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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
厳島戦記(二十六) 折敷畑山の巻

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――
 厳島戦記(二十六) 折敷畑山の巻 
―――――――――――――――――――――――――――――――――
                       第五部「防芸謀略戦」



 陶晴賢主導の大内義長新政権に手切れを宣言した毛利元就は、
 大内軍の主力が津和野三本松城(=島根県津和野町)の攻城に
 専念している隙に、次々と安芸国内の城を落としていった。

 毛利の勢力拡大を阻止すべく、陶晴賢は三本松城の吉見正頼と
 すぐに講和を結び、宮川房長に命じて毛利防衛に向かわせる。

 猛将・宮川房長率いる軍勢は、進軍途中の諸領の兵も合流し、
 その数七千人にまで膨れ上がっていた。

 毛利元就は瀬戸内海を望む桜尾城(=広島県廿日市市)に
 軍を留めていたが、宮川房長の軍勢はその桜尾城を見下ろせる
 折敷畑山に本陣を敷いた。

 天文二十三年(1554)九月十四日のことである。



 桜尾城に滞陣する毛利軍の兵数は、三千足らず。
 対する陶軍は、二倍以上の兵力で桜尾城をにらんでいる。

 「大軍勢ですな…。残された手はもはや、籠城のみですか」

 視線の先の折敷畑山に揺れる陶軍の旗を見ながら、
 毛利元就の二男、吉川元春は父につぶやいた。

 桜尾城の城壁から、毛利元就は目を細めて敵陣を見つめる。
 その後ろで、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の三子は、
 息を呑みながら父・毛利元就の判断を待つ。


 「いや…」 元就は、元春の問いに答える。

 「援軍や後詰めが十分にあるならば、確かに籠城で耐え忍ぶべきだ。
  しかし、この桜尾城には、毛利のほぼ全軍が集まっている。
  籠城をするとしても、いったい何を期待して待つというのか。
  ここは、城を撃って出るしかあるまい」

 「敵は大軍です。この兵力で、勝てますでしょうか」

 不安を口に出したのは、三男の小早川隆景である。
 知略に長けた隆景であっても、
 この危急を切り抜ける自信が湧いてこないようだ。


 「隆元は、どう思う」

 元就は、傍に控える長子の毛利隆元に意見を求めた。

 隆元は名目上は既に毛利家の当主であり、
 今回の御手切れに際して、毛利の行く末を決断した当人でもある。
 元就はそれ以来、ちょくちょく隆元に考えを聞くことが増えた。


 「なぜ、弘中殿が来なかったのかが分かりませぬ」

 毛利隆元の口から、対陣にいる者とは別の将の名が出てきた。

 「三本松城では、弘中隆包殿が九州から駆け付けたと聞きます。
  恐らく筑前(=福岡県北部)の宗像勢を吸収しているから、
  その勢いでこちらに向かってくるものかと思っておりました」


 毛利元就は、隆元の意見に感心しながら口を開く。

 「うむ…。わしもそれが不思議でならなかったのだ。
  隆包殿がいないので分かれば、我らの作戦はもう決まったのう。
  宮川房長など所詮は陶の飼い犬、恐るるに足らぬわ」


 まるで拍子抜けするかのような息が、毛利元就から漏れた。
 その武勇は安芸国内まで知れ渡っている宮川房長だが、
 毛利元就にとっては全く眼中にない相手のようである。

 勝利を確信した元就は、軍議のために本丸へと戻った。



 翌十五日の朝。


 朝もやが晴れると、折敷畑山の宮川房長軍本陣からは、
 山の麓に小隊が留まっているのが見えた。

 毛利元就の大将旗がはためいている。

 総大将の毛利元就、そしてその嫡男の毛利隆元の部隊が、
 桜尾城から出て、悠々と待ち構えていたのである。

 そして、ひょろひょろと山上へいくらかの矢を射かけながら、
 「周防の猪武者は、その山を下りることはできまい」
 「陶の犬に用はない。晴賢を出せ」
 などと、本陣に向かって悪口雑言をはやし立て始めた。


 「山猿が調子に乗りおって…。目にもの見せよ!」

 逆上した宮川房長は、本隊に山麓への突撃を命じた。

 眼下の毛利隊は、宮川軍本隊に比べればあまりにも小勢である。
 蹴散らさんと、宮川軍は山道を駆け下りる。


 だが、目の前の毛利隊を小勢だと侮って突出した宮川軍は、
 山上の本陣から山麓まで、細長く伸びきってしまった。

 そこに、左側から吉川元春隊、右側からは小早川隆景隊が、
 幕のように伸びた宮川軍を横から突いた。

 正面の毛利元就、毛利隆元も勢いに乗って攻め上がってくる。

 山中は宮川軍、毛利軍が入り乱れての大激戦となった。


 その様子を本陣で見ていた宮川房長は、鼻で笑った。

 「やはり、吉川と小早川が待っておったか。こしゃくな」

 宮川房長は、必ず横からの奇襲があると先を読んでいたのだった。
 そのため、第一陣には山麓へと突撃させたものの、
 本陣には第二陣となる余力を十分に残していたのである。

 「毛利の小勢どもなど、ひねりつぶせいっ!」

 正面の毛利隊、そして横から出てきた吉川隊と小早川隊を、
 全てまとめて殲滅せんと、宮川房長は第二陣を率いて
 本陣を駆け下り始めた。

 さすがに国内外にその名の知られた猛将、宮川房長である。
 吉川隊や小早川隊の奇襲をものともせず、
 次々とその兵を斬り伏せながら、毛利隊へと向かった。


 宮川房長率いる第二陣がまさに吉川・小早川隊を斬り抜けようと
 勢いを増そうとしたその時、
 大将不在の山上の本陣に、大きな異変が起こった。

 福原貞俊・宍戸隆家率いる毛利軍の別動隊が、
 折敷畑山の背後から現れ、宮川軍本陣になだれ込んだのである。

 本陣を守る大内軍は次々と福原・宍戸隊に斬り倒されていく。
 後方の本陣を急襲され、宮川軍は大混乱に陥った。



 宮川房長は、振り替えって山上の本陣を見上げた。
 そして、目を見開いたまま、がたがたと怒りに肩を震わせる。
 

 決して毛利を侮るな。侮った時点で終わるぞ――――

 津和野から出立する時にそんな小賢しい助言をしてきた、
 弘中三河守隆包の顔が、宮川房長の脳裏に浮かんでくる。

 
 折敷畑山の本陣の戦火を見上げながら、
 宮川房長は、十数年前の記憶が鮮明に蘇ってきた。


 あれは、主君・陶隆房、つまり今の陶晴賢に従って、
 籠城する毛利元就を救うため
 吉田郡山城(=広島県安芸高田市)に援軍に向かった時だ。

 敵将・尼子詮久、つまり今の尼子晴久が、
 吉田郡山城の向かいにある三塚山の山上に本陣を構えたが、
 その本陣を大内軍が奇襲し、尼子軍は総崩れとなった。

 陶隆房の傍らで、宮川房長はその様子を見上げていた。

 その時の記憶と、全く同じ様子が今の目の前に広がっている。


 あの時、三塚山の尼子本陣を奇襲したのは誰か。
 そう、弘中三河守隆包、その人である――――。


 弘中隆包の忠告を軽んじた自分が今、
 かつての弘中隆包の奇襲と同じ軍略で危地に立たされている。

 妬みか恨みか分からない、弘中隆包に対しての刺々しい感情が、
 宮川房長の中で爆発した。

 「三河ァァァッ!!!」

 まるで、弘中隆包の軍略に衝かれたような錯覚に陥った宮川房長は、
 そこにはいない三河守隆包の名を叫びながら、
 狂ったように刀を振るい、周囲の毛利兵を次々と斬り伏せた。

 だが、狙いの定まらぬ房長の刀は、やがて空を斬り始め、
 正面から駆け上がってきた毛利元就隊の長槍に身体を貫かれた。

 猛将と謳われた宮川甲斐守房長は、
 猛獣のように激しい雄叫びを上げながら、血を噴いて倒れ込む。
 
 雄々しくも、突然の最期であった。


 大将が討たれて求心力を失った宮川軍は周章狼狽し、
 毛利軍の包囲に押されて、あっという間に殲滅された。

 七千余にも及んだ宮川房長の大軍はほぼ壊滅し、
 毛利軍が挙げた宮川軍の首級は七百以上にも達した。

 折敷畑山の戦いは、こうして、
 毛利軍の一方的な大勝利に終わったのである。



 折敷畑山にて宮川房長軍、全滅。

 津和野三本松城から周防山口(=山口県山口市)へと
 帰還していた総大将の陶晴賢が、
 その報を聞いて憤怒の絶頂に達したことは、言うまでもない。


 「毛利め……、必ず殺す」


 陶晴賢は、血が滲むほどに唇を噛みしめた。

 そして、大内に反旗を翻した毛利を征伐すべく、
 大内軍の全てを総動員して安芸攻略への準備へと乗り出す。

 安芸の辺境で堂々と大内家の大恩を裏切り刃を向けた毛利は、
 何度殺しても飽き足らぬほど憎き反逆の国人。
 必ず毛利を殲滅することを、晴賢は固く心に誓った。


 陶晴賢の編成する大内本軍の中にはもちろん、
 弘中三河守隆包の姿もあった。

 安芸国の発展に尽くした盟友、毛利元就と弘中隆包。
 その悲運の対決は、
 わずか一年後に迫っていたのである――――。


  
 (第六部へつづく)



 ――――――――――――――――――
  『厳島戦記』武将列伝 [二十六]
 ――――――――――――――――――

 ■宮川房長 (みやながふさなが)

 陶家家臣。武勇に秀で、江良房栄・宮川房長と共に「富田の三房」と
 呼ばれ、陶軍の中核を担った。毛利元就が大内家に反旗を翻した際、
 弘中隆包を差し置いてその防衛軍として陶軍を率いて桜尾城に向かい
 折敷畑山に布陣するも、毛利元就軍の急襲に遭い、その命を落とす。
 

| 『厳島戦記』 | 11:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(二十五) 三本松城の巻


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 厳島戦記(二十五) 三本松城の巻
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                       第五部「防芸謀略戦」




 「やはり裏切っておったか、毛利の山猿がっ!」


 陶晴賢が地面に投げつけた軍配が、音を立てて大きく地に撥ねた。

 津和野(=山口県津和野町)の大内軍本陣に、緊張が走る。


 陶晴賢は、焦燥に駆られていた。

 吉見正頼の守る津和野三本松城(=山口県津和野町)を、
 主君・大内義長を奉じて大軍で総攻撃しているが、
 ひと月、ふた月経ってもなかなか落ちない。

 やがて、攻城への合流を要請していた安芸国の毛利元就が
 ようやく吉田郡山城(=広島県安芸高田市)を出発したと報が入る。

 中には、吉田郡山城を出た毛利軍に不審な動きあり、
 との疑念の連絡もあったが、陶晴賢やその臣下たちは、
 恐らく吉見正頼による情報錯乱の策だろうと思っていた。

 ところが、毛利元就は銀山城、己斐城、草津城、桜尾城と、
 電光石火の速さで安芸国内の大内軍の城を続々と落としていった。

 ついには、海を渡って交通の要衝である厳島を占拠。

 そこを拠点に、小早川隆景率いる毛利水軍が、
 陶晴賢の居城である富田若山城を脅かし始めたのである。


 東方の防衛のために岩国(=山口県岩国市)に駐屯している、
 陶晴賢が絶大な信頼を寄せる武将・江良房栄からも
 毛利軍の諸城への急襲の報告が寄せられ、
 陶晴賢はようやく毛利の謀反を確信し、憤怒を爆発させた。

 しかし、目の前の津和野三本松城の攻撃は難攻を極めていた。

 このままでは毛利元就の侵略をやすやすと許してしまうこととなり、
 やがて城内の吉見正頼軍も毛利軍に呼応して奮起するであろう。

 陶晴賢は苛立ちを隠せず、目の前の三本松城を睨み付ける。



 その日もまた、城を攻めている大内軍に敗色が見え始めていた。

 大内軍が城壁の攻略に手間取って疲労の色が見えてくると、
 三本松城の城門が開き、城内から吉見軍の精鋭が撃って出た。
 短兵急な攻撃に、大内軍は混乱して次々に討たれていく。

 これまで何度、同じようなことを繰り返したであろうか。

 本陣からその様子を眺めていた陶晴賢は焦心に堪えられず、
 いよいよ引き上げを命じようと一歩進み出たその時――――――。


 ガァァァン――――――
 

 耳を引き裂くような音が戦場に鳴り響いた。


 両軍の声が一瞬静まったと思った瞬間、
 馬上で刀を振るっていた吉見方の長嶺という武将が、
 肩から血を吹き出しながら、地にドサリと頭から落下した。


 (鉄砲……!?)

 陶晴賢は、音の方向へと目を向けた。


 当時の「鉄砲」、つまり火縄銃は、
 この三本松城の戦いからおよそ十年前の天文十二年(1543)に
 大隅国(=鹿児島県)の種子島に
 ポルトガル人によって伝来したと一般的に伝えられている。

 だが、以前から明国との貿易を続けていた大内家では、
 種子島の伝来事件よりもずっと前に既に鉄砲が伝わっていた。
 
 しかし、当時の大名であった大内義隆はこれを武器と見なさず、
 狩猟のための用具として所蔵しているだけであり、
 大内軍で戦場で鉄砲が使用されるというのはほとんど例がなかった。


 その鉄砲が、戦場で火を噴いた。

 一筋の細い煙の上がる火縄銃を両手に構えていたのは、
 奉行人筆頭の弘中三河守隆包であった。

 そしてその後ろには、弟の弘中方明をはじめ軍勢が控え、
 弘中家の軍旗である丸揚羽の旗が風にはためいている。

 九州筑前国(=福岡県)の宗像氏の内乱を鎮め、
 弘中隆包は宗像軍の一部も伴い、本州に戻ってきたのである。


 「援軍だ!」と、疲労を見せていた大内軍は歓喜の声を挙げ、
 また援軍の姿を見た吉見軍は顔色を失って城内へと逃げ帰った。

 先の見えない三本松城攻略に心を縛られていた陶晴賢には、
 弘中隊の到着は、まさに干天の慈雨のごとき救いである。

 晴賢は満面の笑みで隆包を出迎えた。


 「弘中殿、よい所に加勢に参られた」

 「毛利軍が反旗を挙げたとの報せを受け、
  宗像領内を早めに取りまとめて戻ってきました」

 「ありがたい。深く礼を言うぞ」

 「陶殿、ここは三本松城よりも、毛利軍の防衛が先決でござる。
  被害が大きくなる前に吉見殿とは和議を結ぶべきです。
  一刻も早く、毛利軍の侵攻を食い止めることが肝要。
  我ら一隊がこのまま、安芸へ迎撃に向かいましょう」

 「おお、そうだな」


 陶晴賢は弘中隆包の申し出に相槌を打ったが、
 そこに横から、「お待ちを!」と大きく声を挟んだ者がいた。

 陶晴賢の股肱の家臣、宮川甲斐守房長である。


 「弘中殿は奉行人。文官は戦事よりも外交に専念すべきでござる。
  吉見との和議は弘中殿が主導されるほうがよろしいのでは。
  毛利の討伐は、我ら陶家中の武官にお任せ頂きたい」

 「我らも同じ意見でございます」


 三浦越中守房清をはじめ、陶晴賢の家臣たちが次々に口を揃えた。

 そこに、弘中隆包の背後から、弟の河内守方明が進み出る。


 「おい、待てっ」

 「何用か」

 「おまえたち、平然と無礼な理屈を言ってんじゃねえ。
  たかだか大内の陪臣の分際で、何を偉そうなことを言ってんだ」

 「何だと!」「もう一度言ってみろ!」

 
 弘中方明の暴言に、宮川房長や三浦房清が眉を吊り上げ、
 今にも方明につかみ掛からんばかりに飛び出そうとするのを、
 「やめんか!」と陶晴賢が声を張り上げて制止した。

 「方明、控えろ!」という兄の声を聞いて、方明も引き下がる。

 陶晴賢と弘中隆包、大内家の武官筆頭と文官筆頭の背後で、
 それぞれに仕える将たちはにらみ合った。



 陶晴賢は溜め息を殺しながらも、ふと考量した。

 確かに宮川房長の言にも一理ある。

 兵力を連れてきた弘中隆包には申し訳ないが、
 文官に武官の手柄を与えることを大将が認めてしまっては、
 無頼漢揃いの諸将たちは大きく不満を募らせるであろう。


 「弘中殿、そういうわけだ。和議を早急に進めてくれないか」

 「そういうことならば、分かりました。今すぐに」

 「そうか、助かるぞ。では毛利への迎撃は、宮川房長に任せる。
  房長、おぬしは三千の兵を率いて、毛利の侵攻にあたれ」

 「はっ」


 
 弘中隆包は、かつて毛利元就と共に安芸を治めていた守護代である。
 だから、治政を共にした毛利の反抗の責任を感じていた。

 そこで毛利軍討伐を自ら買って出たのだが、
 武の誇りを持つ宮川房長ら陶軍の将たちにその出番を譲った。

 そして隆包は、自ら進言した吉見正頼との和議に専心する。


 長らく大内の大軍を退けていた頑強堅固な津和野三本松城だが、
 実は、城内は既に兵糧が尽きかけていた。
 吉見軍にとっても、和議の申し出は渡りに船であった。

 隆包の叔父、弘中頼之が吉見正頼の側近を務めているため、
 弘中頼之を通して吉見正頼に和議を提案したところ、
 吉見正頼は弘中隆包の仲介ならばと、快く和議に応じた。

