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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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厳島戦記(三十四) 乾坤一擲の巻


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 厳島戦記(三十四) 乾坤一擲の巻
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                       第七部「厳島奇襲戦」




 毛利元就は、風を待っていた。


 天文二十四年(1555)九月二十七日、
 安芸国地御前(じのごぜ/=広島県廿日市市)。


 毛利軍の数倍を擁する大内軍本隊を
 乾坤一擲の謀略で厳島に誘い込んだ毛利元就は、
 その対岸の地御前にひっそりと陣を構えて、厳島を眺めていた。

 総大将の陶晴賢率いる大内軍を、
 ようやく厳島の中に封じ込めることができたが、
 奇襲をかける絶好の機会が、なかなか訪れない。

 相手は二万を超える大軍勢。
 対する毛利軍は、四千にも満たない小勢である。

 よほどの会心の機がなければ、
 いくら奇襲をかけてもあっけなく叩き崩されてしまう。

 舞台は整ったが、幕を開ける機だけが揃わない。

 奇蹟の風は吹いてくれないものか――――。


 謀将・毛利元就に、焦りが募る。



 家臣たちは、このまま地御前で足を止め続けるよりも、
 そのまま陸路を進んで周防(=山口県)に攻め入ればどうかと
 進言していたが、元就には陸路を選べない理由があった。


 大内軍は岩国(=山口県岩国市)にて評定を行なった際に、
 元就の謀略にただ一人気づいた弘中隆包が渡海に反対をし、
 諸将の不興を買って岩国の亀尾城に残されたと聞く。

 ここから周防への陸路を進むには、岩国を経由する必要がある。

 大内軍きっての戦上手である弘中隆包が守る岩国の地を、
 そう簡単に通過することはできないであろう。

 兵力においては圧倒的に大内軍に劣る今、
 何としても、弘中隆包との正面戦闘は避けたかった。

 そのため、周防まで攻め上るには、
 厳島に封じた大内軍を殲滅し、
 厳島を足掛かりにしなければならない。

 元就は、そう考えていた。


 この時、元就には把握できていないことがあった。


 弘中隆包は確かに、大内軍内で孤立し岩国に残された。
 そのことは大内軍に忍び込ませていた間者からは確認済みである。

 だが、その後に弘中隆包が独自に岩国を発って
 厳島に向かったことを知らなかったのである。

 隆包は秘密裏に厳島に渡っていた。

 だから実際には、岩国には隆包の弟・弘中方明をはじめ、
 ほんの百人程度の少数の兵しか残されていない。

 弘中隆包は、毛利元就が厳島を奇襲する機を失った際に
 岩国を通過して周防本国に侵入することのないよう、
 岩国を堅く守備しているように思わせていた。
 
 まさに「空城の計」である。

 毛利元就は弘中隆包の用兵を恐れて、
 岩国経由の陸路ではなく、
 厳島経由の海路にこだわったのであった。

 しかし、厳島に渡る機が来ない。

 元就は天に祈ることしかできなかった。



 九月二十八日。

 大内軍の猛攻に耐え忍んでいた宮尾城も落城寸前との報が入り、
 毛利元就の焦りも頂点に達していた頃、
 地御前の毛利軍の士気が大いに上がる出来事が起こった。


 地御前沖に、村上武吉率いる村上水軍が現われたのである。

 毛利水軍の総勢を大いに超える、約三百隻の船団である。

 その大船団が、大内軍の終結する厳島ではなく、
 地御前の岸へと近づいてきたため、
 毛利の将兵たちは村上水軍が援軍として現れたことを確信し、
 飛び上がらんばかりに喜んだ。


 村上水軍の若き頭領村上武吉が、毛利本陣に到着した。
 
 満面の笑みで毛利元就に迎えられた武吉だったが、
 その表情には曇りが見られた。


 「我ら村上水軍、毛利殿の要請を受けて参上つかまつった。
  ただ、我々が協力するのは海上封鎖であり、
  厳島の戦闘については、どうか勘弁願いたい」

 と言うのである。

 その理不尽な言い草に、毛利家臣たちは反論しようとしたが、
 毛利元就はその要求を快く引き受けた。


 「事情は分かる。安芸守護代だった弘中隆包殿への恩義もあろう。
  厳島への奇襲は毛利勢だけで行なう故、安心なされい。
  大内軍へ助力しないということだけで、我らは大いに助かる」


 毛利元就は、優しく村上武吉に言った。

 村上水軍がたとえ中立の立場に立とうとも、
 大内軍に加勢して敵となることさえなければ
 毛利にとっては十分にありがたいのである。



 九月二十九日。

 夜半頃から、村上水軍の到来と共に、
 いよいよ元就の待ち望んでいた「風」が来た。

 瀬戸内に暴風が湧き始めたのである。

 海は荒れはじめ、波は高まる。


 毛利家臣たちは、ますます渡海の好機を失ったと感じていた。
 これならばもっと早く出航していたほうがよかったと。

 しかし、これこそが
 元就が耐えながら待っていた風だった。


 「おまえたちが不安に思っているのを聞いて、確信したぞ。
  大内側も、我ら毛利がこんな日に
  厳島に来るはずがないと考えている、とな」


 元就は全水軍を、火立岩(ほたていわ)に集結させた。

 そして諸将を集め、軍議を開く。

 毛利元就には、厳島奇襲の図が既に描けていた。


 まず、地御前の火立岩に集結している毛利水軍は、
 暴風雨に紛れて大内軍の目を盗み、
 厳島の東岸にある包ヶ浦(つつみがうら)に着岸する。

 包ヶ浦に上陸後、博奕尾(ばくちお)の尾根に登れば、
 現在宮尾城を攻撃中の陶晴賢の本陣が眼下に見えるはずである。
 そこから本陣を一気に奇襲する、という算段である。

