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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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厳島戦記(二十二) 関門海峡の巻


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 厳島戦記(二十二) 関門海峡の巻
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                       第五部「防芸謀略戦」




 「先主義隆公の政治は何ゆえ脆かったか、お分かりですか」

 「そうだのう…」


 主従の問答は長い時間に及んでいた。


 大内家の筆頭家老として軍事を支えてきた陶尾張守隆房は、
 新たな主君を仰いだことで、名を「陶晴賢」と改めた。

 またその新たな主君として迎え入れられた大友晴英は、
 大内家の当主となると同時に、名を「大内義長」と変えた。

 大内義長は、伝統ある大内家を継ぐことに大きな責任を感じ、
 国政について理解を深めたいと、大いに意気込んでいた。

 二十歳を前にしてまだ執政や戦争の経験のない自分にとって、
 今の自分と同じ年齢の頃から大内軍を率いていた陶晴賢は、
 絶好の人生の教師とも言える。

 大内義長は時間の許す限り、
 陶晴賢から大内家のことについて学びたいと求め、
 また陶晴賢もできる限りその求めに応えていた。


 晴賢の質問への答えが浮かんだ大内義長は、
 自信のある面持ちで回答する。


 「奉行人の相良武任ばかりを重用したからではないか」

 「半分は正解です」

 「半分。奉行人を重んじるのは、別に問題ではないと」

 「そのとおり。奉行人という職も国政には重要な役割ですから、
  奉行人を取り立てること自体は悪いことではないのです」

 「そうだな。では、なぜなのだ、晴賢」

 「戦の経験が全くなかった相良武任に、
  軍事のことにも口出しをさせたということです」

 「……なるほど」

 「大内の評定衆の仕組みは、武官と文官の絶妙な均衡あってこそ。
  しかし義隆公は、武官が一番精通している戦ごとについて、
  戦の分からない相良の意見を最も汲み取っていらっしゃった。
  このようなことは、武家にとっては致命的なことなのです」


 陶晴賢は、政治を正すために大内義隆を追い詰めた張本人である。
 そこで、義長には義隆時代の政治の欠点を学んでもらい、
 それを改善した新しい政治を進めてほしいと願っていた。

 悲しい終焉を迎えた叔父義隆公の轍を踏まぬようにと、
 義長は陶晴賢に次々と質問を投げかけ、真剣に耳を傾ける。


 「では晴賢、評定衆はどうすればよく機能するのか」

 「最良なのは、文の分かる武官と武の分かる文官がいることです。
  互いのことが分かる者がそれぞれの上に立っていれば、
  それぞれの力を組み合い、そして補い合っていけます」

 「うん」

 「大内の武官は、私や内藤興盛殿など行政の分かる者が多かった。
  そもそも自分の領地を治めているという経験があるからです。
  しかし、文官には戦の分かる者がほとんどおりませんでした」

 「ならば、武官の筆頭はこれまでどおり晴賢に働いてもらうとして、
  文官の筆頭を任せられる人間が家中におらぬと」

 「御意。そこで、最適な者を考えましてございます」


 陶晴賢は、用意していた紙を机上に広げた。
 そこには晴賢が考え抜いた、
 新しい評定衆の組織図が綿密に描かれていた――――。



 大内御殿の拝謁の間にて、大きな声が響く。


 「私を奉行人筆頭に…、ですか」


 その声の主は、安芸国守護代、弘中三河守隆包だった。

 「そのとおりだ」と、上座の大内義長は大きくうなずいた。
 その横に控える陶晴賢も、期待の目を注ぐ。

 戸惑っている弘中隆包に、大内義長は熱く言葉を投げかける。


 「これからの大内家を強く支える評定衆を作るためには、
  文官の筆頭も戦が分かる人間でなければならないと思う。
  そこで、晴賢のたっての希望で、隆包に任せたいのだ」

