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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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厳島戦記(五) 月山攻防の巻

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 厳島戦記(五) 月山攻防の巻
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                       第二部「月山攻囲戦」

 


 「晴持よ、あれが赤穴の瀬戸山城よ。
  すぐに攻め落として、月山富田城への足がかりとしようのう」

 「はい」


 大内義隆は、後継者たる子の晴持と共に、
 目の前の小さな山城を見て笑った。


 この大内晴持は、義隆の実子ではない。
 土佐(=高知県)の一条房冬の子を養子にもらったのである。
 大内義隆の姉は一条房冬に嫁いでいたので、甥にあたる。

 摂家である一条家の血を継いだこの養嗣子を、義隆は溺愛した。
 将軍・足利義晴にその一字を賜って「晴持」の名を与える許しを
 将軍家からわざわざ戴いたほどである。

 公家の名門の血を継ぎ、また教養や文化にも深かった晴持は、
 義隆から次代の後継者としての教えを注ぎ込まれた。


 そして、好敵手であった尼子氏の勢いが衰えるのを知ると、
 大内がその尼子を飲み込む姿を見せておこうと、
 義隆は晴持を出雲遠征へと連れて行ったのである。



 天文十一年(1542)正月に山口を出発した大内義隆の軍勢は、
 安芸(=広島県西部)、石見(=島根県西部)を通過し、
 大内に味方する国人領主たちの軍兵も加えながら、
 出雲(=島根県東部)の月山富田城へと進軍していった。

 二万余にも膨れ上がった大内軍は、石見と出雲の境に位置する
 尼子の支城、赤穴瀬戸山城に攻めかかった。

 
 大内軍にとっては、眼前の瀬戸山城は
 出雲遠征の初戦を軽やかに飾るには手頃な小城だった。

 ところが、この瀬戸山城の攻略が、
 大内軍にとっては思わぬ長期戦となってしまう。


 大内侵攻の報を聞いてから、城将・赤穴光清(あかなみつきよ)は
 堀を深め土塁を高くし、城に万全の構えを築いていた。
 峻険を増した城と赤穴光清の奮戦で城はなかなか落ちず、
 最初に攻撃にかかった熊谷直続はあえなく討死。

 猛将の陶隆房や毛利元就たちも加わって総攻撃をかけ、
 赤穴光清を討ち取り、ようやく瀬戸山城は陥落した。

 六月七日に攻め始め、攻略したのは七月二十七日。
 約二ヶ月もの時をかけた上、千数百人の犠牲が出た。

 そしてようやく宍道(=島根県松江市)に到着した時には、
 年が明けて天文十二年(1543)の正月になっていた。

 山陰地方の厳しい冬が、大内の大軍の士気に響く。



 月山富田城がそびえる広瀬富田(=島根県安来市)に入る前に、
 宍道の畦地山に張られた大内軍の本陣で、
 月山富田城の攻略に向けて諸将たちによる軍議が開かれていた。

 大内家臣の田子兵庫頭がまず、
 全軍を広瀬富田に移して総攻撃をかけるという積極論を、
 激しく主張する。


 「月山富田城の北西にある経羅木山(きょうらぎさん)は、
  月山よりもはるかに標高が高く、富田城全体を見下ろせます。
  本陣をこの経羅木山に構え、全軍で攻めかかれば、
  ひと月ほどで月山富田城を落とせましょう」


 大内義隆は、先の吉田郡山城の篭城戦で尼子軍の猛攻に耐え抜いた
 毛利元就にまず意見を求めた。

 元就の意見は、田子とは異なる。


 「月山富田城は、先代の尼子経久も拠点とした天下の名城。
  容易く落とせそうに見えて、大きな犠牲を負う危険がございます。
  富田に全軍を進める前に、とくと様子を見て機会を待ち
  徐々に攻め進めていくべきかと―――」

 「何を寝言を申しておるのだ」


 元就の慎重論を遮ったのは、吉川興経(きっかわおきつね)だった。

 先の吉田郡山城の戦いでは尼子側として協力しながら、
 今回は大内側に味方して尼子側を攻める立場にある。


 「我々がなぜ、尼子を見限って大内に参じたと思っている。
  尼子の命運が尽きていることが分かっているからではないか。
  尼子の手の内なら、我らのほうがよく存じておる。
  攻めるなら今しかあるまい。元就殿、目を覚まされい。
  そんな考えでは、毛利が裏切るつもりではないかと見られるぞ。
  安芸国人としても叔母の嫁ぎ先としても、恥ずかしいわ」

 「……」

 「いや、毛利殿の言い分にも一理ございます」


 毛利元就の意見に同調したのは、岩国領主の弘中隆包である。
 隆包は身を乗り出して、主君へ進言した。


 「先の赤穴瀬戸山城の損害に加え、長旅による士気の低下もあり、
  また今の季節の富田は深く雪に閉ざされており、
  迅速な攻城もままならぬでしょう。慎重を期すべきです」


 大内義隆は隆包の意見に「ふむ」と納得した様子を見せたが、
 この意見が、さらに大内の武将たちの反論を促した。

 特に武断派の筆頭、陶隆房の声は大きかった。


 「弘中殿は、山口を立つ時にも遠征には反対でござったな。
  相良武任ごときと意見を同じくした上、ここでも進軍を
  遅らせるつもりか。慎重も度が過ぎると敗北を招きますぞ。
  いまや多くの国人が尼子を見限って我らに味方しておるのです。
  田子の申すとおり、一気に攻め取るべきでござろう」


