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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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厳島戦記(十二) 備後神辺の巻

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 厳島戦記(十二) 備後神辺の巻
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                       第三部「芸備経略戦」




 左腕の震えが止まらない。

 いや、全身が怖気立っているのかもしれないが、
 特に左手は古傷の痛みを伴いながらガクガクと震えている。


 小高い黄葉山を丸ごと要塞化し、
 金城鉄壁との呼び名の高い堅牢の備後神辺城(=広島県福山市)。

 城主の山名理興(やまなまさおき)は、
 震える左腕を右手で押さえながら、
 城下を包囲している大内勢の敵兵の布陣を見つめている。

 数日前からはためく「丸揚羽」の大将旗。
 安芸国守護代、弘中三河守隆包の旗印である。

 揚羽蝶を象ったあの家紋を見るたびに、
 安芸の高山城下で弘中隆包に斬りつけられた左手に震えが走る。


 そんな戦意消沈気味の頼りない城主を支えたのは、
 若き家老、杉原盛重(すぎはらもりしげ)であった。

 「殿、しっかりなさいませ。いくら大軍で囲もうとも、
  備後一のこの堅城、簡単に落ちるわけがございませぬ。
  そのうち尼子の新宮党も、軍を整えて駆けつけるでしょう」

 確かに盛重の言葉のとおり、大内勢は数年前から
 この城の攻略に取り掛かっているが、いまだに難航している。
 神辺城は少数の城兵でも全く敵兵を寄せ付けない。

 杉原盛重の励ましで、山名理興は何とか気を落ち着けていた。



 尼子の後ろ盾と難攻不落の神辺城を頼りに
 西の大内勢を度々脅かしてきた山名理興であるが、
 いまやその大内勢が、逆にこの神辺城を取り囲んでいる。

 小早川隆景と弘中方明の軍が、背後の山の東向こうにある
 支城の龍王山砦を落としたという報に気を取られているうち、
 安芸頭崎城(=広島県東広島市)の平賀隆宗(ひらがたかむね)と
 その弟の平賀広相(ひらがひろすけ)が、高屋川の対岸にある
 正面の要害山砦を一気に制圧してしまった。

 そこへ、吉田郡山城から毛利隆元、吉川元春が進軍し、
 西条槌山城から弘中隆包の軍勢が神辺の地に到着。

 さらには周防山口から、陶隆房率いる大内本隊までやって来た。

 陶隆房も、月山富田城で山名理興の裏切りが目に焼きついた将。
 その遺恨の大きさたるや、尋常ではない。


 だが、さすが備後随一の堅牢さを誇る神辺城である。
 周防山口の本隊が合流し、一万五千という大軍になった大内勢だが、
 いっこうに神辺城の攻略経路の糸口が見つからない。

 長期戦になればなるほど、先の月山富田城の戦いのように、
 大きな軍勢も突然に瓦解してしまう恐れがある。

 大内勢には、のんびり城を囲んでいる暇はない。
 


 総大将となった陶隆房が、正面攻撃を主張した。
 攻める経路がつかめなければ、正攻法しかないというわけである。

 毛利家当主の毛利隆元も、それしか手はないと隆房に同意し、
 毛利軍きっての勇将である弟の吉川元春に命じて、
 六百騎ばかりで高屋川を渡り、神辺城の正面から突入させた。
 

 吉川隊が直進して来るのを山上の櫓から確認していた杉原盛重は、
 二百余騎を率いて黄葉山を駆け下り、吉川隊にぶつかった。
 高屋川を背にした吉川隊は、杉原隊の勢いに押されそうになる。 

 吉川元春は、自分と同じぐらい若い齢の杉原盛重の姿を見つけて、
 馬の腹を蹴りつけて、いざ勝負と斬りかかった。

 盛重の武勇も元春に劣らず、両者の刀は火花を散らす。


 「ほう、この元春に負けぬ剛の者がいようとはな」

 「吉川の山猿の見る世間など、狭いということよ」

 「山名理興ごとき賊人の家中のほうが、よほど世間が狭かろう。
  おぬし、山名など捨てて我が毛利に仕えてはどうだ。
  この神辺城ぐらい、おぬしにならくれてやるぞ」

 「攻め取ってからほざけ」


 盛重は手綱を見事にさばきながら、吉川元春に刀を突き出していく。
 元春も負けじとその攻撃を受け払って、次の一刀を叩き出す。


 吉川隊と杉原隊が城下で入り乱れている様子を見ながら、
 山名理興は大内軍本陣にはためく丸揚羽の旗印を確認する。
 高屋川を挟んでずっと向こうに駐屯している弘中隆包隊が、
 そんなに短時間で高屋川を渡ってくるはずもない。

