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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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厳島戦記(二十七) 昇龍咆虎の巻


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 厳島戦記(二十七) 昇龍咆虎の巻
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                       第六部「龍虎攻防戦」



 龍の姿を目にした者は、古来より稀である。

 それは幻だからでも実在しないからでもない。
 龍は長く淵に潜むものであるからと言われている。

 風雲の機を得て天高く立ち昇るために、
 じっと深い淵の底にて臥して待ち続けているのである――――。



 陶晴賢に擁立された大内義長を裏切った毛利元就を誅滅せんと、
 宮川房長に率いられて東進した約七千の大内軍は、
 折敷畑山にて毛利元就の計略により壊滅状態に追いやられた。

 だが、陶晴賢を筆頭にする大内軍の評定衆の多くは、
 周防山口(=山口県山口市)にてその敗報を聞いても、
 それほどの危機感を抱いていなかった。


 「宮川房長は、功に走って大局を見失うことが多々ある。
  毛利のごとき山鼠にやられるとは、宮川も下手を打ったものだ。
  鼠も時には、虎を噛むこともあろう。
  ここは虎の爪牙をもって、鼠取りをする必要がありますな」


 陶晴賢の配下、三浦房清が評定の席で意見を述べた。
 白井賢胤、大和興武、伊香賀房明など陶軍の将がうなずく。

 そんな楽勝の雰囲気の中でただ一人、
 彼らの意見に反して毛利を警戒するよう述べる者がいた。


 かつて安芸国(=広島県西部)の守護代を任じられ、 
 今は文官の筆頭として奉行職にある、
 弘中三河守隆包であった。


 「毛利を鼠と侮ってはなりません。元就は臥龍のごとき謀将。
  宮川殿も龍を鼠と侮ったがゆえに大敗を喫したのです。
  龍が動くのはこれからです。慎重に戦略を練らなければ…」

 「毛利が鼠ではなく、龍だと? 馬鹿げたことを」


 隆包の言葉を遮って、三浦房清が大きく笑った。
 そして隆包を顎で指しながら言い放つ。


 「仮に毛利元就が、淵に臥せる龍のごとき男としよう。
  しかし毛利は大内家と尼子家の二大勢力に挟まれている。
  大内という前門の虎と、尼子という後門の狼ににらまれて、
  果たして小龍は淵から躍り出ることができようか。
  そもそも後ろの狼の眼が気になって動き出すこともできまい」

 「ならばなぜ、毛利は全軍で折敷畑に出てきたか」

 「なに?」

 「毛利が吉田郡山城からほぼ総兵力を西に進めてきたのは、
  後門の狼など大して気にかけていないからだ。
  我々は、尼子の脅威を期待してはならぬ」


 弘中隆包の迷いのない反論に、三浦房清はますます苛立つ。

 総大将の陶晴賢も、房清と同じく毛利の戦力を軽んじていたが、
 隆包が何ゆえ毛利を持ち上げるのかが気になった。


 「弘中殿、毛利は背後の尼子を恐れてはおらぬと申すか。
  その確実な根拠は、あるんだろうな」

 「ございます」

 「確かか」

 「無論」

 「では、その根拠は何だ」

 「それは、私が尼子を封じる策を毛利に預けていたからです」

 「何!?」「何だと!?」


 弘中隆包の発言に、評定に参加する全員が驚きの声を上げた。
 そしてそのほとんどが、その言葉の意味を理解できていなかった。

 
 ただ一人、弘中隆包の後ろに控えていた弟、
 弘中河内守方明だけが、その意味を察して目を見開いていた。

 (あの時…)

