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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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厳島戦記(八) 隆包任官の巻

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 厳島戦記(八) 隆包任官の巻
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                       第三部「芸備経略戦」




 戦の勝ち負けは世の常、と誰もが言う。

 しかし、守護大名・大内義隆にとってはこの度の敗戦は、
 世の常のものとして割り切ることがどうしてもできなかった。



 天文十一年(1542)の正月から
 一年以上に及んだ大内氏の出雲遠征は、
 壊滅的な惨敗を喫するという、無惨な結果に終わった。


 ぼろ切れのような姿で尼子の追撃から逃れ
 周防山口(=山口県山口市)に帰り着いた大内義隆は、
 三日三晩泣き崩れ、涙が収まったかと思うと、
 しばらくは放心状態で一日中空を眺めてしまう。

 それもそのはず。
 後継者としてありったけの愛と教えを注ぎ込んだ
 養嗣子の大内義持の死が目の前で起こったのであるから、
 その悲しみの大きさはいかばかりか、計り知れない。

 家臣たちも、義隆の無念を思いやって押し黙っていた。



 その頃、山口には同じような悲愴に包まれた屋敷があった。

 大内家重臣、弘中隆包の邸宅である。


 弘中隆包は周防国岩国(=山口県岩国市)の領主であるが、
 大内家の重臣として周防の政治に深く関わっていたので、
 大内の居城から近い場所に屋敷を構え、家族を住まわせていた。

 出雲遠征の撤退では殿軍を務めて尼子の追撃を防いだ弘中隆包は、
 弟の方明らと共に命からがら山口へ戻ってきた。

 しかし、九死に一生の帰還の果てに山口で待っていたのは、
 幼い我が子の訃報であった。


 一年以上もの出雲遠征の間に、嫡男である吉尚丸が、
 幼くして病のためこの世を去っていたのである。

 隆包の妻・紺(こん)は、武士の妻であることを自覚し、
 遠征の前線に死の凶報を送ることは士気に関わるだろうと、
 子の訃報を伝えずにいたのである。

 そのため、絶体絶命の危地から生還した隆包は、
 山口に戻って初めて、我が子が既にこの世にないことを知った。

 心がえぐられるような深く辛い悲しみであったが、
 隆包は涙を見せず、葬儀らしい葬儀も執り行なうことはなかった。

 主君義隆公も、先の戦で子の大内晴持を失っているからである。
 主家の喪の間は泣けぬと、堪え忍んだのであろう。



 二日後の夜、弘中隆包は主君大内義隆からの直々の呼び出しを受け、
 大内館の北にある築山御殿へと参上した。


 大内の治世にあって繁栄を極める山口の町に、天守や城郭はない。
 大内氏が八代にわたり居館とする大内館が、行政の場所である。

 山口は「小京都」と呼ばれたほど、京の都を参考に設計されており、
 京での天皇のおわす御所が、つまりは山口では大内館にあたる。

 大内氏が周防だけではなく石見や筑前などの守護職となるにつれ、
 大内館だけでは政治の執行の場としては手狭となってきたため、
 その北側に別館として築山御殿(築山館)が築かれた。


 その築山御殿に上った隆包は、謁見の間でも評定の間でもなく、
 大内宗家の生活の間である奥座敷に通された。

 義隆はかねてより家臣と親交を図るのが好きな人物であるが、
 様々な性格の人間を一堂に集めて幅広く話を聞くのが主であり、
 誰かと特別に一対一で話すような御仁ではない。

 だがその日の義隆は、広い庭園を眺める私邸の中で
 小姓を部屋の隅に一人控えさせているだけで、
 隆包以外の家臣は一人も招かずに、酒を置いて佇んでいた。


 「おお、三河守。近う」

 「はっ」


 弘中三河守隆包は、義隆の勧めるままに膝を進めた。
 隆包にも酒が用意されていたが、まずは義隆の言葉を待つ。


 「吉尚丸は出雲への遠征中に亡くなっておったそうだのう。
  不憫でならぬ。隆包よ、胸中察するぞ」

 「いえ、お屋形様からそのようなお気持ちを頂けただけでも
  我が家にとってはありがたいことにございます」


 隆包は両手をつき、深く頭を下げた。

 義隆公こそこの遠征で愛する子を失っているのである。
 主家こそ不憫の最中にある。

 そのことを隆包は口に出さないままかしこまっていたが、
 溺死した大内晴持の名は、義隆の口のほうから出た。

 
 「わしも、出雲の海で我が子晴持を失った。目の前でな…」

 「我ら家臣の戦地での至らなさ故にございます。
  申しわけございませぬ。どうか、お許しを」

 「許しを請いたいのはわしの方じゃ。隆包。
  おぬしは当初、出雲遠征には反対だったではないか。
  しかし、わしがおぬしらの反対を押し切って遠征を決めた」

 「……」

 「わしが我が子を亡くしたのは、我が判断の故でもある。
  だが、おぬしはわしのその判断で、子の死に目にも逢えなかった。
  許せ隆包。おぬしの悲しみは、わしの罪ぞ」

