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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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厳島戦記(十五) 六国紛擾の巻

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 厳島戦記(十五) 六国紛擾の巻
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                       第四部「周防大政変」




 安芸国吉田(=広島県安芸高田市)の国人領主・毛利元就は、
 天文十五年(1546)に長男の毛利隆元に家督を譲って
 隠居してからというもの、公にはその顔を出さなかった。

 だが、毛利隆元を当主として表舞台に立ててはいるものの、
 実際にはその陰で着々と謀略を重ねていた。


 陰での動きを一部たりとも漏らされたくない元就は、
 隆元ら毛利一族の者や限られた重臣にしか会わなかったが、
 安芸国守護代の弘中三河守隆包とは頻繁に会っていた。

 その理由には毛利家と弘中家の親交の長さもあるが、
 何よりも弘中隆包が毛利家にとって
 大きな利益をもたらしている存在だからである。
 


 安芸守護代の座に就いた弘中三河守隆包の政策は、
 毛利ら安芸の国人衆たちにとって喜ばしいことばかりだった。

 山名理興の守る備後国(=広島県東部)の神辺城を落とすなど、
 自ら軍を率いて芸備の安定に東奔西走してきた弘中隆包だが、
 その隆包が特に力を入れたのが、安芸国内の産業の振興であった。


 まず海沿いの街には海運と漁業の発展の契機を多く与えた。
 その中でも大規模な事業となったのが、小さな船着場しかなかった
 佐東大田川(=太田川)流域に、大規模な港を建造したことである。

 そのためには大きな投資が必要であったが、そこには
 実弟・弘中方明の義父、堀立直正たち瀬戸内の商人たちから
 多大な協力が集まり、海運の良拠点ができあがっていった。


 さらに、山あいの集落にも殖産興業の重要性を説いて回り、
 その土地土地を治める国人領主たちと共に、農工業を育てた。

 例えば、隆包が安芸守護代に任じられて入城した槌山城のある
 西条(=広島県東広島市)は閑散とした山村であったが、
 隆包がその山々の湧き水の美味しさを知り、これを活かそうと、
 国外から熟練の杜氏を招いて、酒造りを根付かせることにした。

 また、弘中氏の元来の知行である周防岩国(=山口県岩国市)で
 農作物の栽培に適した堆肥の実験を成功させると、
 自らその実物を安芸国人衆の領内に持ち込んで技術と共に伝えた。


 領内の農工産業の振興の礎を作ってくれるわけだから、
 弘中隆包の来訪を、国人衆は無視せず喜んで迎えた。
 隠居と称して姿を消した毛利元就も、例外ではなかったのである。



 天文十九年(1550)九月、
 周防山口(=山口県山口市)に謀叛騒動が起こっていた頃、
 弘中隆包は吉田郡山城を訪れていた。

 隆包は常に自ら現場に足を運ぶ、珍しい守護代である。
 訪れた先から得られる領主や領民たちの声が、
 国内行政に役立つ何よりの情報であると分かっていたのだろう。

 この日も、当主の毛利隆元やその重臣たちだけではなく、
 普段は姿を見せない毛利元就も出てきて隆包を迎えた。


 「元就殿、今秋の吉田は、見渡す限り五穀豊穣のようですな。
  おめでとうございます」

 「いえ、これも守護代弘中殿のお力添えのおかげです。
  一同深く、弘中殿に感謝しておりまする」  


 毛利元就は、隠居後は一族と重臣しか入れなくなった私室に
 弘中隆包を招き、嫡子隆元と共に仲良く酒を酌み交わした。


 別室に控える毛利家の重臣たちは、気が気でならない。

 つい先月、毛利家中で大きな発言権を持ち専横を見せていた
 家臣・井上元兼の一族をことごとく誅殺するという一騒動が
 領内で起こったばかりだったからである。

 このことに対し、安芸国安定に走り回る守護代の弘中三河守は
 どのような沙汰を降すのかを、毛利家臣たちは恐れていたのだ。


 しかし、この話は弘中隆包と毛利元就の間で早々に決着していた。
 むしろ隆包が後押しをしたとも考えられる。

 弘中隆包は、安芸国人衆の中でも元就や隆元が率いる毛利家に
 勢力を持たせるのが、安芸国内安定の早道だと信じていた。

 そこで、周防山口の大内義隆にもその旨を進言して許可を得て、
 毛利家の成長を積極的に支援していたのである。


 毛利元就が隠居して、長男の隆元を毛利家当主にした後、
 次男の元春を吉川家後継者、三男の隆景を小早川家当主とし、
 毛利三兄弟に三家を抑えさせた時も、弘中隆包は大いに協力した。