 「しかし」

 「不服かのう」

 「いえ。ただ、私は戦しか分からない根っからの武士です」

 「いや、おぬしが義隆公から安芸国守護代に任じられてより、
  難攻不落の備後神辺城を落として尼子の脅威を防いだだけでなく、
  安芸の経済を豊かにし人心をまとめたことは、よく知っておる。
  所領の富国も強兵も成し得てきたおぬしに、内政を任せたい」


 大内義長は立ち上がると弘中隆包に歩み寄り、
 膝を落として目線を合わせた。


 「もはや、文と武が反発し合うような時代ではない。
  隆包は文の筆頭として、晴賢は武の筆頭として、
  共に力を合わせ補い合いながら、わしを支えてはくれまいか」

 「……はっ」


 弘中隆包はかしこまった。


 (動くのだ――――)
 内藤興盛が語った言葉が、隆包の脳裏をよぎる。

 考える前に動かねば、事態は深刻になっていくのではないか。
 自分が動かねば、他に誰が動けるというのか。

 大寧寺の変で、相良武任をはじめ多数の家臣が討たれ、
 大内家中は行政担当者の不足が問題になっていた。

 先主義隆公の政治に終止符が打たれたのは、
 文官筆頭の相良武任と武官筆頭の陶晴賢の確執に他ならない。

 その二の舞にならぬためには、相良武任に変わる自分が、
 陶晴賢と協調しながら政治を進めていくしかない。

 自分ならばできる。いや、やるしかない――――。


 弘中隆包は、奉行人筆頭の職を奉じた。

 文官たちの頭領として評定衆に参加すると共に、
 武官たちの軍事を支援する立場となったのである。



 大内義長は、これまでしばらくは陶晴賢と密議を行っていたが、
 すぐに博識の弘中隆包をその場に加えるようになった。

 正確に言えば、陶晴賢と弘中隆包の謀議を見学し、
 その決定に承認を出すという形であったが、
 大内義長にとってはそれがとても勉強になった。


 大内の政治は家臣団が集まる評定衆によって動かされるが、
 陶晴賢と弘中隆包の二頭会議でまず決められたことは、
 その評定衆自体の改編であった。

 何より、評定衆の中に加わる武官たちの選任である。

 これまでは各国の守護代たちが評定衆に参加していたが、
 大寧寺の変によって、杉興運や杉重矩などはこの世にはいないし、
 内藤興盛は引退、弘中隆包は奉行職へと移っている。

 そこで、陶晴賢は戦に長けた武人たちを次々と評定衆に加えた。

 特に、江良房栄、三浦房清、宮川房長、白井賢胤など
 陶晴賢の直臣である周防国の部将たちの登用が目立った。

 彼らは大内からすると陪臣に過ぎないのだが、
 冷泉隆豊などの有能な武将を事変で失い人材不足の今、
 当分は致し方のないことだと、弘中隆包も承認した。


 評定衆の構成が決まり、陶晴賢と弘中隆包の次の議題は、
 反乱の想定とその対策だった。

 陶晴賢は、弘中隆包に意見を求める。


 「次に戦の問題が出てくるとしたら、どこであろう」

 「吉見正頼殿でしょう」

 「やはり。わしもそう思う」


 弘中隆包の口から、石見国(=島根県西部)の
 津和野三本松城城主、吉見正頼(よしみまさより)の名が出た。

 それは、陶晴賢も最も警戒している人物であった。


 石見国では古来より、益田(=島根県益田市)の益田氏一族と
 津和野の吉見氏一族による所領を巡る紛争が絶えなかった。
 
 益田氏も吉見氏も共に大内氏の傘下にある国人領主であるが、
 その対立の激しさゆえに、石見国守護代の問田隆盛も手が出せず、
 守護代の威勢は石見では全く効力を持たなかったという。

