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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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厳島戦記(十七) 赤雲再来の巻


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 厳島戦記(十七) 赤雲再来の巻
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                       第四部「周防大政変」




 年が明けて、天文二十年(1551)正月。


 筑前国(=福岡県北部)守護代・杉興運を通して、
 ある一通の書状が、周防山口の大内義隆のもとに提出された。

 名を、「相良武任申状」という。


 昨年に山口を出奔して杉興運の庇護の下にあった相良武任が、
 対立激しい大内家臣団の事態の真相を全て暴露し、
 自身の潔白を証明する、という訴状である。

 七ヵ条にわたって書き記されたこの申状が、
 大内家が築き上げてきた大勢力を激しく揺るがすことになる。



 大内義隆に差し出された「相良武任申状」の内容は、
 要約するとこういうことだった。


 「今、大内家中は非常に混乱をしております。
  その混乱は、この相良武任と陶隆房殿の確執にある、
  といろんな人が思っているようです。
  しかし、私は陶殿に対抗しようとは思っていませんでした。
  
  そもそも、陶隆房殿に謀叛の気配あり、と言い出したのは、
  豊前国(=大分県北部)守護代の杉重矩(すぎしげのり)殿です。

  しかし、杉重矩殿はそれを私の讒訴だと言って責任転嫁し、
  今度は陶隆房殿に歩み寄るようになりました。

  陶隆房殿は、杉重矩殿が味方に付いたことにより、
  残る三家老の一人、内藤興盛殿にも働きかけ、
  大内家中の御家人や国人領主たちにも協力を仰ぎ、
  何やら隠れていろいろと画策しているようでございます。

  私は政争を逃れて杉興運殿のところに留まっておりますが、
  私に悪意はないのだということを、どうかご推察下さい」



 要するに、「自分だけは全く悪くないのですよ」という
 責任逃れの言いわけを並べ立てていたのである。



 この「相良武任申状」を受け取った大内義隆は、どうしたか。


 相良武任の申し様によると、家臣たちは勘違いに勘違いが重なり、
 お互いを警戒しているのであろう、と義隆は思った。

 陶隆房たち武断派も、相良武任のことを誤解しているのだろう。
 お互いの誤解を解いて仲良くしてもらいたい。

 そう思って、大内義隆は同年四月、
 筑前に滞留中の相良武任を、三たび山口に呼び返したのである。

 相良武任は、自分の訴えが認められたのを大いに喜んで
 堂々と周防山口に戻ってきた。



 大内家中の混乱の火種である相良武任が、
 三たび奉行衆に返り咲いたことで、
 陶隆房たち武断派の失望と憤怒は頂点に達した。

 もはや問題は、相良遠江守武任だけではない。
 その奸臣を平気で重用する大内義隆こそが悪政の元凶である。

 武断派の怒りは、ついに主君にまで向けられることになった。

 これまでの武断派は文治派と対立するだけ済んでいたが、
 とうとう、その対立を容認し改善の意思の見えない主君を
 その座から下ろすしかこの国を正す方法はない、
 と武断派の意見がまとまり始めた。

 もはや、大きな反発の嵐は止まらない。
 


 昨年九月には、陶隆房の謀叛の噂が街中に広がったが、
 今度はいよいよ本当に、その噂が真実に変わろうとしていた。

 隠居を申し出て周防冨田(=山口県周南市)に籠もった陶隆房は、
 富田若山城で挙兵のための軍備を整え始めたのである。


 そこには、かつて陶隆房とは犬猿の仲であった
 豊前国(=大分県北部)守護代の杉重矩の姿もあった。

 重矩にとっては、大内家中の混乱の原因を自分ひとりに
 押し付けた相良武任がどうしても許せないし、
 またそれを平然と了解する主君・大内義隆にも失望していた。

 大内義隆は陶隆房と相良武任に絶大な信頼を置いているから、
 家中の取りまとめのためには杉重矩を討つのが一番早い、
 という判断を下すのは目に見えている。

 かつては対立していた陶隆房に助力するしか、
 自分が生き延びる手はない。

 こうして、重臣の一人・杉重矩も叛意を大きく募らせていった。



 だが、そんな事態になっても、大内義隆は平然としていた。

 万が一、武断派筆頭の陶隆房が暴走したとしても、
 評定衆はその専横を許さない仕組みになっていると考えていた。
 
 つまり、陶隆房の好敵手として相良武任を置いているし、
 また陶氏以外の三家老に、杉氏、内藤氏が睨みを利かせ、
 また大内庶流の問田隆盛と、新参守護代の弘中隆包も
 評定衆の中にいるから、互いが牽制し合う仕組みである。