 天文十八年(1549)、大内家重臣で長門守護代の内藤興盛の末娘を、
 いったん主君・大内義隆の養女とした上で、
 毛利家の新当主となった毛利隆元に嫁がせる手助けもした。
 大内家と毛利家との結びつきをより強めさせたのである。

 翌十九年(1550)には、吉川元春に家督を譲って隠居していた
 吉川氏前当主・吉川興経を廃することを容認。

 また、木村城の竹原小早川氏の家督を継いでいた小早川隆景に、
 小早川本家である高山城の沼田小早川氏の盲目の当主・繁平の妹と
 婚姻を結ばせることによって、
 小早川隆景を沼田・竹原の両方の小早川氏当主として認めた。

 そして、毛利家中で専横を振るう家臣・井上元兼の誅殺も認可し、
 「毛利両川」の三家の磐石を支えたのである。

 弘中隆包の指導の下、名実共に、
 毛利家は安芸国人領主たちの盟主となっていった。


 お隣りの石見国(=島根県西部)では、
 守護代の問田隆盛(といだたかもり)が全く権力を行使できず、
 国人領主の吉見正頼や益田藤兼らの勢力を抑えられずにいたから、
 それに比べると安芸国の守護代・弘中隆包と
 国人領主筆頭の毛利元就の信頼関係には、格別の深さが見えた。



 毛利元就、毛利隆元が守護代の弘中隆包と酒を交わしながら
 今後の政策について話し合っていた頃、
 隆包の弟・弘中河内守方明が、吉田郡山城に駆け込んできた。

 方明は、隆包の代役として周防山口へ行って
 守護職大内義隆に謁見してきたのだが、
 隆包が本拠の西条槌山城を空けて吉田郡山城に向かったと聞き、
 直接吉田郡山城の兄のもとへ山口から駆けて来た。

 「河内守殿、よくぞ参られた」と、
 元就は隆包の隣りに一席を設けて、方明に勧めた。
 「これはこれは」と、方明は普段の明るさで歓待を受ける。


 「武任殿の行方が消えたことまでは、早馬で既に聞いた」
 と、弘中隆包は方明に言った。

 周防山口の動向は安芸国の命運も左右することである。
 毛利元就も隆元も、方明からの続報に耳を傾ける。

 方明の口から、その後の様子が伝えられた。


 「相良武任は、九州は筑前国(=福岡県北部)の守護代、
  杉興運(すぎおきかず)殿の下に逃げ込んだようです」

 「興運殿のところか…」


 弘中隆包は、方明からの報告を聞いて深く息をつく。

 そして対面に座る毛利元就も、
 これから起こる事態を憂慮しているのか、眉をひそめた。



 大内家の行政最高機関でもある「評定衆」には、
 六国六名の守護代たちと、相良武任たち奉行人が列席するが、
 文治派の筆頭の相良武任にとって有利だったのは、
 武断派の守護代たちにもそれぞれ権力争いがあったからである。

 陶家・内藤家・杉家の三家は、特に「三家老」として権威を誇る。

 その筆頭である陶隆房は、内藤家から妻を娶っている関係で、
 内藤家との結びつきを強めようと画策しているが、
 残る杉家は、陶隆房とめっぽう仲が悪い。

 杉家からは、筑前国守護代の杉興運、そして
 豊前国(=大分県北部)守護代の杉重矩(すぎしげのり)という
 九州二国の守護代職が輩出されている。

 杉興運は、大内義隆への忠節一筋の宿老であったから
 陶隆房の権力に対しては我関せずという立ち位置だったが、
 杉重矩はなぜか陶隆房と一触即発の仲の悪さだった。


 陶隆房の権力に対抗するために、
 相良武任は他の守護代を味方につけたいと思っているから、
 武任が真っ先に頼るのは隆房と犬猿の仲である杉重矩であろう
 と、大半の人が予想していた。

 だが、武任は杉重矩ではなく、杉興運に取り入ったという。

 この事が今後どのような事態になってしまうのか、
 この時はほとんどの人間が予測できなかったに違いない。



 「なぜ武任殿は、豊前の重矩殿を頼らなかったのか…」

 弘中隆包は、左手に持つ杯の中に揺れる酒を見つめている。

 難しい理屈が苦手な方明は案の定、
 兄の方明が何をそんなに心配しているのかよく分からない。
 「武任を無理やりとっ捕まえて、二、三回しばきあげればいいのに」
 などと安直に考えるのだが、さすがに口には出せない。


