Calendar
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< January 2018 >>
CATEGORIES
ARCHIVES
LINKS
PROFILE
SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
OTHERS
Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
<< 厳島戦記(十二) 備後神辺の巻 | main | 厳島戦記(十四) 謀叛騒動の巻 >>
厳島戦記(十三) 西国暗雲の巻

―――――――――――――――――――――――――――――――――
 厳島戦記(十三) 西国暗雲の巻
―――――――――――――――――――――――――――――――――
                       第四部「周防大政変」


 盛者必衰は、自然の真。
 驕者不久は、天下の理。


 目の前の禅僧は、背面の壁に掲げられた二枚の画に目をやり、
 その素朴な絵をじっと見つめながら、そう言った。

 何を言っているのだろう。
 岩や枯木の描かれたその画に、何か真理でも詰まっているのだろうか。

 相対して座している弘中方明は、不思議そうに首を傾げる。



 この僧の名は、策彦周良(さくげんしゅうりょう)と言った。

 もともとは京の天龍寺妙智院の住職である臨済宗の禅僧であるが、
 漢籍・漢文の研究に優れていたことを見込まれ、
 明(みん)の国との勘合貿易を独占していた大内義隆の命により、
 我が国の使節として二度、遣明船に乗って明国へ渡った。

 そして天文十九年(1550)六月、その任を終えて山口へ戻ってきた。
 遣明の功により義隆から一寺を与えられ、そこに留まっていた。


 策彦周良が眺めていた二対の画は、大内義隆から贈られたもので、
 中国北宋の徽宗皇帝の筆によるものと伝えられている画である。

 名を「秋景冬景山水図」といい 後世で国宝となる逸品であった。



 弘中河内守方明が、安芸国守護代である実兄・隆包の手紙を携えて
 周防山口(=山口県山口市)に滞在中の策彦周良を訪れたのは、
 師が山口へ戻ってから二月ほど後のことだった。