 和議の条件は、正頼の子・亀王丸(後の吉見広頼)を
 人質として差し出すことで、吉見正頼はその条件を呑んだ。
 そして大内軍は、三本松城の囲みを解いたのである。



 吉見正頼との講和が成るとすぐ、宮川房長は三千の軍勢を率いて
 毛利迎撃のために安芸へと向かった。

 津和野からの出発前に、弘中隆包は宮川房長を呼び止めた。


 「宮川殿」

 「おう、弘中殿。和議の手腕、見事でござったな」

 「それよりも、毛利軍に当たる前に助言をしておきたい。
  毛利軍は吉川勢、小早川勢も連れて総力で動いている。
  これまでの毛利は背後の尼子を気にして動きが鈍かったが、
  この度は違うぞ。小勢だからと絶対に侮ってはならぬ」

 「ほう。弘中殿はこの房長を見くびっておられるな」


 宮川房長は、目を細めて睨むように弘中隆包を見つめた。
 隆包は動じず、先を進める。


 「そうではない。この戦、相手を見くびると負けるぞ」

 「安芸守護代殿は、安芸の国人を高く売り込みたいようですな。
  しかし、我ら陶勢は安芸や九州の田舎武士のような貧弱な戦には
  決して負けぬ強さを持っております。黙って戦果を待たれい」

 「いいか宮川殿。決して毛利を侮るな。侮った時点で終わるぞ」

 「ふっ、何を」


 弘中隆包の忠告を鼻で笑い、宮川房長は馬を進めた。
 三千の兵が、安芸へ向かって進み始める。

 弘中隆包は、祈るような気持ちで宮川隊の背中を見つめた。 


 そしてその後ろから、兄の隆包を心配そうに見る弘中方明は、
 心に立ち込める深い霧のような、晴れない感覚を感じていた。

 これからの兄の歩む運命に立ちはだかる真の敵が何者なのか。

 それは毛利でもない、尼子でもない、
 何か別の、形の見えない敵影が心の奥にちらつく。


 その敵影は、やがて
 名将弘中隆包を窮地へと陥れることになるのだが、
 この時はまだ、弘中方明もその正体をつかめずにいた―――――。
 

  
 (つづく)



 ――――――――――――――――――
  『厳島戦記』武将列伝 [二十五]
 ――――――――――――――――――

 ■三浦房清 (みうらふさきよ)

 陶家家臣。富田若山城(=山口県周南市)城主の陶晴賢の下でその
 武勇を発揮し、江良房栄・宮川房長と共に「富田の三房」と呼ばれ
 国内外に知られる。大内義長政権で権力を掴んだ陶晴賢の片腕として
 活躍し、弘中隆包と衝突しながら、運命の厳島海戦へと身を投じる。





| 『厳島戦記』 | 19:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(二十四) 毛利三矢の巻


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 厳島戦記(二十四) 毛利三矢の巻
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                       第五部「防芸謀略戦」






 人は時として、重い決断を迫られる。
 その決断が、その人の後の運命を大きく変えることになる。

 しかし、どの決断がどの運命をどのように変えていくのか、
 それは誰にも分からない。
 分からないからこそ、その決断は人にとってあまりにも重い。


 決断を機にして、成功の道を駆け上がっていく者。

 決断が仇となり、地に墜ち身を滅ぼしていく者。


 そして迫られた決断の場には、もう一つの結末がある。

 決断が遅れて、勝機から転がり落ちていく者である。



 今、一つの小さな勢力が、たった二つの書状を前に、
 まさにその思い決断を迫られていた。

 並んだ書状を見つめながら、毛利元就は唸る―――――。




 いわゆる「大寧寺の変」で、大内義隆が自害に追い込まれた後、
 事変を先導した大内家筆頭家老・陶晴賢とその味方は、
 陶晴賢に対抗意識を持つ国内勢力をことごとく討伐していった。

 大内勢力下にある安芸国(=広島県西部)も、
 陶晴賢派と旧主義隆派による衝突が起こっていたが、
 吉田郡山城(=安芸高田市)の毛利元就は陶晴賢に加勢して、
 安芸国内の鎮静に尽力していた。

 事変の事後処理のために周防山口(=山口県山口市)へ戻った
 安芸国守護代・弘中三河守隆包の代わりとして
 毛利家が新たな求心力となって動いていたのである。


 陶晴賢に同調し、大内義長新政権に反抗する安芸国内の勢力を
 次々と討伐していった毛利元就だが、
 背後の脅威が、いっそうその大きさを増したことを知る。


 天文二十一年(1552)四月、
 出雲国(=島根県東部)の守護大名・尼子晴久が、
 八国の守護職に任じられたのある。

 尼子晴久は、これまでの出雲国、伯耆国(=鳥取県西部)、
 隠岐国(=島根県隠岐諸島)の三国に加え、
 美作国(=岡山県東北部)、因幡国(=鳥取県東部)、
 備前国(=岡山県東部)、備中国(=岡山県西部)、
 備後国(=広島県東部)の山陰山陽八国の守護職に就くことを、
 室町の征夷大将軍・足利義輝から認められたのであった。


 足利幕府は、義隆の死で混乱している大内氏に代わり、
 尼子氏を中国地方の新たな重鎮と見るほうが得策だと思ったのだろう。

 この尼子氏の権威の増大で、周辺の国からは大内氏を見限って
 尼子氏へ寝返ろうとする国人領主も続出した。


 その中でも、備後国旗返城(=広島県三次市)の城主である
 江良隆連(えらたかつら)の尼子氏への離反は、
 吉田郡山城の毛利氏にとって存亡に関わる大きな脅威となった。


 そのため、毛利元就は主力軍を旗返城に差し向け攻撃。

 半年以上の長き激戦の末、天文二十二年(1553)十月十九日、
 毛利軍はようやく旗返城を陥落した。


 安芸国守護代の弘中隆包が周防山口に戻っているため、
 毛利元就は「旗返城に毛利家から城番を置き、尼子に備えたい」
 という旨の書状を山口の弘中隆包宛に送った。

 ところが、その返事は弘中隆包ではなく陶晴賢から戻って来て、
 「江良丹後守房栄を旗返城へ送るから、勝手なことをするな」
 という指示が書かれてあった。

 確かに大内家中随一の猛将である江良房栄を
 尼子軍の抑えにすることが大内にとって安心であることは分かるが、
 弘中隆包が安芸に駐在していた頃に比べると、
 あまりに毛利が軽視されすぎているのではないか。

 毛利家中から、陶晴賢に対しての不信を見せる者も出始めていた。



 
 毛利元就とは逆に、堂々と陶晴賢に反旗を翻した者がいた。

 石見国の津和野三本松城城主・吉見正頼である。


 大内義隆の姉を妻に迎えた吉見正頼にとって、
 主君でもあり義弟でもある義隆を自害に追い込んだ陶晴賢は、
 憎むべき謀反人であり、決して同調できない仇敵だった。

 新当主大内義長の名で再三にわたって出仕の命令が届いていたが、
 義長を主と認めない吉見正頼は、これに応じなかった。


 その様子に堪えかねた陶晴賢は、吉見正頼に逆心ありとして、
 石見津和野(=島根県津和野町)の三本松城への進軍を決行した。

 九州方面では筑前宗像(=福岡県宗像市)の宗像氏一族を、
 奉行人筆頭の弘中隆包が間もなく取りまとめ終えるという報が入った今、
 大内義長に反逆する最後の大きな残党は、吉見正頼ただ一人。

 大内家を盤石にするために起こしたこの革命の総仕上げが、
 残る逆臣、吉見正頼の征伐なのである。

 陶晴賢は大内義長を奉じて、約一万五千の大内本隊を引き連れ、
 津和野三本松城へと向かった。

 天文二十三年(1554)三月一日のことであった。



 その頃、安芸国吉田の毛利元就は、
 三人の息子を吉田郡山城に呼び集めていた。

 毛利隆元、吉川元春、小早川隆景。
 それぞれが各家の当主として立派に国と家を治めている。
 この三人が一堂に会するのは、
 毛利宗家の危急存亡に関わる事態の時の他にない。

 今がまさに、その時なのである。


 毛利元就と三子の前には、二通の書状が置かれている。

 毛利家は今、この二通の書状に運命を握られていた。


 一通は、周防山口の陶晴賢からの書状。
 津和野三本松城の吉見正頼討伐に合流せよと書かれてある。

 もう一通は、石見津和野の吉見正頼からの書状。
 陶晴賢からの防戦に加勢してほしいと書かれてある。


 陶晴賢に加勢して、このまま大内の新体制に組するか。
 それとも陶晴賢に反旗を翻し、新大内からの独立を果たすか。

 誤ることができない、重要な決断に迫られていた。



 毛利元就が心配した毛利家の将来について、
 最大の悩みの種は、嫡男毛利隆元のおとなしさであった。


 毛利家存続のために奔走してきた名将・毛利元就も、
 いまや五十九歳という高齢を迎えている。

 そのため、八年前に毛利家の家督を長男隆元に譲った。
 だがその隆元は、
 かつて貴族趣味の大内義隆の傍での人質生活で育ったためか、

 「私など、家中の統率力においては父上には遠く及びません。
  武勇や武術においては、元春には遠く及びません。
  知略や智謀においては、隆景には遠く及びません。
  私はただ陰となり、父上や弟たちを支えてまいります」

 と言って、なかなか勇ましい様子を見せない。

 そのため元就もなかなか隆元に全てを委ねることができず、
 自分自身がつい全ての決断を下してしまう。
 そして隆元は一家臣としてその決断に従う。

 自分がこの世から去ってしまったら、
 自分に従ってきただけの隆元は
 当主として毛利家を存続させていくことができるのか。

 元就は、老い先の短さを感じるにつれそのことが心配だった。


 そして今、毛利元就は人生最大の決断を迫られている。

 陶晴賢からの書状と、吉見正頼からの書状。
 決断を誤れば、これまで生き続けてきた毛利家は瞬時に破滅する。

 三人の息子たちの知恵を拝借せねばならないほど、
 毛利元就は決断の重さに追い込まれていたのである。



 「隆元よ」

 「はい」

 元就は、正面に座している長男の隆元の目を見た。
 隆元の左には次男の吉川元春、右には三男の小早川隆景が、
 緊張した面持ちで父元就を凝視する。


 「おまえは毛利家の当主である。わしは本来、引退した身。
  毛利家が今後生き残るためには、どうすればよいか聞きたい」

 「父上の判断に従います。父上が決めるべきです」

 「なぜか」

 「私は、父上の統率力には遠く及びませんし、
  武勇においては弟の元春には…」

 「それはもう聞き飽きた。そうではない」


 元就は、隆元のいつもの言上を途中で遮って言った。


 「わしは、これまで毛利家のために慎重に決断を重ねてきた。
  そしてこの度、これまでに勝る緊要な決断に迫られている。
  しかし…、しかしわしは決められぬ。五十九年に及ぶ
  長き人生の経験をもってしても、決まらぬのだ…。
  隆元よ。わしはおぬしの力量を試しているわけではない。
  このわしの苦しい決断を、助けてほしいのだ…」 


 これまで大きな軸となって毛利家という車輪を動かし続けてきた
 毛利元就が今、その車輪をどちらに回すべきかを迷っている。
 それを苦渋の表情で三兄弟に告白したのは、初めてのことである。

 心強い柱石として父のために働いてきた元春と隆景も、
 初めて見せる父元就の苦しみを見て、不安を噛みしめた。


 ところが、父や弟たちが重々しい表情を見せている中、
 隆元は全く表情を変えず、一つの書状を指差した。


 「ならば、こちらです」


 その指の先に置かれた書状は、吉見正頼からの救援依頼であった。

 これまで自分の意見をはっきりと表すことがなかった隆元が
 即断で毛利の取るべき方向を指し示したのである。
 元就も、そして元春や隆景も呆気にとられた。


 「陶を裏切って、吉見につけと…」

 意表を突かれた元就は、何とか声を絞り出す。


 「勝算あってのことか」

 「勝算も何も、陶に加担することは義に反するからでございます。
  毛利家は大内家に御懇情を頂いて安芸に身を置いております。
  陶晴賢は主君大内を攻め滅ぼし権勢を振るっておるのです。
  かのような忘恩の賊に組することは、毛利家の名が廃れます」

 「しかし兄上、我らの背後には尼子という強大な勢力もある。
  陶殿に敵対するということは、二大勢力に挟まれるのですぞ。
  義を重んじて我らが滅んだらどうなります」


 焦って横から口を出してきたのは、二男の吉川元春だった。
 ところが隆元は、動じず淡々と考えの理由を話す。


 「義を重んじて滅ぶのは、義を軽んじて滅ぶよりましであろう」

 「……」

 「郡山の小族だった我らが今や安芸一帯に勢力を広げられたのは
  何ゆえか。それは安芸国守護代の弘中隆包殿の導きがあったからで、
  義を重んじる守護代殿の政策に、我らも同意して働いたからだ。
  義あるところには必ず発展あることを、我らは知っている」

 「しかし……」

 「さらには、備後旗返城を攻め落としたのは我らの功績であるのに
  そこへ江良房栄を城番として置くから返せという陶の言い分は、
  義を通しておらぬ上、我ら毛利に猜疑心があるということ。
  吉見殿が滅ぼされたら、次は毛利を滅ぼすに決まっている」



 ここまで明確に持論を主張する隆元の姿を初めて見た元就は、
 まさに虎児が猛虎へと変貌した瞬間を見せられた心地だった。
 隆元の主張には、一点の曇りもない。

 そこに、あらゆる情報を分析してきた末弟の隆景が兄に問う。


 「確かに弘中殿は我らに義を重んじる大切さを教えてこられた。
  しかし、その弘中殿は今や陶政権の中で要職におられる。
  義を大切にする弘中殿とも相対することになりますが」

 「それは、弘中殿が弘中殿自身の義を通された末の運命だ。
  毛利の義とはなんだ。我らは大内義隆様に多大な恩情を賜り、
  当主の私は義隆様の養女を妻として迎えているではないか。
  その義隆様を死に追いやった陶に同調して、何が義と言えよう」

 「……」


 揺るぎない兄の言い分に、智に長けた隆景も二の句が告げない。
 毛利家の危急存亡のこの事態に、
 隆元だけが確固たる信念を持っていた。
 

 毛利家当主・毛利隆元。

 元就はついに、その本当の姿を隆元に見出した。
 そして最後の質問を、隆元にぶつける。


 「相手は、剛毅の陶晴賢殿、そして智勇の弘中隆包殿だぞ。
  我ら毛利が、勝てるか」


 旧知の晴賢や隆包の名が敵として出ても、隆元の表情は揺るがない。


 「一本の矢は、簡単に折れます。
  しかし、三本の矢がまとまれば容易くは折れなくなる。
  父上は我ら三兄弟に、昔からそう話されているではありませんか」

 「……」

 「元春は武勇に優れ、隆景は智謀に秀でております。
  この二つの太い矢に、私も一本の矢として加わりましょう。
  統率力に抜け出る父上は、弓手となって我ら三矢を引き、
  陶という強大な壁を射抜けばよいのです。
  我らの矢先はその大きな壁を突き抜け、道を切り拓きましょう」


 隆元の言葉に、左右の元春と隆景も力強くうなづき、
 父元就の顔を見つめて裁断を仰いだ。


 強張っていた毛利元就の両肩から、ふっと力が抜けた。
 そして元就は、明るい表情を見せた。


 「隆元」

 「はっ」

 「おまえはいつも、自分がわしや弟たちに劣ると言っておる」

 「はい」

 「だが、おまえは一点、我々よりも頴脱しておったわ」

 「……?」


 隆元はその意味が分からず首を傾げる。
 元就は言葉を進めた。


 「決断力よ。これまでおまえは、わしの判断に従っておった。
  しかしおまえは、焦点を簡素に考え、真実を鋭く見出し、
  揺るぎない決断を即座に下せる力に抜きん出ておったのだ。
  決断の遅れという最低の結末から、隆元はわしを救ったわ」


