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Timestageのメンバーが、歴史にまつわる雑談を気まぐれに語っていくブログ。
厳島戦記(二十三) 山田事件の巻


―――――――――――――――――――――――――――――――――
 厳島戦記(二十三) 山田事件の巻
―――――――――――――――――――――――――――――――――
                       第五部「防芸謀略戦」





 筑前国田島(=福岡県宗像市)に所在する
 宗像大社(むなかたたいしゃ)は、
 全国の宗像神社の総本社である。

 玄界灘に浮かぶ沖ノ島にある沖津宮には田心姫神、
 大島にある中津宮には湍津姫神、
 そして九州本土にある辺津宮には市杵島姫神が祀られていて、
 その三宮を総称して宗像大社と呼ぶ。


 神話の時代から存在すると言われる長き由緒ある神宮であり、
 宗像家が代々、その大宮司職を継承していた。

 宗像家は筑前に大きな軍事力を持っていたため、
 筑前を支配する周防(=山口県)の大内家の貴重戦力でもあった。

 その名門宗像家では近年、激しい相続争いが起こっていた。



 第七十五代大宮司を務めていた宗像興氏には、二人の息子がいた。
 長男は宗像正氏(むなかたまさうじ)、
 次男は宗像氏続(うじつぐ)という。

 長男の正氏が第七十六代の大宮司職を継いだのだが、
 正氏の軍才を見抜いた大内義隆は、正氏を周防山口に迎え入れた。

 山口の黒川郷を所領に与えられていたため、
 宗像正氏は山口出仕中は「黒川隆尚」と名乗っていた。

 軍人として山口に駐在していた黒川隆尚こと宗像正氏は、
 宗像大社大宮司の職を、弟の氏続に譲ることにした。
 
 ところが、凡庸な氏続には第七十七代大宮司の任は重すぎたようで、
 宗像正氏は再び大宮司職に戻り、第七十八代を名乗った。

 宗像正氏には山田局(やまだのつぼね)と呼ばれる正室がいたが、
 正氏と山田局の間には、菊姫という女児が産まれているものの、
 残念ながら後継者たる男児には恵まれなかった。

 そこで宗像正氏は、
 弟氏続の長男・氏雄(うじお)が成長した後に職を譲るつもりで、
 それまでのつなぎとして大宮司職を続けたのである。

 甥の氏雄がついに元服を果たした時、
 正氏と山田局は一人娘の菊姫を氏雄に嫁がせることにより、
 宗像氏雄が第七十九代の大宮司の職を継いだ。



 ところが、安泰かと思われた宗像氏にとって大事件が起こる。


 無事に相続が終わり安心したのか、宗像正氏は山口で亡くなった。

 そのため宗像大社の大宮司職に就いたばかりの宗像氏雄は、
 伯父の正氏の後任として、山口に出仕して黒川郷の地を受け継ぎ、
 「黒川隆像」と名乗って大内義隆に仕えた。

 氏雄がちょうど周防山口に滞在していた天文二十年(1551)九月、 
 大内家家老の陶晴賢が山口に攻め込んで政変を起こした。
 いわゆる「大寧寺の変」である。

 黒川隆像こと宗像氏雄は、主君の大内義隆に最後まで付き従い、
 義隆を守りながら、長門の大寧寺で戦死した。

 政変で若き当主を失った宗像氏に突然、
 後継者問題が浮上したのであった。



 宗像氏雄には、千代松丸(ちよまつまる)という弟がいた。

 まだ存命の父である宗像氏続をはじめとして、
 先主の正室山田局や氏尾の正室菊姫らも、
 当然のごとくこの千代松丸に家督を譲る準備を進めていた。

 ところが、先主の宗像正氏は、
 周防山口に赴任している時に、照葉の方という側室を迎えており、
 鍋寿丸(なべじゅまる)という男児を儲けていた。

 この照葉の方が陶晴賢の姪という関係もあり、
 大内家筆頭家老の陶晴賢は
 この鍋寿丸を宗像家の新当主にと推し進めてきたのである。

 筑前の宗像家中からすれば、確かに先代の子とはいっても、
 側室が産んだ庶子であり、しかも山口生まれ山口育ちで
 一度も宗像の地を踏んだことがないような余所者が
 当主になるなど、到底受け入れられない。
 

 陶晴賢に同調する家臣たちは、
 山口からのお達しのとおりに鍋寿丸を主と仰ぎ、
 白山にある宗像氏の本城・白山城に鍋寿丸を迎え入れた。

 しかし反対派の古参の家臣たちは、千代松丸を主として、
 城山にある支城・蔦ヶ嶽城に立て籠もって対抗する。

 宗像の地で、白山城の鍋寿丸派と城山蔦ヶ嶽城の千代松丸派が
 宗像大社大宮司職の相続をめぐって激しく衝突を始めた。


 この事態の収拾のため、周防の大内義長は陶晴賢の推薦を受け、
 白崎八幡宮の大宮司職でもある部将・弘中三河守隆包を
 宗像へと送り込んだのであった。



 弘中隆包が関門海峡を渡って白山城へと入った時には、
 勝敗はほぼ決していた。

 蔦ヶ嶽城の一派に推された千代松丸と、その父である宗像氏続は、
 宗像領内における鍋寿丸派との激戦で命を失っていたのである。

 蔦ヶ嶽城内の連中は当主候補とその後見人を失ったものの、
 まだ山田局と菊姫が存命であるからと、
 彼女らを主と見立て、頑として立て籠もり抵抗を続けていた。

 このまま紛争が泥沼化しても、国力が衰えるばかりである。

 弘中隆包はこの争いの仲裁に入り、停戦を説得するべく、
 蔦ヶ嶽城から山田局と菊姫を白山城へ呼び寄せた。

 先主の宗像正氏は周防山口で弘中隆包と親交が篤かったので、
 山田局と菊姫は「弘中隆包の手引きならば」と、白山城へ参上した。


 弘中隆包が二人を迎え入れた応接の間には、
 白山城一派が推す宗像鍋寿丸と、その妹の色姫が同席していた。

 宗像正氏の正室であった山田局は、その自尊心から、
 山口から湧いて出た二人の庶子を見て苦々しく思っていた。

 弘中隆包は、切歯扼腕する山田局に懇々と停戦の利を説いた。


 「氏続殿も千代松殿も戦死された今、もはや勝負はついている。
  このまま宗像一族同士で斬り合っても、何の利もない。
  庶子を当主とするのは、山田の奥方には悔しい想いもあろうが、
  鍋寿丸殿には何の罪もない。分かってもらえないか」