 兄の弘中隆包は、策彦周良とは以前から親交があったようである。


 手紙の内容は知らされていないし、
 周良法師の言葉の真意も分からない。

 呆然としている若武者に、策彦周良は優しく声をかけた。


 「河内守殿。詳細は今申し上げることはできませんが、
  私から貴殿にお伝えできることはただ一つ。
  お兄上を信じて、働きなさい」

 「は?」

 「隆包殿も貴殿を深く信用し、国家の大事を任されている」

 「文を届けているだけですが…。そんな大ごとでしたか」

 「さよう。貴殿の働きが、国の運命を左右するかもしれません。
  隆包殿を心から信じ、忠実に動かれるとよい。
  文の内容も、あい分かったと伝えて下され」

 「はい…」


 その言葉の意味はよく分からなかったが、
 周良法師が自分に何かを伝えようとしていることは分かる。

 弘中方明は深く頭を下げ、退出した。

 策彦周良は自ら門まで方明を送りながら、
 「信こそ肝要」「義こそ本懐」などと繰り返し語る。

 「これが禅の世界なのかな」と心の中で自問しながら、
 方明は見送る策彦周良に再び一礼して、僧堂を発った。



 周防国山口(=山口県山口市)。


 応仁の乱で京の都(=京都府京都市)が荒れ果ててからというもの、
 文化や経済の中心は、六ヶ国の守護職を抱く大内義隆の拠点である
 西国の山口へと移っていた。

 故に「西京」と呼ばれるようになった山口は大きく繁栄し、
 寺社や職人、文化人たちも全国から続々と集まってきていた。

 国全体が戦に明け暮れていた群雄割拠の世。
 京をはじめどの街も度重なる戦争で大きく疲弊している中、
 山口の豪華絢爛ぶりは他に類を見ないものであった。


 弘中河内守方明は、そんな賑やかな山口の街を駆けていた。
 そしてたどり着いたのは、大内御殿。
 大内家が代々領国支配のために使用している行政施設である。

 京の都を模して都市計画が行われた山口には、城郭はない。
 京の御所にあたる中心的建物が、この大内御殿なのである。


 方明が馬を下りて大内御殿へと入ろうとしたちょうどその時、
 大柄の男たちが、険しい顔つきで御殿から出てきた。
 
 その先頭にいるのは、
 周防国守護代・陶尾張守隆房である。


 「これは陶殿」

 「おう、河内守か」


 強面の隆房は、方明からの明るい声に気がつき、
 表情を和らげた。

 方明の兄・弘中三河守隆包は陶隆房と幼馴染みであり、
 方明も昔から隆房とは深く見知っている。

 先の月山富田城や備後神辺城の攻城戦でも
 共に馬を並べて戦った深い戦友でもある。


 隆房が昨今の具合を尋ねるべく声をかけようとしたその時、
 隆房の背後にいた男が「おい」と低い声で進み出た。

 陶隆房も大柄だが、その男はさらに頭一つ分跳びぬけている。

 その巨人の名は、江良房栄(えらふさひで)という。
 大内軍の旗下の中では随一の怪力とも言われる豪傑である。


 「無礼であろうが。船乗り風情が大内家筆頭家老の通りを妨げ、
  恥も考えず平然と声をかけるとは」

 「あ?」


 陶隆房の前に歩み出た江良房栄は、方明を睨み下ろしたが、
 陶軍の一介の将に見下ろされる理由もない。
 方明もひるむことなく、江良を顔を上げて睨み返す。 

 江良房栄の表情はますます険しくなる。 


 「おのれら弘中一門は、尾張守様に叛くわけではあるまいな。
  三河守殿にも通達が行っておろう」

 「さあ、何の話か。どうやらかなりの重大事のようだが、
  単なるお遣いの俺に、さようなことを問うか。
  がたいの重そうな田舎武者は、やけに口が軽いな」


 鼻で笑った方明に、江良房栄の顔には憤怒で血管が浮き上がった。
 江良の右手が、方明の首根っこを堅くつかんだ。
 ギリギリと首を絞められ、方明は苦痛に耐え歯を食いしばる。

 「やめんか!」と陶隆房の叱責が飛び、
 房栄はまだ物足りない様子で、方明を後方へ突き飛ばした。
 

 「わしと隆包殿は、幼い頃から文武を共に学んできた仲だ。
  今はお互い、守護代の身。共に力を合わさねばならん。
  わしと隆包殿が敵対するなど、あってはならないことだ。
  富国のためにこれからも手を取り合おうと、隆包殿に伝えてくれ」


 陶隆房は、痛みをこらえて首をさする弘中方明に言う。

 そして江良たち連れの武者を引き連れて、大内御殿を後にした。

 彼らの後姿を見つめながら、方明は背中に悪寒を感じていた。
 首を絞めてきた江良房栄への恐れでもない。
 見えない闇の中を進んでいく怖気のようなもののようだ。


 空を見上げた。
 鮮やかな雲の浮かぶ、秋の晴天である。

 先ほどの周良法師の言葉が妙に脳裏にちらつく。

 あの時目にした秋景図と冬景図の中に見えた侘しい空が、
 この明るい空となぜか重なって見える気がする。

 方明は、いつもと変わらぬ山口の秋空に、
 何か不穏な空気を感じていた。



 弘中方明が妙な不安を感じていたのも、無理はない。

 というのも、栄華を誇っていたこの頃の山口は、
 栄華を誇る経済力と他国を震撼させる軍事力の裏で、
 政治体制にいささか軋みが生じていたのである。



 六代に渡り西国の数ヶ国の守護の座にあった大内氏は、
 有力な家臣たちを各国の守護代に任じて統治にあたらせた。

 そして大内領全体の政治の仕組みとして、
 山口にて中央行政を担っている奉行衆の上位者と、
 各国の軍事を司っている守護代たちが一堂に列席する
 「評定衆」という重臣会議が置かれていた。

