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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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厳島戦記(十九) 如露如電の巻


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 厳島戦記(十九) 如露如電の巻
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                       第四部「周防大政変」




 仙崎港(=山口県長門市)は、
 長門本土から青海島に向けて伸びた砂嘴の上にできた港で、
 年中荒波の高い日本海にありながら、
 仙崎湾が高波を防いでくれる天然の良港と言える。


 大内の部将・冷泉隆豊は、わずか数騎の兵と共に、
 船で石見(=島根県西部)へ向かう主君・大内義隆を見送り、
 その船が望ヶ鼻の岬を越えて仙崎湾を出るのを見届けると、
 覚悟を決めたかのように、大きく深い息をついた。


 陶隆房や杉重矩ら反乱軍は、
 大内義隆の行方を追って
 周防山口(=山口県山口市)からこちらに向かっている。

 義隆を海に逃がして安全を確保した今、残る自分たちの役目は
 陶隆房の軍勢に舟を一隻たりとも渡さないためにも
 ここで陶軍を待ち構えて最後まで戦うのみである。

 
 (あとは、弘中殿が何とかやってくれるであろう…)

 冷泉隆豊は、明るくなりつつある荒れた空を見上げながら、
 安芸国(=広島県西部)守護代の
 弘中三河守隆包の顔を思い浮かべた。


 長年、大内の水軍を取り仕切っていた冷泉隆豊は、
 陸戦を得意とする陶隆房や杉重矩ら守護代連中とは
 どうも馬が合わなかった。

 しかし、守護代の中でも領国岩国(=山口県岩国市)に
 水軍を有していた弘中隆包は何かと気が合い、
 弟の弘中方明が元服した際には
 「水軍の用兵を弟に教えてほしい」と方明の師事を願ってきた。

 冷泉隆豊は弘中隆包の清廉潔白な人柄に好感を持っていたので、
 その弟の方明には自分の持つ水軍の知識を惜しみなく教え込んだ。

 立派に学んでいった弘中方明は、今度はその水軍の法を
 安芸の小早川隆景や能美宗勝らにも伝え、
 芸備(=広島県全域)の経略に大いに役立ててくれている。


 人の心は、次の者へ託されていく。

 ここで死しても何の悔いがあろうか、
 と冷泉隆豊は心の内で思った。



 ところが、しばらくして隆豊は一驚して目を大きく見開いた。

 先ほど見送ったはずの大内義隆を乗せた船が、
 再びこの仙崎港に向かって戻ってきているのが見えたのである。

 「なぜ……!?」

 冷泉隆豊は全身から力が抜けるような絶望感に襲われた。


 船が港に着岸すると、大内義隆たちが下船してきた。

 冷泉隆豊たちは駆け寄って、義隆の前にひざまずく。

 見ると、先ほどの船出の時に比べると、
 大内義隆の顔は見る影もなく憔悴しきっていた。
 
 髪は乱れ、白髪が突然増えたようにも見えた。
 目の周りが落ち込み、皺も多く目立つ。
 このわずか数時間で何年分も老け込んだかのようである。

 かける言葉の見つからない冷泉隆豊たちに、
 大内義隆は搾り出すかのように、か細い声を出した。


 「隆豊、すまぬ…。海へ逃げ出すことはできなかった」

 「……」

 「かつて海に沈んだ晴持が、海の底へ招いておったのだ…。
  このたびの反乱は、全てこのわしのせいである。
  しかし、子の義尊(よしたけ)には、何の罪もない。
  わしは…、我が子を再び海に沈めることはできぬ」

 「お屋形様……」


 嫡子・義尊の頭をそっと撫でる主君の様子を見て、
 冷泉隆豊は胸を痛めた。

 冷泉隆豊もまた、月山富田城への遠征に同行して大敗を味わい、
 大内義隆と共に大内晴持の溺死を目の当たりにしたからだ。


 陶隆房や杉重矩ら武断派たちの遠征強行の進言を受け入れ、
 最愛の養嗣子を出雲の海にて失った大内義隆。
 狂い叫ぶ義隆を、冷泉隆豊たちは山口まで強引に連れ帰した。

 その時から大内義隆は武断派と距離を置くようになり、
 そして今、その陶隆房や杉重矩らに追い詰められている。

 運命とは、かくも非情なものであろうか。


 (もはや、これまでか……)

