Calendar
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< September 2018 >>
CATEGORIES
ARCHIVES
LINKS
PROFILE
SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
OTHERS
Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
<< 厳島戦記(十五) 六国紛擾の巻 | main | 厳島戦記(十七) 赤雲再来の巻 >>
厳島戦記(十六) 周防暗影の巻


―――――――――――――――――――――――――――――――――
 厳島戦記(十六) 周防暗影の巻
―――――――――――――――――――――――――――――――――
                       第四部「周防大政変」




 天文十九年(1550)十一月。

 前々月に奉行人筆頭の相良武任が九州へ出奔してから、
 周防山口(=山口県山口市)の大内家中の政局争いは、
 いったんは収束したかのように見えた。

 ところがこの月、また一つ、異変の種が芽生えた。

 武断派の筆頭である周防国守護代・陶隆房が、
 嫡子に家督を譲って隠居をする、などと言い始めたのである。


 「そんな馬鹿な」

 大内水軍を率いてきた部将・冷泉隆豊は怪しむ。

 当の陶隆房はまだ三十歳で、長男は十歳にも満たない。
 所領の周防冨田(=山口県周南市)に隠居と称して引き篭もり、
 軍兵を整えて蜂起するに決まっている。

 冷泉隆豊は隆房の陰謀を許してはならない、危険であると、
 主君・大内義隆に繰り返し注進したが、
 義隆は隆房の叛意など全く信じておらず、その言を退け続けた。


 陶隆房は、隠居に際して直接面謁してご挨拶を差し上げたい、
 ということで大内御殿に出仕することが決まった。

 「討つしかない」、と冷泉隆豊は覚悟を決めた。

 陶隆房は大内旗下きっての猛将であるから、
 真正面から力で挑んでも、恐らく誰も叶わない。

 そこで、隆房が大内義隆に拝謁しているところを狙って
 脇差の一刺しで仕留め、自分も御前で腹を切ろう。
 それがお屋形様のためなのだ、と冷泉隆豊は腰の刀を鳴らした。



 その刻がやってきた。

 冷泉隆豊は、大内義隆に万が一のことがあってはと、
 陶隆房の面謁の場に同席することを義隆に強く願い出ていた。

 義隆は「万が一のことなどないわ」と笑いながらも、認めた。

 そこで冷泉隆豊は、陶隆房の出仕よりも先に謁見の間に到着し、
 義隆の一段下で姿勢を正して、隆房を待ち構えた。

 冷泉隆豊の額に、汗がにじむ。


 そこへ、遠くからドカドカと大きな足音が近づいてきた。
 まだ姿も見えぬうちに、その音を聞いて、
 冷泉隆豊は「しまった…!」と息を飲んだ。

 陶隆房は一人ではなく、大勢の家臣を引き連れてきたのである。
 七十人、いや百人はいるかもしれない。

 面謁に際しては陪臣たちは別室に控えるのが常識である。
 しかし、小座敷衆は恐らく止めることができなかったのだろう。

 陶隆房が最前にどかりと座り、そのすぐ脇には
 江良房栄、三浦房清、宮川房長といった屈強の陶家臣の部将たち、
 その後ろには百人近い陶軍下の諸将が次々と腰を下ろした。


 「お屋形様。隆房、お暇乞いのため参上つかまつりました。
  これまで粉骨砕身、お屋形さまに仕えてまいりましたが、
  最近は病気になりがちのため、富田の地に帰り住んで、
  山々に囲まれながらゆるりと養生する所存でございます」


 白々しい隠居の理由を並べ立てる陶隆房の姿を見て、
 冷泉隆豊は歯噛みをしながら、拳を握り締めた。

 この場で陶隆房と刺し違えようと覚悟をしていたが、
 今ここで隆房を斬ることに成功したとしても、
 江良や三浦などの郎等が大内義隆に斬りかかるであろう。
 うかつに動くことはできない。