 元就は、腹の底から笑った。
 その晴れやかな表情に、三兄弟にもふっと笑みが戻る。

 隆元は、毛利を支える君主に足る人物に育っていた。
 父にとって、これほど嬉しいことはない。


 毛利元就は、吉見正頼からの書状を手にして立った。


 「我ら毛利家は、大内とお手切れ致す」


 その言葉に、隆元、元春、隆景の三子も立ち上がってうなずく。

 元就は、頼もしい三人の息子たちを見つめた。


 「これからの毛利は、おまえたちが導いていく時代よ。
  わしは、人として十分に生きた。
  この元就、今日からはおまえたちを支える鬼となろう―――――」

   
 我が子たちを見る元就の優しい表情の中には、
 突き刺さるような鋭い眼光が漏れていた。



 これまで、大内家と尼子家という二大勢力に翻弄され続け、
 安芸の小勢力に過ぎなかった毛利家が、
 ついにこの時、飛躍のための独立の第一歩を踏み出した。


 鬼となろう―――――。

 そう三矢の子たちに誓った毛利元就は、
 この時より中国地方を揺るがす鬼謀を
 大きく振るっていくことになる―――――。


  
 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [二十四]
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 ■益田藤兼 (ますだふじかね)

 石見国益田(=島根県益田市)の国人領主。所領が隣接する津和野
 (=島根県津和野町)の吉見正頼と幾度となく衝突する。遠戚である
 陶晴賢に味方し津和野三本松城を攻める。後年は毛利家の家臣となり、
 月山富田城の尼子氏と激闘を繰り広げることになる。
| 『厳島戦記』 | 20:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(二十三) 山田事件の巻


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 厳島戦記(二十三) 山田事件の巻
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                       第五部「防芸謀略戦」





 筑前国田島(=福岡県宗像市)に所在する
 宗像大社(むなかたたいしゃ)は、
 全国の宗像神社の総本社である。

 玄界灘に浮かぶ沖ノ島にある沖津宮には田心姫神、
 大島にある中津宮には湍津姫神、
 そして九州本土にある辺津宮には市杵島姫神が祀られていて、
 その三宮を総称して宗像大社と呼ぶ。


 神話の時代から存在すると言われる長き由緒ある神宮であり、
 宗像家が代々、その大宮司職を継承していた。

 宗像家は筑前に大きな軍事力を持っていたため、
 筑前を支配する周防(=山口県)の大内家の貴重戦力でもあった。

 その名門宗像家では近年、激しい相続争いが起こっていた。



 第七十五代大宮司を務めていた宗像興氏には、二人の息子がいた。
 長男は宗像正氏(むなかたまさうじ)、
 次男は宗像氏続(うじつぐ)という。

 長男の正氏が第七十六代の大宮司職を継いだのだが、
 正氏の軍才を見抜いた大内義隆は、正氏を周防山口に迎え入れた。

 山口の黒川郷を所領に与えられていたため、
 宗像正氏は山口出仕中は「黒川隆尚」と名乗っていた。

 軍人として山口に駐在していた黒川隆尚こと宗像正氏は、
 宗像大社大宮司の職を、弟の氏続に譲ることにした。
 
 ところが、凡庸な氏続には第七十七代大宮司の任は重すぎたようで、
 宗像正氏は再び大宮司職に戻り、第七十八代を名乗った。

 宗像正氏には山田局(やまだのつぼね)と呼ばれる正室がいたが、
 正氏と山田局の間には、菊姫という女児が産まれているものの、
 残念ながら後継者たる男児には恵まれなかった。

 そこで宗像正氏は、
 弟氏続の長男・氏雄(うじお)が成長した後に職を譲るつもりで、
 それまでのつなぎとして大宮司職を続けたのである。

 甥の氏雄がついに元服を果たした時、
 正氏と山田局は一人娘の菊姫を氏雄に嫁がせることにより、
 宗像氏雄が第七十九代の大宮司の職を継いだ。



 ところが、安泰かと思われた宗像氏にとって大事件が起こる。


 無事に相続が終わり安心したのか、宗像正氏は山口で亡くなった。

 そのため宗像大社の大宮司職に就いたばかりの宗像氏雄は、
 伯父の正氏の後任として、山口に出仕して黒川郷の地を受け継ぎ、
 「黒川隆像」と名乗って大内義隆に仕えた。

 氏雄がちょうど周防山口に滞在していた天文二十年(1551)九月、 
 大内家家老の陶晴賢が山口に攻め込んで政変を起こした。
 いわゆる「大寧寺の変」である。

 黒川隆像こと宗像氏雄は、主君の大内義隆に最後まで付き従い、
 義隆を守りながら、長門の大寧寺で戦死した。

 政変で若き当主を失った宗像氏に突然、
 後継者問題が浮上したのであった。



 宗像氏雄には、千代松丸(ちよまつまる)という弟がいた。

 まだ存命の父である宗像氏続をはじめとして、
 先主の正室山田局や氏尾の正室菊姫らも、
 当然のごとくこの千代松丸に家督を譲る準備を進めていた。

 ところが、先主の宗像正氏は、
 周防山口に赴任している時に、照葉の方という側室を迎えており、
 鍋寿丸(なべじゅまる)という男児を儲けていた。

 この照葉の方が陶晴賢の姪という関係もあり、
 大内家筆頭家老の陶晴賢は
 この鍋寿丸を宗像家の新当主にと推し進めてきたのである。

 筑前の宗像家中からすれば、確かに先代の子とはいっても、
 側室が産んだ庶子であり、しかも山口生まれ山口育ちで
 一度も宗像の地を踏んだことがないような余所者が
 当主になるなど、到底受け入れられない。
 

 陶晴賢に同調する家臣たちは、
 山口からのお達しのとおりに鍋寿丸を主と仰ぎ、
 白山にある宗像氏の本城・白山城に鍋寿丸を迎え入れた。

 しかし反対派の古参の家臣たちは、千代松丸を主として、
 城山にある支城・蔦ヶ嶽城に立て籠もって対抗する。

 宗像の地で、白山城の鍋寿丸派と城山蔦ヶ嶽城の千代松丸派が
 宗像大社大宮司職の相続をめぐって激しく衝突を始めた。


 この事態の収拾のため、周防の大内義長は陶晴賢の推薦を受け、
 白崎八幡宮の大宮司職でもある部将・弘中三河守隆包を
 宗像へと送り込んだのであった。



 弘中隆包が関門海峡を渡って白山城へと入った時には、
 勝敗はほぼ決していた。

 蔦ヶ嶽城の一派に推された千代松丸と、その父である宗像氏続は、
 宗像領内における鍋寿丸派との激戦で命を失っていたのである。

 蔦ヶ嶽城内の連中は当主候補とその後見人を失ったものの、
 まだ山田局と菊姫が存命であるからと、
 彼女らを主と見立て、頑として立て籠もり抵抗を続けていた。

 このまま紛争が泥沼化しても、国力が衰えるばかりである。

 弘中隆包はこの争いの仲裁に入り、停戦を説得するべく、
 蔦ヶ嶽城から山田局と菊姫を白山城へ呼び寄せた。

 先主の宗像正氏は周防山口で弘中隆包と親交が篤かったので、
 山田局と菊姫は「弘中隆包の手引きならば」と、白山城へ参上した。


 弘中隆包が二人を迎え入れた応接の間には、
 白山城一派が推す宗像鍋寿丸と、その妹の色姫が同席していた。

 宗像正氏の正室であった山田局は、その自尊心から、
 山口から湧いて出た二人の庶子を見て苦々しく思っていた。

 弘中隆包は、切歯扼腕する山田局に懇々と停戦の利を説いた。


 「氏続殿も千代松殿も戦死された今、もはや勝負はついている。
  このまま宗像一族同士で斬り合っても、何の利もない。
  庶子を当主とするのは、山田の奥方には悔しい想いもあろうが、
  鍋寿丸殿には何の罪もない。分かってもらえないか」

 「しかし弘中様、この菊姫があまりに不憫ではありませんか…。
  菊姫はまだ齢十八なのに、未亡人になってしまって……」


 山田局はおいおいと涙を流し、言葉を詰まらせる。

 恐らく山田局は、娘がせっかく当主の妻となったのだから、
 宗像氏雄の弟である千代松丸を当主に据えて、
 千代松丸と再婚させてその地位を保つつもりだったのだろう。
 菊姫にとっては異母弟にあたる鍋寿丸には、その可能性はない。

 当の菊姫は、それほど気にはかけていなかった。
 一人で号泣する山田局をいたわって背中をさすったりしている。

 弘中隆包は優しく声をかける。


 「それが武家の世の習いなのだ、山田の御方殿。
  武家は常に死と隣り合わせにある」

 「……」

 「私も、先主大内義隆公が亡くなられた時、悲しみに暮れた。
  しかし、死を嘆いているだけでは何も前に進まない。
  大内家は、豊後大友家から義長様を新しい当主として迎えた。
  大内家の将来のために、新しき当主の下で働いている」

 「……」

 「永き家名を想えば、一人一代の想いなど儚いものです。
  正氏殿や氏雄殿らの意志を継げるのは、今や鍋寿丸殿しかいない。
  宗像家の将来を思うならば、ここは家のために身を退くべきだ」

 「……」


 「私は、弘中様に従いとうございます。
  鍋寿丸様は、私にとっても大切な弟。継承に依存はありません」


 進み出たのは、菊姫だった。

 「何を言うの、お菊!」と泣き叫ぶ山田局の横で、
 菊姫は両手をついて、穏やかな表情で弘中隆包に言った。


 「これからは、亡き夫の霊を弔いながら、
  宗像家の行く末を祈願して生きてまいりまする」

 「お菊殿…」


 菊姫は深く頭を下げた。
 若くして未亡人となった美しき姫君は、自らの運命を受け入れた。

 弘中隆包の言葉を聞いて、自分にできることは何かと考えた時、
 家中が収まるには自分が潔く退くのが最善であると解ったのである。

 菊姫は、母の山田局の故郷である、
 白山城の麓にある山田荘にて余生を送ることを決めた。

 家名を想う若き菊姫の聡明な判断に、弘中隆包は大きく感謝した。



 弘中隆包は弟の弘中河内守方明に命じて、
 菊姫と山田局とその侍女たちを山田荘まで送らせた。

 鍋寿丸の側近である重臣・石松但馬守が
 「まだ領内は不穏で何が起こるか分からないから」と言って、
 野中勘解由、嶺玄蕃ら家臣を数名、弘中方明の護衛につけた。

 菊姫と山田局は、弘中方明や宗像家家臣たちに守られながら、
 数台の荷車を従えて白山城を後にした。


 山田荘は、寂しげな山里であった。

 生家に到着した山田局は、部屋に籠もってすぐに泣き崩れる。

 それに対して、菊姫は凛然とした態度で侍女たちを取り仕切り、
 邸宅の中に荷物を運び入れるのを指揮した。
 方明や供の者たちも手を貸す。
 
 一通り落ち着くと、菊姫は応接の間に弘中方明らを招き入れた。


 「河内守様。何から何まで、ありがとうございます」

 「いや、礼には及びません」

 「今宵は、月がきれいですね」


 菊姫は、縁側から見える空に浮かぶ月に目をやった。

 白山城から気丈に振る舞っていた菊姫が、
 月を見るなり肩の力を落とし、寂しげな目になるのを、
 方明は見逃さなかった。

 力のない声が、菊姫から漏れる。


 「夫は、立派に武名を残せたのでしょうか……」


 手の届かぬ場所へ行ってしまった夫・宗像氏雄の姿が、
 遠くに輝く月に重なったのかもしれない。


 寂しげな菊姫を見て、弘中方明は一冊の古い経典を取り出した。
 その表紙には、血で一句がつづられている。


 「これは……?」

 「私の師でもある、大内水軍の冷泉隆豊殿が書き残したものです。
  冷泉殿は主君大内義隆公に忠義を尽くして最後までつき従い、
  この血の句を残して、大寧寺にて戦死しました」

 「まあ……」

 「宗像氏雄殿も最後まで義隆公を見捨てず、冷泉隆豊殿と共に
  大寧寺で反乱軍を相手に壮絶な立ち回りを演じたそうです。
  次々と主君を捨てる家臣が多かった中、
  氏雄殿は武士として立派な最期を遂げられたのです」

 「……」


 菊姫の美しい瞳から、涙がこぼれ落ちた。


 家中の者は、大宮司職の相続問題にばかり気を取られて、
 周防山口で死した当主の死に様など気にもかけてくれなかった。

 だがこうして、夫の最期を初めて詳しく伝え聞くことができ、
 夫が勇ましく生きた証を見つけることができた。

 冷泉隆豊の血塗られた辞世の句を見れば、
 宗像氏雄の戦死がいかに凄絶であったかは容易に想像がつく。

 母が横で悲しみに暮れようとも全く涙一つ見せなかった菊姫が、
 夫の死を改めて振り返り、はらはらと涙を流している。


 つらいのは、これからかもしれない。
 まだ若い姫君には、これからも強く生きて欲しい。

 そう思った弘中方明が、
 涙で頬を濡らす菊姫に声をかけようとした、
 その時―――――。



 弘中方明は鋭い殺気を感じて、
 腰の帯刀に手を伸ばしながら、素早く振り向いた。

 しかし、その殺気は弘中方明の横を素通りする。

 「……!」
 方明は不測の事態に、目を見開いた。

 護衛として控えていた宗像家家臣、野中勘解由が、
 太刀を振り上げて菊姫に斬りかかったのである。

 野中勘解由の凶刃が、菊姫の左肩から右脇を一直線に斬りつける。
 菊姫は涙と共に血飛沫を上げながら、床に倒れた。

 野中はさらに力を込めて、その菊姫の身体に太刀を突き下ろす。
 ザクリという鈍い音が刃先から漏れる。


 「野中っ―――――!」

 弘中方明は、刃先を引き抜いてさらに一撃を加えようとする
 野中勘解由の腕を掴み取ったが、
 無常にもその刀は菊姫の身体を貫通した。

 弘中方明が強引に胸ぐらをつかむと、
 ようやく野中勘解由はその動きを止めた。

 しかし、凶刃を浴びた菊姫はそのまま動かなくなった。


 「野中…! 何ということを―――――!」

 「この女、河内守殿に懐剣で斬りかかる素振りを見せたゆえ、
  その前に河内守殿をお守りしたのでござる」

 「どこにそんな素振りがあった!」


 弘中方明は野中勘解由の襟ををつかみ上げて怒鳴ったが、
 「あっ」と何かに気がついたような声を上げると、
 野中勘解由を床に投げ飛ばして、奥の部屋へと駆けた。


 時は既に遅かった。

 そこには、血を刀から滴らせて立っている嶺玄蕃の姿があった。

 そしてその足下の血だまりの中には、
 山田局と四人の侍女の無惨な屍体が転がっていた。


 血の臭いに満ちた異様な光景に、弘中方明は息を飲む。

 「謀叛の気配があったゆえ、成敗致しました」と、
 悪気もなく言いながら刀を仕舞う嶺玄蕃。

 怒りが止めどなく湧き上がってきた弘中方明は、
 走りこんで嶺玄蕃の横っ面を拳で殴りつけた。

 その勢いで嶺玄蕃は吹っ飛んで、音を立てて血の池の中に倒れた。


 「おまえら……。誰の指図だ。誰の差し金でこんなことを」


 弘中方明は拳を握り締めた。
 怒りに震えが止まらない。

 だが、野中勘解由も嶺玄蕃も、
 「反抗の意志が見えたゆえ」
 「斬らねば、弘中河内守殿が斬られていたゆえ」
 と繰り返すばかりである。

 どちらも宗像家の家臣であり、弘中方明に制裁の権限はない。

 菊姫や山田局が弘中方明らを殺そうと企てた証拠はないが、
 かといって殺そうという意志がなかったという証拠もない。

 やり場のない怒りに、弘中方明は大きく吼えた。

 その響きを受けてか、
 月の光を映して光る侍女たちの血の海が、虚しく揺れた。



 歴史ある宗像大社大宮司の相続問題を背景に、
 無抵抗の女性六名が虐殺されたこの騒動は、
 血塗られた戦国の歴史の中でも指折りの惨劇と言われ、
 舞台となった山田の里の名を取って「山田事件」と呼ばれる。

 天文二十一年(1552)三月二十三日のことであった。


 この事件の後、菊姫たち六女を祀った山田地蔵尊増福寺周辺では
 怨霊騒ぎが度重なり、宗像家中を脅かしていく。

 この話は「菊姫伝説」として、後の世まで永く伝わることになる。



 この山田事件の真の黒幕は、誰か――――。


 血潮に染まる惨劇を目の当たりにした弘中河内守方明は、
 しばらくはその惨事を止められなかった自分を責めていたが、
 やがてその黒幕の名を知る。

 そして、気難しい部将の揃う大内家中において
 明朗快活な性格が知られていた弘中方明は、
 その時からまるで別人のように豹変していくのであった――――。
 


 (つづく)



 ――――――――――――――――――
  『厳島戦記』武将列伝 [二十三]
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 ■宗像氏貞 (むなかたうじさだ)

 筑前宗像(=福岡県宗像市)の宗像大社の第八十代大宮司職。
 周防大内氏の傘下にあった第七十七代宗像正氏の庶子であるが、
 鍋寿丸の名であった七歳の時、家督継承を巡る「山田事件」を経て
 大宮司職と宗像家当主を継ぐ。後に立花家と激闘を繰り広げる。


 ▽『厳島戦記』のご意見やご感想などは
  筆者までお送り下さいませ。→ hironaka@m-c-ken.net

| 『厳島戦記』 | 19:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(二十二) 関門海峡の巻


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 厳島戦記(二十二) 関門海峡の巻
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                       第五部「防芸謀略戦」