 「しかし弘中様、この菊姫があまりに不憫ではありませんか…。
  菊姫はまだ齢十八なのに、未亡人になってしまって……」


 山田局はおいおいと涙を流し、言葉を詰まらせる。

 恐らく山田局は、娘がせっかく当主の妻となったのだから、
 宗像氏雄の弟である千代松丸を当主に据えて、
 千代松丸と再婚させてその地位を保つつもりだったのだろう。
 菊姫にとっては異母弟にあたる鍋寿丸には、その可能性はない。

 当の菊姫は、それほど気にはかけていなかった。
 一人で号泣する山田局をいたわって背中をさすったりしている。

 弘中隆包は優しく声をかける。


 「それが武家の世の習いなのだ、山田の御方殿。
  武家は常に死と隣り合わせにある」

 「……」

 「私も、先主大内義隆公が亡くなられた時、悲しみに暮れた。
  しかし、死を嘆いているだけでは何も前に進まない。
  大内家は、豊後大友家から義長様を新しい当主として迎えた。
  大内家の将来のために、新しき当主の下で働いている」

 「……」

 「永き家名を想えば、一人一代の想いなど儚いものです。
  正氏殿や氏雄殿らの意志を継げるのは、今や鍋寿丸殿しかいない。
  宗像家の将来を思うならば、ここは家のために身を退くべきだ」

 「……」


 「私は、弘中様に従いとうございます。
  鍋寿丸様は、私にとっても大切な弟。継承に依存はありません」


 進み出たのは、菊姫だった。

 「何を言うの、お菊!」と泣き叫ぶ山田局の横で、
 菊姫は両手をついて、穏やかな表情で弘中隆包に言った。


 「これからは、亡き夫の霊を弔いながら、
  宗像家の行く末を祈願して生きてまいりまする」

 「お菊殿…」


 菊姫は深く頭を下げた。
 若くして未亡人となった美しき姫君は、自らの運命を受け入れた。

 弘中隆包の言葉を聞いて、自分にできることは何かと考えた時、
 家中が収まるには自分が潔く退くのが最善であると解ったのである。

 菊姫は、母の山田局の故郷である、
 白山城の麓にある山田荘にて余生を送ることを決めた。

 家名を想う若き菊姫の聡明な判断に、弘中隆包は大きく感謝した。



 弘中隆包は弟の弘中河内守方明に命じて、
 菊姫と山田局とその侍女たちを山田荘まで送らせた。

 鍋寿丸の側近である重臣・石松但馬守が
 「まだ領内は不穏で何が起こるか分からないから」と言って、
 野中勘解由、嶺玄蕃ら家臣を数名、弘中方明の護衛につけた。

 菊姫と山田局は、弘中方明や宗像家家臣たちに守られながら、
 数台の荷車を従えて白山城を後にした。


 山田荘は、寂しげな山里であった。

 生家に到着した山田局は、部屋に籠もってすぐに泣き崩れる。

 それに対して、菊姫は凛然とした態度で侍女たちを取り仕切り、
 邸宅の中に荷物を運び入れるのを指揮した。
 方明や供の者たちも手を貸す。
 
 一通り落ち着くと、菊姫は応接の間に弘中方明らを招き入れた。


 「河内守様。何から何まで、ありがとうございます」

 「いや、礼には及びません」

 「今宵は、月がきれいですね」


 菊姫は、縁側から見える空に浮かぶ月に目をやった。

 白山城から気丈に振る舞っていた菊姫が、
 月を見るなり肩の力を落とし、寂しげな目になるのを、
 方明は見逃さなかった。

 力のない声が、菊姫から漏れる。


 「夫は、立派に武名を残せたのでしょうか……」


 手の届かぬ場所へ行ってしまった夫・宗像氏雄の姿が、
 遠くに輝く月に重なったのかもしれない。


 寂しげな菊姫を見て、弘中方明は一冊の古い経典を取り出した。
 その表紙には、血で一句がつづられている。


 「これは……?」

 「私の師でもある、大内水軍の冷泉隆豊殿が書き残したものです。
  冷泉殿は主君大内義隆公に忠義を尽くして最後までつき従い、
  この血の句を残して、大寧寺にて戦死しました」

 「まあ……」

 「宗像氏雄殿も最後まで義隆公を見捨てず、冷泉隆豊殿と共に
  大寧寺で反乱軍を相手に壮絶な立ち回りを演じたそうです。
  次々と主君を捨てる家臣が多かった中、
  氏雄殿は武士として立派な最期を遂げられたのです」