 「隠居を致すとしても、私の心は常に大内にあります。
  大内に何かある時は必ず、この家臣共が力になりまする。
  私も富田の地から精一杯大内を支えて参りますゆえ」

 と語る陶隆房を、大内義隆はすっかり信じきっている。

 これまで政敵であった相良武任が九州へ遠ざかったので、
 緊張の糸が切れてゆっくりと体を休めたいのであろう。
 義隆は、心の底から陶隆房の申し出をそのように受け止めていた。


 「ゆっくり療養して、また壮健な顔を見せてくれよ」
 と、大内義隆は隆房に優しく声をかけた。

 (壮健な顔、そのものではないか…)と冷泉隆豊は思ったが、
 まるでその心の中を見透かしたかのように、
 陶隆房は隆豊へと視線を移したので、隆豊は多少驚いた。
 

 「冷泉殿。貴殿と共にお屋形様をお守りしていきたかったが、
  残念ながら病の身ゆえ、富田へ隠居させて頂く。
  しかしながら、大内の行く末は常に案じておりますぞ」

 「…ご健勝をお祈り致す」


 冷泉隆豊の口からは、ありきたりの返事しか出てこなかった。

 陶隆房は、再び大内義隆に頭を下げると、家臣と共に退出した。

 大勢の武士たちの足音が遠ざかっていくのを聞きながら、
 冷泉隆豊は、何も果たせなかった無念を噛み締めるのであった。


 陶隆房が周防富田へと隠居したことは、
 山口の町人たちや農民たちの間にも様々な憶測を生んだ。

 近いうちに大きな騒乱が起こるのではないだろうか…、
 と多くの住民がその前兆を感じ取っていた。



 安芸国(=広島県西部)守護代・弘中三河守隆包の命を受けて、
 弟の弘中方明が周防山口に再びやって来たのは、
 ちょうどその頃だった。

 方明が向かったのは、長門国(=山口県西部)の守護代である
 大内家の宿老・内藤興盛の私邸である。
 
 弘中隆包・方明兄弟の母の実家は内藤家であり、
 方明たちにとって内藤興盛は母方の曽祖父にもあたる。

 弘中隆包は血縁である内藤興盛と頻繁に連絡を取り合っており、
 今回も方明は隆包の手紙を携えてやってきたのである。

 「おう、方明か。入れ入れ」という興盛の声に招かれて、
 方明は興盛の私室へと入ると、そこには数人の先客がいた。

 
 彼らの姿を見た瞬間、方明は無意識に身構えてしまった。

 方明がこれまでに見たことのない衣服を身にまとっている。
 中央の長身の男は、高い鉤鼻に青い瞳。

 (異人か…?)
 と、方明は警戒するかのようにその男の顔を見つめた。

 明らかにいぶかしんでいる顔つきの方明に、
 その長身の異邦人は優しく微笑む。

 内藤興盛は、方明に異国から来たその男を紹介した。


 「フランシスコ・ザビエル殿だ」

 「腐乱しす…、え?」

 「フランシスコ・デ・ザビエル様でございます」


 ザビエルという名を紹介された異邦人の横に控える青年が、
 改めてその名を紹介し直し、そして自分も名乗る。

 「そして私は、ザビエル様に仕える、ベルナルドと申します」


 いやいやいやいや、おまえはどう見ても日本人だろ。
 何なんだ、べるなるどって。

 弘中方明は、全くわけが分からない。

 以前から文化への理解が深い内藤興盛が、
 自分が理解できた限りのことを方明に教えた。



 フランシスコ・ザビエルは欧州スペインの出身の宣教師で、
 キリスト教という宗教の布教のためにポルトガルを発った。

 インドのマラッカ地方で布教活動をしていたところ、
 ヤジロウという若者に出会った。
 キリスト教がまだ知られていないという日本からの密航者だった。

 ヤジロウの好奇心と、日本という国に興味をもったザビエルは、
 ヤジロウの故郷である薩摩国(=鹿児島県)へ向かった。

