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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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厳島戦記(七) 石見血路の巻
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 厳島戦記(七) 石見血路の巻
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                       第二部「月山攻囲戦」

 


 振り返れば、一面に血飛沫が飛び交う。
 地獄とは、このような光景を指すのかもしれない。

 撤退する大内軍の盾となって最後尾でその追撃を払おうとする
 毛利元就や弘中隆包の軍勢を、尼子軍の屈強な兵たちが、
 まるで地獄の番犬が罪人を噛み殺していくかのように斬り伏せる。


 毛利隊と弘中隊は尼子の猛追を防ぎながら
 大庭(=松江市)、古志(=出雲市)へと退いていったが、
 尼子側に通じる領主たちの軍勢に続々と討ち取られていた。


 尼子の追撃の手は、止まらない。
 既に数百騎しか残されていない毛利軍と弘中軍。

 そこへ、さらに千騎ばかりの尼子軍が迫ってきた。


 弘中隆包は、毛利元就を安芸の吉田郡山城へ逃がすため、
 ここに留まり、眼前の尼子軍を食い止めることにした。

 弘中勢以上にわずかな兵しか残されていない毛利勢は、
 隆包たちの申し出に頼らざるを得なかった。

 毛利父子は、弘中の兄弟に頭を下げる。


 「隆包殿。かたじけない」

 「いや。元就殿、隆元殿、元春殿。生きて吉田へ帰られますよう。
  我らも必ずや生きて山口まで戻りますゆえ」

 「心得申した。また隆包殿と戦場で知恵を出し合いとうござる。
  必ずや、またお会いしましょうぞ。隆包殿、方明殿!」


 元就は隆包たちと、生還を誓い合った。

 元就を筆頭に、毛利隊は山越えの路へと駆けていく。

 弘中隊はその路上に鉄柵のごとく尼子軍を待ち構え、
 東からの馬蹄を聞くと、刀槍を構えた。



 立ち塞がる弘中隊に突っ込んだ尼子の軍勢は、
 出雲白鹿城の山中隊だった。

 弘中隊と山中隊は入り乱れての激戦となった。


 鹿の角と三日月の前立を要する立派な兜をつけた武人が、
 山中隊の中から躍り出て、弘中隆包に突進した。

 既に弘中隊の大将旗など折れてどこぞへ消え失せているのに、
 武人ならではの嗅覚で大将首を嗅ぎ取ったのであろう。
 隆包を大将と見るや、刀で斬りつけた。

 しかしその一刀は、隆包に刀で簡単に弾かれた。
 二太刀、三太刀と振り下ろすが、隆包に流されてしまう。

 やがて斬り合いは馬上での鍔迫り合いとなった。
 勇む相手は互いに同じぐらいの年齢のようである。

 三日月の兜の若武者が、奇妙な笑みを浮かべながら声を出した。


 「強いのう、おぬし。若いが大将であろう。名は」

 「大内家家臣、弘中三河守隆包」

 「ほう。三河守(みかわのかみ)なのか、おぬしは」

 「そうだ」

 「奇遇よ。このわしも三河守だ。尼子家家臣、山中三河守満幸」


 刀を交えていた相手は、山中満幸と名乗った。
 尼子領の要衝に建つ支城・白鹿城の城主であった。
 

 「弘中三河守。なかなかの武勇で敵ながら感服するが、
  このような大敗の中で生き延びることができると思うのか。
  この先は追撃を受けながらの苦難の道しかないぞ。潔く降れ」