 毛利元就や毛利隆元はというと、相良武任は九州ではなく、
 弘中隆包を頼って安芸へやって来るかもしれないと踏んでいた。

 弘中隆包は陶隆房と幼馴染とは言え、政治においては中立派で、
 先の出雲遠征の際にも、武任と反対意見を共にしたと聞く。
 義理難い上に安芸の経済力を大いに高めている存在とあって、
 取り入るには絶好の人物であるとも言える。

 だがこの時の毛利元就は、その情報収集力をもってしても、
 大内義隆の御前で弘中方明が相良武任に苦言を浴びせたことなど
 全く知らなかったから、しょうがない。



 どちらにせよ、相良武任が周防山口を出奔して、
 筑前守護代の杉興運の庇護の下に入ったことは分かった。


 安芸国内が政治面でも経済面でももうすぐ落ち着く頃である。
 大内本国の情勢一つで、その安芸の安定が崩れてしまっては、
 これまでの努力が灰燼に帰してしまう。

 弘中隆包は守護代として安芸国内にいながらも、
 評定衆の一人として中央の動向に手を打たなければならない。

 そんな責任を感じながら、弘中隆包は自分の考えを口に出す。

 
 「何かが起こるとすれば、年が明けて正月頃だろう」

 「何が起こるのですか」と、元就は杯を置きながら聞いた。

 「分かりませぬ」

 「九州にいる相良殿から、事が起こりますか」

 「恐らく。相良武任殿が九州から動き始めるとすれば、
  年明けの頃になるのではないでしょうか。
  元就殿、万が一のために軍兵の準備をしたほうがようござる」

 「年明けですな。分かり申した」


 毛利元就は、守護代弘中隆包の指示を受けてかしこまった。
 隆包には何かが見えているのであろう。

 頭の中の考えを整理した弘中隆包は、横に座る方明に言った。


 「私はまだ、この安芸から離れることができぬ。
  方明には私の代わりに、また山口に向かってもらうことになるぞ」

 「山口ですか」

 「そうだ。次は、興盛殿のところにも行ってもらう」


 方明への隆包の言葉の中に、
 今度は長門国守護代の内藤興盛の名が出た。

 毛利隆元にとっては昨年に娶った妻の父でもあるが、
 大内家中では陶隆房に並ぶ権力を持つ宿老である。


 西国を制覇する大内の大国が今、大きく動こうとしている。
 遠く九州まで巻き込む一大事の前兆が、うごめく。

 これまで安芸吉田の一国人に収まっていた毛利元就父子は、
 その広大な情勢のうねりを感じて、息を飲んだ。



 弘中隆包は、弟の方明と共に西条槌山城へと発った。

 毛利元就と隆元は、郡山城の城門まで隆包兄弟を見送り、
 その姿が見えなくなるまで、頭を下げて見届けた。

 
 「惜しいのう…」

 弘中隆包らの姿が見えなくなった頃、
 元就がふとつぶやいた。

 隆元は「えっ?」と元就の横顔を見る。
 元就は言葉を続けた。


 「弘中殿は、本当に我ら毛利のことを心底信じ、
  毛利と共にこの安芸の国づくりを成し遂げようとしている。
  だからこそ、あのような周防本国の大変な事情も、
  我らの前で打ち明け、相談してくれるのだろう」

 「はい」

 「ありがたいことよ…」


 毛利元就はそう言って目を細めると、踵を返して城内に戻った。

 隆元は、弘中兄弟の向かった方角へ再び目をやった。
 もちろん隆包たちの姿はもう見えない。


 父は、何に対して「惜しい」と言ったのであろうか……?
 父元就は、毛利家当主である自分にも伝えていない
 何か重大なことを抱えているのではないか……?

 激しい胸騒ぎが、毛利隆元の内に湧き起こっていった。



 九州筑前の杉興運の下へと逃げ込んだ相良武任が動きを見せるのは、
 弘中隆包の読みの通り、年明けになるのだが、

 それより二月前の十一月、
 隆包の代わりに弟の方明が再び向かった周防山口では、
 再び妙な騒ぎが起こっていた―――――。


 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [十五]
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 ■杉興運 (すぎおきかず)

 大内家家臣。筑前国(=福岡県北部)守護代として、北九州の軍事と
 貿易港博多の統治を一手に任され、大内の経済的発展に大きく尽力を
 果たした武将。大内三家老の一家・杉氏の出であるが、文治派筆頭の
 相良武任を庇護したことで、周防山口の政変に巻き込まれていく。
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