 そして天文十八年(1549)、薩摩にたどり着いたザビエルは、
 薩摩の守護職・島津貴久に謁見し、薩摩での布教を許可された。

 その薩摩国内の布教活動で出会った町内の一青年が入信し、
 ザビエルの弟子となって随行するようになり、
 彼はザビエルから「ベルナルド」という洗礼名を授けられた。

 ザビエルはヤジロウやベルナルドなどの日本人信徒を連れて、
 肥前平戸(=長崎県平戸市)、そして周防山口へやって来た。

 そして、薩摩で島津貴久に会って布教の許可を得た時のように、
 この地の守護・大内義隆に拝謁を求めようとして、
 文化に理解のあるという重臣・内藤興盛を頼ってきたのである。

 異国の珍しい文化には目がない大内義隆ならば喜ぶだろうと、
 内藤興盛はザビエル一行を義隆に会わせることにした。

 義隆は案の定、喜んでザビエルたちを謁見の間に迎えたが、
 ヤジロウらの通訳を通してキリスト教の教義を聞いていた義隆は、
 突然に激怒して席を立ってしまった。

 キリスト教ではいわゆる「男色」が罪深きものである、
 ということを耳にしたからである。

 当時の戦国の武士の世では衆道、つまり男性同士の同性愛は
 当然であったし、大内義隆も大いに男色を好んでいたから、
 それを罪だと指摘されては、義隆にとっては面白くない。

 まさか許可を得られない理由が男色の指摘に出てくるとは
 全く予想もしていなかったザビエルは、うなだれて大内御殿を出て、
 内藤邸に再び戻ってきた、というわけである。



 そのようなことを繰り返し説明されても、
 方明には意味が全く分からない。

 ポルトガルやマラッカといった地名が
 一体どれほど遠い地なのかもよく分からないし、
 神仏以外の絶対神の存在があるということも理解できない。

 いちいち仏教や神道に置き換えて説明されなければ分からないし、
 キリスト教というものが何なのかも結局つかめなかった。


 ザビエルは、京の都へ行きたいと言い出した。

 我が国の人間からすると、守護職は大きな権威であるが、
 異国の人間から見ると、守護職は単なる一領主に過ぎない。

 その領主たちを束ねる「日本国の皇帝」に謁見したい、
 とフランシスコ・ザビエルは、内藤興盛に自分の考えを述べた。

 さすがに京におわす天皇へつなぐ力など無く、興盛は困る。

 「上洛なんて、あまりお勧めできないけどなあ…」と
 方明は助言するが、ザビエルは「それでも是非」と譲らない。


 そこで方明は、ザビエルの上洛を手助けすることにした。
 ザビエルのためというよりも、
 内藤興盛の困惑を少しでも解消したいという気持ちからである。


 「我が妻の父は瀬戸内の商人で、富豪たちに人脈が広いから、
  堺(=大阪府堺市)の富豪を紹介してくれるよう頼もう。
  堺は京に近い貿易港だから、堺の商人の知遇を得れば、
  京の内裏に通じる道が開けるかもしれない。自分で行くか」

 という提案をしたところ、ザビエルは大いにうなずいた。



 弘中方明は、兄に命じられた山口での所用を急いで済ませると、
 フランシスコ・ザビエル一行を警護しながら、
 所領の周防岩国(=山口県岩国市)まで帰り着いた。

 岩国では、堺へ向かう船が用意されていた。


 岩国には、錦川という美しく澄んだ清流が流れている。

 高台にある亀尾城から瀬戸内に注ぐ錦川を望みながら、
 フランシスコ・ザビエルは岩国領内の美しさに見惚れた。

 領民たちは皆笑顔で、先ほども弘中方明の帰還を喜んで出迎えていた。
 武士と平民が階級を超えてこんなにも笑顔で交わる場所など、
 ザビエルは欧州からの長い行程の中で初めて出会ったかもしれない。