 「先主義隆公の政治は何ゆえ脆かったか、お分かりですか」

 「そうだのう…」


 主従の問答は長い時間に及んでいた。


 大内家の筆頭家老として軍事を支えてきた陶尾張守隆房は、
 新たな主君を仰いだことで、名を「陶晴賢」と改めた。

 またその新たな主君として迎え入れられた大友晴英は、
 大内家の当主となると同時に、名を「大内義長」と変えた。

 大内義長は、伝統ある大内家を継ぐことに大きな責任を感じ、
 国政について理解を深めたいと、大いに意気込んでいた。

 二十歳を前にしてまだ執政や戦争の経験のない自分にとって、
 今の自分と同じ年齢の頃から大内軍を率いていた陶晴賢は、
 絶好の人生の教師とも言える。

 大内義長は時間の許す限り、
 陶晴賢から大内家のことについて学びたいと求め、
 また陶晴賢もできる限りその求めに応えていた。


 晴賢の質問への答えが浮かんだ大内義長は、
 自信のある面持ちで回答する。


 「奉行人の相良武任ばかりを重用したからではないか」

 「半分は正解です」

 「半分。奉行人を重んじるのは、別に問題ではないと」

 「そのとおり。奉行人という職も国政には重要な役割ですから、
  奉行人を取り立てること自体は悪いことではないのです」

 「そうだな。では、なぜなのだ、晴賢」

 「戦の経験が全くなかった相良武任に、
  軍事のことにも口出しをさせたということです」

 「……なるほど」

 「大内の評定衆の仕組みは、武官と文官の絶妙な均衡あってこそ。
  しかし義隆公は、武官が一番精通している戦ごとについて、
  戦の分からない相良の意見を最も汲み取っていらっしゃった。
  このようなことは、武家にとっては致命的なことなのです」


 陶晴賢は、政治を正すために大内義隆を追い詰めた張本人である。
 そこで、義長には義隆時代の政治の欠点を学んでもらい、
 それを改善した新しい政治を進めてほしいと願っていた。

 悲しい終焉を迎えた叔父義隆公の轍を踏まぬようにと、
 義長は陶晴賢に次々と質問を投げかけ、真剣に耳を傾ける。


 「では晴賢、評定衆はどうすればよく機能するのか」

 「最良なのは、文の分かる武官と武の分かる文官がいることです。
  互いのことが分かる者がそれぞれの上に立っていれば、
  それぞれの力を組み合い、そして補い合っていけます」

 「うん」

 「大内の武官は、私や内藤興盛殿など行政の分かる者が多かった。
  そもそも自分の領地を治めているという経験があるからです。
  しかし、文官には戦の分かる者がほとんどおりませんでした」

 「ならば、武官の筆頭はこれまでどおり晴賢に働いてもらうとして、
  文官の筆頭を任せられる人間が家中におらぬと」

 「御意。そこで、最適な者を考えましてございます」


 陶晴賢は、用意していた紙を机上に広げた。
 そこには晴賢が考え抜いた、
 新しい評定衆の組織図が綿密に描かれていた――――。



 大内御殿の拝謁の間にて、大きな声が響く。


 「私を奉行人筆頭に…、ですか」


 その声の主は、安芸国守護代、弘中三河守隆包だった。

 「そのとおりだ」と、上座の大内義長は大きくうなずいた。
 その横に控える陶晴賢も、期待の目を注ぐ。

 戸惑っている弘中隆包に、大内義長は熱く言葉を投げかける。


 「これからの大内家を強く支える評定衆を作るためには、
  文官の筆頭も戦が分かる人間でなければならないと思う。
  そこで、晴賢のたっての希望で、隆包に任せたいのだ」

 「しかし」

 「不服かのう」

 「いえ。ただ、私は戦しか分からない根っからの武士です」

 「いや、おぬしが義隆公から安芸国守護代に任じられてより、
  難攻不落の備後神辺城を落として尼子の脅威を防いだだけでなく、
  安芸の経済を豊かにし人心をまとめたことは、よく知っておる。
  所領の富国も強兵も成し得てきたおぬしに、内政を任せたい」


 大内義長は立ち上がると弘中隆包に歩み寄り、
 膝を落として目線を合わせた。


 「もはや、文と武が反発し合うような時代ではない。
  隆包は文の筆頭として、晴賢は武の筆頭として、
  共に力を合わせ補い合いながら、わしを支えてはくれまいか」

 「……はっ」


 弘中隆包はかしこまった。


 (動くのだ――――)
 内藤興盛が語った言葉が、隆包の脳裏をよぎる。

 考える前に動かねば、事態は深刻になっていくのではないか。
 自分が動かねば、他に誰が動けるというのか。

 大寧寺の変で、相良武任をはじめ多数の家臣が討たれ、
 大内家中は行政担当者の不足が問題になっていた。

 先主義隆公の政治に終止符が打たれたのは、
 文官筆頭の相良武任と武官筆頭の陶晴賢の確執に他ならない。

 その二の舞にならぬためには、相良武任に変わる自分が、
 陶晴賢と協調しながら政治を進めていくしかない。

 自分ならばできる。いや、やるしかない――――。


 弘中隆包は、奉行人筆頭の職を奉じた。

 文官たちの頭領として評定衆に参加すると共に、
 武官たちの軍事を支援する立場となったのである。



 大内義長は、これまでしばらくは陶晴賢と密議を行っていたが、
 すぐに博識の弘中隆包をその場に加えるようになった。

 正確に言えば、陶晴賢と弘中隆包の謀議を見学し、
 その決定に承認を出すという形であったが、
 大内義長にとってはそれがとても勉強になった。


 大内の政治は家臣団が集まる評定衆によって動かされるが、
 陶晴賢と弘中隆包の二頭会議でまず決められたことは、
 その評定衆自体の改編であった。

 何より、評定衆の中に加わる武官たちの選任である。

 これまでは各国の守護代たちが評定衆に参加していたが、
 大寧寺の変によって、杉興運や杉重矩などはこの世にはいないし、
 内藤興盛は引退、弘中隆包は奉行職へと移っている。

 そこで、陶晴賢は戦に長けた武人たちを次々と評定衆に加えた。

 特に、江良房栄、三浦房清、宮川房長、白井賢胤など
 陶晴賢の直臣である周防国の部将たちの登用が目立った。

 彼らは大内からすると陪臣に過ぎないのだが、
 冷泉隆豊などの有能な武将を事変で失い人材不足の今、
 当分は致し方のないことだと、弘中隆包も承認した。


 評定衆の構成が決まり、陶晴賢と弘中隆包の次の議題は、
 反乱の想定とその対策だった。

 陶晴賢は、弘中隆包に意見を求める。


 「次に戦の問題が出てくるとしたら、どこであろう」

 「吉見正頼殿でしょう」

 「やはり。わしもそう思う」


 弘中隆包の口から、石見国(=島根県西部)の
 津和野三本松城城主、吉見正頼(よしみまさより)の名が出た。

 それは、陶晴賢も最も警戒している人物であった。


 石見国では古来より、益田(=島根県益田市)の益田氏一族と
 津和野の吉見氏一族による所領を巡る紛争が絶えなかった。
 
 益田氏も吉見氏も共に大内氏の傘下にある国人領主であるが、
 その対立の激しさゆえに、石見国守護代の問田隆盛も手が出せず、
 守護代の威勢は石見では全く効力を持たなかったという。

 
 先主大内義隆公は吉見家当主である吉見正頼の実直な人柄を好み、
 自分の姉を正室とすることを許した。

 つまり吉見正頼は義隆の姉婿となり、義理の兄となった。

 そのため、吉見正頼が大恩ある大内義隆を追い詰めた陶晴賢たちに
 大きな反感を抱いていることは容易に想像がつく。

 さらには、陶晴賢は吉見氏の好敵手の益田氏と婚姻関係にあり、
 吉見正頼にとっては陶晴賢も相容れぬ仇敵である。

 大寧寺の変の時、吉見正頼は益田氏の侵攻を受けて動けず、
 義弟大内義隆の命を救うことができなかったが、
 いずれ機が熟せば陶晴賢に対して叛旗を翻すに違いない。



 弘中隆包が吉見正頼の動きにも気を配っているのを確認すると、
 陶隆房は弘中隆包に頼み事をした。


 「弘中殿。おぬしにはすぐ、宗像(むなかた)に行ってもらいたい」

 「えっ。宗像へ」

 「さよう。緊急を要するのだ」


 宗像とは、大内氏の支配下にある筑前国(=福岡県北部)にあり、
 宗像大社という総本社がある地(=福岡県宗像市)である。

 石見の話から突然、逆の方向の九州の話が出てきたので、
 弘中隆包は戸惑ってしまった。


 筑前宗像は、長らく大内傘下の宗像氏が支配していた。

 六百年余にわたり宗像大社の大宮司を務めてきた宗像氏一族は、
 強力な水軍を要し、九州方面の大内軍の主力でもある。

 ところが宗像氏は、先日の大寧寺の変の混乱で当主を失い、
 家中で大きな相続紛争が起こっていた。
 宗像氏の騒動が泥沼化すると、九州方面の地盤が危うくなる。

 そこで、同じく治領に水軍を有し、白崎八幡宮の大宮司を務めている
 弘中隆包が適任であろうと、陶晴賢は指名したのである。

 隆包は困惑気味に答える。


 「私は安芸国守護代としてこれまで東方の任にあったゆえ、
  真逆の方角の九州のこととなると、いささか戸惑います」

 「それは察するが、これまで九州の大内領を統治してきた
  杉興運も杉重矩も既にこの世にはおらぬから、
  収拾をつけられる者が他に見当たらないのだ」

 「確かに」

 「北九州がこれ以上混乱に陥ると、お屋形様のご実家である
  豊後(=大分県南部)の大友家にもご迷惑がかかろう」

 「しかし、石見の吉見正頼殿の件は」

 「吉見とは、おぬしも戦いづらかろうと思ってな」


 津和野三本松城の吉見正頼には、
 弘中隆包の叔父である弘中兵部丞頼之が側近として仕えている。

 吉見正頼との対決が必至と思われる今、
 一族の弘中頼之と矛を交えるのはためらいもあるに違いない。

 陶晴賢はそのことに気を遣って、
 弘中隆包を西方の九州へと向けさせたのである。


 「頼之殿は吉見家中において熟練の猛者。必ず前線に出てこよう。
  いかに智勇に優れたおぬしでも、一族を相手に本気は出せまい」

 「お気遣い痛み入ります。そういうことならばこの隆包、
  すぐに宗像に向かい、一刻も早く事態を収めてまいります―――」



 関門海峡。

 赤間関(=山口県下関市)と門司関(=福岡県北九州市)の間にあり、
 本州と九州を隔てる、海運の要衝である細い海峡である。
 その特殊な地形による潮流の激しさは遠く海外にも知れ渡っている。

 弘中隆包と弘中方明の兄弟は、関門海峡を通過する船上にいた。


 強い潮風を頬に受けながら、
 眼前に広がる九州の地を眺めて、弘中隆包は感慨に耽っていた。
 
 思えばこれまで、出雲国の月山富田城(=島根県安来市)や
 備後国の神辺城(=広島県福山市)など遠地に転戦してきたが、
 どれも山口からは東方であり、西の九州を見るのは初めてである。


 船首に向かって右手の方角の岸は、長門国の赤間関。
 左手の方角の岸は豊前国の門司関である。

 門司側からは大きな岬が突き出し、その山上に門司城がある。
 その奥に見える三角形の独特の山はその名も三角山といい、
 その山頂には門司城の支城・三角山城が置かれている。

 三角山の背後には風師(かざし)連山が広がっている。
 関門海峡に吹き荒れる潮風の源流となっている山だと
 古来より思われ、その名がついたのであろう。


 この関門海峡の東口は以前より「壇ノ浦」と呼ばれ、
 かつて源頼朝は平氏をこの壇ノ浦にまで追い詰めて討滅し、
 武家の統領である征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。

 また、足利尊氏は政争に敗れて九州へと没落した時に、
 宗像大社の支援を受けて勢力を盛り返し、
 門司関の甲宗八幡神社で戦勝を祈願して関門海峡を渡った後、
 上洛して京の都を制圧し、室町幕府を開いた。

 源頼朝や足利尊氏と同じく清和源氏を源流に持つ弘中隆包にとって、
 関門海峡はとても心に深く染み入るものがあった。


 一方、同じく弘中の血統にありながら、
 弟の弘中方明は不満気な顔で溜め息をつき、ふて腐れている。


 その理由は、弘中家の持つ岩国(=山口県岩国市)の水軍が、
 大内本隊に接収されてしまったことである。

 弘中方明は、かつて冷泉隆豊に水軍の兵法を学んだ。
 そして安芸国守護代に任じられ所領岩国を留守にすることの多い
 兄の隆包に代わり、弘中水軍を統率していた。
 備後神辺城の攻略にも、方明率いる水軍は大きな役割を果たした。

 しかし、この度弘中隆包が文官筆頭の奉行人に就任し、
 またこれまでの東方経略から変わり九州の鎮定に向かうことに際し、
 陶晴賢は、瀬戸内での反乱が起きないようにするために、
 岩国の弘中水軍を大内本隊の預かりにしたいと言ってきた。

 弘中隆包は大内のためになるならばと喜んで差し出したのだが、
 方明はその水軍をこれまでどおり自分が指揮すると予想していた。

 ところが、新しい君主の大内義長は陶晴賢からの提言を聞き入れ、
 弘中方明を兄の補佐として筑前宗像の鎮定へと回した。

 大寧寺の変までは名将・冷泉隆豊が大内本隊の水軍を指揮していたが、
 冷泉隆豊亡き今、誰がその大内水軍を指揮するのかと問うと、
 陶軍の水軍担当であった白井賢胤(しらいかたたね)だという。

 水軍の扱いでは自分よりも明らかに格下だと思える白井賢胤に、
 自分の育ててきた弘中水軍の指揮を任せるというのが、
 弘中方明にとってはどうしても納得がいかなかったのである。



 「まあ、いつまでも不満に浸っていても仕方あるまい。
  考えるより動け、だ」


 弘中隆包は、ふくれ面で海を見る弟の肩をパシリと叩いた。

 その言葉を聞いて、方明は思わず噴き出した。

 つい先日まで、その弘中隆包こそ邸内に塞ぎこんでいて、
 内藤興盛から同じようなことを言われていたからだ。
 


 弘中隆包の視線は、再び九州の大地を向いていた。


 石見の吉見正頼の叛乱の心配もあり、
 また出雲の尼子晴久の侵攻もまだ予断を許さない。

 早く宗像の騒乱を収めて、すぐに周防に戻らねばならぬ。
 自分の動きの遅れが、大内に危機を招くかもしれない。

 大内のために、動く。

 弘中隆包の眼に、迷いはなかった―――――。



 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [二十二]
 ―――――――――――――――――

 ■吉見正頼 (よしみまさより)

 大内家傘下の国人領主。石見国の津和野三本松城(=島根県津和野町)
 城主。正室は大内義隆の姉。石見益田氏と紛争が絶えなかったが、
 その益田氏と縁戚関係にある陶晴賢が義弟の大内義隆を討ったことで
 陶晴賢に対して挙兵し、三本松城にて大内本軍との激闘を迎える。
| 『厳島戦記』 | 14:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(二十一) 義長擁立の巻


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 厳島戦記(二十一) 義長擁立の巻
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                       第五部「防芸謀略戦」




 弘中河内守方明は、困り果てていた。

 いわゆる「大寧寺の変」が起こり、
 大内家中が上を下への大騒動となっているのに、
 安芸国(広島県西部)守護代の重責にある兄の弘中隆包が、
 山口の邸宅に引き篭もって動かなくなってしまったからである。


 尼子軍の襲来に備えてきた安芸の前線を離れて、
 主君義隆公を追い詰めた陶隆房に義を問うため山口へ戻ったが、
 義隆公のみならず後継者の義尊公も殺害されていたことを知り、
 強烈な衝撃を受けて、その日から瞑想に耽り始めたのである。

 方明が困惑したのは、そのような弱い兄の姿を見たのが
 生まれて初めてだということだった。

 常に先を読み、風のような行動を見せ、その名の知れた勇将が、
 まるで蝉の抜け殻のように気概を失って一室に籠もっている。


 義隆公父子の命を守れなかった責任を感じているのだろうが、
 いくら義に篤い家臣とはいえ、このままでいいのだろうか。
 
 主君を失った悲しみは分かるが、
 当の陶隆房は、事態の収拾のために動き出している。

 陶隆房は筆頭家老ではあるが、その独断の動きを
 見逃してしていたままでは、大内の将来はどうなるのか。

 そういう焦りが募ってきた弘中方明は、
 弘中隆包の心を取り戻そうと、ある人物を頼ることにした。 



 翌日、ある人物が弘中邸を訪れた。

 長門国(山口県西部)守護代、内藤興盛である。


 内藤興盛は、大内家中でも重鎮中の重鎮である宿老で、
 評定衆の守護代たちの中でも最年長の古参である。

 だが、再三にわたる諫言を大内義隆が聞き入れなかったため、
 義隆が陶隆房に追い詰められた時にも静観を決め込み、
 その責任を取る形で先日、
 老齢を理由に隠居を宣言したばかりであった。