 
 先主大内義隆公は吉見家当主である吉見正頼の実直な人柄を好み、
 自分の姉を正室とすることを許した。

 つまり吉見正頼は義隆の姉婿となり、義理の兄となった。

 そのため、吉見正頼が大恩ある大内義隆を追い詰めた陶晴賢たちに
 大きな反感を抱いていることは容易に想像がつく。

 さらには、陶晴賢は吉見氏の好敵手の益田氏と婚姻関係にあり、
 吉見正頼にとっては陶晴賢も相容れぬ仇敵である。

 大寧寺の変の時、吉見正頼は益田氏の侵攻を受けて動けず、
 義弟大内義隆の命を救うことができなかったが、
 いずれ機が熟せば陶晴賢に対して叛旗を翻すに違いない。



 弘中隆包が吉見正頼の動きにも気を配っているのを確認すると、
 陶隆房は弘中隆包に頼み事をした。


 「弘中殿。おぬしにはすぐ、宗像(むなかた)に行ってもらいたい」

 「えっ。宗像へ」

 「さよう。緊急を要するのだ」


 宗像とは、大内氏の支配下にある筑前国(=福岡県北部)にあり、
 宗像大社という総本社がある地(=福岡県宗像市)である。

 石見の話から突然、逆の方向の九州の話が出てきたので、
 弘中隆包は戸惑ってしまった。


 筑前宗像は、長らく大内傘下の宗像氏が支配していた。

 六百年余にわたり宗像大社の大宮司を務めてきた宗像氏一族は、
 強力な水軍を要し、九州方面の大内軍の主力でもある。

 ところが宗像氏は、先日の大寧寺の変の混乱で当主を失い、
 家中で大きな相続紛争が起こっていた。
 宗像氏の騒動が泥沼化すると、九州方面の地盤が危うくなる。

 そこで、同じく治領に水軍を有し、白崎八幡宮の大宮司を務めている
 弘中隆包が適任であろうと、陶晴賢は指名したのである。

 隆包は困惑気味に答える。


 「私は安芸国守護代としてこれまで東方の任にあったゆえ、
  真逆の方角の九州のこととなると、いささか戸惑います」

 「それは察するが、これまで九州の大内領を統治してきた
  杉興運も杉重矩も既にこの世にはおらぬから、
  収拾をつけられる者が他に見当たらないのだ」

 「確かに」

 「北九州がこれ以上混乱に陥ると、お屋形様のご実家である
  豊後(=大分県南部)の大友家にもご迷惑がかかろう」

 「しかし、石見の吉見正頼殿の件は」

 「吉見とは、おぬしも戦いづらかろうと思ってな」


 津和野三本松城の吉見正頼には、
 弘中隆包の叔父である弘中兵部丞頼之が側近として仕えている。

 吉見正頼との対決が必至と思われる今、
 一族の弘中頼之と矛を交えるのはためらいもあるに違いない。

 陶晴賢はそのことに気を遣って、
 弘中隆包を西方の九州へと向けさせたのである。


 「頼之殿は吉見家中において熟練の猛者。必ず前線に出てこよう。
  いかに智勇に優れたおぬしでも、一族を相手に本気は出せまい」

 「お気遣い痛み入ります。そういうことならばこの隆包、
  すぐに宗像に向かい、一刻も早く事態を収めてまいります―――」



 関門海峡。

 赤間関(=山口県下関市)と門司関(=福岡県北九州市)の間にあり、
 本州と九州を隔てる、海運の要衝である細い海峡である。
 その特殊な地形による潮流の激しさは遠く海外にも知れ渡っている。

 弘中隆包と弘中方明の兄弟は、関門海峡を通過する船上にいた。


 強い潮風を頬に受けながら、
 眼前に広がる九州の地を眺めて、弘中隆包は感慨に耽っていた。
 
 思えばこれまで、出雲国の月山富田城(=島根県安来市)や
 備後国の神辺城(=広島県福山市)など遠地に転戦してきたが、
 どれも山口からは東方であり、西の九州を見るのは初めてである。


 船首に向かって右手の方角の岸は、長門国の赤間関。
 左手の方角の岸は豊前国の門司関である。

 門司側からは大きな岬が突き出し、その山上に門司城がある。
 その奥に見える三角形の独特の山はその名も三角山といい、
 その山頂には門司城の支城・三角山城が置かれている。