 高屋川を背にした吉川元春隊を一挙に殲滅してしまおうと、
 山名理興は城兵をまとめて神辺城から撃って出た。


 「おお、殿っ」と杉原盛重隊は城主自らの加勢に大いに湧き立つ。
 吉川元春はその盛り返す勢いを防ぎきれなくなった。


 しかし、その戦況は突然に覆った。

 弘中隆包が本陣から出撃すると、その旗印を遠目に見た山名理興は、
 一気に縮み上がって「退却、退却だ!」と引き返し始めたのである。

 弘中隆包の旗は、理興にとって恐怖の目印と化していた。

 弘中隊が高屋川の岸に到着し、こちら側に渡りきるには
 まだまだ時間を要するような遠さである。
 その間に吉川勢を崩せる余裕は十分にあるはずなのに、
 突然の総大将の撤退合図は、優勢の山名軍に動揺を招いた。

 山名軍は総大将を追って慌てて城内へ退いていく。
 吉川元春と善戦していた杉原盛重の部隊も大いに混乱し、
 気を取られた杉原盛重は手傷を負い、仕方なく神辺城へ退いた。

 山名理興は、このまま神辺城に籠もって守りを固めに固めた。



 相手が出てくれば施す策もあるが、
 鉄壁の城に閉じ籠られては、成す術もない。

 このまま戦を長引かせないために、いかに攻略すべきか。

 弘中隆包は、巨大な要塞である神辺城を見つめて頭を悩ませた。



 ところが、好機は隆包が思ったよりも早くやってきた。


 天文十七年(1548)八月。

 大内軍の総大将として周防山口から五千余騎を率いて
 神辺城攻略に加わっていた陶隆房が、
 まだ到着から二月も経たぬうち、山口に戻ると言い始めた。

 山口の大内政権に、重大な問題が起こっているという。

 本国山口の政治事情ともなれば、
 放っておくことができない大問題である。


 大内軍本陣では、上座に総大将の陶尾張守隆房が座り、
 今後の神辺城攻囲に関する軍議が開かれた。

 陶隆房が率いてきた周防山口の本隊だけを戻し、
 弘中軍や毛利軍は引き続き城攻めを続けることになるだろう、
 と誰もが予想していた。

 そこで軍議の焦点は、陶隆房の本隊をどれだけ残してもらえるか、
 それを弘中隆包たちがどう交渉するかにあると思われた。

 ところが、弘中隆包は皆の想いとは異なる作戦を口にする。


 「私も、陶尾張殿と共に撤退し、安芸の槌山城へと戻ります」


 「ちょっと待て、弘中殿」と、陶隆房は慌ててなだめる。

 「わしが大内本隊を山口へと連れ戻した後は、
  この神辺城を包囲する諸将の総大将は、おぬしになるのだぞ。
  その弘中殿まで帰っては、毛利勢たち諸将が困るぞ」

 「弘中軍だけではござらぬ。毛利軍も吉田へ帰します。
  龍王山砦の小早川軍も同じく、竹原へと退いて頂こう」

 「では、神辺城はどうするのだ」

 「この神辺には、平賀隆宗殿、広相殿だけに留まって頂きます」


 弘中隆包の発言に、軍議の中の諸将はざわつき始める。

 大内本隊、そして弘中軍と毛利軍まで神辺から退いてしまい、
 平賀軍だけ残れば、総勢一万五千はいた大内の包囲軍は、
 わずかに七、八百人程度になってしまう。

 不安を隠しきれない大内諸将をよそに、隆包はなおも続ける。


 「平賀殿は要害山に城を築き、そこを拠点にしなさい。
  なあに、半年もあれば神辺城は落ちるでしょう」



 その軍議から三日後、大内軍はあっという間に撤退した。

 大内の大軍に埋め尽くされていた神辺平野は、閑散の風が吹く。

 安芸頭崎城城主の平賀隆宗・広相兄弟の一隊だけが残り、
 高屋川を挟んで神辺城の北岸にある要害山に城を建造した。
 川向こうにあることから、「向城」(むこうじょう)と名付けた。 
  

 その様子を見て、山名理興は何度も目をこすった。
 大勢の大内勢は消え去り、恐るべき弘中の丸揚羽の旗もない。

 「どうやら周防本国に異変でも起こったようだな。
  陶も、毛利も、そして弘中もどこぞへ消えたわ」


 山名理興に不敵な笑みが戻ってきた。
 気がつけば、左手の震えも止まっている。
 弘中さえ眼下から消えれば、何も怖いものなどない。

 気が晴れた理興は、幾度となく出陣命令を出した。
 神辺城と向城に挟まれた高屋川で、何度も小競り合いが起こる。


 年が明けて天文十八年(1549)も両軍の睨み合いが続いたが、
 四月十六日、高屋川の神辺城側の七日市の地で
 平賀広相軍と杉原盛重軍が激突し、平賀軍の勢いに押された
 杉原軍は城下の籠屋口までジリジリと後退をしてきた。