 方明は、弘中隆包と毛利元就が最後に言葉を交わした
 吉田郡山城での場面を思い出したのである。

 前君大内義隆公が大寧寺の変にて命を落とした時に、
 安芸国守護代であった弘中隆包は、
 安芸の防衛を毛利元就に託して安芸から山口へと向かった。

 その際に、弘中隆包が毛利元就に

 「尼子からの脅威が容易ならぬ時の策を書き記してある」

 と言って一巻の書状を手渡していたのを、方明は見ていた。
 あの中に、尼子を牽制する策略が記載されていたのだろう。

 毛利元就はその手元の防衛策をいつでも実効できる。
 当然、策を託した隆包はそのことを知っているはずである。


 弘中隆包はその時のことを、正直に全員に伝える。

 ある者は呆然とし、ある者は怒気頂点に達し怒号を発する。


 「なれば弘中殿、おぬしが毛利の暗躍に加担しているではないか!」

 「大内への反逆の手助けをしたのか!」

 「何という恩知らずだ!」


 発言権のない陪臣らまで立ち上がってまくしたて始める。
 弘中隆包はその怒声の中で毅然とした態度で座っている。

 好き放題に罵声を浴びせる連中の様子に耐え難くなった弘中方明が
 懐剣の柄に手を添えて飛び出ようと思ったその時、

 「静まれ!!」

 と、総大将・陶晴賢の一声が飛んだ。

 評定の場が、一気に固まる。


 「隆包殿は、安芸国の守護代であったのだ。
  任地である安芸を守るための策を講じるのは当然のこと。
  安芸の毛利が反乱を起こしたのは、
  わしが隆包殿を安芸から山口に呼び寄せたからに他ならぬ。
  隆包殿の安芸守護代としての功を罪と呼ぶは、
  この晴賢にも罪を問うているものと心得よ!」


 陶晴賢の強い言葉に、一同は静まり返った。

 守護代としての職務の重さを、守護代の経験のない者が
 軽々しく非難してはならないという、
 自身も周防国守護代である晴賢の想いの表れであった。


 「しかし、尼子には新宮党がおる。
  新宮党がありながら、毛利はそれを脅威としないだろうか」

 「はい。毛利が有する必勝の策とは、
  まさにその新宮党を封じる策だからです」
 
 「なに!?」


 陶晴賢は、弘中隆包の答えに息を飲んだ。



 出雲国(=島根県東部)の尼子氏の当主・尼子晴久は、
 八ヵ国の守護に任ぜられ、勢力を急拡大していた。

 新宮党は、その尼子氏の勢力を支える武闘集団である。

 当主晴久の叔父にあたる尼子国久とその子誠久ら一族は、
 月山富田城の北麓の新宮谷に居館を構えていたため、
 新宮党と名乗り、独自の戦闘部隊を有していた。

 その強大な戦力は、陶晴賢や弘中隆包、毛利元就らも、
 月山富田城や備後木村城などで痛いほど苦しめられたほどである。

 尼子氏の繁栄にはこの新宮党の戦力が大きく貢献しているが、
 弘中隆包が毛利元就に授けた策は、
 当主尼子晴久と新宮党を不和を誘発する謀略であった。


 十重二十重に間諜を送り込んで流言で尼子家中を掻き回す。

 そのうち、晴久の尼子宗家と国久の新宮党は信頼関係を失い、
 尼子一族は安芸に目を向ける余裕など無くなってくる。

 その策を、毛利元就はこの危機に忠実に利用していた。

 尼子氏の中では、宗家と新宮党の対立が急激に強まった。


 そして天文二十三年(1554年)十一月一日、
 新宮党の存在を危険視した尼子晴久は、
 尼子家中の統一を図るため、
 尼子国久、誠久ら新宮党一族を誅殺。

 こうして、これまで幾度となく芸備を脅かしてきた新宮党は
 尼子晴久の大粛清によって消滅をした。


 芸備への戦略を熟知する新宮党がいなくなれば、
 尼子氏が西方へ手を伸ばすための軍を整えるまでには
 まだある程度の時間がかかる。

 その間に、毛利元就の後方からの尼子の脅威を気にせず、
 前方の陶晴賢との決戦に、全力を集中することができるのである。



 安芸の謀将、毛利元就が動き出す――――。

 淵に潜む龍が、天へと駆け昇る機会を得たのである。

 防長の猛虎が、その龍の出現に構えて咆える。


 安芸の龍・毛利元就と、周防の虎・陶晴賢。

 龍虎の決戦の火蓋は、
 今まさに切って落とされようとしていた。


 歴史に深く刻まれることになる「厳島の戦い」まで、
 あとわずか十一ヶ月のことであった。 


 
 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [二十七]
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 ■堀立直正 (ほたてなおまさ)

 安芸国佐東川(=広島県太田川)の河口で独自戦力を持つ海上商人。
 娘を弘中方明に嫁がせた縁で、その兄・弘中隆包が進める安芸国の
 経済改革に助力。やがて厳島の戦いを経て、赤間関(=山口県下関市)
 の代官職を務め、関門海峡の経済圏の形成に大きく尽力した。
| 『厳島戦記』 | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |









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