 「……」


 菊姫の美しい瞳から、涙がこぼれ落ちた。


 家中の者は、大宮司職の相続問題にばかり気を取られて、
 周防山口で死した当主の死に様など気にもかけてくれなかった。

 だがこうして、夫の最期を初めて詳しく伝え聞くことができ、
 夫が勇ましく生きた証を見つけることができた。

 冷泉隆豊の血塗られた辞世の句を見れば、
 宗像氏雄の戦死がいかに凄絶であったかは容易に想像がつく。

 母が横で悲しみに暮れようとも全く涙一つ見せなかった菊姫が、
 夫の死を改めて振り返り、はらはらと涙を流している。


 つらいのは、これからかもしれない。
 まだ若い姫君には、これからも強く生きて欲しい。

 そう思った弘中方明が、
 涙で頬を濡らす菊姫に声をかけようとした、
 その時―――――。



 弘中方明は鋭い殺気を感じて、
 腰の帯刀に手を伸ばしながら、素早く振り向いた。

 しかし、その殺気は弘中方明の横を素通りする。

 「……!」
 方明は不測の事態に、目を見開いた。

 護衛として控えていた宗像家家臣、野中勘解由が、
 太刀を振り上げて菊姫に斬りかかったのである。

 野中勘解由の凶刃が、菊姫の左肩から右脇を一直線に斬りつける。
 菊姫は涙と共に血飛沫を上げながら、床に倒れた。

 野中はさらに力を込めて、その菊姫の身体に太刀を突き下ろす。
 ザクリという鈍い音が刃先から漏れる。


 「野中っ―――――!」

 弘中方明は、刃先を引き抜いてさらに一撃を加えようとする
 野中勘解由の腕を掴み取ったが、
 無常にもその刀は菊姫の身体を貫通した。

 弘中方明が強引に胸ぐらをつかむと、
 ようやく野中勘解由はその動きを止めた。

 しかし、凶刃を浴びた菊姫はそのまま動かなくなった。


 「野中…! 何ということを―――――!」

 「この女、河内守殿に懐剣で斬りかかる素振りを見せたゆえ、
  その前に河内守殿をお守りしたのでござる」

 「どこにそんな素振りがあった!」


 弘中方明は野中勘解由の襟ををつかみ上げて怒鳴ったが、
 「あっ」と何かに気がついたような声を上げると、
 野中勘解由を床に投げ飛ばして、奥の部屋へと駆けた。


 時は既に遅かった。

 そこには、血を刀から滴らせて立っている嶺玄蕃の姿があった。

 そしてその足下の血だまりの中には、
 山田局と四人の侍女の無惨な屍体が転がっていた。


 血の臭いに満ちた異様な光景に、弘中方明は息を飲む。

 「謀叛の気配があったゆえ、成敗致しました」と、
 悪気もなく言いながら刀を仕舞う嶺玄蕃。

 怒りが止めどなく湧き上がってきた弘中方明は、
 走りこんで嶺玄蕃の横っ面を拳で殴りつけた。

 その勢いで嶺玄蕃は吹っ飛んで、音を立てて血の池の中に倒れた。


 「おまえら……。誰の指図だ。誰の差し金でこんなことを」


 弘中方明は拳を握り締めた。
 怒りに震えが止まらない。

 だが、野中勘解由も嶺玄蕃も、
 「反抗の意志が見えたゆえ」
 「斬らねば、弘中河内守殿が斬られていたゆえ」
 と繰り返すばかりである。

 どちらも宗像家の家臣であり、弘中方明に制裁の権限はない。

 菊姫や山田局が弘中方明らを殺そうと企てた証拠はないが、
 かといって殺そうという意志がなかったという証拠もない。

 やり場のない怒りに、弘中方明は大きく吼えた。

 その響きを受けてか、
 月の光を映して光る侍女たちの血の海が、虚しく揺れた。



 歴史ある宗像大社大宮司の相続問題を背景に、
 無抵抗の女性六名が虐殺されたこの騒動は、
 血塗られた戦国の歴史の中でも指折りの惨劇と言われ、
 舞台となった山田の里の名を取って「山田事件」と呼ばれる。

 天文二十一年(1552)三月二十三日のことであった。


 この事件の後、菊姫たち六女を祀った山田地蔵尊増福寺周辺では
 怨霊騒ぎが度重なり、宗像家中を脅かしていく。

 この話は「菊姫伝説」として、後の世まで永く伝わることになる。



 この山田事件の真の黒幕は、誰か――――。


 血潮に染まる惨劇を目の当たりにした弘中河内守方明は、
 しばらくはその惨事を止められなかった自分を責めていたが、
 やがてその黒幕の名を知る。

 そして、気難しい部将の揃う大内家中において
 明朗快活な性格が知られていた弘中方明は、
 その時からまるで別人のように豹変していくのであった――――。
 


 (つづく)



 ――――――――――――――――――
  『厳島戦記』武将列伝 [二十三]
 ――――――――――――――――――

 ■宗像氏貞 (むなかたうじさだ)

 筑前宗像(=福岡県宗像市)の宗像大社の第八十代大宮司職。
 周防大内氏の傘下にあった第七十七代宗像正氏の庶子であるが、
 鍋寿丸の名であった七歳の時、家督継承を巡る「山田事件」を経て
 大宮司職と宗像家当主を継ぐ。後に立花家と激闘を繰り広げる。


 ▽『厳島戦記』のご意見やご感想などは
  筆者までお送り下さいませ。→ hironaka@m-c-ken.net

| 『厳島戦記』 | 19:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(二十二) 関門海峡の巻


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 厳島戦記(二十二) 関門海峡の巻
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                       第五部「防芸謀略戦」




 「先主義隆公の政治は何ゆえ脆かったか、お分かりですか」

 「そうだのう…」


 主従の問答は長い時間に及んでいた。


 大内家の筆頭家老として軍事を支えてきた陶尾張守隆房は、
 新たな主君を仰いだことで、名を「陶晴賢」と改めた。

 またその新たな主君として迎え入れられた大友晴英は、
 大内家の当主となると同時に、名を「大内義長」と変えた。

 大内義長は、伝統ある大内家を継ぐことに大きな責任を感じ、
 国政について理解を深めたいと、大いに意気込んでいた。

 二十歳を前にしてまだ執政や戦争の経験のない自分にとって、
 今の自分と同じ年齢の頃から大内軍を率いていた陶晴賢は、
 絶好の人生の教師とも言える。

 大内義長は時間の許す限り、
 陶晴賢から大内家のことについて学びたいと求め、
 また陶晴賢もできる限りその求めに応えていた。


 晴賢の質問への答えが浮かんだ大内義長は、
 自信のある面持ちで回答する。


 「奉行人の相良武任ばかりを重用したからではないか」

 「半分は正解です」

 「半分。奉行人を重んじるのは、別に問題ではないと」

 「そのとおり。奉行人という職も国政には重要な役割ですから、
  奉行人を取り立てること自体は悪いことではないのです」

 「そうだな。では、なぜなのだ、晴賢」

 「戦の経験が全くなかった相良武任に、
  軍事のことにも口出しをさせたということです」

 「……なるほど」

 「大内の評定衆の仕組みは、武官と文官の絶妙な均衡あってこそ。
  しかし義隆公は、武官が一番精通している戦ごとについて、
  戦の分からない相良の意見を最も汲み取っていらっしゃった。
  このようなことは、武家にとっては致命的なことなのです」


 陶晴賢は、政治を正すために大内義隆を追い詰めた張本人である。
 そこで、義長には義隆時代の政治の欠点を学んでもらい、
 それを改善した新しい政治を進めてほしいと願っていた。

 悲しい終焉を迎えた叔父義隆公の轍を踏まぬようにと、
 義長は陶晴賢に次々と質問を投げかけ、真剣に耳を傾ける。


 「では晴賢、評定衆はどうすればよく機能するのか」

 「最良なのは、文の分かる武官と武の分かる文官がいることです。
  互いのことが分かる者がそれぞれの上に立っていれば、
  それぞれの力を組み合い、そして補い合っていけます」

 「うん」

 「大内の武官は、私や内藤興盛殿など行政の分かる者が多かった。
  そもそも自分の領地を治めているという経験があるからです。
  しかし、文官には戦の分かる者がほとんどおりませんでした」

 「ならば、武官の筆頭はこれまでどおり晴賢に働いてもらうとして、
  文官の筆頭を任せられる人間が家中におらぬと」

 「御意。そこで、最適な者を考えましてございます」


 陶晴賢は、用意していた紙を机上に広げた。
 そこには晴賢が考え抜いた、
 新しい評定衆の組織図が綿密に描かれていた――――。



 大内御殿の拝謁の間にて、大きな声が響く。


 「私を奉行人筆頭に…、ですか」


 その声の主は、安芸国守護代、弘中三河守隆包だった。

 「そのとおりだ」と、上座の大内義長は大きくうなずいた。
 その横に控える陶晴賢も、期待の目を注ぐ。

 戸惑っている弘中隆包に、大内義長は熱く言葉を投げかける。


 「これからの大内家を強く支える評定衆を作るためには、
  文官の筆頭も戦が分かる人間でなければならないと思う。
  そこで、晴賢のたっての希望で、隆包に任せたいのだ」

