARCHIVES
LINKS
PROFILE
SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
OTHERS
Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
<< 厳島戦記(四十五) 飛龍乗雲の巻 | main | 『門司戦記 〜雷雲の陣〜』がスタートします! >>
厳島戦記(四十六) 百万一心の巻


―――――――――――――――――――――――――――――――――
 厳島戦記(四十六) 百万一心の巻
―――――――――――――――――――――――――――――――――
                        終章「厳島海戦後」


 天文二十四年(1555)十月に
 「厳島の戦い」で大内本軍を破った毛利元就は、
 そのまま大内氏の本領である周防国(=山口県東部)、
 長門国(=山口県西部)へと攻め進んだ。

 陶晴賢・弘中隆包の両翼を失った大内軍にはその勢威なく、
 周防の堅城もことごとく毛利軍の武力と調略で落とされ、
 大内家臣同士でも内紛が起こる始末だった。

 京の都を模して作られた山口の街は防衛する城塞がないため、
 毛利軍が山口に接近すると、当主・大内義長は、
 長門国守護代の内藤隆世の居城・且山城へと逃げた。

 毛利軍の謀略によって、内藤隆世も開城して自害。

 追い詰められた大内義長は、
 功山寺長福院(=山口県下関市)にて自刃した。

 弘治三年(1557)四月三日のことである。


 西国の盟主として一時は日本最大の勢力を誇った
 防長の名門・大内氏は、はかなく滅亡したのであった。

 「厳島の戦い」からたった二年の間に、
 毛利元就は主家の大内氏を滅ぼし、
 防長二国をも手中に収めることになったのである

 安芸の龍・毛利元就は、
 こうして天下という大空に躍り出る一雄となった――――。



 最後に、その後の毛利と、
 弘中隆包の縁者の行方について、書き連ねていこう。



 大内氏を破った毛利元就はその後、
 出雲国(=島根県東部)の尼子氏と覇を争う。

 その遠征の途中、永禄六年(1569)、
 元就の嫡男・毛利隆元が急死した。
 元就よりも早い、四十一歳の死であった。

 長男の死に悲しんだ元就は、尼子氏への謀略を強化。
 最盛期の大内氏でも落とせなかった月山富田城を攻め落とし、
 尼子氏を滅ぼして西国の覇者へと駆け昇る。

 次に、九州豊後国(=大分県南部)の大友義鎮、
 後の大友宗麟との北九州の覇権を賭けた激闘となるが、
 元亀二年(1571年)六月、
 安芸の龍・毛利元就は七五年の長き人生を終えた。

 早逝した毛利隆元の嫡男・毛利輝元が、
 その後の毛利家当主となる。


 毛利軍の躍進には、弘中方明が元就に推挙した義父、
 安芸の武家商人・堀立直正の経済力の援護も大きかった。

 堀立直正は赤間関(=山口県下関市)の代官に任命され、
 関門海峡の通商管理と瀬戸内の海運を一手に担い、
 その後も毛利家の奉行として尽力した。

 経済顧問として、資金面から毛利氏を大きく支えたのである。


 弘中方明の名は、毛利が大友と対立を始めた後に現れる。

 元就との約束通り、毛利が大内を滅ぼして後、
 琥珀院から還俗して毛利水軍に加わったと思われる。


 その後、尾張国(=愛知県)の織田信長が西へと勢力を広げ、
 毛利氏は織田氏と勢力範囲を接することとなる。

 毛利輝元は、叔父の吉川元春、小早川隆景に支えられ、
 「百万一心」の信条の下、強固な団結力を作り上げる。

 天正四年(1576)の「木津川口の戦い」では、
 毛利水軍と織田水軍が大阪湾で激突するが、
 小早川水軍、乃美水軍、村上水軍らを擁する毛利水軍の中に、
 弘中就慰(なりやす)の率いる弘中水軍の名がある。

 この弘中就慰という将こそ、
 毛利元就の名の一字の拝領が許された、弘中方明である。

 大友氏や織田氏との戦いの中で、
 弘中方明は毛利水軍の一翼としてその力を振るった。


 織田信長の死後、その家臣・豊臣秀吉が全国を統一する。

 毛利輝元は豊臣秀吉から大きく信頼を受け、
 周防や安芸をはじめ、百二十万石もの大きな所領を安堵される。

 弘中隆包の守護代時代より港湾化が始まった太田川河口に
 広島城を築城した毛利輝元は、吉田郡山城より移り住み、
 これより安芸の拠点は吉田郡山から広島へと移る。


 毛利元就の次男・吉川元春は、天正十四年(1586)、
 豊臣秀吉の九州征伐に同行する途上、
 豊前国小倉城(=福岡県北九州市)にて死去。
 享年五十七歳。

 若くして厳島にて名将弘中隆包を龍ヶ馬場に追い詰め、
 その後も連戦無敗の剛勇を世に知らしめた勇将は、
 長男の元長、次男の広家らに、
 敵将・弘中隆包より教わった教訓を強く伝えたという。