 つまり、大内氏の政治は大内本家による専制君主制ではなく
 重臣たちによる合議封建制であったと言える。


 その中でも陶氏・内藤氏・杉氏の三家は「三家老」と呼ばれ、
 各国の守護代を世襲し、発言権も大きかった。

 特に、もともと大内氏の一族から派生して起こった陶氏が
 三家老の中でも筆頭家老の地位にあった。

 筆頭家老の陶氏は、大内本国である周防国の守護代職にあり、
 三家老の内藤氏、杉氏は、大内家の経済に重要となる
 関門海峡の周辺の国々の守護代となり、その制海権を守った。

 石見国の守護代には、これも大内氏の庶流である問田氏を配備。

 芸備(=広島県)への勢力拡大に伴って、
 周防岩国(=山口県岩国市)の亀尾城城主・弘中隆包が、
 大内義隆より安芸国守護代に新たに任じられていた。

 一国人領主であった弘中家から守護代が輩出されたことは
 家門の歴史を通して初めてのことであり、
 また、三家老や大内氏庶流以外から守護代が任じられたことも
 当時としては異例のことであった。





 ・周防国(山口県東部)守護代 = 陶隆房
 ・長門国(山口県西部)守護代 = 内藤興盛
 ・豊前国(大分県北部)守護代 = 杉重矩
 ・筑前国(福岡県北部)守護代 = 杉興運
 ・石見国(島根県西部)守護代 = 問田隆盛
 ・安芸国(広島県西部)守護代 = 弘中隆包


 こうして六ヶ国の守護代が、評定衆の中に加わっているが、
 彼らと次第に対立を深めてきたのが、奉行衆だった。
 
 武断派と文治派が、敵対視し始めたのである。



 文治派の筆頭は、右筆の相良武任(さがらたけとう)。

 武断派の筆頭、陶隆房との対立が顕著になってきたのは、
 天文十一年(1542)に始まった、出雲遠征の時である。

 
 陶隆房をはじめとする武断派は、出雲遠征を強く主張したが、
 相良武任たち文治派は、その遠征論を厳しく否定した。

  ※第三巻「山口出立の巻」参照

 主君大内義隆は、武断派の意見を採用して出雲遠征を決行したが
 結果は惨敗。大内氏の後継者を海で失うほどの大敗を喫した。

  ※第六巻「大軍壊滅の巻」参照

 そこから、大内義隆は軍事には全く興味を示さなくなり、
 相良武任たち文治派を重用するようになった。

 評定衆の中でも相良武任の発言権が肥大化していったため、
 陶隆房たち武断派の不満は次第に増加していく。


 当初は、瀬戸内海の情勢も不安定で海事が重要視されていたので、
 弘中隆包や冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)といった水軍を持つ将が
 中立派として武断派と文治派の仲裁力をいくらか持っていた。
 
 芸備の経略のために、弘中隆包が新たに安芸国守護代となったが、
 この東方の鎮定を第一に注力しようということで、
 守護代たち武断派は、西の脅威に対して策略を始動した。


 西の敵対勢力であった豊後国(=大分県南部)の守護大名・
 大友義鑑(おおともよしあき)の次男・大友晴英(おおともはるひで)
 を、大内義隆の養子に迎えたのである。

 もともと、大友義鑑の妻は大内義隆の姉であったが、
 さらにその次男を後継者に迎えることで、より姻戚関係を深め、
 ひとまず西の情勢は安泰だと考えられた。


 ところが、天文十四年(1545)に事態は急変した。

 大内義隆に、実子が誕生したのである。

 義尊(よしたけ)と名付けられたこの実子に後を継がせるため、
 大内義隆は、晴英との養子関係を解消して豊後国に戻してしまった。

 実子と言っても、その母は京から下向してきた官人の娘であり、
 大して周防の重臣たちには馴染みの薄い妾である。
 さらに、この母親が実子を持ったことを笠に着て、政治に口を出してくる。