 「しかし」

 「不服かのう」

 「いえ。ただ、私は戦しか分からない根っからの武士です」

 「いや、おぬしが義隆公から安芸国守護代に任じられてより、
  難攻不落の備後神辺城を落として尼子の脅威を防いだだけでなく、
  安芸の経済を豊かにし人心をまとめたことは、よく知っておる。
  所領の富国も強兵も成し得てきたおぬしに、内政を任せたい」


 大内義長は立ち上がると弘中隆包に歩み寄り、
 膝を落として目線を合わせた。


 「もはや、文と武が反発し合うような時代ではない。
  隆包は文の筆頭として、晴賢は武の筆頭として、
  共に力を合わせ補い合いながら、わしを支えてはくれまいか」

 「……はっ」


 弘中隆包はかしこまった。


 (動くのだ――――)
 内藤興盛が語った言葉が、隆包の脳裏をよぎる。

 考える前に動かねば、事態は深刻になっていくのではないか。
 自分が動かねば、他に誰が動けるというのか。

 大寧寺の変で、相良武任をはじめ多数の家臣が討たれ、
 大内家中は行政担当者の不足が問題になっていた。

 先主義隆公の政治に終止符が打たれたのは、
 文官筆頭の相良武任と武官筆頭の陶晴賢の確執に他ならない。

 その二の舞にならぬためには、相良武任に変わる自分が、
 陶晴賢と協調しながら政治を進めていくしかない。

 自分ならばできる。いや、やるしかない――――。


 弘中隆包は、奉行人筆頭の職を奉じた。

 文官たちの頭領として評定衆に参加すると共に、
 武官たちの軍事を支援する立場となったのである。



 大内義長は、これまでしばらくは陶晴賢と密議を行っていたが、
 すぐに博識の弘中隆包をその場に加えるようになった。

 正確に言えば、陶晴賢と弘中隆包の謀議を見学し、
 その決定に承認を出すという形であったが、
 大内義長にとってはそれがとても勉強になった。


 大内の政治は家臣団が集まる評定衆によって動かされるが、
 陶晴賢と弘中隆包の二頭会議でまず決められたことは、
 その評定衆自体の改編であった。

 何より、評定衆の中に加わる武官たちの選任である。

 これまでは各国の守護代たちが評定衆に参加していたが、
 大寧寺の変によって、杉興運や杉重矩などはこの世にはいないし、
 内藤興盛は引退、弘中隆包は奉行職へと移っている。

 そこで、陶晴賢は戦に長けた武人たちを次々と評定衆に加えた。

 特に、江良房栄、三浦房清、宮川房長、白井賢胤など
 陶晴賢の直臣である周防国の部将たちの登用が目立った。

 彼らは大内からすると陪臣に過ぎないのだが、
 冷泉隆豊などの有能な武将を事変で失い人材不足の今、
 当分は致し方のないことだと、弘中隆包も承認した。


 評定衆の構成が決まり、陶晴賢と弘中隆包の次の議題は、
 反乱の想定とその対策だった。

 陶晴賢は、弘中隆包に意見を求める。


 「次に戦の問題が出てくるとしたら、どこであろう」

 「吉見正頼殿でしょう」

 「やはり。わしもそう思う」


 弘中隆包の口から、石見国(=島根県西部)の
 津和野三本松城城主、吉見正頼(よしみまさより)の名が出た。

 それは、陶晴賢も最も警戒している人物であった。


 石見国では古来より、益田(=島根県益田市)の益田氏一族と
 津和野の吉見氏一族による所領を巡る紛争が絶えなかった。
 
 益田氏も吉見氏も共に大内氏の傘下にある国人領主であるが、
 その対立の激しさゆえに、石見国守護代の問田隆盛も手が出せず、
 守護代の威勢は石見では全く効力を持たなかったという。

 
 先主大内義隆公は吉見家当主である吉見正頼の実直な人柄を好み、
 自分の姉を正室とすることを許した。

 つまり吉見正頼は義隆の姉婿となり、義理の兄となった。

 そのため、吉見正頼が大恩ある大内義隆を追い詰めた陶晴賢たちに
 大きな反感を抱いていることは容易に想像がつく。

 さらには、陶晴賢は吉見氏の好敵手の益田氏と婚姻関係にあり、
 吉見正頼にとっては陶晴賢も相容れぬ仇敵である。

 大寧寺の変の時、吉見正頼は益田氏の侵攻を受けて動けず、
 義弟大内義隆の命を救うことができなかったが、
 いずれ機が熟せば陶晴賢に対して叛旗を翻すに違いない。



 弘中隆包が吉見正頼の動きにも気を配っているのを確認すると、
 陶隆房は弘中隆包に頼み事をした。


 「弘中殿。おぬしにはすぐ、宗像(むなかた)に行ってもらいたい」

 「えっ。宗像へ」

 「さよう。緊急を要するのだ」


 宗像とは、大内氏の支配下にある筑前国(=福岡県北部)にあり、
 宗像大社という総本社がある地(=福岡県宗像市)である。

 石見の話から突然、逆の方向の九州の話が出てきたので、
 弘中隆包は戸惑ってしまった。


 筑前宗像は、長らく大内傘下の宗像氏が支配していた。

 六百年余にわたり宗像大社の大宮司を務めてきた宗像氏一族は、
 強力な水軍を要し、九州方面の大内軍の主力でもある。

 ところが宗像氏は、先日の大寧寺の変の混乱で当主を失い、
 家中で大きな相続紛争が起こっていた。
 宗像氏の騒動が泥沼化すると、九州方面の地盤が危うくなる。

 そこで、同じく治領に水軍を有し、白崎八幡宮の大宮司を務めている
 弘中隆包が適任であろうと、陶晴賢は指名したのである。

 隆包は困惑気味に答える。


 「私は安芸国守護代としてこれまで東方の任にあったゆえ、
  真逆の方角の九州のこととなると、いささか戸惑います」

 「それは察するが、これまで九州の大内領を統治してきた
  杉興運も杉重矩も既にこの世にはおらぬから、
  収拾をつけられる者が他に見当たらないのだ」

 「確かに」

 「北九州がこれ以上混乱に陥ると、お屋形様のご実家である
  豊後(=大分県南部)の大友家にもご迷惑がかかろう」

 「しかし、石見の吉見正頼殿の件は」

 「吉見とは、おぬしも戦いづらかろうと思ってな」


 津和野三本松城の吉見正頼には、
 弘中隆包の叔父である弘中兵部丞頼之が側近として仕えている。

 吉見正頼との対決が必至と思われる今、
 一族の弘中頼之と矛を交えるのはためらいもあるに違いない。

 陶晴賢はそのことに気を遣って、
 弘中隆包を西方の九州へと向けさせたのである。


 「頼之殿は吉見家中において熟練の猛者。必ず前線に出てこよう。
  いかに智勇に優れたおぬしでも、一族を相手に本気は出せまい」

 「お気遣い痛み入ります。そういうことならばこの隆包、
  すぐに宗像に向かい、一刻も早く事態を収めてまいります―――」



 関門海峡。

 赤間関(=山口県下関市)と門司関(=福岡県北九州市)の間にあり、
 本州と九州を隔てる、海運の要衝である細い海峡である。
 その特殊な地形による潮流の激しさは遠く海外にも知れ渡っている。