 厳島のわずかな平地に封じられている大内の大軍は、
 本陣を突かれた場合、逃げ場は海にしかない。

 そこで、三男の小早川隆景率いる毛利水軍が
 厳島の北岸を固め、海へ逃げようとする大内軍を討つ。

 もし小早川隆景が取り逃がしたとしても、
 後方で海上警備にあたる村上水軍がそれを食い止める。

 それが、毛利元就の描く奇襲の全図であった。





 九月三十日。

 吹き荒れる嵐はますます大きくなった。


 この悪天候では視界も効かず、高まる波のため転覆の恐れもある。
 さらにこの西風では、完全に逆風である。

 不安に駆られた諸将たちが
 改めて毛利元就に渡海延期を進言するものの、
 元就は、

 「嵐の時だけが、敵の目を盗み厳島に渡れる好機のみである。
  嵐が止む前に必ず出撃する」

 と再三にわたって確認をした。


 恐怖と不安で機が気でならない諸将たちの様子を見て、
 気を奮い立たせる言葉を放ったのは、
 元就の長男・毛利隆元である。


 「この嵐ゆえ、渡海は難しいと思う者も多いだろう。
  確かに困難には違いないが、この嵐が我らを試している。
  幾度となく困難を乗り越えた毛利軍の意地、今こそ見せる時だ」


 普段は弟である吉川元春の武勇、小早川隆景の知略に隠れて、
 あまり自己主張をしない毛利隆元が進んで発言したので、
 諸将はもちろん、元就や弟たちも一瞬唖然としてしまった。

 暴風の音が舞い込む評定の席で、
 隆元はさらに元就に対して問いかける。


 「父上、これから上陸する厳島の場所の名前は」

 「包ヶ浦だ」

 「そこから、博奕尾に登るとおっしゃいましたか」

 「そうだ」


 皆の前で元就に地名を改めて確認した隆元は、
 諸将に向き直って高らかに言った。


 「聞いたか、みんな。
  これから上陸する場所は、鼓(つづみ)の浦。
  そこから向かう場所は、博奕(ばくち)の尾。
  鼓も博奕も、どちらも『打つ』ものだ。
  まさに、我らが打ち勝つための進路だと思わないか」


 隆元の言葉を聞いて、諸将の顔に笑みが戻る。


 「我らは勝利への道を、天から与えられたのだ。
  この勝機を、確実に我らがものにしようではないか!」


 毛利隆元の鼓舞で、毛利家臣たちの士気は大いに上がった。
 みな、顔を見合わせて笑顔でうなずき合う。

 元就は、嬉しそうに目を細めた。


 軍記物の名著『平家物語』の中には、
 源義経が平家を四国へ追討する時に、摂津国(=大阪府)から
 嵐の中を決死の渡海をして阿波国(=徳島県)に上陸する、
 というくだりがある。

 ようやく上陸した際に源義経は、
 その場所が「勝浦」という地名だと聞いて、勝利を確信する。
 そして讃岐国(=香川県)の屋島で劇的な勝利を収める。

 毛利隆元は、その『平家物語』の逸話を
 諸将の鼓舞にうまく利用したのであろう。

 家臣団に一家の方向性を示し、その意気を引きだし士気を上げる。
 隆元は毛利家当主として、確実に成長している。

 毛利元就は、ますますわが軍の勝利を確信した。



 三十日、酉の刻。

 暴風はさらに咆哮を上げ、波浪はますますうねりを高める。
 視界も十分に効かぬ中、毛利軍の決死の渡海が始まる。

 密かに軍船の集まった火立岩では、
 上陸後の合言葉や軍法などの最終確認が行われ、
 兵糧は一日分だけを各自腰に吊るすことが許された。

 一夜限りの決死行の決意の表れである。


 地御前の陣には、無数の篝火が焚かれた。

 大内軍の偵察隊から、
 毛利本隊が渡海したことを気付かれないためである。

 この暴風雨の中、遠くからでもその陣火が揺れているのが
 確認できるほどに。多くの篝火が煌々と陣を照らした。


 一方、厳島へ向かう舟の灯火は全て禁じられた。

 先頭を走る将船のみが松明を掲げ、
 全ての舟はその灯りを頼りに静かに続く。


 高い波が荒れ狂う瀬戸内海へ、
 毛利軍の船は次々に出航した。

 毛利家の命運を賭けた、乾坤一擲の出撃である。


 西日本の戦国地図を大きく塗り替える「厳島の戦い」。

 その奇襲戦の舞台の幕が、
 今まさに上がろうとしていた――――――。


 (つづく)
| 『厳島戦記』 | 13:17 | comments(0) | trackbacks(0) |









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