 どうして領民たちが身分を越えて領主や武士たちを慕うのか。
 その理由を、ザビエルは方明に尋ねた。

 方明はそのようなことを、考えたこともなかった。
 昔ながらの光景だから、何も不思議に思ったことがないのである。

 方明は何を答えればよいのかためらったが、
 錦川の先に見える、川辺の森の辺りを指差した。


 「?」

 「この岩国の鎮守である、白崎八幡宮があの場所にある。
  我が兄は、この岩国の領主である上に、
  あの白崎八幡宮の大宮司を務めている身なのだ。
  だからこそ神の名に恥じぬ政事を行なっているし、
  領民もそれを信じて慕ってくれるのだろう」


 単なる政教合一ではない。
 宗教を政治に利用し政治を宗教に利用しているわけではなく、
 領民に慕われることで大宮司に置かれている。

 そういうことを、方明は言いたかったのであろう。
 その真意は、どことなくザビエルに通じていた。


 「今から岩国を発って堺へ向かってもらうが、
  その途中に、厳島という美しい島があるから見るといい。
  島全体が御神体であり、我々も必ず近くを通る時は参拝する。
  白崎八幡宮の大宮司の一族である我々であっても、
  厳島に行けばその御神体に戦や船旅の無事を祈るんだ。
  どの神がいてどの仏はいない、という考えは我々にはない」


 方明は宗教的な話は得意ではないが、
 我が国の仏や神の話で思いつくことは片っ端から語った。

 通訳をしているヤジロウやベルナルドももともと町人だから、
 僧侶や神職らの学術的な話を通訳するのは苦手だったが、
 方明の話すような一般的な考えを訳して伝えるのは楽である。

 ザビエルは、方明の言葉全てに耳を傾け、
 「この国の民は、純粋で美しい」、と思った。

 弘中方明の熱心な説明に、何かの糸口を見たのかもしれない。
 この国で布教をしていくことに、一層の勇気が湧いてきたようだ。


 ザビエルは、港まで送ってきた方明と堅く手を握り締めると、
 ヤジロウやベルナルドたちと共に、岩国を発って堺へと向かった。

 瀬戸内の海へ小さくなっていく船を見つめながら、
 弘中方明の心の中に、何か無常感のようなものが湧き起こる。

 ザビエルは、何十日間という長い船旅を要する広い海を渡ってきた。
 自分は水軍を率いる身ながら、瀬戸内海という世界しか知らない。
 自分はなんという小さな世界に生きているのだろう。

 そして、この周防を拠点に大きく拡がった大内義隆の勢力図も、
 様々な異国を見てきたザビエルの目には、
 それほど大きなものとは映っていないだろう。
 
 今、山口の街は動乱の前兆が見え隠れしている。
 もしかしたらこの騒乱も、
 ザビエルの歩んできた異国の世界からすれば、
 本当に小さなものではあるまいか。

 いつも耳にしている岩国の浜の波音が、
 今の弘中方明には、
 どこか世界の広さを感じさせるものに聞こえるのだった。
 

 フランシスコ・ザビエルと弘中河内守方明は
 この後また再会を果たすことになる。



 陶隆房が隠居と称して富田若山城へ引きこもり、
 フランシスコ・ザビエルが岩国から堺へと船で向かい、
 こうして天文十九年(1550)という年は暮れていった。


 そして天文二十年(1551)。

 戦国の世にあって栄華を極める周防山口の街に、
 動乱の暗影漂う一通の書状が舞い込むことになる――――。


 (つづく)



 ――――――――――――――――
  『厳島戦記』武将列伝 [十六]
 ――――――――――――――――

 ■フランシスコ・ザビエル

 カトリック教会イエズス会の宣教師。ポルトガルを発ってインドに着き、
 東洋に住む多くの人々をキリスト教へと導いた。やがて日本の薩摩国
 (=鹿児島県)を経て周防山口へと辿り着き、山口を日本でのキリスト
 教の布教活動の拠点と定めた直後、そこで起こる大政変に遭遇する。
| 『厳島戦記』 | 11:58 | comments(0) | trackbacks(0) |









http://blog.timestage.net/trackback/1397096