 弘中隆包と弘中方明の兄弟は、関門海峡を通過する船上にいた。


 強い潮風を頬に受けながら、
 眼前に広がる九州の地を眺めて、弘中隆包は感慨に耽っていた。
 
 思えばこれまで、出雲国の月山富田城(=島根県安来市)や
 備後国の神辺城(=広島県福山市)など遠地に転戦してきたが、
 どれも山口からは東方であり、西の九州を見るのは初めてである。


 船首に向かって右手の方角の岸は、長門国の赤間関。
 左手の方角の岸は豊前国の門司関である。

 門司側からは大きな岬が突き出し、その山上に門司城がある。
 その奥に見える三角形の独特の山はその名も三角山といい、
 その山頂には門司城の支城・三角山城が置かれている。

 三角山の背後には風師(かざし)連山が広がっている。
 関門海峡に吹き荒れる潮風の源流となっている山だと
 古来より思われ、その名がついたのであろう。


 この関門海峡の東口は以前より「壇ノ浦」と呼ばれ、
 かつて源頼朝は平氏をこの壇ノ浦にまで追い詰めて討滅し、
 武家の統領である征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。

 また、足利尊氏は政争に敗れて九州へと没落した時に、
 宗像大社の支援を受けて勢力を盛り返し、
 門司関の甲宗八幡神社で戦勝を祈願して関門海峡を渡った後、
 上洛して京の都を制圧し、室町幕府を開いた。

 源頼朝や足利尊氏と同じく清和源氏を源流に持つ弘中隆包にとって、
 関門海峡はとても心に深く染み入るものがあった。


 一方、同じく弘中の血統にありながら、
 弟の弘中方明は不満気な顔で溜め息をつき、ふて腐れている。


 その理由は、弘中家の持つ岩国(=山口県岩国市)の水軍が、
 大内本隊に接収されてしまったことである。

 弘中方明は、かつて冷泉隆豊に水軍の兵法を学んだ。
 そして安芸国守護代に任じられ所領岩国を留守にすることの多い
 兄の隆包に代わり、弘中水軍を統率していた。
 備後神辺城の攻略にも、方明率いる水軍は大きな役割を果たした。

 しかし、この度弘中隆包が文官筆頭の奉行人に就任し、
 またこれまでの東方経略から変わり九州の鎮定に向かうことに際し、
 陶晴賢は、瀬戸内での反乱が起きないようにするために、
 岩国の弘中水軍を大内本隊の預かりにしたいと言ってきた。

 弘中隆包は大内のためになるならばと喜んで差し出したのだが、
 方明はその水軍をこれまでどおり自分が指揮すると予想していた。

 ところが、新しい君主の大内義長は陶晴賢からの提言を聞き入れ、
 弘中方明を兄の補佐として筑前宗像の鎮定へと回した。

 大寧寺の変までは名将・冷泉隆豊が大内本隊の水軍を指揮していたが、
 冷泉隆豊亡き今、誰がその大内水軍を指揮するのかと問うと、
 陶軍の水軍担当であった白井賢胤(しらいかたたね)だという。

 水軍の扱いでは自分よりも明らかに格下だと思える白井賢胤に、
 自分の育ててきた弘中水軍の指揮を任せるというのが、
 弘中方明にとってはどうしても納得がいかなかったのである。



 「まあ、いつまでも不満に浸っていても仕方あるまい。
  考えるより動け、だ」


 弘中隆包は、ふくれ面で海を見る弟の肩をパシリと叩いた。

 その言葉を聞いて、方明は思わず噴き出した。

 つい先日まで、その弘中隆包こそ邸内に塞ぎこんでいて、
 内藤興盛から同じようなことを言われていたからだ。
 


 弘中隆包の視線は、再び九州の大地を向いていた。


 石見の吉見正頼の叛乱の心配もあり、
 また出雲の尼子晴久の侵攻もまだ予断を許さない。

 早く宗像の騒乱を収めて、すぐに周防に戻らねばならぬ。
 自分の動きの遅れが、大内に危機を招くかもしれない。

 大内のために、動く。

 弘中隆包の眼に、迷いはなかった―――――。



 (つづく)



 ―――――――――――――――――
  『厳島戦記』武将列伝 [二十二]
 ―――――――――――――――――

 ■吉見正頼 (よしみまさより)

 大内家傘下の国人領主。石見国の津和野三本松城(=島根県津和野町)
 城主。正室は大内義隆の姉。石見益田氏と紛争が絶えなかったが、
 その益田氏と縁戚関係にある陶晴賢が義弟の大内義隆を討ったことで
 陶晴賢に対して挙兵し、三本松城にて大内本軍との激闘を迎える。
| 『厳島戦記』 | 14:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(二十一) 義長擁立の巻


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 厳島戦記(二十一) 義長擁立の巻
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                       第五部「防芸謀略戦」




 弘中河内守方明は、困り果てていた。

 いわゆる「大寧寺の変」が起こり、
 大内家中が上を下への大騒動となっているのに、
 安芸国(広島県西部)守護代の重責にある兄の弘中隆包が、
 山口の邸宅に引き篭もって動かなくなってしまったからである。


 尼子軍の襲来に備えてきた安芸の前線を離れて、
 主君義隆公を追い詰めた陶隆房に義を問うため山口へ戻ったが、
 義隆公のみならず後継者の義尊公も殺害されていたことを知り、
 強烈な衝撃を受けて、その日から瞑想に耽り始めたのである。

