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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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厳島戦記(九) 芸備鳴動の巻

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 厳島戦記(九) 芸備鳴動の巻
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                       第三部「芸備経略戦」




 周防国の東部、岩国(=山口県岩国市)。

 透き通るような清流である錦川の美しさを眺めることができる。
 その特徴ゆえに「錦見」と名付けられた地がある。

 その錦見の中にぽつりとある小高い大円寺山の上に、
 亀尾城(かめおじょう)は築かれている。



 亀尾城は、鎌倉時代より九代にわたって岩国の地を治めてきた
 弘中一族が、行政と軍備の要としてきた居城である。


 弘中氏は代々、岩国の鎮守である白崎八幡宮の大宮司の座にあり、
 かねてより岩国の領民たちから絶大な信頼を得ていた。

 現当主である弘中三河守隆包は、周防守護の大内義隆の家臣として
 山口に出仕していて亀尾城を留守にしていることが多かったが、
 領民たちの声を聞くために亀尾城の一部を常時開放していた。

 町民や農民たちは比較的自由に出入りをすることができ、
 農作物などを持ち寄っては、城内の武士たちと気軽に話した。
 平和な地ゆえの、四民の交流の場となっていたのである。



 天文十二年(1543)、大内義隆より安芸の守護代を任じられた
 弘中隆包は、久方ぶりに岩国の亀尾城に入城した。

 月山富田城の手痛い撤退戦で殿軍を務めたと伝わっていたため、
 無事に戻ってきたことで、岩国の領民たちは大きく喜んだ。

 「ご領主様、お帰りなさいませ」「ご無事で何よりです」
 と、隆包は領民たちの明るい歓待の声を浴びる。

 中には、隆包が嫡男の隆泰を病気で失ったことを知る者もおり、
 隆包の胸内を察してむせび泣く兵士や農民もいた。



 そして、隆包は城内である若武者と再会する。

 毛利元就の次男、毛利元春である。

 隆包が山口より連れてきた実弟の徳寿丸を迎えるために、
 父の元就に命じられて、岩国までやって来たのである。


 「元春殿!」

 「隆包殿、よくぞ、よくぞご無事で!」


 隆包と元春は互いにその姿を見つけるや否や、
 強く抱き締め合ってその無事を喜びあった。

 月山富田城の総退却で尼子軍の絶えぬ猛追という地獄を見た二人。
 共に、命を拾っただけでも奇跡に近い生還であった。
 地獄の淵で別れて以来の再会。これほどの感激はない。

 その二人の武人の周りを、岩国の武士や領民たちは取り囲み、
 共に喜びを分かちあうかのように泣きながら手を打った。
 
 まだ十歳の少年である徳寿丸も、その姿を見て涙を浮かべていた。



 そして弘中隆包は、わずか一日の滞留の後に、
 大勢の領民たちに見送られながら、岩国を発った。

 安芸国守護代として、西条の槌山城(つちやまじょう)へと
 赴くためである。


 その途上で、弘中隆包は毛利元春と徳寿丸を連れて船に乗り、
 厳島に渡って厳島神社に参拝し、戦勝祈願をした。

 安芸や周防など瀬戸内近辺の人間にとって、
 瀬戸内海を加護する厳島神社への崇拝は、特別な意味がある。

 かつて尼子が侵攻した吉田郡山城へ山口から向かう際も、
 弘中隆包らは厳島神社に寄って参拝し、そして勝利した。
 厳島の加護は、大内家中にとっても大切なものであった。
 