 毛利元就の三男・小早川隆景は、豊臣秀吉から大きく信任を受け、
 徳川家康や前田利家らに並ぶ豊臣政権の五大老に、
 陪臣の身にも関わらず、主君の毛利輝元と共に列した。

 秀吉の隆景に対する信頼は強大で、親族である羽柴秀俊を、
 小早川氏の養子として送り出したほどである。
 これが関ヶ原の戦いで注目される、小早川秀秋である。

 小早川隆景は慶長二年(1597年)に死去。享年六十五歳。


 また毛利元就の九男で、元春や隆景の末弟にあたる才菊丸は、
 豊臣秀吉から「秀」の一文字を賜ると同時に、
 元春や隆景が心服していた亡き弘中隆包の名を借りて
 毛利秀包(ひでかね)と改名し、秀吉から重用された。


 このように、毛利家は日本の政治に大きく関与していった。


 
 慶長五年(1600年)、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が起こる。

 毛利輝元は、石田三成らによって
 徳川家康に対抗する西軍の総大将に祭り上げられる。


 この頃、吉川元春の次男・吉川広家が吉川氏当主を継いで
 毛利輝元の補佐にあたっていたが、
 吉川広家は当初から、毛利家が存続するためには
 徳川家康に帰順すべきであると主張していた。

 吉川広家は、父・吉川元春から、

 「吉川家は、毛利家嫡流の存続と発展に強く尽力し、
  目先の現に惑わされず、本質を見抜くべし」

 と、幼少期より強く教えられていた。

 これは、吉川元春が若き日に参戦した「厳島の戦い」にて、
 心酔する敵将・弘中隆包から教わったことなのだという。
 子の吉川広家もその教訓を胸に刻んでいた。

 毛利軍の先鋒として「関ヶ原の戦い」に参戦した吉川広家は、
 不動の体制で、後続する毛利軍本隊を拘束。

 「関ヶ原の戦い」は吉川広家の予測通り東軍勝利に終わり、
 広家の機転により関ヶ原では動かなかった毛利家は、
 西軍の総大将でありながら、周防・長門の所領を安堵された。

 この防長二国はもともと吉川広家に与えられる予定であり、
 広家はそれを毛利宗家に譲った形と言われている。

 防長二国に移封された毛利氏は、
 本拠を長門の萩(=山口県萩市)に置くことになった。

 だが、この毛利氏の減封が引き金となって、
 毛利宗家と吉川家には次第に確執が生まれるようになる。

 吉川広家に始まる吉川氏は、
 三万石の周防岩国(=山口県岩国市)に収まることになったが、
 萩の毛利家にとっては東の防衛という意味もあり、
 岩国藩の立藩も、幕末まで許されることはなかった。


 吉川氏によって治められることになったこの岩国は、
 かつて弘中三河守隆包が領主として治めていた地である。

 弘中氏に縁の深い吉川氏が岩国の領主になったことは、
 数奇な因果とも言える。

 弘中隆包は、嫡男弘中隆佐と共に厳島にて討死したが、
 亀太郎というわずか三歳の遺児がいた。

 後に毛利家家臣となった弘中方明の手引きにより、
 亀太郎は、周防新宮(=山口県周南市)にて
 方明の家臣・小山弥右エ門によって養育されたという。

 その後の亀太郎の行方は、しばらくは分からなくなり、
 弘中隆包の血統は途絶えたかと思われていた。



 関ヶ原を乗り切って初代岩国領主となった吉川広家は、
 やがて家督を嫡男・吉川広正に譲って隠居し、
 次男の吉川彦次郎を連れて、
 岩国の通津(つづ)という村に移り住んだ。

 ところが、吉川広家が通津に連れてきた家臣の多くは
 岩国の中心部にある浄土真宗の押谷山西福寺の門徒だったが、
 この通津の地には浄土真宗の寺院がない。

 困った家臣たちのために動いたのが、吉川彦次郎である。
 
 通津の高照寺山にある真言宗常福寺が
 住職が去ったため無住の空寺になっていることを知り、
 これを改修して浄土真宗の寺院を建立することを、
 岩国領主である兄の吉川広正に願い出た。