 冷泉隆豊はやるせない想いで、握り締めた両手を振るわせた。



 大内義隆一行は行き場を失い、
 深川湯本(=山口県長門市)にある
 瑞雲山の大寧寺(たいねいじ)へと向かうことにした。

 大寧寺は長らく大内氏が寄進をしていた曹洞宗の寺院で、
 三年前に異雪慶殊という僧が十三世の住持となっていた。
 

 大内義隆は、異雪慶殊に面会する前に、
 せめて乱れた鬢(左右の髪)だけはかき上げて整えておこうと、
 大寧寺の前にある池の傍で、兜を脱いで岩の上に置いて、
 池の水面を鏡代わりに自分の顔を映そうと覗き込んだ。

 しかし、揺れる水面に、自分の顔は映っていなかった。
 
 
 (私のこの世での武運は、もう残されてないのだな…)

 陰の揺らめく池を見つめる無言の大内義隆。
 その顔には、苦笑にも似た穏やかな微笑がこぼれていた。


 ――――後世、義隆が兜を置いたこの岩は「甲掛の岩」、
 義隆が覗き込んだ池は「鬢水池」と呼ばれるようになる。



 異雪慶殊和尚は、
 大寧寺に落ちてきた大内義隆を快く迎え入れた。
 
 大内義隆の表情を見た異雪慶殊は、
 義隆が既に死を覚悟していることを一瞬で悟る。


 異雪慶殊は少し話すだけで、義隆の篤学ぶりに驚いた。

 栄華に酔い、尚武を疎んじた愚君であるという噂されていたが、
 大内義隆の禅に対する知識や興味は学者のごとく深く、
 仁者の哲学を悟っているかのようであった。

 ちょっとした主従の心の違いが、大きな軋轢を産んだのだろう。
 その無常気も、大内義隆は既に受け入れているようである。


 義隆はかしこまって、異雪慶殊に無念無想の法談を求めた。

 死を前にした義隆に、和尚は人の臨終における心得を説く。
 聞き入っていた義隆は、静かに口を開いた。


 「私の命運は既に尽き、この世に思い残すこともありません。
  ただ、我が子・義尊は、まだ齢七つの幼い命。
  義尊だけは、仏門にでも入れて生き延びさせたいと思います」