 「武人は、七難八苦を乗り越えてこそ強くなっていくもの。
  苦難の道が与えられたならば、喜んで挑むのみよ」


 山中満幸の刀を弾き返した弘中隆包の刀が、一閃した。

 満幸はとっさに構えなおしてその一撃を受けたが、
 あまりの衝撃に均衡を失い、馬上からその身が崩れ浮いた。

 その空中の山中満幸を、さらに隆包の刀が鋭く襲い掛かったが、
 次の一撃は兜の鹿角に当たって火花を散らすに留まった。

 満幸は地面に叩きつけられ、小さくうめいた。

 もう一人の三河守を馬上から見下ろす、弘中隆包。

 しかし、そこから攻撃の手を加えることはなかった。
 弘中隊にはもう少しの余裕も残されていなかったのである。

 「退け、西へ退けえっ!」と、隆包は声を挙げた。
 続けて「退却、退却!」と弟の方明も槍を掲げて伝令する。
 
 大将の号令に、弘中旗下の騎兵たちは一斉に駆け始めた。

 少数にまで打ち崩されながらも、弘中隊は見事に統率されていた。
 隆包や方明の指揮の下、迅速に山中隊の中を駆けていく。


 対して、山中隊は大将の落馬により追撃の手が緩んだ。
 「弘中三河守か…」と、山中満幸は重い兜を調えながらつぶやく。

 その名を忘れまいと、
 風のように去っていく相手の背中を見つめ続けた。


 大内軍の最後尾を守り続けた弘中隆包の一隊は、
 血路を切り開きながら、周防山口へと行き戻ることができた。

 そこに、悲報が待ち受けているとは知らずに――――。



 一方、吉田郡山城を目指して石見の山々を越える毛利勢にも、
 尼子方の迅速な追っ手が迫っていた。

 温泉津(=島根県大田市)の山奥にある大江坂七曲という坂道で、
 毛利勢はついに尼子軍に追いつかれ、
 その家臣や兵士たちは次々と討ち倒されていった。

 大将の毛利元就を守るべく、
 その長男の毛利隆元は重臣らと共に先を駆けて敵を斬り倒し、
 次男の毛利元春は追っ手の尼子兵を斬り伏せていく。
 
 しかし止まぬ追撃に、次々と諸将も斬られていき、
 元就も自ら尼子の兵らと刀を交え続けて疲労の極致にあり、
 もはやこれまでと、力尽きるように馬から崩れ落ちた。

 「父上!」と、敵兵を斬りながら元春が叫ぶ。


 その時、一人の武者が元就に飛びかかって、甲冑に手をかけた。

 それは毛利家臣の一人、渡辺通(わたなべのかよう)だった。

 父の渡辺勝が毛利に謀反を起こし誅殺されたために
 他の領地へと逃亡していた所を、吉田郡山城の籠城戦の後に
 毛利元就に許されて再び配下に迎えられた武将である。


 かつて渡辺通が逃亡していた先は、備後国人の山内直通。
 月山富田城で吉川興経らと真っ先に尼子側へ寝返った国人だ。
 その山内直通に召抱えられ、その名の一字を戴いたほどの渡辺通。
 死地での反逆かと、元春は馬から飛び降りて刀を構えた。

 しかし、元春は通に斬りかかることはできなかった。
 元就を見つめる通の目は、忠義の光に満ちていたからである。


 「殿。私が殿の身代わりになります。さあ、殿の甲冑を!」


 通は、自分に付き従う士兵たちと一緒になって、
 呆然としている元就から甲冑をはぎ取り、兜を脱がせた。

 そして総大将に相応しい煌びやかな甲冑を急いで着込み、
 主君元就の体を抱え起こして、脇の元春に元就の身を預けた。

 渡辺通は馬に飛び乗るや蹴り立てて、坂の下から迫り来る敵兵の中に
 「毛利元就はここにあり。この首討てる者はあるか!」
 と声を挙げ、大刀を振るいながら駆け込んでいった。
 通に従う六人の兵卒が、それに続く。

