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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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厳島戦記(二十一) 義長擁立の巻


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 厳島戦記(二十一) 義長擁立の巻
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                       第五部「防芸謀略戦」




 弘中河内守方明は、困り果てていた。

 いわゆる「大寧寺の変」が起こり、
 大内家中が上を下への大騒動となっているのに、
 安芸国(広島県西部)守護代の重責にある兄の弘中隆包が、
 山口の邸宅に引き篭もって動かなくなってしまったからである。


 尼子軍の襲来に備えてきた安芸の前線を離れて、
 主君義隆公を追い詰めた陶隆房に義を問うため山口へ戻ったが、
 義隆公のみならず後継者の義尊公も殺害されていたことを知り、
 強烈な衝撃を受けて、その日から瞑想に耽り始めたのである。

 方明が困惑したのは、そのような弱い兄の姿を見たのが
 生まれて初めてだということだった。

 常に先を読み、風のような行動を見せ、その名の知れた勇将が、
 まるで蝉の抜け殻のように気概を失って一室に籠もっている。


 義隆公父子の命を守れなかった責任を感じているのだろうが、
 いくら義に篤い家臣とはいえ、このままでいいのだろうか。
 
 主君を失った悲しみは分かるが、
 当の陶隆房は、事態の収拾のために動き出している。

 陶隆房は筆頭家老ではあるが、その独断の動きを
 見逃してしていたままでは、大内の将来はどうなるのか。

 そういう焦りが募ってきた弘中方明は、
 弘中隆包の心を取り戻そうと、ある人物を頼ることにした。 



 翌日、ある人物が弘中邸を訪れた。

 長門国(山口県西部)守護代、内藤興盛である。


 内藤興盛は、大内家中でも重鎮中の重鎮である宿老で、
 評定衆の守護代たちの中でも最年長の古参である。

 だが、再三にわたる諫言を大内義隆が聞き入れなかったため、
 義隆が陶隆房に追い詰められた時にも静観を決め込み、
 その責任を取る形で先日、
 老齢を理由に隠居を宣言したばかりであった。


 国政には二度と関わらないつもりでの引退であったが、
 弘中隆包の様子を深く心配した実弟の弘中方明が、
 どうか力になってほしいと、興盛を頼ってきた。

 弘中隆包の智勇は今後の大内家の運命を左右するであろうし、
 また弘中方明には、山口での混乱の際に
 フランシスコ=ザビエルを擁護してもらった恩義もある。

 内藤興盛は、最後の仕事だと腰を上げたのであった。



 弘中隆包は義隆父子の死を知って以来、全ての来客を断り、
 また方明ら周囲の人間の言にも全く耳を傾けなかった。
 陶隆房からの使者の面会も全て断っていたほどである。

 しかし、「内藤興盛様がお越しになりましたぞ」
 という方明の報告には、驚いてすぐに振り返った。

 宿老内藤興盛の直々の訪問とあっては、無視するわけにはいかない。


 応接の間に興盛を通し、隆包は下座に控えて深く頭を下げた。

 方明も、部屋の端に小さく座った。 



 「家督を譲ることになってのう」

 と言いながら、興盛はゆっくりと上座に腰を下ろす。

 内藤興盛は隠居したが、嫡子・内藤隆時は早世していたので、
 孫の内藤隆世(ないとうたかよ)に、内藤家の家督を継がせた。

 隆包はそのことを既に知っていたが、
 まずは挨拶に出向かなかったことを詫びた。 


 「ご勇退への挨拶の言葉も差し上げず、失礼を致しました」

 「いや、よいのだ。我が孫・隆世は当主を継いだと言っても
  まだ若い。いろいろと教えてやってもらいたい」

 「私こそ若輩で、興盛様にはまだまだご鞭撻頂きたいことが
  山ほどありましたのに」

 「なあに、老兵はいずれ若者に路を譲るものだ」


 内藤興盛は、顎鬚をさすりながら温かい笑みを見せる。
 この人当たりの良さで、
 内藤興盛はずっと家中から信頼を集めていた。

 しかし、そのにこやかな瞳の奥から厳しい眼光が漏れる。


 「わしは老齢ゆえに、政治から身を引いてよいのだ。
  しかし、隆包。まだまだ若い身のおぬしは、何をしておる」

 「……はっ」

 「主君の死を痛嘆する気持ちは、わしにもよく分かる。
  特におぬしは、世襲ではなく義隆様から直々に守護代に
  任じられたゆえ、義隆様を失った悲しみもひとしおであろう」

 「……」

 「しかし、いつまでも悲嘆に暮れることが、いったい何を産むのだ。
  我々は出雲遠征からこの度の政変にかけて、
  過度の悲傷がさらに悲劇を招くことを学んだのではないのか」