 「分かりました。
  拙僧が他国までお連れすることをお約束致します」

 「かたじけない。和尚は、最後の我が師にございます」


 大内義隆は異雪慶殊の弟子となることを許され、
 その証として、瑞雪殊天という戒名を受けることになった。


 硯と筆を用意してもらった大内義隆は、
 心静かに辞世の句を書いた。


  「討つ人も討たるる人も諸ともに

   如露亦如電応作如是観」



 金剛般若経の一節に由来する漢文調の下の句で締めくくった直後、
 これまで風の音しか聞こえなかった境内の外から、
 いきなり大勢の鬨の声が響いてきた。

 陶隆房たちの軍勢が山口から続々と到着し、
 ついにこの大寧寺を包囲したのである。


 攻め入ってこようと思えばあっという間であるはずだが、
 包囲している軍勢は大声を挙げるばかりで、境内には入って来ない。

 首謀者である陶隆房は、やむなく主君の押し込みを謀ったが、
 主君である大内義隆の権威を簒奪しようと思ったわけではない。

 大内義隆を討ち取るわけではなく、立派な最期を願っており、
 自刃が確認できるまでは手出しをしないように指示してあるのだろう。

 鬨の声は、主君の自害を促す声でもあった。



 大内義隆は、仏前に座って香を焼き、
 静かに目を閉じながら、これまでの人生を思い返す。

 冷泉隆豊が、刀を抜いてその傍に控えた。

 義隆はゆっくりと目を開けて隆豊の目を見ると、
 何も言わずに微笑しながら頷く。


 そして、懐剣を握り締め、その刃で腹を横一文字に切り裂いた。

 貴族趣味に浸っていた大内義隆が
 最後に武人として見せた姿であった。

 
 冷泉隆豊はその立派な所作を目に焼き付けながら、
 刀を振り降ろして、主君の首を打ち落とした。


 大内義隆、享年四十五歳。

 六ヶ国の守護および従二位まで登り詰め、
 西国に大きな覇を誇った戦国大名・大内義隆の生涯は、
 こうして終わりを告げた。



 介錯を務めた勇将・冷泉判官隆豊は、
 首の落ちた主君から流れ出る鮮血に筆をつけて、
 手にした一切経の表紙に、一句を書きつけた。

 そして、大内義隆が焼いた香の火を、障子や板戸に吹き付ける。

 そのうち、義隆が自刃を果たした方丈は、
 鮮やかな炎に包まれ始めた。



 陶隆房の腹心である江良房栄や三浦房清たちが
 義隆追討の先鋒隊として大寧寺を取り囲んでいたが、
 遅れて総大将の陶隆房が到着した頃、
 境内に火の手が上がるのが見えた。


 「お屋形様…」

 陶隆房は、主君・大内義隆が自害したのだと悟った。

 そして一たび呼吸を整えると、全軍に突撃の合図を送った。
 包囲軍が一斉に大寧寺の境内になだれ込む。


 義隆の亡骸を守るのは、介錯をした冷泉判官隆豊をはじめ、
 黒川隆像、天野隆良、禰宜右延ら、わずか十一人の将だったが、
 この少数の家臣が、数百名の陶軍に勇敢に立ち向かった。

 そして次々と陶の軍兵を斬り伏せていくが、多勢に無勢、
 やがてその側近たちも
 次々と陶軍に討ち取られて、地に倒れていった。


 残る将は冷泉隆豊と黒川隆像だけとなった時、
 黒川隆像が陶隆房の姿を見つけると、
 「おのれ、奸賊!」と叫びながら刀を構えて突進した。

 しかし、そこに陶軍随一の猛将・江良房栄が立ち塞がり、
 黒川隆像を一刀の下に斬り捨てた。

 音を立てて黒川隆像の身体が地に倒れ落ちた時、
 陶隆房と江良房栄は、
 最後の将・冷泉隆豊の姿が消えたことにふと気がついた。


 「判官殿はあちらにございます!」と兵の一人が、
 障子が半開きになっている経堂のほうを指差した。

 陶隆房と江良房栄は経堂に歩み寄り、勢いよく障子を蹴り倒す。


 そこには、甲冑を外して立ち尽くしている冷泉隆豊の姿があった。

 見ると、立ったまま懐剣で自らの腹を十文字に斬り裂いている。
 鮮血を噴き出しながら、近づこうとする敵を睨みつける。

 大内家中で武勇の名高い陶隆房も江良房栄も
 そのあまりの迫力に声を失って踏み止まった時、
 冷泉隆豊は切り裂いた腹に自ら手を入れてはらわたをつかんだ。

 そして恨みの断末魔にも似た雄叫びを上げながら、
 隆豊は引きちぎった内臓を、陶隆房と江良房栄に投げつけた。
 思わず目を背けて、血まみれの内臓を手で払う二人。

 血に染まった冷泉隆豊は、何かを含んだ笑みを見せると、
 自らの喉を掻き斬り、そして前のめりに床に倒れ伏した。


 大内義隆に最後まで従った勇将・冷泉判官隆豊は、
 陶隆房たちの前で壮絶な最後を遂げた。
 享年三十八歳という。



 こうして、長門の大寧寺で大内義隆が自刃したことにより、
 山口の大騒乱は終止符が打たれた。


 時は、天文二十年(1551)九月一日。 

 この大事変を、後の世は「大寧寺の変」と呼んだ。



 たった一日にして決着のついたこの騒乱は、
 西日本の戦国時代の支配勢力図を大きく激変させることになる。


 運命の「厳島の戦い」まで、あと四年―――。



 (第五部へつづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [十九]
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 ■問田隆盛 (といだたかもり)

 大内家家臣。大内家の一族として石見国(=島根県西部)の守護代を
 務めたが、津和野(=津和野町)の吉見氏や益田(=益田市)の益田
 藤兼ら国人領主の勢力に押されていた。大寧寺の事変では、杉重矩ら
 と共に陶隆房の挙兵に加勢して主君・大内義隆を自刃に追いやる。

| 『厳島戦記』 | 17:47 | comments(0) | trackbacks(0) |









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