 方明が困惑したのは、そのような弱い兄の姿を見たのが
 生まれて初めてだということだった。

 常に先を読み、風のような行動を見せ、その名の知れた勇将が、
 まるで蝉の抜け殻のように気概を失って一室に籠もっている。


 義隆公父子の命を守れなかった責任を感じているのだろうが、
 いくら義に篤い家臣とはいえ、このままでいいのだろうか。
 
 主君を失った悲しみは分かるが、
 当の陶隆房は、事態の収拾のために動き出している。

 陶隆房は筆頭家老ではあるが、その独断の動きを
 見逃してしていたままでは、大内の将来はどうなるのか。

 そういう焦りが募ってきた弘中方明は、
 弘中隆包の心を取り戻そうと、ある人物を頼ることにした。 



 翌日、ある人物が弘中邸を訪れた。

 長門国(山口県西部)守護代、内藤興盛である。


 内藤興盛は、大内家中でも重鎮中の重鎮である宿老で、
 評定衆の守護代たちの中でも最年長の古参である。

 だが、再三にわたる諫言を大内義隆が聞き入れなかったため、
 義隆が陶隆房に追い詰められた時にも静観を決め込み、
 その責任を取る形で先日、
 老齢を理由に隠居を宣言したばかりであった。


 国政には二度と関わらないつもりでの引退であったが、
 弘中隆包の様子を深く心配した実弟の弘中方明が、
 どうか力になってほしいと、興盛を頼ってきた。

 弘中隆包の智勇は今後の大内家の運命を左右するであろうし、
 また弘中方明には、山口での混乱の際に
 フランシスコ=ザビエルを擁護してもらった恩義もある。

 内藤興盛は、最後の仕事だと腰を上げたのであった。



 弘中隆包は義隆父子の死を知って以来、全ての来客を断り、
 また方明ら周囲の人間の言にも全く耳を傾けなかった。
 陶隆房からの使者の面会も全て断っていたほどである。

 しかし、「内藤興盛様がお越しになりましたぞ」
 という方明の報告には、驚いてすぐに振り返った。

 宿老内藤興盛の直々の訪問とあっては、無視するわけにはいかない。


 応接の間に興盛を通し、隆包は下座に控えて深く頭を下げた。

 方明も、部屋の端に小さく座った。 



 「家督を譲ることになってのう」

 と言いながら、興盛はゆっくりと上座に腰を下ろす。

 内藤興盛は隠居したが、嫡子・内藤隆時は早世していたので、
 孫の内藤隆世(ないとうたかよ)に、内藤家の家督を継がせた。

 隆包はそのことを既に知っていたが、
 まずは挨拶に出向かなかったことを詫びた。 


 「ご勇退への挨拶の言葉も差し上げず、失礼を致しました」

 「いや、よいのだ。我が孫・隆世は当主を継いだと言っても
  まだ若い。いろいろと教えてやってもらいたい」

 「私こそ若輩で、興盛様にはまだまだご鞭撻頂きたいことが
  山ほどありましたのに」

 「なあに、老兵はいずれ若者に路を譲るものだ」


 内藤興盛は、顎鬚をさすりながら温かい笑みを見せる。
 この人当たりの良さで、
 内藤興盛はずっと家中から信頼を集めていた。

 しかし、そのにこやかな瞳の奥から厳しい眼光が漏れる。


 「わしは老齢ゆえに、政治から身を引いてよいのだ。
  しかし、隆包。まだまだ若い身のおぬしは、何をしておる」

 「……はっ」

 「主君の死を痛嘆する気持ちは、わしにもよく分かる。
  特におぬしは、世襲ではなく義隆様から直々に守護代に
  任じられたゆえ、義隆様を失った悲しみもひとしおであろう」

 「……」

 「しかし、いつまでも悲嘆に暮れることが、いったい何を産むのだ。
  我々は出雲遠征からこの度の政変にかけて、
  過度の悲傷がさらに悲劇を招くことを学んだのではないのか」

 「……!」


 内藤興盛の言葉に、弘中隆包は大きく心を揺さぶられた。
 まるで心臓を直接つかまれたような感じがした。


 かつて、出雲国(=島根県東部)の月山富田城への遠征で
 大敗を喫した主君大内義隆は、最愛の養嗣子・晴持を失った。

 大内義隆はその深い悲しみから、戦事を嫌うようになり、
 遠征を主張し強行した武断派を次第に遠ざけるようになった。

 その結果、武断派の諸将から追い詰められ、命を絶った。
 大内義隆の運命は、晴持を失った時から大きく変わったのだ。


 内藤興盛は、深い愁嘆によって責務から遠ざかることで、
 事態はより悪化してしまうということを、
 義隆公の先例をもって、弘中隆包に伝えたかったのである。


 弘中隆包は、自身を恥じた。

 大内義隆を追い込んだ陶隆房も同じく、深い悲哀を負ったはず。
 しかし、隆房は国内の鎮定に動き出している。
 それに対して、自分はまだ何も成していないではないか。

 内藤興盛は隆包の表情の変化を見て、
 自分が伝えたかったことを理解してくれたと確信した。

 
 そして、懐から汚れた一冊の経典を取り出すと、
 内藤興盛はそれを弘中隆包に無言で差し出した。

 隆包が受け取ったそのくたびれた一切経の表紙には、
 どす赤い血の色で一句が書きつけられていた。


 『見よや立つ 煙も雲も 半天(なかぞら)に
           さそひし風の すえも残らず』
 


 見覚えのない句に弘中隆包が不思議がっていると、
 内藤興盛は言った。


 「それは、大寧寺の最期で冷泉判官が残したものだ」

 「何と」
 「何ですって!?」


 弘中隆包と同時に、
 後方に控えた弘中方明も驚いた声を上げて身を乗り出してきた。


 大寧寺で大内義隆の介錯を行った後に火を放ち、
 陶隆房の眼前で腹を十文字に切って死んだと伝わる
 大内家の忠臣・冷泉隆豊。

 その隆豊が、大寧寺で辞世の句を残していたのである。

 大寧寺まで大内義隆を追った陶隆房の追討軍に混じっていた
 内藤興盛の家臣の一人が持ち帰ったものだという。

 恐らくこの濁った赤い字は、
 自分が手にかけた主君義隆公の血で書いたものであろう。


 冷泉隆豊は死してまで後の者に何を望んだのか。
 残された者は何を成さねばならないのか。

 それを考えると、一切経を持つ弘中隆包の手が震えた。

 弘中方明も、自分に水軍の兵法を教えてくれた師である
 冷泉隆豊の最期の筆を見て、絶句している。


 内藤興盛は、一切経を見つめる弘中隆包に言った。


 「隆房の蜂起を止められなかったのは、老臣たるわしの責任ぞ。
  義隆公からの仲裁の依頼を断ったのは、わしだからのう。
  だからわしが身を退く。事変は決しておぬしのせいではない」