 この評定衆の機能は陶隆房も分かりきっていることだから、
 隆房も勝手に暴走はしないだろうと、信じていたのである。

 だから、危機感がない。


 三家老の一人である長門国守護代の内藤興盛は、
 その娘が大内義隆の側室に上がり、
 また嫡子隆時の娘、つまり孫娘が陶隆房に嫁いでいるので、
 陶隆房に対抗できると思われる唯一の宿老である。

 その内藤興盛も、もはや家中の揺れは陶隆房の私憤ではなく
 相良武任を平気で復職させる大内義隆にあると見て、

 「子の大内義尊(よしたけ)に家督を譲り、
  いったん隠居をして、混乱を収束させてはどうか」

 と義隆に進言した。

 しかし嫡子義尊はまだ七歳。義隆は興盛の進言を退けた。


 また、武断派と文治派の仲裁役にあった水軍の将・冷泉隆豊は、
 周防富田で軍備を整えているという陶隆房が
 いつ山口に攻め込んでくるか分からないので、
 機先を制して富田若山城を取り囲むべきだと何度も提案したが、
 これも義隆が「隆房を信じるべし」と取り合わない。


 かくして、大内義隆は山口を揺るがすこの一大事に、
 これまでと変わらず貴族の接待や芸能の宴にばかり注力し、
 何一つ有事への備えを成さなかったのである。



 天文二十年(1551)、八月二十八日の夜。


 周防山口の大内御殿の上空に、赤く光る大きな雲が巻き起こった。

 その赤雲の下、御殿に併設された築山館に、
 大内義隆直属の衛兵たちが続々と集まってきた。

 忠臣・冷泉判官隆豊が、義隆直属の諸将たちに呼びかけて、
 築山館にいる大内義隆を守るべく、軍勢を導き入れたのである。


 冷泉隆豊は闇夜に怪しく光る赤雲を見上げた。

 かつて、陶隆房による謀叛の噂が山口を駆け巡った時、
 弘中河内守方明と共に大内義隆の御前で見たのと同じ妖雲だ。


 「冷泉判官、これは何事じゃ」と慌てて出てきた大内義隆に、
 冷泉隆豊は膝をついて、

 「陶尾張守隆房、富田若山城にて挙兵致しました!
  陶軍は、富田からこの山口へ進軍しておりまする。
  我ら、一丸となってお屋形様をお守り致します」

 と伝えた。


 隆豊の報告に、大内義隆の顔は一気に青ざめた。

 陶隆房が謀叛。まさか――――。
 信じられない顔つきで、義隆は夜空を見上げた。

 龍にも鬼にも似た、赤光を放つ大きな雲がうごめいていた。
 一年前の、隆房謀叛の噂が脳裏をよぎる。

 今度は、隆房が富田若山城を出撃したのは事実である。

 さらに、その陶隆房と対立し睨みを利かせていたはずの
 豊前国守護代・杉重矩もその反乱軍に混じっているという。

 怒り心頭に達した猛将が、この山口に迫ってくる……。

 大内義隆は、震えながら膝から崩れ落ちた。



 「我らが運も、お屋形様の運も、天道の計らいである。
  大内の末永き繁栄のため、国政を正しつかまつる」

 陶隆房は、周防国近隣の国人領主たちの協力を取りつけ、
 世直しと称して、富田若山城から二軍を率いて進軍。

 一隊は東口から、一隊は南口から、山口の街へなだれ込んだ。

 そして小隊に別れ、大内義隆と相良武任に通じる者の邸宅を
 それぞれが襲っていく。

 雅な山口の街は、陶の軍勢の襲来で大混乱に陥った。



 その混乱の中、山口の街中の一寺に飛び込んだ武者がいた。

 黒い頭巾で頭部を覆い、防具を最小限にまとって体を軽くし、
 両手に槍を持ったまま堂内に走りこんで来た。


 「周良殿っ。策彦周良殿はおられぬかっ…!」
 
 黒頭巾のその男は、一人の僧の名を叫んで探し回る。

 顔を隠したその武者の正体は、弘中河内守方明であった。
 方明は、陶軍の襲来に荒れる山口の街の中にいたのである。
 