 敵兵の追撃の目を反らすため、元就の身代わりとなったのである。


 元就は鎧のないまま元春に馬上へと戻され、
 追っ手が渡辺通の気に向いている隙に南へと駆け逃げた。

 「毛利元就だ」「元就がいたぞっ」「討て討てっ」
 尼子の将兵たちは、影武者とは知らず元就の鎧姿を追っていく。

 毛利元就の甲冑を着込んだまま尼子勢の中に踊り込んだ渡辺通は、
 大勢の敵兵の槍に体を貫かれ、血飛沫を上げて馬から落ちた。
 さらに大将の首をもらわんと尼子の軍兵が群がり、次々に刺していく。

 元就の身代わりとなった渡辺通は、壮絶な最期を遂げた。



 元就父子が命からがら安芸国内に逃げ帰った頃には、
 ようやく尼子軍の追撃の手は止まっていた。
 我に返ると、そこには数十騎の家臣しか残っていなかった。

 血と泥にまみれた、惨敗の成れの果てであった。


 後から逃れてきた家臣たちから
 元就の身代わりとなった渡辺太郎左衛門通とその兵たち、
 七名の武人の壮絶な最期を伝え聞いた。

 胸を痛め涙を浮かべながら、元就は我が子隆元と元春に告げる。


 「通は、父の罪を一身に背負う心積もりで忠義に死したのだろう。
  鬼切の武士・渡辺綱に始まる渡辺の血筋、本物であったのう」

 「はい」

 「この先、毛利家が続くとあらば、渡辺通の忠義によるものだ。
  我らは今後は決して、渡辺家を見捨ててはならぬ。
  そして、この敗戦の無念さを絶対に忘れてはならぬ」


 隆元と元春は、父の言葉を胸に刻みつけた。
 後の世に毛利家を継ぎ、もっと強い家へと育てるために。


 元就父子の命を救うために渡辺通たち七人の武者が散った
 この大江坂七曲の山道は、
 いつしか「七騎坂」と呼ばれるようになっていた。



 九死に一生を経て、元就父子は吉田郡山城へと帰り着いた。


 この出雲遠征で、毛利軍は多くの臣下や兵たちを失った。
 後世に「毛利元就の七騎落ち」と伝わる、屈辱的な敗北である。


 何ゆえ、このような惨い結末を迎えたのか。

 それは、各々が小さな勢力しか持たない安芸の国人衆が
 いつまでも大内と尼子の間で寝返りを繰り返すからであり、
 その域にずっと甘んじている自らの不徳ではないのか。

 これまでの一国人領主の立場で揺れ動くようでは、
 いつまで経っても「百万一心」の境地には辿り着けない。


 元就の中にはこれまでにない、野心に似た考えが脳裏をよぎった。

 これまでに「大内に付くか」「尼子に付くか」という
 二つの選択肢しか持つことのなかった毛利家には、
 新たな第三の道を模索しなければならないのではないか。

 実の息子たちにもまだ言い出せない様々な画策が、
 元就の頭の内に刻々と描かれていく。



 こうして、後の世に言う「月山富田城の戦い」は終わった。

 毛利元就がこの屈辱を旨に月山富田城を攻め落とす
 「第二次月山富田城の戦い」は、また十五年近く後の別の話である。



 西国最大の覇者・大内義隆を見事に退けた出雲の尼子晴久は、
 再び大内領へと触手を伸ばし始める。

 天文十二年(1543)。
 九州南方の種子島に、ポルトガル船から鉄砲が伝わった年である。

 この月山富田城の戦いでの大敗が、
 当時我が国の最大勢力とも謳われた守護大名・大内義隆の運命を
 大きく揺るがしていくことになる――――。
  

 (第三部へつづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [七]
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 ■毛利隆元 (もうりたかもと)

 安芸国(広島県)の戦国大名・毛利元就の嫡男。弟の吉川元春、
 小早川隆景らと共に父元就を支え、やがて毛利当主の座に着く。
 大内義隆の養女を娶り、大内家と深く結びつくが、やがて大内方の
 陶晴賢、弘中隆包らと厳島で対決。その後、父元就より先に死去。
| 『厳島戦記』 | 22:22 | comments(0) | trackbacks(0) |









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