 「お屋形様、もったいのうございます」


 頭を下げようとする義隆に、隆包は慌てた。
 家臣へ許しを乞うなど、恐れ多いにも程がある。


 「罪滅ぼしにもならぬが、吉尚丸に諡(おくりな)を授けたい。
  わが義隆の名の一字を取り、佐渡守隆泰と名乗らせよ」

 「謹んでお受け致します。我が子もきっと喜びまする」

 「揖屋沖に沈んだ晴持も、室町幕府にお伺いを立てたところ、
  将軍足利義晴公の一字をもらい受け、大内義房の諱を頂戴したわ。
  我らの子が、あの世で仲良うやってるとよいの」

 「それはもう」


 子を失った者同士、心に通じるものがある。

 義隆は、部屋の端に姿勢よく座る小姓に、合図を送った。

 小姓は酒を載せた盆を、隆包の前に運んでくる。
 隆包は恐縮しながら盃を手にし、義隆からの酒を受けた。


 「実はのう、三河守。この度おぬしを招いたのは他でもない。
  おぬしの智勇と武功を見込んで、頼みたいことがあるのだ」

 「いかようにもお申し付け下さいませ」

 「おぬしには、槌山城(つちやまじょう)に入ってもらいたい」

 「安芸の槌山城でございますか」

 「さよう。もちろん、今の岩国亀尾城(=山口県岩国市)は
  代々弘中家のものであるから、弘中領はそのままでよい。
  これまでおぬしには岩国で周防の東の盾となってもらっていたが、
  さらに東の安芸(=広島県西部)や備後(=広島県東部)も
  我が大内の勢力下にある今、芸備の経略も任せたいのだ」

 「はっ。…粉骨砕身の心で取り組みますが、
  岩国の一領主である私めが、芸備を押さえられましょうや」


 隆包はどのような労苦も厭わない覚悟ではあるが、
 あまりにも大きな依頼に、少々戸惑いもあった。

 だが義隆は、その手はずを整えていた。


 「おぬしには、安芸国の守護代を命じる」

 「…私を、守護代に」

 「そうだ」


 守護代とは、守護に代わって一国を治める代官職である。

 安芸国の守護代の座は、現在空位にあった。

 かつては、甲斐武田氏から分家して安芸国に土着した安芸武田氏が
 佐東銀山城(=広島市安佐南区)を居城としてその任にあったが、
 先の吉田郡山城の戦いで尼子を破った安芸吉田の毛利元就が
 同年に佐東銀山城を落とし、尼子に通じた武田氏を滅ぼしている。

 国人同士の争いが絶えない安芸国内の安定支配のためにも、
 安芸守護代の早急な選任は、大内家にとって大事であった。


 「これは、京の将軍家にもお許しを頂いたことであるぞ。
  応仁の乱で我が祖父・政弘公と共に京の平定に大きく後見した
  弘中右衛門尉弘信の嫡孫であるならばと、すぐに許しが下りたわ」

 「ありがたき幸せにございます。お屋形様!」


 弘中隆包は、盃を置くと改めて姿勢を正し、頭を深く下げた。

 清和源氏の血を引き、源氏が武家の頭領となった鎌倉時代より、
 岩国の地の国人領主として続いてきた弘中家にとって、
 一国の守護代の大任を受けるのは、大きな誉れである。


 それほどまでに、大内義隆の弘中家に対する信任は厚かった。

 先の月山富田城への遠征や布陣を諌めたのも弘中隆包であるし、
 また吉川ら国人領主たちの裏切りを真っ先に本陣に伝えたのも、
 そして殿軍となって大内全軍の撤退を助けたのも弘中隆包である。

 隆包の忠義がなければ、自分は山口へ戻れなかったかもしれない。
 義隆は、隆包の忠義に報いたい一心だったのであろう。



 かすかに微笑むと、むくりと立ち上がり、
 広く美しい庭園を眺める縁側へと足を進める義隆。

 隆包はかしこまったまま、縁側に立つ主君のほうへ体を向けた。
 義隆の直垂が微風に揺れる。
 明るい月を見上げながら、義隆は背中越しに隆包に語った。


 「わしはのう。家臣の皆と一丸となり、山口を築いていきたいのだ。
  父・義興のような剛毅な性格ではないし、もともと戦は好まぬ。
  思えば、出雲遠征の前の評定は、既に戦のようであったわ。
  同じ国の臣が、戦場のようにいがみ合う姿はもう見とうない。
  戦が起これば、我らの子のように悲しい死が生じるものだ」

 「……」

 「大内旗下には、おぬしのような武勇に秀でた武人が多い。
  杉興運(すぎおきかず)には、九州は筑前国(=福岡県北部)の
  守護代として、大内領の西の経略を任せておる。
  内藤興盛は長門、陶隆房にはこの周防を守っておるから、
  隆包には安芸守護代として東の経略に当たってもらえれば、
  この大内の家は安泰なのだ。隆包、力を貸してくれ」