 三角山の背後には風師(かざし)連山が広がっている。
 関門海峡に吹き荒れる潮風の源流となっている山だと
 古来より思われ、その名がついたのであろう。


 この関門海峡の東口は以前より「壇ノ浦」と呼ばれ、
 かつて源頼朝は平氏をこの壇ノ浦にまで追い詰めて討滅し、
 武家の統領である征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。

 また、足利尊氏は政争に敗れて九州へと没落した時に、
 宗像大社の支援を受けて勢力を盛り返し、
 門司関の甲宗八幡神社で戦勝を祈願して関門海峡を渡った後、
 上洛して京の都を制圧し、室町幕府を開いた。

 源頼朝や足利尊氏と同じく清和源氏を源流に持つ弘中隆包にとって、
 関門海峡はとても心に深く染み入るものがあった。


 一方、同じく弘中の血統にありながら、
 弟の弘中方明は不満気な顔で溜め息をつき、ふて腐れている。


 その理由は、弘中家の持つ岩国(=山口県岩国市)の水軍が、
 大内本隊に接収されてしまったことである。

 弘中方明は、かつて冷泉隆豊に水軍の兵法を学んだ。
 そして安芸国守護代に任じられ所領岩国を留守にすることの多い
 兄の隆包に代わり、弘中水軍を統率していた。
 備後神辺城の攻略にも、方明率いる水軍は大きな役割を果たした。

 しかし、この度弘中隆包が文官筆頭の奉行人に就任し、
 またこれまでの東方経略から変わり九州の鎮定に向かうことに際し、
 陶晴賢は、瀬戸内での反乱が起きないようにするために、
 岩国の弘中水軍を大内本隊の預かりにしたいと言ってきた。

 弘中隆包は大内のためになるならばと喜んで差し出したのだが、
 方明はその水軍をこれまでどおり自分が指揮すると予想していた。

 ところが、新しい君主の大内義長は陶晴賢からの提言を聞き入れ、
 弘中方明を兄の補佐として筑前宗像の鎮定へと回した。

 大寧寺の変までは名将・冷泉隆豊が大内本隊の水軍を指揮していたが、
 冷泉隆豊亡き今、誰がその大内水軍を指揮するのかと問うと、
 陶軍の水軍担当であった白井賢胤(しらいかたたね)だという。

 水軍の扱いでは自分よりも明らかに格下だと思える白井賢胤に、
 自分の育ててきた弘中水軍の指揮を任せるというのが、
 弘中方明にとってはどうしても納得がいかなかったのである。



 「まあ、いつまでも不満に浸っていても仕方あるまい。
  考えるより動け、だ」


 弘中隆包は、ふくれ面で海を見る弟の肩をパシリと叩いた。

 その言葉を聞いて、方明は思わず噴き出した。

 つい先日まで、その弘中隆包こそ邸内に塞ぎこんでいて、
 内藤興盛から同じようなことを言われていたからだ。
 


 弘中隆包の視線は、再び九州の大地を向いていた。


 石見の吉見正頼の叛乱の心配もあり、
 また出雲の尼子晴久の侵攻もまだ予断を許さない。

 早く宗像の騒乱を収めて、すぐに周防に戻らねばならぬ。
 自分の動きの遅れが、大内に危機を招くかもしれない。

 大内のために、動く。

 弘中隆包の眼に、迷いはなかった―――――。



 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [二十二]
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 ■吉見正頼 (よしみまさより)

 大内家傘下の国人領主。石見国の津和野三本松城(=島根県津和野町)
 城主。正室は大内義隆の姉。石見益田氏と紛争が絶えなかったが、
 その益田氏と縁戚関係にある陶晴賢が義弟の大内義隆を討ったことで
 陶晴賢に対して挙兵し、三本松城にて大内本軍との激闘を迎える。
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