 「興盛様……」

 「これから隆房が取り組んでいくことの正邪は、わしも分からぬ。
  それを監視していくのは、残るおぬしの役目ではないのか」

 「……はい」

 「動くのだ。日頃から忠義に篤く信義に深いおぬしであれば、
  頭で考えるよりも先に身で動くことで、
  自分の信ずる道を進んでいることが後に必ず解るであろう」


 内藤興盛は立ち上がって、最後に一つ言葉を投げかけた。


 「末永く、大内を頼むぞ」

 「……!」


 弘中隆包はその言葉に聞き覚えがあった。
 

 大内義隆がかつて隆包を安芸国守護代に任じた時に、
 「末永く大内を頼む」と、同じことを言ったのだ。

 自分は亡き義隆公から、既に大内を託されていたはずだ。
 それなのに、今の自分はいったい何をしているのだ。

 内藤興盛の言葉でそのことを思い起こした弘中隆包は、
 興盛の足下で、深く平伏をした。


 地に伏せる隆包を見て、内藤興盛は微笑んだ。
 自分は全てをこの者に託せた。そう感じたのかもしれない。

 小さくうなずきながら、内藤興盛は笑顔で応接の間を後にした。


 大内家宿老・内藤興盛。

 これ以降は、二度と政治の世界に戻ることはなく、
 三年後の天文二十三年(1554)に老衰で亡くなったという。



 内藤興盛から後事を託された弘中隆包は気を奮い直し、
 その日のうちに大内御殿へと出仕した。

 そこには忙しく政務を執る陶隆房が待っていた。


 弘中隆包は「すまぬ」と一言謝った。
 出仕を求める陶隆房からの使者を
 追い返し続けたことに対する詫びである。

 陶隆房は喜んだ表情で、隆包の手を取ると笑顔を見せた。


 「弘中殿。よくぞ、よくぞ出てきてくれた。
  新しい国作りは、おぬしがいなければ到底無理だ。
  共に、これからの大内を盛りたてていこう」

 「陶殿……」


 取った手を大げさなほどに上下に振る陶隆房を見て、
 弘中隆包にもふっと笑顔が戻った。



 主君大内義隆の嫡子・義尊をも失った大内家であるが、
 残された陶隆房は、今後の準備を着々と進めていた。

 大内家の後継者として迎えるに相応しい人物が、いま一人いる。


 それは、豊後国(=大分県南部)の
 大友晴英(おおともはるひで)である。

 
 かつて出雲遠征で養嗣子・晴持を失った大内義隆は、
 豊後国守護大友義鑑の次男・大友晴英を養子に迎えた。

 大友義鑑の妻、つまり晴英の母は大内義隆の姉だからである。
 
 大内の血を引く後継者として養子に迎え入れられた晴英だったが、
 その後、大内義隆に実子・義尊が生まれたため、
 養子縁組は解消されて、大友晴英は地元豊後に戻った。

 ところが、その義尊も大内義隆と同時に殺害されてしまったため、
 再びこの晴英を後継者として呼び戻そう、
 と陶隆房は考えたのである。

 そこで、陶隆房は豊後国と密かに交渉を始めていた。


 昨年の天文十九年(1550)、
 豊後国内では「二階崩れ」と呼ばれる政変が起こり、
 大友義鑑が死去して、長男の大友義鎮が家督を継いだ。

 この大友義鎮は、後に「大友宗麟」の名で知られることになる。

 その弟・晴英に再び大友の後継者の話が来たことを受け、
 大友義鎮は大内家中の混乱ぶりを重く見て反対をしようとしたが、
 当の晴英はこの話に大いに乗り気だった。

 もともと大内義隆は深く自分のことを愛してくれていたし、
 実子が生まれたために養子縁組を解消されるというのも、
 武家の慣わしとして当然のことであり、特別な恨みはない。

 その大内家が再び自分自身を当主として迎えるという。

 自分が大内家の当主となり、東九州を支配する兄と連携すれば、
 大友家も今より大きな勢力を持つことができる。

 「大内家が自分を必要としているならば、それに応えたい。
  そして大友家の、北の防波堤としての役目を果たしたい」

 と晴英の熱心な主張を聞き、義鎮もついにそれを許した。



 こうして、大内義隆の後継者には、
 義隆の甥にあたる豊後国の大友晴英を迎えることが決まった。

 主君大内義隆を自害に追い込んだ陶隆房は、
 自分自身が謀反人として下克上により政権を奪うつもりではなく、
 新たに当主を立ててこれからもその下で働くという立場を
 国内外に強く示しておく必要がある。

 そのため、大内義隆から一字を頂戴した隆房の名を返上し、
 今度は新当主となる大友晴英から一字を拝領して、
 晴賢(はるかた)と名を変えた。

 後世に残る「陶晴賢」の名は、こうして生まれたのである。



 大内氏は、朝鮮半島の百済国の第二十六代国王聖明王の
 第三子である琳聖太子の末裔であると称されてきた。

 琳聖太子が百済から周防国の多々良浜に渡ってきたことから
 多々良の姓を名乗るようになり、
 やがて大内村に移ったことから大内姓を名乗り始めたという。


 陶晴賢はこの伝説を重視し、即位に活用した。


 天文二十一年(1552)三月一日。

 大内家当主として迎えられることになり、
 豊後国を船で出発した大友晴英は、その大内祖先の伝説に倣い、
 多々良浜(=山口県防府市)から上陸を果たした。

 新生大内も多々良浜から始まる、という縁起を演出したのである。


 翌日、大友晴英は周防山口(=山口県山口市)へと入城した。

 弘中隆包は、陶晴賢と共に晴英を出迎える。

 まだ二十歳にも満たない若き新当主を前に、
 必ずやこの大内を強く支えていこうと、隆包は深く心に誓った。



 大内家の家督を継ぐことになった大友晴英は、
 大内家当主が代々抱いてきた「義」の一字に倣って、
 「義長」と改名をした。

 ここに、西国最大の勢力を誇る大内家を継ぐ
 新たな守護大名「大内義長」が誕生したのである―――――。



 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [二十一]
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 ■大内義長 (おおうちよしなが)

 大内家当主。豊後国(=大分県)の大名・大友義鎮の実弟であるが、
 かつて養子縁組を解消された叔父の大内義隆が大寧寺の変で自害した
 ことにより、再び大内家の後継者として迎え入れられる。陶晴賢や
 弘中隆包らに支えられるが、大内家は終焉へと向かっていく。
| 『厳島戦記』 | 02:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(二十) 大内大揺の巻


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 厳島戦記(二十) 大内大揺の巻
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                       第五部「防芸謀略戦」