 国政には二度と関わらないつもりでの引退であったが、
 弘中隆包の様子を深く心配した実弟の弘中方明が、
 どうか力になってほしいと、興盛を頼ってきた。

 弘中隆包の智勇は今後の大内家の運命を左右するであろうし、
 また弘中方明には、山口での混乱の際に
 フランシスコ=ザビエルを擁護してもらった恩義もある。

 内藤興盛は、最後の仕事だと腰を上げたのであった。



 弘中隆包は義隆父子の死を知って以来、全ての来客を断り、
 また方明ら周囲の人間の言にも全く耳を傾けなかった。
 陶隆房からの使者の面会も全て断っていたほどである。

 しかし、「内藤興盛様がお越しになりましたぞ」
 という方明の報告には、驚いてすぐに振り返った。

 宿老内藤興盛の直々の訪問とあっては、無視するわけにはいかない。


 応接の間に興盛を通し、隆包は下座に控えて深く頭を下げた。

 方明も、部屋の端に小さく座った。 



 「家督を譲ることになってのう」

 と言いながら、興盛はゆっくりと上座に腰を下ろす。

 内藤興盛は隠居したが、嫡子・内藤隆時は早世していたので、
 孫の内藤隆世(ないとうたかよ)に、内藤家の家督を継がせた。

 隆包はそのことを既に知っていたが、
 まずは挨拶に出向かなかったことを詫びた。 


 「ご勇退への挨拶の言葉も差し上げず、失礼を致しました」

 「いや、よいのだ。我が孫・隆世は当主を継いだと言っても
  まだ若い。いろいろと教えてやってもらいたい」

 「私こそ若輩で、興盛様にはまだまだご鞭撻頂きたいことが
  山ほどありましたのに」

 「なあに、老兵はいずれ若者に路を譲るものだ」


 内藤興盛は、顎鬚をさすりながら温かい笑みを見せる。
 この人当たりの良さで、
 内藤興盛はずっと家中から信頼を集めていた。

 しかし、そのにこやかな瞳の奥から厳しい眼光が漏れる。


 「わしは老齢ゆえに、政治から身を引いてよいのだ。
  しかし、隆包。まだまだ若い身のおぬしは、何をしておる」

 「……はっ」

 「主君の死を痛嘆する気持ちは、わしにもよく分かる。
  特におぬしは、世襲ではなく義隆様から直々に守護代に
  任じられたゆえ、義隆様を失った悲しみもひとしおであろう」

 「……」

 「しかし、いつまでも悲嘆に暮れることが、いったい何を産むのだ。
  我々は出雲遠征からこの度の政変にかけて、
  過度の悲傷がさらに悲劇を招くことを学んだのではないのか」

 「……!」


 内藤興盛の言葉に、弘中隆包は大きく心を揺さぶられた。
 まるで心臓を直接つかまれたような感じがした。


 かつて、出雲国(=島根県東部)の月山富田城への遠征で
 大敗を喫した主君大内義隆は、最愛の養嗣子・晴持を失った。

 大内義隆はその深い悲しみから、戦事を嫌うようになり、
 遠征を主張し強行した武断派を次第に遠ざけるようになった。

 その結果、武断派の諸将から追い詰められ、命を絶った。
 大内義隆の運命は、晴持を失った時から大きく変わったのだ。


 内藤興盛は、深い愁嘆によって責務から遠ざかることで、
 事態はより悪化してしまうということを、
 義隆公の先例をもって、弘中隆包に伝えたかったのである。


 弘中隆包は、自身を恥じた。

 大内義隆を追い込んだ陶隆房も同じく、深い悲哀を負ったはず。
 しかし、隆房は国内の鎮定に動き出している。
 それに対して、自分はまだ何も成していないではないか。

 内藤興盛は隆包の表情の変化を見て、
 自分が伝えたかったことを理解してくれたと確信した。

 
 そして、懐から汚れた一冊の経典を取り出すと、
 内藤興盛はそれを弘中隆包に無言で差し出した。

 隆包が受け取ったそのくたびれた一切経の表紙には、
 どす赤い血の色で一句が書きつけられていた。


 『見よや立つ 煙も雲も 半天(なかぞら)に
           さそひし風の すえも残らず』
 


 見覚えのない句に弘中隆包が不思議がっていると、
 内藤興盛は言った。


 「それは、大寧寺の最期で冷泉判官が残したものだ」

 「何と」
 「何ですって!?」


 弘中隆包と同時に、
 後方に控えた弘中方明も驚いた声を上げて身を乗り出してきた。


 大寧寺で大内義隆の介錯を行った後に火を放ち、
 陶隆房の眼前で腹を十文字に切って死んだと伝わる
 大内家の忠臣・冷泉隆豊。

 その隆豊が、大寧寺で辞世の句を残していたのである。

 大寧寺まで大内義隆を追った陶隆房の追討軍に混じっていた
 内藤興盛の家臣の一人が持ち帰ったものだという。

 恐らくこの濁った赤い字は、
 自分が手にかけた主君義隆公の血で書いたものであろう。


 冷泉隆豊は死してまで後の者に何を望んだのか。
 残された者は何を成さねばならないのか。

 それを考えると、一切経を持つ弘中隆包の手が震えた。

 弘中方明も、自分に水軍の兵法を教えてくれた師である
 冷泉隆豊の最期の筆を見て、絶句している。


 内藤興盛は、一切経を見つめる弘中隆包に言った。


 「隆房の蜂起を止められなかったのは、老臣たるわしの責任ぞ。
  義隆公からの仲裁の依頼を断ったのは、わしだからのう。
  だからわしが身を退く。事変は決しておぬしのせいではない」

 「興盛様……」

 「これから隆房が取り組んでいくことの正邪は、わしも分からぬ。
  それを監視していくのは、残るおぬしの役目ではないのか」

 「……はい」

 「動くのだ。日頃から忠義に篤く信義に深いおぬしであれば、
  頭で考えるよりも先に身で動くことで、
  自分の信ずる道を進んでいることが後に必ず解るであろう」


 内藤興盛は立ち上がって、最後に一つ言葉を投げかけた。


 「末永く、大内を頼むぞ」

 「……!」


 弘中隆包はその言葉に聞き覚えがあった。
 

 大内義隆がかつて隆包を安芸国守護代に任じた時に、
 「末永く大内を頼む」と、同じことを言ったのだ。

 自分は亡き義隆公から、既に大内を託されていたはずだ。
 それなのに、今の自分はいったい何をしているのだ。

 内藤興盛の言葉でそのことを思い起こした弘中隆包は、
 興盛の足下で、深く平伏をした。


 地に伏せる隆包を見て、内藤興盛は微笑んだ。
 自分は全てをこの者に託せた。そう感じたのかもしれない。

 小さくうなずきながら、内藤興盛は笑顔で応接の間を後にした。


 大内家宿老・内藤興盛。

 これ以降は、二度と政治の世界に戻ることはなく、
 三年後の天文二十三年(1554)に老衰で亡くなったという。



 内藤興盛から後事を託された弘中隆包は気を奮い直し、
 その日のうちに大内御殿へと出仕した。

 そこには忙しく政務を執る陶隆房が待っていた。


 弘中隆包は「すまぬ」と一言謝った。
 出仕を求める陶隆房からの使者を
 追い返し続けたことに対する詫びである。

 陶隆房は喜んだ表情で、隆包の手を取ると笑顔を見せた。


 「弘中殿。よくぞ、よくぞ出てきてくれた。
  新しい国作りは、おぬしがいなければ到底無理だ。
  共に、これからの大内を盛りたてていこう」

 「陶殿……」


 取った手を大げさなほどに上下に振る陶隆房を見て、
 弘中隆包にもふっと笑顔が戻った。



 主君大内義隆の嫡子・義尊をも失った大内家であるが、
 残された陶隆房は、今後の準備を着々と進めていた。

 大内家の後継者として迎えるに相応しい人物が、いま一人いる。


 それは、豊後国(=大分県南部)の
 大友晴英(おおともはるひで)である。

 
 かつて出雲遠征で養嗣子・晴持を失った大内義隆は、
 豊後国守護大友義鑑の次男・大友晴英を養子に迎えた。

 大友義鑑の妻、つまり晴英の母は大内義隆の姉だからである。
 
 大内の血を引く後継者として養子に迎え入れられた晴英だったが、
 その後、大内義隆に実子・義尊が生まれたため、
 養子縁組は解消されて、大友晴英は地元豊後に戻った。

 ところが、その義尊も大内義隆と同時に殺害されてしまったため、
 再びこの晴英を後継者として呼び戻そう、
 と陶隆房は考えたのである。

 そこで、陶隆房は豊後国と密かに交渉を始めていた。


 昨年の天文十九年(1550)、
 豊後国内では「二階崩れ」と呼ばれる政変が起こり、
 大友義鑑が死去して、長男の大友義鎮が家督を継いだ。

 この大友義鎮は、後に「大友宗麟」の名で知られることになる。

 その弟・晴英に再び大友の後継者の話が来たことを受け、
 大友義鎮は大内家中の混乱ぶりを重く見て反対をしようとしたが、
 当の晴英はこの話に大いに乗り気だった。

 もともと大内義隆は深く自分のことを愛してくれていたし、
 実子が生まれたために養子縁組を解消されるというのも、
 武家の慣わしとして当然のことであり、特別な恨みはない。

 その大内家が再び自分自身を当主として迎えるという。

 自分が大内家の当主となり、東九州を支配する兄と連携すれば、
 大友家も今より大きな勢力を持つことができる。

 「大内家が自分を必要としているならば、それに応えたい。
  そして大友家の、北の防波堤としての役目を果たしたい」

 と晴英の熱心な主張を聞き、義鎮もついにそれを許した。



 こうして、大内義隆の後継者には、
 義隆の甥にあたる豊後国の大友晴英を迎えることが決まった。

 主君大内義隆を自害に追い込んだ陶隆房は、
 自分自身が謀反人として下克上により政権を奪うつもりではなく、
 新たに当主を立ててこれからもその下で働くという立場を
 国内外に強く示しておく必要がある。

 そのため、大内義隆から一字を頂戴した隆房の名を返上し、
 今度は新当主となる大友晴英から一字を拝領して、
 晴賢(はるかた)と名を変えた。

 後世に残る「陶晴賢」の名は、こうして生まれたのである。



 大内氏は、朝鮮半島の百済国の第二十六代国王聖明王の
 第三子である琳聖太子の末裔であると称されてきた。

 琳聖太子が百済から周防国の多々良浜に渡ってきたことから
 多々良の姓を名乗るようになり、
 やがて大内村に移ったことから大内姓を名乗り始めたという。


 陶晴賢はこの伝説を重視し、即位に活用した。


 天文二十一年(1552)三月一日。

 大内家当主として迎えられることになり、
 豊後国を船で出発した大友晴英は、その大内祖先の伝説に倣い、
 多々良浜(=山口県防府市)から上陸を果たした。

 新生大内も多々良浜から始まる、という縁起を演出したのである。


 翌日、大友晴英は周防山口(=山口県山口市)へと入城した。

 弘中隆包は、陶晴賢と共に晴英を出迎える。

 まだ二十歳にも満たない若き新当主を前に、
 必ずやこの大内を強く支えていこうと、隆包は深く心に誓った。



 大内家の家督を継ぐことになった大友晴英は、
 大内家当主が代々抱いてきた「義」の一字に倣って、
 「義長」と改名をした。

 ここに、西国最大の勢力を誇る大内家を継ぐ
 新たな守護大名「大内義長」が誕生したのである―――――。



 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [二十一]
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 ■大内義長 (おおうちよしなが)

 大内家当主。豊後国(=大分県)の大名・大友義鎮の実弟であるが、
 かつて養子縁組を解消された叔父の大内義隆が大寧寺の変で自害した
 ことにより、再び大内家の後継者として迎え入れられる。陶晴賢や
 弘中隆包らに支えられるが、大内家は終焉へと向かっていく。
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厳島戦記(二十) 大内大揺の巻


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 厳島戦記(二十) 大内大揺の巻
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                       第五部「防芸謀略戦」




 「尼子からの脅威が容易ならぬ時の策を、書き記してござる」

 「弘中殿…」


 秋風の吹き抜ける吉田郡山城(=広島県安芸高田市)にて、
 弘中隆包は毛利元就に、一巻の書状を手渡した。

 書状を受け取った毛利元就は、
 隆包の瞳の奥から、只ならぬ眼光を感じていた。


 「陶殿と斬り合うおつもりではないでしょうな」


 毛利元就は、吉田郡山城を出る弘中隆包を見送りながら問う。

 元就の嫡子であり、現在は当主である毛利隆元も、
 父の横で心配そうに弘中隆包の表情を見た。

 弘中隆包は、元就の問いに小さく首を振って、
 「元就殿、隆元殿。安芸を頼みますぞ」とだけ答えた。

 そして、吉田郡山城から山口への道を駆けていく。


 毛利元就と隆元は、何度もこうして吉田郡山城を発つ
 弘中三河守隆包を見送ったことがある。

 今日もまた弘中隆包の一隊を最後まで見届けていたが、
 毛利元就は十年前のことを思い出していた。


 尼子軍が吉田郡山城を包囲し、毛利勢が危機に陥った時、
 周防山口から陶隆房と弘中隆包が援軍を率い、
 共に力を合わせて勝利した。

 毛利元就は弘中隆包と「百万一心」の言葉を誓った。
 それが初めて、ここで弘中隆包を見送った時であった。

 そして出雲遠征の大敗の際には
 共に殿軍を務めて生死を分かち合った。

 その後、弘中隆包は安芸国の守護代となり、
 毛利元就はその隆包から安芸国人領主たちの盟主に認められ、
 二人は共に、芸備の安泰と発展のために手を取り合ってきた。

 この十年は、二人の盟友にとって激動の期間であった。


 十年前のことを思い出しながら、毛利元就は半ば確信していた。

 十年を共に生きてきた弘中隆包と言葉を交わすのは、
 今日が最後なのだということを―――――。



 天文二十年(1551)九月一日、
 大内義隆、長門大寧寺にて自刃。


 その報は、安芸の弘中隆包や毛利元就にも瞬く間に伝わった。

 守護大名・大内義隆と、その家臣団の筆頭である
 周防国(=山口県東部)守護代・陶隆房との確執は、
 以前から誰もが知り及ぶところであった。

 その衝突の日はいつになるかと懸念されていたが、
 いわゆる「大寧寺の変」が起こったその時、
 安芸国守護代の弘中隆包は、出雲国(=島根県東部)の尼子勢が
 安芸を脅かしているとの報を受けて、その侵攻に備えて前線にいた。

 豊前国(=大分県北部)守護代の杉重矩、
 石見国(=島根県西部)守護代の問田隆盛など
 大内家の評定衆に名を連ねる守護代たちがこの事変に加わったが、
 同じ守護代の職にある弘中隆包は、完全に蚊帳の外であった。

 しかも、侵攻をちらつかせていた尼子勢も一向に攻めてこない。

 尼子を待ち受ける中で主君の凶報を聞かされた弘中隆包は、
 ついにこの前線を離れて周防山口へと戻ることを決意し、
 有事に備えてその対応策を戦友の毛利元就に託したのである。



 主君・大内義隆を自害に追い込んだ後の陶隆房の行動は、
 矢のごとく速かった。

 もともと陶隆房が抱いていた大内義隆の政治への不満は、
 隆房ら武断派を退けるように讒言を繰り返していたという
 右筆の相良武任を重用していたことに対してある。

 隆房らが兵を挙げて山口の街へ突入した時、
 その不和の原因である張本人・相良武任は、
 石見国(=島根県西部)へ出張していて留守だった。

 隆房の挙兵を知った相良武任は、その害が自らに及ぶのを恐れて、
 以前に世話になった筑前国(=福岡県北部)守護代の
 杉興運を頼って、船を使って北九州へと逃亡した。

 そして花尾山(=福岡県北九州市八幡東区)にある
 花尾城に籠もっていたのだが、陶隆房に味方する軍勢が押し寄せ、
 あっという間に討たれて、その首級は山口へと送られた。

 さらに、相良武任を匿った筑前守護代・杉興運も、
 義隆・武任の一味と見なされて陶隆房側の軍勢に追い詰められ、
 杉興運は主君・義隆に殉じて腹を切り、その生涯を閉じた。


 陶隆房らの対抗勢力として名の挙がっていた相良武任、
 そして杉興運の死で、「大寧寺の変」における混乱は
 一時の収束を迎えた。


 以前から評定衆の杉重矩や問田隆盛らをはじめ
 各地の武人の多くが陶隆房の主張に賛成をしていたから、
 家臣が主君を自害させたという天下の一大事のわりには、
 その混乱は思ったほど大きくはならなかった。