 「心得ましてございます。隆包、命を賭して任にあたります」

 「安芸の毛利元就と力を合わせて、東方の鎮圧に務めてくれ。
  毛利は必ず、弘中の力になるであろう。のう?」


 義隆は、隆包ではなく、なぜか部屋の隅の小姓に問いかけた。
 その小姓が「はい!」と高い声で返事をする。

 齢は十ほどの聡明な顔立ちの少年に、隆包が視線を向ける。
 不思議そうな顔をする隆包に、義隆は笑いながら伝えた。


 「こやつは、徳寿丸。元就の三男坊よ」

 「なんと」


 驚きの声が、つい口から出た。

 義隆の身の回りを世話する小姓だと認識していた隆包は、
 即座に非礼を詫びた。徳寿丸は無邪気に笑う。

 毛利徳寿丸。
 毛利元就の三男、つまり毛利隆元や元春の実弟である。
 大内への臣従の証として、築山御殿に入れられていたのである。


 「しばらく徳寿丸を山口に置いておったが、吉田に帰すことにした。
  出雲に遠征しておった元就やその子らも無事に戻れたそうだ。
  三河守よ、槌山城へ赴く時に徳寿丸を連れて吉田郡山城に寄れ。
  そして元就と今後の連携を確かめ合うのだ」

 「はっ。かしこまりました」

 
 見ると、徳寿丸も「お願い申し上げます」と頭を下げていた。
 隆包は微笑しながら、無言でうなずく。

 弘中隆包に任せておけば、毛利も今後裏切ることはないであろう。
 義隆は再び座り、隆包を真正面から見つめて言った。


 「末永く、大内を頼むぞ。三河守」

 「はっ」



 尼子の勢力の奥深くに入り込んだ出雲遠征に大敗したとは言え、
 七ヶ国に及ぶ大内の勢力は、いまだに強大なものである。

 また、大内氏は明国との勘合貿易の権利を占めていることから、
 応仁の乱により大きく荒廃している京の都よりも、
 大内氏の治める山口の地は西国一の繁栄を見せていた。

 西は豊前国(=大分県)の大友義鑑(おおともよしあき)と
 勢力を接するが、義隆の姉を義鑑の妻として送り出したため、
 大友とは同盟国であり、それほど心配もない。

 ただ、東にある出雲国(=島根県東部)の尼子晴久は、
 月山富田城の戦いで大内側から寝返って尼子側についた
 安芸小倉山城(=広島県北広島町)の吉川興経や
 備前神辺城(=広島県福山市)の山名理興などの
 国人を使いながら、徐々に大内支配地への揺さぶりをかけてくる。

 山口の泰平は、安芸守護代となって芸備の経略にあたる
 弘中隆包の双肩にかかっていた。
 


 守護代任命の日から、山口を出立するその日まで、
 隆包の任官に対して祝福の辞を伝えるために、
 大内家臣たちが代わる代わる弘中邸に訪問してきた。

 周防国守護代である武官筆頭の陶隆房をはじめ、
 安芸銀山城主の冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)、
 大内義隆の側近中の側近である相良武任(さがらたけとう)、
 大内家中でも屈指の豪将・江良房栄(えらふさひで)など、
 文武問わず、大内家の重臣たちが隆包に次々に会いに来た。

 この度の月山富田城への遠征の惨敗から、
 主君義隆をはじめ諸将兵が無事に山口へ生き戻れたのは、
 殿軍を務めた隆包の功であることを、誰もが認めていたのである。


 そして隆包は出立前に、弟の方明を伴って、
 長門国守護代・内藤興盛(ないとうおきもり)を訪ねた。
 大内家臣団の中でも、重鎮中の重鎮である。

 興盛の嫡男・内藤隆時は早世して既にこの世に無いが、
 その長女は弘中下総守興勝に嫁ぎ、そして隆包と方明を生んだ。
 つまり隆包らにとって、内藤興盛は母方の曽祖父にあたる。

 代々長門国の守護代を務めてきた内藤家の当主・興盛は、
 自分の曾孫が自らの力で同じ守護代職を克ち得てくれたことに
 事のほか喜んでいた。

 「共に大内を守ろうぞ」という内藤興盛の祝辞を、
 隆包は固く心に刻みながら、深く返礼をした。



 京の都よりも華やかに栄える山口を背にして、
 安芸守護代に任じられ東国の警備を任された弘中三河守隆包は、
 新任地・槌山城(=広島県東広島市)へと赴くのであった────。



 (つづく)






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  『厳島戦記』武将列伝 [八]
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 ■内藤興盛 (ないとうおきもり)

 大内家重鎮。長門国(=山口県西部)守護代を務めた大内家中随一の
 宿老。娘が大内義隆の側室となり、嫡男の長女は弘中興勝に嫁いで
 弘中隆包を産み、嫡男の次女は陶隆房に嫁ぎ、また自らの末娘は
 毛利元就の嫡男毛利隆元に嫁ぐなど、大内主従の者と深く結びついた。
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