 「……!」


 内藤興盛の言葉に、弘中隆包は大きく心を揺さぶられた。
 まるで心臓を直接つかまれたような感じがした。


 かつて、出雲国(=島根県東部)の月山富田城への遠征で
 大敗を喫した主君大内義隆は、最愛の養嗣子・晴持を失った。

 大内義隆はその深い悲しみから、戦事を嫌うようになり、
 遠征を主張し強行した武断派を次第に遠ざけるようになった。

 その結果、武断派の諸将から追い詰められ、命を絶った。
 大内義隆の運命は、晴持を失った時から大きく変わったのだ。


 内藤興盛は、深い愁嘆によって責務から遠ざかることで、
 事態はより悪化してしまうということを、
 義隆公の先例をもって、弘中隆包に伝えたかったのである。


 弘中隆包は、自身を恥じた。

 大内義隆を追い込んだ陶隆房も同じく、深い悲哀を負ったはず。
 しかし、隆房は国内の鎮定に動き出している。
 それに対して、自分はまだ何も成していないではないか。

 内藤興盛は隆包の表情の変化を見て、
 自分が伝えたかったことを理解してくれたと確信した。

 
 そして、懐から汚れた一冊の経典を取り出すと、
 内藤興盛はそれを弘中隆包に無言で差し出した。

 隆包が受け取ったそのくたびれた一切経の表紙には、
 どす赤い血の色で一句が書きつけられていた。


 『見よや立つ 煙も雲も 半天(なかぞら)に
           さそひし風の すえも残らず』
 


 見覚えのない句に弘中隆包が不思議がっていると、
 内藤興盛は言った。


 「それは、大寧寺の最期で冷泉判官が残したものだ」

 「何と」
 「何ですって!?」


 弘中隆包と同時に、
 後方に控えた弘中方明も驚いた声を上げて身を乗り出してきた。


 大寧寺で大内義隆の介錯を行った後に火を放ち、
 陶隆房の眼前で腹を十文字に切って死んだと伝わる
 大内家の忠臣・冷泉隆豊。

 その隆豊が、大寧寺で辞世の句を残していたのである。

 大寧寺まで大内義隆を追った陶隆房の追討軍に混じっていた
 内藤興盛の家臣の一人が持ち帰ったものだという。

 恐らくこの濁った赤い字は、
 自分が手にかけた主君義隆公の血で書いたものであろう。


 冷泉隆豊は死してまで後の者に何を望んだのか。
 残された者は何を成さねばならないのか。

 それを考えると、一切経を持つ弘中隆包の手が震えた。

 弘中方明も、自分に水軍の兵法を教えてくれた師である
 冷泉隆豊の最期の筆を見て、絶句している。


 内藤興盛は、一切経を見つめる弘中隆包に言った。


 「隆房の蜂起を止められなかったのは、老臣たるわしの責任ぞ。
  義隆公からの仲裁の依頼を断ったのは、わしだからのう。
  だからわしが身を退く。事変は決しておぬしのせいではない」