 そんなことが大友家との友好関係を主導した
 彼ら武断派の重臣たちの怒りに余計に火を注いだらしい。

 陶隆房たち武断派の大きな怒りは相良武任に向けられ、
 武任は身の危険を感じて、九州へと失脚していった。



 権威を取り戻したことで余裕が生まれた武断派の筆頭・陶隆房は、
 芸備で奮闘する親友の弘中三河守隆包に助力しようと、
 周防の軍勢を連れて備後神辺城(=広島県福山市)へ進軍した。

 ところが、山口にて重大な問題が起こったと言って、
 到着から二月も経たぬうちに、山口へと退却してしまった。

  ※第十二巻「備後神辺の巻」参照

 天文十七年(1548)年八月、大内義隆が相良武任を再び出仕させ、
 行政担当の奉行人に復職させたのである。

 神辺城攻撃の総司令官であった弘中隆包は、
 この全軍退却を逆手にとって難攻不落の神辺城を落としたが、
 山口では再び、返り咲いて巻き返しを図る相良武任と、
 その再出仕を許さない陶隆房の衝突が必至となっていた。



 ますます貴族の接待や芸能事に没頭して軍事を省みず、
 国政を相良武任に一任するようになった大内義隆。

 天文十九年(1550)九月十五日には、
 陶隆房が謀反の兵を遂に挙げたという噂が広まった。



 弘中方明が周防山口にやって来たのは、
 そんな噂が街を駆け巡った翌日のことであった。

 しかし、つい先ほど
 その陶隆房が大内御殿から出てくるところに出会ったばかりである。
 陶隆房が謀反を起こしたという噂は、何かの間違いではないのか。

 方明はまだ、山口に着いたばかりで真相はつかめない。
 

 陶隆房は方明とは旧知の仲であるが、
 幼少の頃から大内家臣団の筆頭家老の家系を誇りに思い、
 若くしてその家督を継いで重責に応えてきた武将である
 ということは、方明もよく知っている。

 家臣が主君を殺害して権力を奪う下克上が流行りの世とは言え、
 誰よりも大内家を深く心配してきた陶隆房が、
 大内家に対して実権を簒奪しようと考えるとは思えない。



 「信こそ肝要」という、策彦周良からの言葉が蘇る。

 「仲良くやればいいだけなのに」
 弘中方明は、深い溜め息をついた。

 政治的な難しいことはよく分からないが、
 組織というものは互いを信じ、互いに応えあうことで
 大きな目的を遂げることができる、ということは分かる。

 それは、周防岩国の水軍を率いている方明にとっては、
 船の上での常識であった。

 船員全員が心を一つにしない限り、船は進まず、沈むこともある。
 小難しい理屈は要らない。
 ただ互いを信じて互いに応え合って、進んでいくのである。

 国家の経営も、組織の規模は違えど
 船の世界とさほど変わらないのではないだろうか。

 方明は、そんなことを考える。


 
 それにしても、胸を締め付けるこの怖気は何なのか……。

 弘中方明は、大きく呼吸を整えてその怖気を振り払いながら、
 大内御殿へと足を踏み入れた――――。


 (つづく)


 ――――――――――――――――
  『厳島戦記』武将列伝 [十三]
 ――――――――――――――――

 ■相良武任 (さがらたけとう)

 大内家家臣。周防の守護大名・大内義隆の下で行政官として内政の
 能力を発揮する。月山富田城への遠征を反対した立場から、陶隆房や
 内藤興盛ら武断派と対立。月山富田城の敗戦以来、大内義隆から
 絶大な信頼を得るが、それが契機となって山口政変が起こってゆく。
| 『厳島戦記』 | 19:38 | comments(0) | trackbacks(0) |









http://blog.timestage.net/trackback/1393556