 それだけ国内に義隆政権の改革を求める者が多く、
 陶隆房の蜂起は大勢の家臣に歓迎されていたのである。



 ところが数日経って、冷静になって事変を見つめ始めた頃、
 陶隆房はある問題に直面したことを知り、肝を冷やした。
 大内家を根本から揺るがす大事態である。

 ちょうどそんな時に、安芸国から守護代の弘中三河守隆包が
 山口に到着したという報が知らされた。


 「ついに来たな…」と、隆房は気を引き締める。

 大内義隆の評定衆として政権を支えた六人の守護代のうち、
 豊前国守護代の杉重矩、石見国守護代の問田隆盛と共に、
 周防国守護代である陶隆房は挙兵して周防山口に攻め込んだ。

 長門国(=山口県西部)守護代の内藤興盛は静観の立場を取り、
 筑前国守護代の杉興運は義隆側の人間として追われ自害した。

 残るは、安芸国守護代の弘中隆包である。

 弘中隆包は大内家中でも只ならぬ智勇の持ち主であり、
 陶隆房としては、何としても弘中隆包との衝突は避けたかった。



 陶隆房の反乱で、山口の街は大半が灰燼と化していた。

 大内家が居住空間としていた築山館は全焼しており、
 政務を執る大内御殿も、半分が焼けて無くなっている。

 焼け残った御殿の一角で、陶隆房は政務を取り仕切っていた。


 そこに、荒々しい足音を立てて弘中隆包がやってきた。



 ちょうど江良房栄が陶隆房の命を受けて退室している時、
 弘中隆包が廊下の上をこちらに向かってくるのが見えた。


 「おう、弘中殿。ようやく山口に帰って……」

 「どけ」

 「……!」


 大内家を手中に収めた筆頭家老・陶隆房の部将として
 偉そうに声をかけようとした江良房栄であったが、
 弘中隆包の姿から大きな気魄を感じて、無意識に道を譲った。

 西国では並ぶ者はいないと言われる猛勇の持ち主の江良房栄には
 これまで恐れを抱いた相手など一人もいない。

 ところが、普段は穏和で温柔な性格であるはずの弘中隆包の眼光が、
 その江良房栄に身の危険を感じさせ、つい隆包を避けた。
 房栄自身も、自分の身体の反応に驚いていた。

 江良房栄は息を飲みながら振り返り、
 陶隆房に向かって歩みを進める弘中隆包の姿を見つめた。


 陶隆房は、幼馴染の隆包を笑顔で迎えようと立ち上がったが、
 弘中隆包はそのまま表情を変えることなく進んで、
 隆房の前に立つと睨みつけるようにその目を直視した。


 「大内のためだっ…」


 今にも斬りかかってきそうな隆包の気魄に押されたのか、
 陶隆房の口からとっさに出た言葉は挨拶ではなく、
 この度の挙兵の理由だった。


 「わしは、大内家の将来をより強く盤石にしたいと思っただけだ。
  しかしお屋形様は、奸臣の相良武任などを重用し、
  遊興接待にうつつを抜かしては財政を逼迫させていた。
  だから、家督を譲られるようにお諌めしたのだ」

 「……」

 「お屋形様はご抵抗なされたが、最後には観念なさって、
  武士らしく御腹を召され、我らの声を聞き届けて下さった。
  決してわしは、お屋形様には手を出しておらぬ」


 黙ったまま眼前に立っている弘中隆包に対して、
 陶隆房は視線をそらさずに、その弁明を語り続ける。


 「我らはのう、弘中殿。お屋形様一代の家臣にあらず。
  大内家の末代までを見据えてお仕えしている身であろう。
  お屋形様もそれを組んで立派な最期を遂げられた。
  わしも断腸の想いだが、この現実を受け入れなければならんのだ」

 「陶殿…。して、義尊様はどこに」

 「……!」


 弘中隆包が突然口にした、大内義隆の嫡子・義尊の名を聞いて、
 陶隆房の言葉は止まってしまった。

 直面している問題というのが、まさにそれなのである。


 弘中隆包も、陶隆房が挙兵をした心情は理解できる。

 大内義隆が武断派を軽視して相良武任ばかりを取り立てるのは
 家中の混乱を招くからと、隆包からも再三意見書を送っていた。

 陶隆房は、若い頃から筆頭家老の重責を意識してきた武士であり、
 自分一人の利益だけで動く人間ではない。

 主君を殺して政権を簒奪するという「謀叛」をしたわけではなく、
 強制的に引退させる、いわゆる「主君押し込め」を謀ったに過ぎない。

 主君大内義隆を改心させること、
 そして陶隆房の蜂起を止めることはできず、一代の悲劇は起きたが、
 大内家そのものは、その後も続いていかなければならない。

 そこで必要となるのが、後継者、
 つまり義隆の嫡子である大内義尊の存在である。

 後に立てる後継者があってこそ、主君の押し込めには大義がある。


 だが、陶隆房から語られた義尊の居所は、
 隆包が予想していた答えの中でも最悪の答えであった。



「義尊様は……、お亡くなりになった」

 「……!」


 弘中隆包の表情は、みるみる青ざめていく。

 陶隆房は右手で隆包の肩をつかみ、
 放心をさせないかのように揺すりながら言った。


 「わしではないぞ、弘中殿。決してわしらでは…。
  わしは義隆公にご引退して頂き、
  義尊様に当主の座に就いてもらいたかったのだ。
  しかし…」


 陶隆房の眼から、ひと筋の涙が頬を伝い落ちる。


 「杉重矩だ。重矩の軍勢が、大寧寺から逃げる義尊様を捕らえ、
  我らの命令を待たずに、義尊様を…義尊様の首を討ったのだ。
  ……わしもつい先ほど、そのことを知らされたばかりだ」

 「……」

 「先ほど、相良武任から義隆公に出された申状が見つかってのう。
  それによると、我らに謀叛の疑いがあると義隆公に伝えたのは
  武任ではなく重矩であったという。…ようやく分かったのだ。
  全ての元凶は、我らにすり寄ってきた杉重矩だったとな」



 かつては陶隆房とは犬猿の仲であった豊前守護代・杉重矩は、
 最近になって突然隆房に同調をするようになり、
 隆房と一緒になって蜂起して大内義隆を追い込んだ。

 だが、その杉重矩は単独でその嫡子・大内義尊を追って捕らえ、
 陶隆房の意に反してその首を斬ってしまったのである。

 陶に寄り添いながら、杉重矩は心を同じくしていなかった。

 後から見つかった「相良武任申状」を見てよく考えてみると、
 大内義隆も相良武任も、陶隆房に対して敵意はなかった。

 この混乱の発端は、全て杉重矩にあった――――。


 そのことを知った陶隆房の激昂ぶりは、凄まじかった。

 隆房は腹心の江良房栄や宮川房長らに命じて、
 何食わぬ顔で領国豊前へと帰っていく杉重矩を追討させた。

 弘中隆包が、江良房栄とすれ違ったのは、
 その陶隆房からの命令を受けて退室をしている時だったのだ。


 杉重矩は江良房栄らに追いつかれて交戦したものの、
 やがて大内家中最強の江良軍に打ち破られ、
 長門国の長興寺に追い詰められて、その命を絶った。

 杉重矩の首級はすぐに山口の陶隆房の元に送られ、
 謀叛の教唆扇動、並びに主家殺害の罪で獄門に晒された。



 主君大内義隆の自刃をはじめ、その嫡子・義尊、
 奉行人筆頭の相良武任や筑前国守護代・杉興運、
 水軍の将・冷泉隆豊ら数多くの人間を死に追いやったこの事変は、
 豊前国守護代・杉重矩をも誅伐する事態となった

 さらに、主君義隆から和睦の仲介を依頼されたものの断った宿老、
 長門国守護代・内藤興盛は、自らの責任を重く見て、
 孫の隆世に家督を譲り、隠居した。



 大内家臣団の筆頭家老としての地位にあった陶隆房には、
 ますますその双肩に大内家の今後の重責が圧し掛かる。

 杉重矩の強い教唆によって兵を挙げた自らの行動を顧みて、
 陶隆房は深い後悔の念に心をえぐられていた。

 主君を死に追いやり、そして後継者をも失った今、
 自分の蜂起がいかに軽挙だったかを思い知らされたのである。


 隆房は家臣筆頭として、大内義隆の葬儀を立派に執り行い、
 国内混乱の元凶として杉重矩の首を、義隆の墓前に捧げた。
 
 そして大内の再興を心に誓い、剃髪して、
 全薑(ぜんきょう)という号を名乗った。



 大内の未来のために、いつまでも心折れているわけにはいかない。
 主君不在の大内の今を支えるのは、自分しかいないのだ。

 自分が全てを背負わねばならぬ――――。

 陶隆房は、大内義隆の墓前で長い弔いを終えて目を開けると、
 立ち上がって、再び政治の世界へと歩んでいった。



 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [二十]
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 ■弘中方明 (ひろなかかたあき)

 大内家家臣。安芸国(=広島県西部)守護代に出世した兄の弘中隆包
 に代わり、領国周防岩国(=山口県岩国市)の統治及び水軍の指揮を
 任される。毛利水軍を率いる小早川隆景や赤間関代官となる堀立直正
 などと親交が深く、後に「門司城の戦い」でも大きな活躍を見せる。
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厳島戦記(十九) 如露如電の巻


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 厳島戦記(十九) 如露如電の巻
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                       第四部「周防大政変」




 仙崎港(=山口県長門市)は、
 長門本土から青海島に向けて伸びた砂嘴の上にできた港で、
 年中荒波の高い日本海にありながら、
 仙崎湾が高波を防いでくれる天然の良港と言える。


 大内の部将・冷泉隆豊は、わずか数騎の兵と共に、
 船で石見(=島根県西部)へ向かう主君・大内義隆を見送り、
 その船が望ヶ鼻の岬を越えて仙崎湾を出るのを見届けると、
 覚悟を決めたかのように、大きく深い息をついた。


 陶隆房や杉重矩ら反乱軍は、
 大内義隆の行方を追って
 周防山口(=山口県山口市)からこちらに向かっている。

 義隆を海に逃がして安全を確保した今、残る自分たちの役目は
 陶隆房の軍勢に舟を一隻たりとも渡さないためにも
 ここで陶軍を待ち構えて最後まで戦うのみである。

 
 (あとは、弘中殿が何とかやってくれるであろう…)

 冷泉隆豊は、明るくなりつつある荒れた空を見上げながら、
 安芸国(=広島県西部)守護代の
 弘中三河守隆包の顔を思い浮かべた。


 長年、大内の水軍を取り仕切っていた冷泉隆豊は、
 陸戦を得意とする陶隆房や杉重矩ら守護代連中とは
 どうも馬が合わなかった。

 しかし、守護代の中でも領国岩国(=山口県岩国市)に
 水軍を有していた弘中隆包は何かと気が合い、
 弟の弘中方明が元服した際には
 「水軍の用兵を弟に教えてほしい」と方明の師事を願ってきた。

 冷泉隆豊は弘中隆包の清廉潔白な人柄に好感を持っていたので、
 その弟の方明には自分の持つ水軍の知識を惜しみなく教え込んだ。

 立派に学んでいった弘中方明は、今度はその水軍の法を
 安芸の小早川隆景や能美宗勝らにも伝え、
 芸備(=広島県全域)の経略に大いに役立ててくれている。


 人の心は、次の者へ託されていく。

 ここで死しても何の悔いがあろうか、
 と冷泉隆豊は心の内で思った。



 ところが、しばらくして隆豊は一驚して目を大きく見開いた。

 先ほど見送ったはずの大内義隆を乗せた船が、
 再びこの仙崎港に向かって戻ってきているのが見えたのである。

 「なぜ……!?」

 冷泉隆豊は全身から力が抜けるような絶望感に襲われた。


 船が港に着岸すると、大内義隆たちが下船してきた。

 冷泉隆豊たちは駆け寄って、義隆の前にひざまずく。

 見ると、先ほどの船出の時に比べると、
 大内義隆の顔は見る影もなく憔悴しきっていた。
 
 髪は乱れ、白髪が突然増えたようにも見えた。
 目の周りが落ち込み、皺も多く目立つ。
 このわずか数時間で何年分も老け込んだかのようである。

 かける言葉の見つからない冷泉隆豊たちに、
 大内義隆は搾り出すかのように、か細い声を出した。


 「隆豊、すまぬ…。海へ逃げ出すことはできなかった」

 「……」

 「かつて海に沈んだ晴持が、海の底へ招いておったのだ…。
  このたびの反乱は、全てこのわしのせいである。
  しかし、子の義尊(よしたけ)には、何の罪もない。
  わしは…、我が子を再び海に沈めることはできぬ」

 「お屋形様……」


 嫡子・義尊の頭をそっと撫でる主君の様子を見て、
 冷泉隆豊は胸を痛めた。

 冷泉隆豊もまた、月山富田城への遠征に同行して大敗を味わい、
 大内義隆と共に大内晴持の溺死を目の当たりにしたからだ。


 陶隆房や杉重矩ら武断派たちの遠征強行の進言を受け入れ、
 最愛の養嗣子を出雲の海にて失った大内義隆。
 狂い叫ぶ義隆を、冷泉隆豊たちは山口まで強引に連れ帰した。

 その時から大内義隆は武断派と距離を置くようになり、
 そして今、その陶隆房や杉重矩らに追い詰められている。

 運命とは、かくも非情なものであろうか。


 (もはや、これまでか……)

 冷泉隆豊はやるせない想いで、握り締めた両手を振るわせた。



 大内義隆一行は行き場を失い、
 深川湯本(=山口県長門市)にある
 瑞雲山の大寧寺(たいねいじ)へと向かうことにした。

 大寧寺は長らく大内氏が寄進をしていた曹洞宗の寺院で、
 三年前に異雪慶殊という僧が十三世の住持となっていた。
 

 大内義隆は、異雪慶殊に面会する前に、
 せめて乱れた鬢(左右の髪)だけはかき上げて整えておこうと、
 大寧寺の前にある池の傍で、兜を脱いで岩の上に置いて、
 池の水面を鏡代わりに自分の顔を映そうと覗き込んだ。

 しかし、揺れる水面に、自分の顔は映っていなかった。
 
 
 (私のこの世での武運は、もう残されてないのだな…)

 陰の揺らめく池を見つめる無言の大内義隆。
 その顔には、苦笑にも似た穏やかな微笑がこぼれていた。


 ――――後世、義隆が兜を置いたこの岩は「甲掛の岩」、
 義隆が覗き込んだ池は「鬢水池」と呼ばれるようになる。



 異雪慶殊和尚は、
 大寧寺に落ちてきた大内義隆を快く迎え入れた。
 
 大内義隆の表情を見た異雪慶殊は、
 義隆が既に死を覚悟していることを一瞬で悟る。


 異雪慶殊は少し話すだけで、義隆の篤学ぶりに驚いた。

 栄華に酔い、尚武を疎んじた愚君であるという噂されていたが、
 大内義隆の禅に対する知識や興味は学者のごとく深く、
 仁者の哲学を悟っているかのようであった。

 ちょっとした主従の心の違いが、大きな軋轢を産んだのだろう。
 その無常気も、大内義隆は既に受け入れているようである。


 義隆はかしこまって、異雪慶殊に無念無想の法談を求めた。

 死を前にした義隆に、和尚は人の臨終における心得を説く。
 聞き入っていた義隆は、静かに口を開いた。


 「私の命運は既に尽き、この世に思い残すこともありません。
  ただ、我が子・義尊は、まだ齢七つの幼い命。
  義尊だけは、仏門にでも入れて生き延びさせたいと思います」

 「分かりました。
  拙僧が他国までお連れすることをお約束致します」

 「かたじけない。和尚は、最後の我が師にございます」


 大内義隆は異雪慶殊の弟子となることを許され、
 その証として、瑞雪殊天という戒名を受けることになった。


 硯と筆を用意してもらった大内義隆は、
 心静かに辞世の句を書いた。


  「討つ人も討たるる人も諸ともに

   如露亦如電応作如是観」



 金剛般若経の一節に由来する漢文調の下の句で締めくくった直後、
 これまで風の音しか聞こえなかった境内の外から、
 いきなり大勢の鬨の声が響いてきた。

 陶隆房たちの軍勢が山口から続々と到着し、
 ついにこの大寧寺を包囲したのである。


 攻め入ってこようと思えばあっという間であるはずだが、
 包囲している軍勢は大声を挙げるばかりで、境内には入って来ない。

 首謀者である陶隆房は、やむなく主君の押し込みを謀ったが、
 主君である大内義隆の権威を簒奪しようと思ったわけではない。

 大内義隆を討ち取るわけではなく、立派な最期を願っており、
 自刃が確認できるまでは手出しをしないように指示してあるのだろう。

 鬨の声は、主君の自害を促す声でもあった。



 大内義隆は、仏前に座って香を焼き、
 静かに目を閉じながら、これまでの人生を思い返す。

 冷泉隆豊が、刀を抜いてその傍に控えた。

 義隆はゆっくりと目を開けて隆豊の目を見ると、
 何も言わずに微笑しながら頷く。


 そして、懐剣を手にして、腹を横一文字に切り裂いた。
 
 冷泉隆豊はその立派な所作を目に焼き付けながら、
 刀を振り降ろして、主君の首を打ち落とした。


 大内義隆、享年四十五歳。

 六ヶ国の守護および従二位まで登り詰め、
 西国に大きな覇を誇った戦国大名・大内義隆の生涯は、
 こうして終わりを告げた。



 介錯を務めた勇将・冷泉判官隆豊は、
 首の落ちた主君から流れ出る鮮血に筆をつけて、
 手にした一切経の表紙に、一句を書きつけた。

 そして、大内義隆が焼いた香の火を、障子や板戸に吹き付ける。

 そのうち、義隆が自刃を果たした方丈は、
 鮮やかな炎に包まれ始めた。



 陶隆房の腹心である江良房栄や三浦房清たちが
 義隆追討の先鋒隊として大寧寺を取り囲んでいたが、
 遅れて総大将の陶隆房が到着した頃、
 境内に火の手が上がるのが見えた。


