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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
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厳島戦記(三) 山口出立の巻

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 厳島戦記(三) 山口出立の巻
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                       第一部「郡山籠城戦」





 天文十年(1541)の吉田郡山城の激闘の直後から、
 中国地方の情勢は大きく動き出した。


 毛利元就の居城・吉田郡山城へと遠征した尼子詮久が大敗した
 「吉田郡山城の戦い」の同年に起こったある出来事で、
 尼子の勢力下の様子は大きく狂い始めた。

 尼子氏を一代で大勢力を築いた英雄・尼子経久が
 八十四歳の生涯を閉じたのである。

 既に孫の詮久に家督を譲って隠居していたとはいえ、
 経久の伝説的な功績は尼子家中の大きな求心力となっていた。
 その経久の死により、尼子氏を裏切って大内氏へと寝返る
 領主や武将などが次々と現れだしたのである。

 詮久はその威信を回復するため、足利将軍家の力を借り、
 将軍足利晴久から晴の一字をもらい受け、
 尼子晴久(あまごはるひさ)と名を変えることになった。

 しかし、それでも国人領主が寝返りは止まらない。
 出雲を中心に広がる尼子の威信は、軋み始めていた。



 この尼子氏の弱体化を絶好の機会と見た山口の大内の諸将は、
 主君・大内義隆(おおうちよしたか)に出雲遠征を進言した。

 その中心的人物となったのは、先の安芸の吉田郡山城戦で
 総大将として大内軍を率いた陶隆房(すえたかふさ)である。


 陶隆房は、先代の大内義興時代に京都や九州など各地を転戦し
 大内氏の版図拡大に大きく貢献した名将・陶興房の息子で、
 天文八年(1539)の興房の死に伴い、十八歳で家督を相続した。

 翌年、十九歳にして吉田郡山城への援軍の総大将に任命され、
 尼子の大軍を退け毛利を救った大功で、隆房の発言力は大きく増し、
 大内軍の武官の中でも多大な権力を持つ重臣となっていた。



 安芸や備後、石見などの国人領主が次々と尼子晴久を見限り
 大内義隆へと味方している今こそ、尼子を討つ絶好の機会だと、
 陶隆房を筆頭とする武断派が評定の席で声を荒げた。

 しかし「安芸に出兵した尼子晴久の二の舞にならないか」と、
 文治派の相良武任(さがらたけとう)らが慎重論を出した。


 陶隆房たち武官は国人領主たちも味方につけていたため、
 大内義隆は出雲遠征へ決意を固めかけていたが、
 どうしても決断へと踏み出せない理由が一つあった。

 猛将揃いの大内家臣団の武断派の中で一人、弘中隆包だけが
 相良武任ら文治派と同じく、慎重論に回ったからである。


 武断派の遠征論と、文治派の慎重論が真っ向から対立した。

 評定はなかなか決まらず、家臣冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)が、

 「どちらの意見も道理であり、このままでは決まりますまい。
  ならば中間を取り、段階的に出雲に進軍してみてはいかがか」

 という譲歩案を提示したため、大内義隆はそれに賛成し、
 翌年の天文十一年(1542)に、出雲へと進軍する決断を下した。

 山口の城下は、遠征の準備に慌しく動いた。



 そんなせわしい中、大内氏重臣の弘中家の居館では、
 元服の儀が執り行われていた。

 弘中隆包の弟、市郎の元服式だった。

 年明けの出雲遠征で、市郎の初陣としての同行が許された為、
 遠征の出立前に元服を済ませておくことになったのである。


 出雲遠征には反対の立場にあった隆包ではあるが、
 それが弟の初陣の機会になったことは何よりの救いである。

 物事の覚えが悪くてそそっかしく、将来が心配だった弟が、
 一人前の武士として大内に加わることになる。

 戦の準備の最中であるためかなり簡略化した儀式とはいえ、
 隆包は弟の凛々しい烏帽子姿に、感無量の心地であった。

 元服した弟は、弘中方明(ひろなかかたあき)の名を戴いた。



 清和源氏の血筋として鎌倉時代より岩国を治めてきた弘中氏が
 大内氏の重臣としてその名を知られるようになったのは、
 隆包や方明の祖父、弘中弘信(ひろなかひろのぶ)の功である。