 厳島信仰の大切さなどを始め、軍略や史書など様々なことを、
 元春や徳寿丸はその帰路で年上の弘中隆包から教わった。

 この時に二人が隆包から得たことは、今後の毛利家にとって
 大きな影響をもたらすことになる。



 槌山城に向かう前に、弘中隆包一行は吉田郡山城に寄った。
 毛利元就と嫡男隆元も一行を出迎え、その無事を大いに喜んだ。

 城内に迎えられた隆包は、元就たちの行動に驚く。

 城内の間で、元就と隆元は隆包を上座に勧め、
 自らは下座にかしこまって深く頭を下げているのである。


 「元就殿、何ですか。さあ、頭を上げて上座のほうへ」

 「いえ、弘中殿。守護代が上座でなければ困ります」

 「そんな。これまでどおり気になされますな」

 「そうは参りませぬ。我々は、安芸の一国人でございます。
  守護代と国人では序列をわきまえるのが当然でござる。
  我らに気遣いは無用にて、どうか上座へ」


 毛利元就は、弘中隆包から見れば親に並ぶ年長者である。
 しかし武家の世界の序列は、年齢ではない。

 守護代は、いわば各国の守護の代理人である役職である。
 国人たちを束ねて支配にあたる、実質の統治者になる。

 また、弘中氏は清和天皇を祖とする源氏の血筋であるのに対し、
 毛利氏は源氏の臣下であった大江広元を祖とする血筋である。
 出自にも深く目を通す当時の武家社会にあって、
 毛利元就が下座に控えるのは、当然の理でもあった。

 特に大内や尼子の大勢力に挟まれ、また国人衆のひしめき合う
 安芸国内にある元就は、人の序列にはことさら気を使う。


 だが、毛利元就から親のように数多くのことを学んだ隆包は、
 しぶしぶ上座に着座したものの、昔からのよしみで、
 公の場でなければ今までどおりの付き合いを、と所望した。
 生死を共にした間柄、いつまでも良い戦友でいたかったのであろう。

 元就父子は、さればと頭を上げて笑みを見せた。



 安芸(=広島県西部)と備後(=広島県東部)を押さえるためには、
 安芸に土着している毛利氏の協力が不可欠だと考える隆包は、
 吉田郡山城で元就と緻密に情報をやり取りし、策を練った。


 「元就殿。私は芸備の守備をお屋形様より命じられたが、
  尼子からの脅威を防ぐには、どうしても毛利の力と
  元就殿のお知恵をお借りせねばならぬ」

 「弘中殿への協力、この身は惜しみませんぞ」

 「かたじけない。ところで、尼子が動き始めている今、
  最も緊急の対応を要することは何でござろう」

 「備後神辺城の山名理興(やまなまさおき)でしょう」

 「山名。あの杉原か…」


 
 神辺城(=広島県福山市)は備後統治のために築かれた名城で、
 備後国守護の地位にあった山名氏の居城であった。

 ところが、天文七年(1538)に備後の一豪族であった杉原理興が
 この山名氏を神辺城から追い出し、乗っ取ってしまった。

 毛利元就を通して大内義隆に通じていた杉原理興は、
 義隆に許されて神辺城城主となり、山名理興を名乗ったのである。

 大内の力で「山名」の名籍を得た上に備後をも手に入れた理興は、
 大内義隆の月山富田城への遠征にも従ったのだが、
 吉川興経らと共に尼子軍へと寝返り、大内軍を惨敗に陥れた。

 大内の力で神辺城主となりながら、恩を仇で返した理興。
 弘中隆包と毛利元就にとって、目の前で敵へと寝返った山名理興は、
 忘れようにも忘れられない人物であった。


 「その山名理興が、尼子晴久の援護を得ながら
  高山城(=広島県三原市)を脅かし始めているのです」

 「小早川本家が危ういな」

 「小早川正平殿が亡くなり、田坂義詮ら重臣たちが
  何とか守りきっていますが、落城は時間の問題でしょう」



 小早川氏は、大内氏に組する安芸の国人領主である。

 先の月山富田城で、芸備の国人衆の大半が尼子に寝返る中、
 毛利元就と共に大内陣営に残った数少ない安芸国人の一つであった。

 
 小早川氏には、

 ・沼田小早川氏 居城:高山城(=広島県三原市)
 ・竹原小早川氏 居城:木村城(=広島県竹原市)