 吉川広正は、開基の住職がいることを建立の条件とする。

 そこで彦次郎は、釈善超という僧をどこからか連れてきた。

 寛永七年(1630)に、岩国にて釈了善という僧が
 岩国にて浄土真宗正蓮寺を開いたのが、
 釈善超は、この釈了善の子である。

 調べてみると、正蓮寺開祖の釈了善こそが、
 出家後の弘中亀太郎であることが判明した。

 つまり、釈善超は正統な弘中隆包の血流だったのである。

 祖父の心酔する弘中隆包の血筋が見つかったことで、
 吉川広正は感動し、寺院の建立を快諾。

 寛永元年(1624)年、浄土真宗光照寺が
 釈善超によって開基された。

 岩国の信徒たちは、
 かつての領主・弘中隆包の血が残されたことを喜び、
 それを許可した今の領主・吉川広正を慕った。


 翌年、吉川広家は通津の地にて逝去。

 吉川彦次郎は吉川広正の推挙により、
 当時の毛利当主・毛利秀就から
 平生大野(=山口県平生町)の地を与えられ、
 通津を拠点として平生の開拓事業を進めていく。

 その後、吉川彦次郎は毛利就頼の名を与えられた。

 幕末まで続く毛利宗家と岩国吉川家の確執の中、
 吉川家の中でただ一人、この毛利就頼だけが、
 毛利姓への復姓を認められている。
 
 毛利就頼の家系は、家老職の大野毛利家として幕末まで続いた。


 一方、吉川広正の後を継いで三代目の岩国領主となった
 嫡男の吉川広喜(ひろよし)は、
 かつて旧領主・弘中隆包も手を焼いていた
 錦川の洪水にも耐え得る、画期的な橋梁の架橋に着手する。

 この橋は完成後に「錦帯橋」(きんたいきょう)と名付けられ、
 現在もその姿が保たれ、岩国最大の観光地となっている。

 吉川広嘉も、叔父の彦次郎が建立に尽力した光照寺を大切にし、
 その寺地を高照寺山から通津の海岸沿いへと移した。

 海辺に移った浄土真宗光照寺は、専徳寺と名を変え今に至る。



 江戸時代末期、毛利氏の長州藩は下関戦争で外国と戦い、
 幕府から長州征伐を受けて危機に瀕したが、
 討幕運動の旗頭となって江戸幕府を終焉させ、
 長州藩出身の逸材が明治政府の要人に名を連ねることになる。

 討幕に務めた長州藩士の中に弘中姓の者も散見されるが、
 これらは戦国時代に毛利に帰順した
 弘中方明の子孫だと思われる。

 弘中隆包の子孫は寺社に、
 弘中方明の子孫は武家にその血脈を残していったのである。

 そのため、今でも山口県には弘中姓の者が多い。 



 毛利元就の手がけた安芸国の経済振興は、
 毛利が安芸国から移封された後も受け継がれていき、
 いまや広島県は、
 かつて繁栄を極めた山口県をはるかに凌ぐ経済圏となった。

 だが、その基礎を築いた安芸国守護代・弘中隆包の名は、
 毛利藩の英雄毛利元就の名の陰に消えていった。


 厳島の戦いで討死した弘中隆包の遺体は、
 岩国市今津の大応寺に埋葬されていたが、
 特に目立った墓碑もなく、地元民からも忘れられていた。

 昭和十六年(1941)、ある証券会社の社長が、
 弘中隆包の偉業を顕彰するべきであるだと主張をし、
 隆包の血統である釈善超が開基した岩国通津の専徳寺に、
 弘中隆包の墓を移設し建立し直すことが決まった。

 弘中隆包の生涯を刻む大きな碑文が作られる計画であったが、
 世は太平洋戦争へと突入し、資材も職人も調達できず、
 質素な墓碑が建てられるのみとなった。

 「元岩国城主 弘中三河守源隆包朝臣墓」

 とのみ刻まれた墓碑は、
 今もその墓と共に通津の専徳寺境内に建つ。


 
 弘中隆包の最期の地となった厳島は、
 一般的に「安芸の宮島」と呼ばれるようになり、
 「日本三景」の景勝の一つに数えられ、
 現在では多くの観光客を集める観光地となっている。

 平成八年(1996)十二月、
 「厳島の戦い」を見守った厳島神社が、
 ユネスコの世界文化遺産に登録。

 世界にもその名が知られ、
 海外からも多くの観光客が訪れるようになった。

 広島、そして厳島は、
 弘中方明が遠く夢見た異国の地の人々にも
 その名の知られる場所になったのである。


 今日も、厳島には多くの観光客が訪れる。

 宮島口からフェリーで厳島に渡ると、
 その先には厳島神社が構え、
 その背後に峻嶮の駒ヶ林の峰が海を見下ろす。

 人々を迎える心地よい島の風と、軽やかな空の雲は、
 我らに無言で何かを教えてくれているのかもしれない。


 (完)
| 『厳島戦記』 | 14:47 | comments(1) | trackbacks(0) |
こんにちは、先日、通津の専徳寺に行って弘中隆包のお墓参りをしました。
顕彰が必要。まさしくそのとおりだと思います。
| おさむ | 2015/03/29 10:36 AM |









http://blog.timestage.net/trackback/1434405