 「興盛様……」

 「これから隆房が取り組んでいくことの正邪は、わしも分からぬ。
  それを監視していくのは、残るおぬしの役目ではないのか」

 「……はい」

 「動くのだ。日頃から忠義に篤く信義に深いおぬしであれば、
  頭で考えるよりも先に身で動くことで、
  自分の信ずる道を進んでいることが後に必ず解るであろう」


 内藤興盛は立ち上がって、最後に一つ言葉を投げかけた。


 「末永く、大内を頼むぞ」

 「……!」


 弘中隆包はその言葉に聞き覚えがあった。
 

 大内義隆がかつて隆包を安芸国守護代に任じた時に、
 「末永く大内を頼む」と、同じことを言ったのだ。

 自分は亡き義隆公から、既に大内を託されていたはずだ。
 それなのに、今の自分はいったい何をしているのだ。

 内藤興盛の言葉でそのことを思い起こした弘中隆包は、
 興盛の足下で、深く平伏をした。


 地に伏せる隆包を見て、内藤興盛は微笑んだ。
 自分は全てをこの者に託せた。そう感じたのかもしれない。

 小さくうなずきながら、内藤興盛は笑顔で応接の間を後にした。


 大内家宿老・内藤興盛。

 これ以降は、二度と政治の世界に戻ることはなく、
 三年後の天文二十三年(1554)に老衰で亡くなったという。



 内藤興盛から後事を託された弘中隆包は気を奮い直し、
 その日のうちに大内御殿へと出仕した。

 そこには忙しく政務を執る陶隆房が待っていた。


 弘中隆包は「すまぬ」と一言謝った。
 出仕を求める陶隆房からの使者を
 追い返し続けたことに対する詫びである。

 陶隆房は喜んだ表情で、隆包の手を取ると笑顔を見せた。


 「弘中殿。よくぞ、よくぞ出てきてくれた。
  新しい国作りは、おぬしがいなければ到底無理だ。
  共に、これからの大内を盛りたてていこう」

 「陶殿……」


 取った手を大げさなほどに上下に振る陶隆房を見て、
 弘中隆包にもふっと笑顔が戻った。



 主君大内義隆の嫡子・義尊をも失った大内家であるが、
 残された陶隆房は、今後の準備を着々と進めていた。

 大内家の後継者として迎えるに相応しい人物が、いま一人いる。


 それは、豊後国(=大分県南部)の
 大友晴英(おおともはるひで)である。

 
 かつて出雲遠征で養嗣子・晴持を失った大内義隆は、
 豊後国守護大友義鑑の次男・大友晴英を養子に迎えた。

 大友義鑑の妻、つまり晴英の母は大内義隆の姉だからである。
 
 大内の血を引く後継者として養子に迎え入れられた晴英だったが、
 その後、大内義隆に実子・義尊が生まれたため、
 養子縁組は解消されて、大友晴英は地元豊後に戻った。

 ところが、その義尊も大内義隆と同時に殺害されてしまったため、
 再びこの晴英を後継者として呼び戻そう、
 と陶隆房は考えたのである。

 そこで、陶隆房は豊後国と密かに交渉を始めていた。


 昨年の天文十九年(1550)、
 豊後国内では「二階崩れ」と呼ばれる政変が起こり、
 大友義鑑が死去して、長男の大友義鎮が家督を継いだ。

 この大友義鎮は、後に「大友宗麟」の名で知られることになる。

 その弟・晴英に再び大友の後継者の話が来たことを受け、
 大友義鎮は大内家中の混乱ぶりを重く見て反対をしようとしたが、
 当の晴英はこの話に大いに乗り気だった。

 もともと大内義隆は深く自分のことを愛してくれていたし、
 実子が生まれたために養子縁組を解消されるというのも、
 武家の慣わしとして当然のことであり、特別な恨みはない。

 その大内家が再び自分自身を当主として迎えるという。

 自分が大内家の当主となり、東九州を支配する兄と連携すれば、
 大友家も今より大きな勢力を持つことができる。

 「大内家が自分を必要としているならば、それに応えたい。
  そして大友家の、北の防波堤としての役目を果たしたい」

 と晴英の熱心な主張を聞き、義鎮もついにそれを許した。



 こうして、大内義隆の後継者には、
 義隆の甥にあたる豊後国の大友晴英を迎えることが決まった。

 主君大内義隆を自害に追い込んだ陶隆房は、
 自分自身が謀反人として下克上により政権を奪うつもりではなく、
 新たに当主を立ててこれからもその下で働くという立場を
 国内外に強く示しておく必要がある。

 そのため、大内義隆から一字を頂戴した隆房の名を返上し、
 今度は新当主となる大友晴英から一字を拝領して、
 晴賢(はるかた)と名を変えた。

 後世に残る「陶晴賢」の名は、こうして生まれたのである。



 大内氏は、朝鮮半島の百済国の第二十六代国王聖明王の
 第三子である琳聖太子の末裔であると称されてきた。

 琳聖太子が百済から周防国の多々良浜に渡ってきたことから
 多々良の姓を名乗るようになり、
 やがて大内村に移ったことから大内姓を名乗り始めたという。


 陶晴賢はこの伝説を重視し、即位に活用した。


 天文二十一年(1552)三月一日。

 大内家当主として迎えられることになり、
 豊後国を船で出発した大友晴英は、その大内祖先の伝説に倣い、
 多々良浜(=山口県防府市)から上陸を果たした。

 新生大内も多々良浜から始まる、という縁起を演出したのである。


 翌日、大友晴英は周防山口(=山口県山口市)へと入城した。

 弘中隆包は、陶晴賢と共に晴英を出迎える。

 まだ二十歳にも満たない若き新当主を前に、
 必ずやこの大内を強く支えていこうと、隆包は深く心に誓った。



 大内家の家督を継ぐことになった大友晴英は、
 大内家当主が代々抱いてきた「義」の一字に倣って、
 「義長」と改名をした。

 ここに、西国最大の勢力を誇る大内家を継ぐ
 新たな守護大名「大内義長」が誕生したのである―――――。



 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [二十一]
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 ■大内義長 (おおうちよしなが)

 大内家当主。豊後国(=大分県)の大名・大友義鎮の実弟であるが、
 かつて養子縁組を解消された叔父の大内義隆が大寧寺の変で自害した
 ことにより、再び大内家の後継者として迎え入れられる。陶晴賢や
 弘中隆包らに支えられるが、大内家は終焉へと向かっていく。
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