 杉原盛重はその武勇を振るって平賀軍を籠屋口で食い止めたが、
 それを城内から見ていた山名理興は、次第に焦り始める。

 脳裏に、弘中三河守隆包の刀の閃光がちらつき始めたのである。

 今また、あの弘中三河守が風のようにどこからか現れて、
 神辺城を呑み尽くしてしまうのではないかという恐怖に駆られ、
 山名理興はまるで発狂したかのような大きな奇声を挙げた。


 そして、事もあろうか、城外で奮戦する杉原盛重らを見捨てて
 黄葉山の裏手の山道を駆け下りて、神辺城から逃亡してしまった。


 城主・山名理興が、城を捨てて尼子領の出雲(=島根県)へと逃亡。

 それを知った神辺城の城兵たちは、戦を投げた。
 傷を負いながらも城下で善戦する杉原盛重も、戦いの意義を失い、
 吉川元春の前で力無く膝から落ちたところを捕らえられた。


 数年にわたり、大内を脅かしてきた鉄壁の備後神辺城は、
 こうしてあっけなく陥落してしまったのであった。



 強大な防衛力を誇る神辺城は、城内の兵力が少数であっても、
 大軍の攻城に耐え得ることができるから、
 入口を固く閉ざして城に籠もれば、敵は手も足も出せない。

 そこで、大内の大軍を退かせて少数の平賀軍を残すことで、
 山名軍の気を緩ませ、城を出る契機を創り出したのである。

 山名理興は、高山城で一刀を喰らわせた弘中隆包を恐れていた。
 理興の性格から言って、弘中の旗印がなければ気が弛み、
 その機会に一度でも身に焦りを感じるような事態が起きれば、
 簡単に城を捨てて逃げ出すに違いない、と弘中隆包は予測していた。


 それがこうして実際のものとなり、神辺城は落城した。

 神辺城は、山名理興には相応しくない城だったのであろう。

 後世に言う「備後神辺城の戦い」は、
 このようにして、いとも簡単にその終止符が打たれたのである。




 神辺城が陥落した、天文十八年(1549)四月。


 安芸国守護代の弘中隆包は、西条槌山城に戻っていた。

 天下の堅城・備後神辺城をようやく落とせたことで、
 備後国の平定には一段落がついたとも言えるが、

 瀬戸内海域の海賊集団との折衝も進めなければならず、
 出雲の尼子勢力の脅威は依然として残ったままで、
 安芸守護代としての仕事はまだまだ山積みであった。



 弘中隆包による神辺城の陥落により、
 周防の大内義隆の勢力はさらに備後国にまで及ぶこととなり、
 大内氏は一門の史上では最大の版図を広げることになった。 


 周防・長門・安芸・石見・豊前・筑前の六ヶ国の守護の位にあり、
 今また、神辺城制圧で備後国をもその勢力下に収め、
 西国最大の戦国大名として君臨する、大内義隆。

 鎌倉幕府や室町幕府の者でさえも滅多に得ることの無かった
 従二位の位階を朝廷から授けられたほどで、
 その権勢はもはや比類なきほどまでに膨れ上がっていた。



 この人臣位を極める大内義隆の治世下にある、山口。

 応仁の乱により荒れ果ててしまった京の都に代わって、
 いまや山口は国内最大の栄華を見せる文化都市へと成長し、
 西の京つまり「西京」とも、小京都とも呼ばれ、
 全国各地から文化人や知識人が終結する華の都となっていた。


 盛者必衰は、いつの世にも理として起こる。

 小京都・山口を揺るがす大事変の兆しとなる暗雲が、
 少しずつ周防の上空を漂い始める――――。



 (第四部へつづく)


 <運命の「厳島の戦い」まで、あと六年……!>



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  『厳島戦記』武将列伝 [十二]
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 ■山名理興 (やまなまさおき)

 備後国神辺城城主。当初は杉原理興の名で、備後の一国人だったが、
 大内義隆の後押しで下剋上により神辺城と城主山名氏の名を奪った。
 しかし月山富田城の戦いで大内を裏切り尼子へ寝返る。弘中隆包や
 毛利元就に敗れ神辺城から逃亡。やがて元就に屈した後に死去する。

| 『厳島戦記』 | 13:01 | comments(1) | trackbacks(0) |
はじめまして、白崎八幡宮で神職をさせていただきている中村と申します。この戦国時代のことを詳しく書かれていることに感動し勉強させていただきました。ご質問なのですが、この内容はどこかの本にかかれているのでしょうか?今、お宮でも弘中のことを掘り下げて調べたいとおもうのですが、岩国市には資料がのこっていないので、困っています。もしよろしければ、この内容を使わせていただき、お宮の資料やHPにのせたいのですが、よろしいでしょうか?
突然申し訳ありませんが、ご返事お待ちしています。
| 白崎八幡宮 中村 | 2010/06/12 2:52 PM |









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