 応仁の乱の時、大内政弘が山口から上洛して山名宗全に助力し、
 畿内平定のために各地を転戦したが、その時に大内政弘に従って
 その戦の手腕を大いに発揮したのが、岩国領主・弘中弘信だった。
 その大功により、政弘の一字を授かって弘信と名乗ったのである。

 応仁の乱後の大内氏は、山口を中心に大いなる繁栄を極めるが、
 弘中氏も代々その家臣団の中核へと加わることになった。


 弘信の死後は、その嫡男の興勝(おきかつ)が家督を継いだ。

 弘中下総守興勝は大内義興に仕えて戦線にて大きく功績を残した後、
 嫡男の隆包に当主の座を譲って、仏門へと入り興武入道と号していた。



 隆包と方明の兄弟は、元服式の夜に父・興勝の部屋に呼ばれた。

 隆包に家督を譲ってからは滅多に表に出なかった興勝が、
 兄弟を揃えて姿を現すというのは久々のことである。


 「今はもう弘中家当主が隆包であるから、わしの出る幕はない。
  今から伝えることは、父の最後の教えと心得よ」


 興勝は二人の子を前に、口を開いた。


 「隆包。嫡男として当主となったおぬしの役割を申せ」

 「はっ。主家である大内家を守り支えることでございます」

 「よろしい。では…」


 隆包の答えを聞いた後に、興勝はその右に座る方明を見た。
 元服したとは言えまだ落ち着きに欠ける方明は、
 肩を張って父からの言葉を待った。


 「方明。おぬしの役割を申せ」

 「はい父上。主家である大内家を守り支えることでございます」

 「違う!」

 「ええー!?」


 手にした扇子を畳に軽く叩き付けた父に、方明はたじろぐ。
 「兄上と同じことを復唱しただけなのに…」とばかりに
 方明は唇をかんで、張っていた肩をすくめた。

 興勝は、方明に言った。


 「当主たる嫡男は、主家を守るのが役割よ。
  父の弘信公もこのわしも、主家の大内のために身を捧げた。
  大内の当主もまた、将軍家を守り支える存在であり、
  将軍家の当主もまた、帝を守り支える存在でもある」

 「はい」

 「対して嫡男以外の男子は、本家を守るのが役割よ。
  本家嫡流を守り支えることこそが、弟の本分なのだ」

 「…はっ」

 「嫡男の隆包は大内家のためにその力を尽くす。
  次男のおぬしは、兄の隆包のためにその力を尽くせ。
  弘中の嫡流の行く末を支えるのが、おぬしの役割だと心得い」

 「深く心得ましてございます、父上」


 父の教えを心に刻んだ方明は、揃えた手をついて頭を下げた。

 興勝は心の内を全て伝えたかのような心地で安堵の表情を見せる。
 それを見て、隆包も深く感じ入るものがあり、手をついた。


 兄の隆包は幼い頃より聡明で、将来を渇望されていた。
 対して方明は学問も苦手で、武術の稽古も好きではなく、
 武勇に秀でる兄がいるからと気楽な幼少時代を送ってきた節がある。

 元服を迎え、父に自らの使命を教わった方明は、
 これからは自分には大きな責任が伴うのだと、気を引き締めた。

 これからは兄に助けられるのではなく兄を助けなければならない。
 方明は初陣を前にして、自らの使命を全うする覚悟を決めた。

 

 年が明けて、天文十一年(1542)正月十一日。

 大内義隆自らが総大将となって率いる一万五千の兵が、
 出雲国へ向けて山口を出発した。

 陶隆房をはじめ、内藤興盛、杉重矩、江良房栄など
 譜代の歴戦の武将たちが大内義隆に付き従った。

 その中には、弘中隆包、方明の兄弟の姿もあった。


 向かう先は尼子の本城、月山富田城(がっさんとだじょう)。

 やがて大内氏の命運を大きく揺るがす凄絶な大戦となる
 「月山富田城の戦い」が、
 今まさにその幕を開けようとしていた――――。


 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [三]
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 ■大内義隆 (おおうちよしたか)

 周防国(山口県)の守護大名・大内氏の第三十一代当主。七ヶ国の守護
 として大内氏の隆盛を導いた大内義興の嫡男で、文化的にも造詣が深く
 山口を「小京都」と呼ばれる芸術の都へと整備し繁栄を極めた。
 天文二十年(1551)、長門深川の大寧寺で四十五年の生涯を閉じる。

| 『厳島戦記』 | 17:40 | comments(0) | trackbacks(0) |









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