 の二氏がある。
 沼田が本家、竹原が分家筋になる。

 だが、その小早川の両氏はまさに危急存亡の最中にあった。
 ここ数代、当主の早世が相次いでいたからである。


 分家の竹原小早川氏では、若くして当主となった小早川興景が、
 吉田郡山城下の宮崎長尾で尼子軍の侵攻を撃退した活躍を見せたが、
 その翌年、わずか二十三歳の若さで病死してしまった。

 一方、本家の沼田小早川氏の若き当主・小早川正平は、
 毛利元就らと共に大内義隆の月山富田城の遠征に従ったが、
 芸備の国人衆らの寝返りで大敗を喫して撤退を余儀なくされた時、
 尼子の追撃に討たれて、こちらも二十一歳の若さで討死した。

 竹原の小早川興景には実子がなく、当主が不在となり、
 また沼田の小早川正平の子・繁平はまだ二歳で、失明をしている。
 どちらの小早川氏も、家督問題に直面していた。


 その不安定な情勢の中、神辺城の山名理興が高山城への侵攻を始める。

 幼少の小早川繁平を後見する執権の田坂義詮らの活躍で、
 かろうじて山名軍からの攻撃に耐え忍んでいるところであった。

 そして、尼子家中でも飛びぬけた軍事力を誇る「新宮党」を率いる
 尼子晴久の叔父・尼子国久(あまごくにひさ)が、
 当主不在の竹原木村城へ向けて進軍を始めたという報も入っている。


 毛利元就も全力で小早川両氏の救援に向かいたいところであったが、
 北方の吉川興経も尼子の力を借りて度々毛利領を脅かしており、
 なかなか瀬戸内方面に全力を注ぐことができなかったのである。 



 芸備の経略のためには、瀬戸内海の制圧が欠かせない。

 芸予諸島で活発に活動する村上水軍らに睨みを聞かせるには、
 瀬戸内に土着した小早川氏の持つ水軍の力に頼らねばならない。

 安芸国守護代となった弘中隆包にとって、
 小早川水軍を抱えた小早川両氏の存続は見捨てられない問題である。


 「神辺城の山名に加えて、尼子の新宮党も出てきたのでは、
  今の小早川両家はあっという間に滅んでしまう」

 「はい。そうなっては我々もすぐに危機に陥ります」

 「早急に手を打とう。元就殿、耳を」


 隆包は、元就に寄って耳打ちを始めた。
 元就は隆包の言を聞きながら、驚いたように目を見開く。



 尼子国久、新宮党を率いて竹原木村城に迫る!

 その急報が安芸を駆け巡った。

 尼子の隆盛を築いた伝説の謀将・尼子経久の次男にして、
 当主である甥の尼子晴久の下で屈強の新宮党を率いる国久が、
 いまだ当主の定まらぬ竹原小早川氏の木村城へと向かう。

 そして、尼子へ寝返った備後神辺城の山名理興も、
 盲目の幼少当主が守る沼田小早川氏の高山城を取り囲む。

 小早川両家は、存亡の絶壁に追い込まれていていた。



 天文十三年(1544)。
  
 弘中隆包は新任地の安芸西条槌山城で早急に軍を整え、
 小早川両家の危機を救うため、東征を開始した。

 隆包に続いて槌山城を発った弟の弘中方明の傍らには、
 毛利元就の三男、徳寿丸の姿もあった。


 芸備の止まぬ鳴動の行く末は、
 若き守護代・弘中三河守隆包の手腕にかかっていた――――。



 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [九]
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 ■尼子国久 (あまこくにひさ)

 尼子家重臣。戦国大名・尼子経久の次男で、当主尼子晴久の叔父。
 山陰最強の武装団・新宮党を率い、安芸吉田郡山城への侵攻、
 月山富田城の防衛戦、竹原木村城への遠征など、諸戦では常に
 一線で尼子全軍を導いた猛将。やがて粛清の餌食になってゆく。
| 『厳島戦記』 | 12:14 | comments(0) | trackbacks(0) |









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