 「お屋形様…」

 陶隆房は、主君・大内義隆が自害したのだと悟った。

 そして一たび呼吸を整えると、全軍に突撃の合図を送った。
 包囲軍が一斉に大寧寺の境内になだれ込む。


 義隆の亡骸を守るのは、介錯をした冷泉判官隆豊をはじめ、
 黒川隆像、天野隆良、禰宜右延ら、わずか十一人の将だったが、
 この少数の家臣が、数百名の陶軍に勇敢に立ち向かった。

 そして次々と陶の軍兵を斬り伏せていくが、多勢に無勢、
 やがてその側近たちも
 次々と陶軍に討ち取られて、地に倒れていった。


 残る将は冷泉隆豊と天野隆良だけとなった時、
 天野隆良が陶隆房の姿を見つけると、
 「おのれ、奸賊!」と叫びながら刀を構えて突進した。

 しかし、そこに陶軍随一の猛将・江良房栄が立ち塞がり、
 天野隆良を一刀の下に斬り捨てた。

 音を立てて天野隆良の身体が地に倒れ落ちた時、
 陶隆房と江良房栄は、
 最後の将・冷泉隆豊の姿が消えたことにふと気がついた。


 「判官殿はあちらにございます!」と兵の一人が、
 障子が半開きになっている経堂のほうを指差した。

 陶隆房と江良房栄は経堂に歩み寄り、勢いよく障子を蹴り倒す。


 そこには、甲冑を外して立ち尽くしている冷泉隆豊の姿があった。

 見ると、立ったまま懐剣で自らの腹を十文字に斬り裂いている。
 鮮血を噴き出しながら、近づこうとする敵を睨みつける。

 大内家中で武勇の名高い陶隆房も江良房栄も
 そのあまりの迫力に声を失って踏み止まった時、
 冷泉隆豊は切り裂いた腹に自ら手を入れてはらわたをつかんだ。

 そして恨みの断末魔にも似た雄叫びを上げながら、
 隆豊は引きちぎった内臓を、陶隆房と江良房栄に投げつけた。
 思わず目を背けて、血まみれの内臓を手で払う二人。

 血に染まった冷泉隆豊は、何かを含んだ笑みを見せると、
 自らの喉を掻き斬り、そして前のめりに床に倒れ伏した。


 大内義隆に最後まで従った勇将・冷泉判官隆豊は、
 陶隆房たちの前で壮絶な最後を遂げた。
 享年三十八歳という。



 こうして、長門の大寧寺で大内義隆が自刃したことにより、
 山口の大騒乱は終止符が打たれた。


 時は、天文二十年(1551)九月一日。 

 この大事変を、後の世は「大寧寺の変」と呼んだ。



 たった一日にして決着のついたこの騒乱は、
 西日本の戦国時代の支配勢力図を大きく激変させることになる。


 運命の「厳島の戦い」まで、あと四年―――。



 (第五部へつづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [十九]
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 ■問田隆盛 (といだたかもり)

 大内家家臣。大内家の一族として石見国(=島根県西部)の守護代を
 務めたが、津和野(=津和野町)の吉見氏や益田(=益田市)の益田
 藤兼ら国人領主の勢力に押されていた。大寧寺の事変では、杉重矩ら
 と共に陶隆房の挙兵に加勢して主君・大内義隆を自刃に追いやる。

| 『厳島戦記』 | 17:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(十八) 西京炎上の巻


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 厳島戦記(十八) 西京炎上の巻
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                       第四部「周防大政変」




 頭上から振り下ろされる、猛将・江良房栄の大太刀。


 黒頭巾の若武者――――弘中方明の姿が、
 江良房栄の視界から一瞬消えた。

 槍でその太刀を受け払いながら、真横に身を転がしていたのである。

 獲物を喰らい損ねた江良房栄の太刀は、
 まるで重い鉄槌で家屋を取り壊すかのように、
 目の前の木壁をメキメキと斬り裂いていった。

 壁に食い込んだ太刀を引き抜くのに生じた一瞬の隙に、
 床に返った黒頭巾の武者は、
 軽やかに立ち上がってすぐに床を踏みしめ、身構えた。


 (海の男か…?)と、江良房栄は横目で追いながら思った。

 身を起こしても体の振れない均衡能力には足腰の強靭さが要る。
 荒海に慣れた船乗りには、その力が備わっている。
 この男の動きには、船乗りのようなその均衡感覚が見て取れた。


 再び江良房栄が太刀を振り上げようとしたその時、
 黒頭巾の武者は、江良房栄から逃げ出して入口へと走り出した。

 「止めろ!」と、江良房栄の指令が随行の部下たちに飛んだが、
 方明の前に立ち塞がろうとした部下の一人は、
 その左肩を方明の槍に突かれて、血飛沫を上げながら倒れ込んだ。

 そこに人壁の突破口を見た方明は、
 迫り来る他の部下共を槍で押しのけながら、外へと飛び出ていく。


 槍を持った怪しい黒頭巾の男を取り逃がしてしまい、
 部下たちは上司である江良房栄の顔色を伺った。

 しかし、江良房栄は一度舌打ちをしただけで、
 すぐに堂内をズカズカと歩き回り始めた。

 山口市中には他の陶軍の諸将たちが走り回っているから
 黒頭巾はいずれ捕まるに違いない、と思ったのであろう。

 房栄はこの寺に誰もいないことを確認すると即座に、
 部下たちに命じて寺の中へ次々と松明を投じさせた。

 その寺は、松明の火を受けて、あっという間に燃え上がった。
 空を焦がすような火炎が、御堂を包み上げていく。



 山口は、京の都を模した都市計画で造られた街であるから、
 街の中に城砦はなく、主君は大内御殿にて政務を執る。

 その大内御殿に併設された築山館に、
 大内義隆とその側近や新鋭部隊は立て籠もっていたが、
 街中に火の手が上がるのが見え、人々の怒号や悲鳴を耳にして、
 もはやここで命の限り防戦するしかない、と覚悟を決めた。

 豊前国(=大分県北部)守護代の杉重矩ばかりか、
 大内家の一族であるはずの石見国(=島根県西部)守護代・
 問田隆盛までも、陶隆房の反乱に加勢しているという。

 大内義隆も、自分に味方する者の少なさをようやく自覚した。


 冷泉隆豊など忠義の部将たちが武器を取って、
 迫り来る陶軍に対して応戦をし始めたのだが、
 義隆の寵愛を受けていた安富源内と清ノ四郎という近習たちが、

 「この築山館は防戦には向きません。取り囲まれたら終わりです。
  それよりも、山を背にした法泉寺にて応戦してはどうでしょう。
  法泉寺で耐え忍んでいる間に、きっと援軍も来るでしょう」

 と、大内義隆に進言を始めた。

 主君の安全よりも、自分たちの命が惜しいだけの進言だったが、
 寵愛する彼らの言に大内義隆はあっさりと納得し、
 京から訪問してきた公家たち客人を連れて、北の門から脱出した。

 冷泉隆豊たち側近の部将たちは、そのことを知らされておらず、
 主君が北の門から落ち延びていったという報を伝え聞いて、
 慌てて、守っていた築山殿を放棄して、義隆の馬を追う。

 あまりの混乱ぶりに、ますます義隆の護衛部隊は脱落していった。



 「山口が…、燃えている」

 大内義隆は、逃げ込んだ法泉寺の山門から、
 赤く炎に燃え盛る山口の街を眺めた。

 見慣れた街の、見慣れない様子。

 当時国内最大の栄華を誇っていた山口の壮麗で絢爛たる街が、
 一夜にして火の海と化している。
 義隆はまだ信じられない心地であり、頭が錯乱していた。



 築山殿から落ち延びた大内義隆が山口を逃れて
 安芸国(=広島県)や筑前国(=福岡県)などに逃げ出すと、
 また土豪たちを集めて勢力を回復し、ややこしいことになる。

 その前に大内義隆を成敗しなければならないと焦る陶隆房は、
 すぐに義隆の籠もる法泉寺へと軍勢を進めた。



 法泉寺には、敗北の空気が漂っていた。

 大内義隆を追って親衛部隊が法泉寺に辿り着いた時には
 六千人はいたはずの守備兵が、今や三千騎に激減している。

 これが、六国にわたり覇を唱えた守護大名の権威なのか。
 側近たちは胸を痛める。


 そんな中、法泉寺の御堂の奥で震える大内義隆を救おうと、
 名乗りを挙げた客人がいた。

 前の関白、二条尹房(にじょうただふさ)である。

 公家第一の位でもある関白まで上り詰めた公家・二条尹房公は、
 応仁の乱により失脚して京の都を追われたが、
 大内義隆を頼って周防山口まで下向してその世話になっていた。

 荒れた京の都に代わって公家社会を尊重する街となった山口で、
 前の関白という自分の経歴には、まだ大きな価値がある。

 その自分の価値が、この絶体絶命の危機を救うのならば、
 それを最大限に利用するべきであろうと考えたのである。

 思わぬ戦乱に客人たちを巻き込んで鎮痛していた大内義隆は、
 二条尹房公の申し出に、涙を流さんばかりに喜んだ。



 「興盛様、興盛様―――!」

 弘中河内守方明が、江良房栄など陶軍の猛追から逃れて
 辿り着いたのは、長門国守護代の内藤興盛の邸宅だった。

 大内義隆の重鎮・内藤興盛の安否が心配で駆けつけてみたが、
 内藤興盛は混乱する様子もなく応接の間に平然と座っていた。


 そしてそこには、方明が見知った人物もいた。


 「ザビエル殿ではないか…」

 方明は思わず声をかけた。
 昨年、方明が岩国まで送ったフランシスコ・ザビエルの一行だった。
 
 
 ザビエルは昨年、大内義隆に拝謁してその逆鱗に触れた後、
 弘中方明が岳父・堀立直正を通して堺の富豪を紹介したことから、
 その伝手を頼って堺、そして京の都へと上洛した。

 しかし、天皇の御所も足利幕府も
 応仁の大乱によって既にその権威を失っていたため、
 ザビエルは失望して、数日のうちに京の都を去っていた。

 そして、これからは周防山口が都に代わる大都市になる、
 と考えたザビエルは、再び大内義隆に拝謁しようと、
 平戸(=長崎県平戸市)の港で舶来品をかき集め、
 再び大内義隆に謁見することにした。

 珍しい舶来の品々を贈られて気を良くした大内義隆は、
 あっさりと山口でのザビエルの布教活動を許可し、
 街中に教会を建てる資金も援助したのである。

 そこで、ザビエル一行は仮の教会を建て活動拠点としたが、
 富田若山城で蜂起した陶隆房の軍勢が山口に乱入して、
 大内義隆の援助を受けたその教会を破壊したので、
 ザビエルたちは内藤興盛を頼ってここに逃げてきたのであった。


 内藤興盛は、ちょうどやって来た弘中方明に相談した。


 「ザビエル殿は異邦からの客人だ。大内家中の戦乱のせいで
  命を落とすようなことがあっては、どんな大問題になるか分からぬ。
  方明、何とか彼らを逃がす手立てはないだろうか」

 「はあ…。では、豊後国(=大分県南部)へ行かれてはどうでしょう。
  ちょうど今、ポルトガルからの交易船が豊後に着岸している、
  という噂を聞いております」

 「それはまことか」

 「はい。昨年に当主になられた大友義鎮(おおともよししげ)殿は
  異文化に明るく、本格的に南蛮貿易に着手される様子。
  ザビエル殿らを温かく迎えてくれましょう」


 方明の提案を通訳から伝え聞いたフランシスコ・ザビエルは、
 ポルトガル船のことを知って、大いに喜んでうなずいた。

 そして是非とも豊後に渡りたいと願い出た。


 「豊前(=大分県北部)からの陸路よりも、海路がいいでしょう。
  私はこれから岩国へ戻りますから、
  また船着場までザビエル殿を導いて護衛し、船で送り出します。
  興盛様、大友義鎮殿への紹介状を書いて頂けませんか」


 弘中方明の進言を内藤興盛が了解して筆を用意しようとしたその時、
 その内藤邸に一人の使者が駆け込んできた。

 京からの客人、前関白・二条尹房公からの使者であった。

 前関白の遣いとあっては、会わないわけにはいかない。
 内藤興盛は下座へと移り、弘中方明もその後ろに控える。
 言葉の分からないザビエルは、その横でキョロキョロしている。


 上座に座した尹房公の使者は、書状を出して口を開く。

 「ただ今、二条尹房様をお連れのご主君・大内義隆公は、
  奸臣・陶隆房、杉重矩らの軍勢に取り囲まれ、
  法泉寺にて立て籠もっておられ、危機的な状況にあられる。
  大内義隆公は、実子の義尊殿に家督を譲られる決意をなされた。
  内藤興盛殿にはその国政を今後も任せるとのことゆえ、
  義隆公と陶隆房の和睦の儀を、今すぐ調えて頂きたい」


 三家老の陶氏、杉氏に追い詰められている大内義隆は、
 二条尹房公を通して、残る三家老の一人、内藤興盛に
 仲裁してほしいと泣きついてきたわけである。

 弘中方明は平伏したまま、内藤興盛の対応を観察していたが、
 興盛の口から出た使者への返答は、
 方明の予想の中には全くない答えだった。


 「私は以前から、それが最前の方法だと何度も進言してきましたが、
  お屋形様は一向に聞く耳を持って下さらなかった。
  三日前ぐらいならば、私の力で何とかなったでしょうが、
  ここまで事態が悪化しては、私とて陶殿を止められぬ。
  こうなった以上、お屋形様はご自害あるべし」


 方明と同じく、使者もその返答は予想もしていなかった。

 忠臣の名高い内藤興盛の、迷いのない返答ぶりに、
 尹房公の使者は恐れから唇を震わせて、声を絞り出す。


 「な…内藤殿。ご主君を…ご主君を見殺しになさる気か!」


 「見殺さぬよう、ずっとお屋形様には進言してまいったのです。
  今日この事態を招いたのは、お屋形様が選んだ道にござる。
  このような事態の中にあっては、大内の家を守るために、
  大内家当主として取る道は、御腹を召される他あるまい」


 使者は腰を抜かして立てないほど、その返答に驚いている。

 もはや、家中随一の忠臣として国内外にその名の知られた宿老、
 内藤興盛でさえ、大内義隆を救えない事態になっている。


 弘中方明は、その事態の深刻さを心に深く感じた。

 この大事変の中、内藤興盛の邸宅を陶軍が襲わないのも、
 恐らく陶隆房と内藤興盛との間で話がついているからに違いない。

 方明は、二条尹房公の使者と内藤興盛が対面するその後ろで、
 中座してザビエル一行を連れ出し、邸宅を発った。

 キリスト教は、自ら命を絶つことを大罪とすると聞いた。
 内藤興盛は主君に対して自刃を要請しているわけだから、
 ザビエルにその内容を聞かせるべきではない、
 と方明は思ったのである。


 ザビエルは、弘中方明に守られながら山口を出て、
 そして、岩国から大友義鎮の治める九州豊後へと旅立っていった。

 それが、フランシスコ・ザビエルと弘中河内守方明の
 最後の別れとなった。
 
 豊後国へ渡ったフランシスコ・ザビエルはその後、
 豊後守護職・大友義鎮、つまり後の大友宗麟に大きな影響を与え、
 我が国の宗教史に大きくその名を残すことになる。



 陶隆房、杉重矩らの軍勢が続々と取り囲み始めた法泉寺。

 宿老・内藤興盛からも見捨てられたことを知った大内義隆は、
 ついにその命運が尽きたと感じて、うなだれた。

 安富源内ら寵臣の近習がちょっと席を外した隙に、
 側近の部将・冷泉隆豊が書状を手に現れて、ささやくように言った。


 「お屋形様。大切なお話が」

 「何じゃ」

 「実を言うと、安芸国守護代の弘中三河守隆包殿から、
  有事の際の手引きの策を頂いておるのです」

 「何っ。隆包から!?」


 大内義隆は飛び上がって、眼を見開いた。


 弘中隆包は現在、出雲国(=島根県東部)の尼子晴久が
 安芸国への侵攻を目論んでいて予断ならぬ事態、という
 吉田郡山城(=広島県安芸高田市)の毛利元就からの救援要請で、
 尼子軍の侵入を抑えるために安芸国内に留まっており、
 この緊急の事態でも山口へ駆けつけることができない状態にあった。