 陶隆房の発言に、他の武将たちも
 「そのとおりぞ」「誠に」と大いに湧いた。

 元就や隆包の慎重論は、流れを失っていく。


 大内義隆は双方の意見の道理を踏まえた上、
 陶隆房の同調した田子兵庫頭の策どおり経羅木山に本営を移し、
 毛利元就や弘中隆包の主張に沿って雪解けを待ち、
 機会を見て総攻撃をかけるという決断を下した。

 今後、大内の隆盛を継ぐであろう子の晴持の前では、
 消極的な戦略を見せるわけにはいかない、と思ったのかもしれない。



 元就や隆包は、歯噛みした。

 本当の懸念は、諸将の前で発した言葉の中にはない。

 尼子から鞍替えした各国人たちを含めて大軍となった大内勢だが、
 裏切る国人が一つでも出ると、収集がつかなくなる。
 我も我もと芋づる式に寝返っていく可能性が出る。

 しかし諸将の前で「この中の誰かが裏切ったら終わりである」
 ということは明言できない。
 それが不信につながり、さらに裏切りを招きかねないからだ。

 総攻撃が決まった以上、全精神を月山攻略に向けざるを得ないが、
 味方への注意を怠るべきではないと、元就も隆包も感じていた。



 天文十二年正月二十日、富田の地に入った大内義隆は
 月山富田城から北西に位置する経羅木山に本陣を構え、 
 諸将はその周辺に陣を張った。

 陶隆房は、慎重論を唱えた毛利元就や弘中隆包、
 また吉川興経や山名理興、三刀屋久扶や山内隆通など、
 尼子からの寝返り組である国人領主たちを従えて、
 月山富田城の南西の川を越えた経塚の地に陣を構える。

 


 大内本隊は重臣内藤興盛らと共に北側の菅谷口から、
 陶隆房の軍勢は南の塩谷口から城を攻めた。

 塩谷口は尼子側の牛尾幸清、宇山久兼の軍勢が守っている。

 陶隆房は、かつて尼子の傘下にあり月山富田城をよく知る
 吉川興経、山名理興、三刀屋久扶、三沢為清、山内隆通など
 安芸・備後の国人領主たちの軍勢を塩谷口に突っ込ませた。



 しかし、この堅牢の月山富田城は簡単には攻め入れなかった。

 大内軍の一年近くに及ぶ遠征のその長い時の間に、
 尼子側も防備体勢を頑強に整えていたのである。

 翌月に入っても、大内軍は月山の山麓すら突破できずにいた。


 大軍であるはずの大内軍は焦り始めた。

 死傷者が相次ぐ上に、糧道の心配も出てきた。
 山口から出雲までの長い補給線となるこれまでの遠征路で、
 いつどこの領主が大内を見限るかも知れない。

 不安ばかりが積もるが、なかなか城は落ちなかった。



 四月二十九日未明。

 塩谷口を守っていた尼子の牛尾、宇山の軍勢が
 突然鬨の声を挙げたため、対岸に陣を張っていた
 陶隆房、毛利元就、弘中隆包ら大内諸将は何事かと身構えた。

 すると毛利軍や弘中軍、陶らの前方に備えていた
 吉川興経、山名理興、三刀屋久扶、三沢為清、山内隆通ら、
 先鋒を任された安芸・備後の国人たちが、
 打ち合わせもなく突然に河を渡って突撃を始めた。


 「何を勝手に動いておるのだ!」

 ひと月以上苦戦し続けている塩谷口へ、無謀の突撃。
 陶隆房は、吉川勢らの突然の動きを見て呆気に取られた。
 
 次の瞬間、信じられない光景が広がった。

 吉川勢たちが、牛尾・宇山の尼子軍の間隙を縫って
 塩谷口を突破したのである。
 そして山頂の富田城へと月山を駆け上がり始める。



 「おおっ。吉川殿らが塩谷口を切り開いたぞっ。
  我らも遅れてはなりますまい。兄上、すぐに出撃しますか」

 興奮気味に指を差して言ったのは、弘中方明だった。
 この出雲遠征が初陣だけに、大きな意気を隠しきれない。

 ところが、振り返って見ると、兄の顔は青ざめていた。


 「いや、陶殿のところへ行ってくる」

 「え、今からですか」

 「おまえは、毛利殿にも参じるよう伝えろ。
  今すぐにだ、急げっ」


 隆包は方明に命じると、すぐに陶隆房の陣へと駆けた。

 これまでに見たことのない隆包の焦燥の表情を見て、
 方明は「よく分からないが、ただ事ではない」と察し、
 急いで毛利元就の陣へ向かった。

 
 大内軍の威信を賭けた月山富田城包囲戦が今、
 その結末に向かって大きく動き始めた――――。


 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [五]
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 ■陶晴賢 (すえはるかた)

 周防国(山口県)大内氏の重臣。当初の名は陶隆房(すえたかふさ)。
 大内の分家・陶家の当主で、武勇に秀で、若い頃から大内軍を率いる。
 吉田郡山城の戦いでは大内軍総大将として尼子から毛利元就を救うが、
 やがて大寧寺の変を経て、毛利元就と厳島にて対決することになる。

| 『厳島戦記』 | 01:07 | comments(0) | trackbacks(0) |









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