 勘合貿易の使節として遣明船にて日明を行き来した
 臨済宗の僧・策彦周良は、どうやらこの寺にはいないようだ。

 方明は、奥の壁を見た。

 以前、ここで策彦周良に面会した時には、この壁には
 「秋景冬景山水図」という二枚の水墨画が掛かっていたはずだが、
 その画は二枚ともそこから消えていた。

 どうも、数日以上は空けている様子である。


 そうか…。

 あの時、兄の弘中隆包が策彦周良に渡した書状には恐らく、
 山口の街に近く大混乱が起こるから身を隠すようにと、
 助言をしていたに違いない。

 周良法師は文の内容に「あい分かった」と言った。
 きっと隆包の提案を受けて、壁に掛かった逸品を持って、
 どこか京あたりに旅立ったのであろう。

 きっと、策彦周良は無事である。



 方明が安堵の息をもらしたその瞬間。

 入口のふすまが蹴破られて、数人の武士が上がりこんできた。
 その先頭にいる大男が大股で歩み寄りながら言う。

 「貴様、誰だ?」


 そう言った巨体の男は、大内家中でも随一の猛将として知られる、
 陶隆房の家臣・江良丹後守房栄であった。

 (江良丹後か…。まずいなー)

 弘中方明は黒頭巾に手を当てて、さらに深く顔を隠した。


 寺社の中にまで、陶軍はなだれ込んでくる。

 大内義隆は、以前から山口領内の寺社に多額の寄進をしていた。
 そのため陶隆房は、山口の神社や寺院も、
 大内義隆の息のかかる者として、各小隊に襲撃を命じていたのである。

 江良房栄の一隊は、大内義隆が策彦周良が与えたこの寺院も
 義隆派と見て襲いに来たというわけである。


 方明の心臓が、大きく鳴った。

 方明はおろか、大内家臣の中にも恐らく勝てる者は一人もいない。
 一年前に首を締め上げられたところを陶隆房に助けられたが、
 その旧知の隆房は今はここにはいない。



 歩みを進めてきた江良房栄は、突然に豪声を轟かせて、
 常人ならば両手でしか持ち上げられそうにない大太刀を
 右手だけで振り上げながら、目の前の黒頭巾の武者に突進した。

 その巨体からは考えられぬ速度で迫ってきた江良房栄が、
 頭上から大刀を豪快に振り下ろす。

 完全に踏み込みに遅れた方明は、とっさに槍を構えるが、
 剛力を正面に受けられず、その大刀筋を右へと受け流した。 

 空を流れた江良房栄の大太刀は、素早くその刀身をひねって、
 方明の身体をえぐるかのように突き出されてきた。

 後方に跳躍して、間一髪でその刀先から逃れる方明。
 「……!」

 その背に壁を感じた。


 江良房栄は血走った目で、壁を背にする相手を見下ろしながら、
 さらに大太刀を素早く振り下ろした。

 轟音がうなる。

 荒れ狂う猛将を前に、
 弘中方明は絶体絶命の危機に追い詰められていた――――。



 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [十七]
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 ■杉重矩 (すぎしげのり)

 大内家家臣。豊後国(大分県北部)守護代として北九州の支配に従事
 する。杉氏に並んで三家老に挙がる周防国守護代の陶隆房を長らく
 敵視していたが、相良武任ら文治派の台頭によって隆房派に歩み寄る。
 周防山口の大政変の後に、隆房主導の政治の犠牲者になってゆく。
| 『厳島戦記』 | 06:30 | comments(0) | trackbacks(0) |









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