 思い起こせば確かに、弘中隆包はかつて、弟の方明を通じて、
 「有事の際は、冷泉隆豊を頼るように」と言っていた。

 その弘中隆包が、密かに冷泉隆豊へ一策を献じていたのである。

 大内義隆は、冷泉隆豊を頼るようにという弘中隆包の助言を
 すっかり頭の中から忘れていたことを大いに恥じ、
 同時に、弘中隆包の忠義の深さに大きく励まされた。

 心の底から元気がにじみ出るような心地がした大内義隆は、
 すがる気持ちで身を乗り出し、冷泉隆豊に聞いた。


 「冷泉判官。して、して、隆包は何と申しておるのだ?」

 「はっ。長門国の仙崎港(=山口県長門市)で船に乗り、
  石見三本松城(=島根県津和野町)へ逃れられよ、とのこと」

 「三本松城…。城主の吉見正頼は、我が姉の婿じゃ」

 「はい。そして、津和野三本松城の吉見正頼殿には、
  隆包殿の叔父上、弘中兵部丞頼之殿が仕えております」

 「ん、そうであったな」

 「既にその弘中頼之殿が須佐まで出迎える手はずが整っており、
  仙崎港にもその船が手配されているそうでございます」

 「おお…お…。やはり、やはり弘中三河守隆包じゃ!
  三河守がおぬしを頼れと言っておったこと、
  肝に銘じておくべきであったわ。許せ」

 「弘中殿こそ、真の忠臣でございます。
  その弘中殿は今、安芸にて尼子と対峙しておりまする。
  この隆豊、弘中殿に代わり、お屋形様をお守り致します」

 「隆豊よ。わしは、隆豊と隆包の忠義、生涯忘れぬぞ…」


 大内義隆は涙を潤ませながら、冷泉判官隆豊の手を取った。


 冷泉隆豊たちは、一日中奮戦して陶軍を寄せ付けなかったが、
 八月二十九日の夜に、裏口から大内義隆を逃がした。

 大内義隆一行は、わずか百騎足らずの護衛兵と
 京の都からの客人たちを伴って、
 日本海に面する長門仙崎へと、徒歩で落ちていった。





 法泉寺の北門から山口を逃れて美東綾木(=山口県美祢市)を抜け、
 深川湯本(=山口県長門市)の大寧寺の脇道を通り、
 大内義隆一行がようやく仙崎港へとたどり着いたのは、
 九月一日未明のことだった。

 そこには、安芸国守護代・弘中隆包が万一のために用意させた
 石見へ向かう船が待っていた。

 側近の冷泉隆豊は、大内義隆たちをその船に乗せると、
 自らは再び南に向かって、陶軍の追撃を食い止めると言う。

 大内義隆は冷泉隆豊の忠義に心を打たれながら、仙崎を出港した。
 陸を見ると、冷泉隆豊たちがいつまでも見送っていた。



 陸を離れてとりあえず難から逃れたと思われた一行だったが、
 そこで予想もしない出来事が起こる。


 仙崎港を出て一時も経たないうちに、海上に突風が吹き始め、
 高い波浪に船が大きく揺れ始めた。

 日本海の荒波には慣れている老練の船乗りたちは、
 「これぐらいの波具合であれば、石見には余裕で着けますよ」
 と自信を持って言い、不安がる一行を安心させた。


 ところが、その中で大内義隆だけが狂気の声を挙げる。

 一行は驚いて義隆をなだめようとするが、
 義隆は船室の一隅を指差して、あわわと口を震わせている。

 その指の先には、誰が見ても何もない。
 だが、義隆は何かに怯えてギャアギャアと騒いでいる。


 大内義隆だけは、その船室の端に、
 苦しそうにもがく、若者の姿が見えていたのである。


 「は…、晴持…っ!!」


 義隆の震える口から、一人の名前が漏れた。


 八年ほど前の月山富田城で大敗を喫した時に、
 揖屋(島根県東出雲町)の海の中に沈んでいった、
 最愛の養嗣子・大内晴持の姿が見えていたのである。

 「苦しいっ…」「なぜこんな目に…」とうめく晴持の姿。
 大内義隆の心胆が、大きな戦慄に締めつけられる。

 随行する側近たちには、その子供の姿は見えない。
 だが大内義隆は恐怖から逃げ惑うように暴れ回る。

 全身鳥肌を立たせて発狂したように船内をのた打ち回る義隆に、
 側近たちはなす術なく、大いに戸惑った。


 「許せ、晴持、許してくれぇーーーーっ!!!!」

 
 激しく揺れる船体の中で狂い叫ぶ、大内義隆の姿。

 六国を統べる覇者としてその栄華を誇った大内義隆の命運は、
 誰の眼にも、風前の灯として映っていた―――――。



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  『厳島戦記』武将列伝 [十八]
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 ■江良房栄 (えらふさひで)

 陶家家臣。大内家中最強の武人として、陶隆房の下で数多くの戦功を
 挙げ続けた猛将。陶隆房の反乱の後にも陶軍の中心的部将として活躍
 する。安芸国(=広島県)で暗躍する毛利元就からも恐れられる存在
 となるが、やがて周防岩国にて弘中隆包と対決の時を迎える。
| 『厳島戦記』 | 12:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(十七) 赤雲再来の巻


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 厳島戦記(十七) 赤雲再来の巻
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                       第四部「周防大政変」




 年が明けて、天文二十年(1551)正月。


 筑前国(=福岡県北部)守護代・杉興運を通して、
 ある一通の書状が、周防山口の大内義隆のもとに提出された。

 名を、「相良武任申状」という。


 昨年に山口を出奔して杉興運の庇護の下にあった相良武任が、
 対立激しい大内家臣団の事態の真相を全て暴露し、
 自身の潔白を証明する、という訴状である。

 七ヵ条にわたって書き記されたこの申状が、
 大内家が築き上げてきた大勢力を激しく揺るがすことになる。



 大内義隆に差し出された「相良武任申状」の内容は、
 要約するとこういうことだった。


 「今、大内家中は非常に混乱をしております。
  その混乱は、この相良武任と陶隆房殿の確執にある、
  といろんな人が思っているようです。
  しかし、私は陶殿に対抗しようとは思っていませんでした。
  
  そもそも、陶隆房殿に謀叛の気配あり、と言い出したのは、
  豊前国(=大分県北部)守護代の杉重矩(すぎしげのり)殿です。

  しかし、杉重矩殿はそれを私の讒訴だと言って責任転嫁し、
  今度は陶隆房殿に歩み寄るようになりました。

  陶隆房殿は、杉重矩殿が味方に付いたことにより、
  残る三家老の一人、内藤興盛殿にも働きかけ、
  大内家中の御家人や国人領主たちにも協力を仰ぎ、
  何やら隠れていろいろと画策しているようでございます。

  私は政争を逃れて杉興運殿のところに留まっておりますが、
  私に悪意はないのだということを、どうかご推察下さい」



 要するに、「自分だけは全く悪くないのですよ」という
 責任逃れの言いわけを並べ立てていたのである。



 この「相良武任申状」を受け取った大内義隆は、どうしたか。


 相良武任の申し様によると、家臣たちは勘違いに勘違いが重なり、
 お互いを警戒しているのであろう、と義隆は思った。

 陶隆房たち武断派も、相良武任のことを誤解しているのだろう。
 お互いの誤解を解いて仲良くしてもらいたい。

 そう思って、大内義隆は同年四月、
 筑前に滞留中の相良武任を、三たび山口に呼び返したのである。

 相良武任は、自分の訴えが認められたのを大いに喜んで
 堂々と周防山口に戻ってきた。



 大内家中の混乱の火種である相良武任が、
 三たび奉行衆に返り咲いたことで、
 陶隆房たち武断派の失望と憤怒は頂点に達した。

 もはや問題は、相良遠江守武任だけではない。
 その奸臣を平気で重用する大内義隆こそが悪政の元凶である。

 武断派の怒りは、ついに主君にまで向けられることになった。

 これまでの武断派は文治派と対立するだけ済んでいたが、
 とうとう、その対立を容認し改善の意思の見えない主君を
 その座から下ろすしかこの国を正す方法はない、
 と武断派の意見がまとまり始めた。

 もはや、大きな反発の嵐は止まらない。
 


 昨年九月には、陶隆房の謀叛の噂が街中に広がったが、
 今度はいよいよ本当に、その噂が真実に変わろうとしていた。

 隠居を申し出て周防冨田(=山口県周南市)に籠もった陶隆房は、
 富田若山城で挙兵のための軍備を整え始めたのである。


 そこには、かつて陶隆房とは犬猿の仲であった
 豊前国(=大分県北部)守護代の杉重矩の姿もあった。

 重矩にとっては、大内家中の混乱の原因を自分ひとりに
 押し付けた相良武任がどうしても許せないし、
 またそれを平然と了解する主君・大内義隆にも失望していた。

 大内義隆は陶隆房と相良武任に絶大な信頼を置いているから、
 家中の取りまとめのためには杉重矩を討つのが一番早い、
 という判断を下すのは目に見えている。

 かつては対立していた陶隆房に助力するしか、
 自分が生き延びる手はない。

 こうして、重臣の一人・杉重矩も叛意を大きく募らせていった。



 だが、そんな事態になっても、大内義隆は平然としていた。

 万が一、武断派筆頭の陶隆房が暴走したとしても、
 評定衆はその専横を許さない仕組みになっていると考えていた。
 
 つまり、陶隆房の好敵手として相良武任を置いているし、
 また陶氏以外の三家老に、杉氏、内藤氏が睨みを利かせ、
 また大内庶流の問田隆盛と、新参守護代の弘中隆包も
 評定衆の中にいるから、互いが牽制し合う仕組みである。

 この評定衆の機能は陶隆房も分かりきっていることだから、
 隆房も勝手に暴走はしないだろうと、信じていたのである。

 だから、危機感がない。


 三家老の一人である長門国守護代の内藤興盛は、
 その娘が大内義隆の側室に上がり、
 また嫡子隆時の娘、つまり孫娘が陶隆房に嫁いでいるので、
 陶隆房に対抗できると思われる唯一の宿老である。

 その内藤興盛も、もはや家中の揺れは陶隆房の私憤ではなく
 相良武任を平気で復職させる大内義隆にあると見て、

 「子の大内義尊(よしたけ)に家督を譲り、
  いったん隠居をして、混乱を収束させてはどうか」

 と義隆に進言した。

 しかし嫡子義尊はまだ七歳。義隆は興盛の進言を退けた。


 また、武断派と文治派の仲裁役にあった水軍の将・冷泉隆豊は、
 周防富田で軍備を整えているという陶隆房が
 いつ山口に攻め込んでくるか分からないので、
 機先を制して富田若山城を取り囲むべきだと何度も提案したが、
 これも義隆が「隆房を信じるべし」と取り合わない。


 かくして、大内義隆は山口を揺るがすこの一大事に、
 これまでと変わらず貴族の接待や芸能の宴にばかり注力し、
 何一つ有事への備えを成さなかったのである。



 天文二十年(1551)、八月二十八日の夜。


 周防山口の大内御殿の上空に、赤く光る大きな雲が巻き起こった。

 その赤雲の下、御殿に併設された築山館に、
 大内義隆直属の衛兵たちが続々と集まってきた。

 忠臣・冷泉判官隆豊が、義隆直属の諸将たちに呼びかけて、
 築山館にいる大内義隆を守るべく、軍勢を導き入れたのである。


 冷泉隆豊は闇夜に怪しく光る赤雲を見上げた。

 かつて、陶隆房による謀叛の噂が山口を駆け巡った時、
 弘中河内守方明と共に大内義隆の御前で見たのと同じ妖雲だ。


 「冷泉判官、これは何事じゃ」と慌てて出てきた大内義隆に、
 冷泉隆豊は膝をついて、

 「陶尾張守隆房、富田若山城にて挙兵致しました!
  陶軍は、富田からこの山口へ進軍しておりまする。
  我ら、一丸となってお屋形様をお守り致します」

 と伝えた。


 隆豊の報告に、大内義隆の顔は一気に青ざめた。

 陶隆房が謀叛。まさか――――。
 信じられない顔つきで、義隆は夜空を見上げた。

 龍にも鬼にも似た、赤光を放つ大きな雲がうごめいていた。
 一年前の、隆房謀叛の噂が脳裏をよぎる。

 今度は、隆房が富田若山城を出撃したのは事実である。

 さらに、その陶隆房と対立し睨みを利かせていたはずの
 豊前国守護代・杉重矩もその反乱軍に混じっているという。

 怒り心頭に達した猛将が、この山口に迫ってくる……。

 大内義隆は、震えながら膝から崩れ落ちた。



 「我らが運も、お屋形様の運も、天道の計らいである。
  大内の末永き繁栄のため、国政を正しつかまつる」

 陶隆房は、周防国近隣の国人領主たちの協力を取りつけ、
 世直しと称して、富田若山城から二軍を率いて進軍。

 一隊は東口から、一隊は南口から、山口の街へなだれ込んだ。

 そして小隊に別れ、大内義隆と相良武任に通じる者の邸宅を
 それぞれが襲っていく。

 雅な山口の街は、陶の軍勢の襲来で大混乱に陥った。



 その混乱の中、山口の街中の一寺に飛び込んだ武者がいた。

 黒い頭巾で頭部を覆い、防具を最小限にまとって体を軽くし、
 両手に槍を持ったまま堂内に走りこんで来た。


 「周良殿っ。策彦周良殿はおられぬかっ…!」
 
 黒頭巾のその男は、一人の僧の名を叫んで探し回る。

 顔を隠したその武者の正体は、弘中河内守方明であった。
 方明は、陶軍の襲来に荒れる山口の街の中にいたのである。
 

 勘合貿易の使節として遣明船にて日明を行き来した
 臨済宗の僧・策彦周良は、どうやらこの寺にはいないようだ。

 方明は、奥の壁を見た。

 以前、ここで策彦周良に面会した時には、この壁には
 「秋景冬景山水図」という二枚の水墨画が掛かっていたはずだが、
 その画は二枚ともそこから消えていた。

 どうも、数日以上は空けている様子である。


 そうか…。

 あの時、兄の弘中隆包が策彦周良に渡した書状には恐らく、
 山口の街に近く大混乱が起こるから身を隠すようにと、
 助言をしていたに違いない。

 周良法師は文の内容に「あい分かった」と言った。
 きっと隆包の提案を受けて、壁に掛かった逸品を持って、
 どこか京あたりに旅立ったのであろう。

 きっと、策彦周良は無事である。



 方明が安堵の息をもらしたその瞬間。

 入口のふすまが蹴破られて、数人の武士が上がりこんできた。
 その先頭にいる大男が大股で歩み寄りながら言う。

 「貴様、誰だ?」


 そう言った巨体の男は、大内家中でも随一の猛将として知られる、
 陶隆房の家臣・江良丹後守房栄であった。

 (江良丹後か…。まずいなー)

 弘中方明は黒頭巾に手を当てて、さらに深く顔を隠した。


 寺社の中にまで、陶軍はなだれ込んでくる。

 大内義隆は、以前から山口領内の寺社に多額の寄進をしていた。
 そのため陶隆房は、山口の神社や寺院も、
 大内義隆の息のかかる者として、各小隊に襲撃を命じていたのである。

 江良房栄の一隊は、大内義隆が策彦周良が与えたこの寺院も
 義隆派と見て襲いに来たというわけである。


 方明の心臓が、大きく鳴った。

 方明はおろか、大内家臣の中にも恐らく勝てる者は一人もいない。
 一年前に首を締め上げられたところを陶隆房に助けられたが、
 その旧知の隆房は今はここにはいない。



 歩みを進めてきた江良房栄は、突然に豪声を轟かせて、
 常人ならば両手でしか持ち上げられそうにない大太刀を
 右手だけで振り上げながら、目の前の黒頭巾の武者に突進した。

 その巨体からは考えられぬ速度で迫ってきた江良房栄が、
 頭上から大刀を豪快に振り下ろす。

 完全に踏み込みに遅れた方明は、とっさに槍を構えるが、
 剛力を正面に受けられず、その大刀筋を右へと受け流した。 

 空を流れた江良房栄の大太刀は、素早くその刀身をひねって、
 方明の身体をえぐるかのように突き出されてきた。

 後方に跳躍して、間一髪でその刀先から逃れる方明。
 「……!」

 その背に壁を感じた。


 江良房栄は血走った目で、壁を背にする相手を見下ろしながら、
 さらに大太刀を素早く振り下ろした。

 轟音がうなる。

 荒れ狂う猛将を前に、
 弘中方明は絶体絶命の危機に追い詰められていた――――。



 (つづく)



 ――――――――――――――――
  『厳島戦記』武将列伝 [十七]
 ――――――――――――――――

 ■杉重矩 (すぎしげのり)

 大内家家臣。豊後国(大分県北部)守護代として北九州の支配に従事
 する。杉氏に並んで三家老に挙がる周防国守護代の陶隆房を長らく
 敵視していたが、相良武任ら文治派の台頭によって隆房派に歩み寄る。
 周防山口の大政変の後に、隆房主導の政治の犠牲者になってゆく。
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