 「尼子からの脅威が容易ならぬ時の策を、書き記してござる」

 「弘中殿…」


 秋風の吹き抜ける吉田郡山城(=広島県安芸高田市)にて、
 弘中隆包は毛利元就に、一巻の書状を手渡した。

 書状を受け取った毛利元就は、
 隆包の瞳の奥から、只ならぬ眼光を感じていた。


 「陶殿と斬り合うおつもりではないでしょうな」


 毛利元就は、吉田郡山城を出る弘中隆包を見送りながら問う。

 元就の嫡子であり、現在は当主である毛利隆元も、
 父の横で心配そうに弘中隆包の表情を見た。

 弘中隆包は、元就の問いに小さく首を振って、
 「元就殿、隆元殿。安芸を頼みますぞ」とだけ答えた。

 そして、吉田郡山城から山口への道を駆けていく。


 毛利元就と隆元は、何度もこうして吉田郡山城を発つ
 弘中三河守隆包を見送ったことがある。

 今日もまた弘中隆包の一隊を最後まで見届けていたが、
 毛利元就は十年前のことを思い出していた。


 尼子軍が吉田郡山城を包囲し、毛利勢が危機に陥った時、
 周防山口から陶隆房と弘中隆包が援軍を率い、
 共に力を合わせて勝利した。

 毛利元就は弘中隆包と「百万一心」の言葉を誓った。
 それが初めて、ここで弘中隆包を見送った時であった。

 そして出雲遠征の大敗の際には
 共に殿軍を務めて生死を分かち合った。

 その後、弘中隆包は安芸国の守護代となり、
 毛利元就はその隆包から安芸国人領主たちの盟主に認められ、
 二人は共に、芸備の安泰と発展のために手を取り合ってきた。

 この十年は、二人の盟友にとって激動の期間であった。


 十年前のことを思い出しながら、毛利元就は半ば確信していた。

 十年を共に生きてきた弘中隆包と言葉を交わすのは、
 今日が最後なのだということを―――――。



 天文二十年(1551)九月一日、
 大内義隆、長門大寧寺にて自刃。


 その報は、安芸の弘中隆包や毛利元就にも瞬く間に伝わった。

 守護大名・大内義隆と、その家臣団の筆頭である
 周防国(=山口県東部)守護代・陶隆房との確執は、
 以前から誰もが知り及ぶところであった。

 その衝突の日はいつになるかと懸念されていたが、
 いわゆる「大寧寺の変」が起こったその時、
 安芸国守護代の弘中隆包は、出雲国(=島根県東部)の尼子勢が
 安芸を脅かしているとの報を受けて、その侵攻に備えて前線にいた。

 豊前国(=大分県北部)守護代の杉重矩、
 石見国(=島根県西部)守護代の問田隆盛など
 大内家の評定衆に名を連ねる守護代たちがこの事変に加わったが、
 同じ守護代の職にある弘中隆包は、完全に蚊帳の外であった。

 しかも、侵攻をちらつかせていた尼子勢も一向に攻めてこない。

 尼子を待ち受ける中で主君の凶報を聞かされた弘中隆包は、
 ついにこの前線を離れて周防山口へと戻ることを決意し、
 有事に備えてその対応策を戦友の毛利元就に託したのである。



 主君・大内義隆を自害に追い込んだ後の陶隆房の行動は、
 矢のごとく速かった。

 もともと陶隆房が抱いていた大内義隆の政治への不満は、
 隆房ら武断派を退けるように讒言を繰り返していたという
 右筆の相良武任を重用していたことに対してある。

 隆房らが兵を挙げて山口の街へ突入した時、
 その不和の原因である張本人・相良武任は、
 石見国(=島根県西部)へ出張していて留守だった。

 隆房の挙兵を知った相良武任は、その害が自らに及ぶのを恐れて、
 以前に世話になった筑前国(=福岡県北部)守護代の
 杉興運を頼って、船を使って北九州へと逃亡した。

 そして花尾山(=福岡県北九州市八幡東区)にある
 花尾城に籠もっていたのだが、陶隆房に味方する軍勢が押し寄せ、
 あっという間に討たれて、その首級は山口へと送られた。

 さらに、相良武任を匿った筑前守護代・杉興運も、
 義隆・武任の一味と見なされて陶隆房側の軍勢に追い詰められ、
 杉興運は主君・義隆に殉じて腹を切り、その生涯を閉じた。


 陶隆房らの対抗勢力として名の挙がっていた相良武任、
 そして杉興運の死で、「大寧寺の変」における混乱は
 一時の収束を迎えた。


 以前から評定衆の杉重矩や問田隆盛らをはじめ
 各地の武人の多くが陶隆房の主張に賛成をしていたから、
 家臣が主君を自害させたという天下の一大事のわりには、
 その混乱は思ったほど大きくはならなかった。

 それだけ国内に義隆政権の改革を求める者が多く、
 陶隆房の蜂起は大勢の家臣に歓迎されていたのである。



 ところが数日経って、冷静になって事変を見つめ始めた頃、
 陶隆房はある問題に直面したことを知り、肝を冷やした。
 大内家を根本から揺るがす大事態である。

 ちょうどそんな時に、安芸国から守護代の弘中三河守隆包が
 山口に到着したという報が知らされた。


 「ついに来たな…」と、隆房は気を引き締める。

 大内義隆の評定衆として政権を支えた六人の守護代のうち、
 豊前国守護代の杉重矩、石見国守護代の問田隆盛と共に、
 周防国守護代である陶隆房は挙兵して周防山口に攻め込んだ。

 長門国(=山口県西部)守護代の内藤興盛は静観の立場を取り、
 筑前国守護代の杉興運は義隆側の人間として追われ自害した。

 残るは、安芸国守護代の弘中隆包である。

 弘中隆包は大内家中でも只ならぬ智勇の持ち主であり、
 陶隆房としては、何としても弘中隆包との衝突は避けたかった。



 陶隆房の反乱で、山口の街は大半が灰燼と化していた。

 大内家が居住空間としていた築山館は全焼しており、
 政務を執る大内御殿も、半分が焼けて無くなっている。

 焼け残った御殿の一角で、陶隆房は政務を取り仕切っていた。


 そこに、荒々しい足音を立てて弘中隆包がやってきた。



 ちょうど江良房栄が陶隆房の命を受けて退室している時、
 弘中隆包が廊下の上をこちらに向かってくるのが見えた。


 「おう、弘中殿。ようやく山口に帰って……」

 「どけ」

 「……!」


 大内家を手中に収めた筆頭家老・陶隆房の部将として
 偉そうに声をかけようとした江良房栄であったが、
 弘中隆包の姿から大きな気魄を感じて、無意識に道を譲った。

 西国では並ぶ者はいないと言われる猛勇の持ち主の江良房栄には
 これまで恐れを抱いた相手など一人もいない。

 ところが、普段は穏和で温柔な性格であるはずの弘中隆包の眼光が、
 その江良房栄に身の危険を感じさせ、つい隆包を避けた。
 房栄自身も、自分の身体の反応に驚いていた。

 江良房栄は息を飲みながら振り返り、
 陶隆房に向かって歩みを進める弘中隆包の姿を見つめた。


 陶隆房は、幼馴染の隆包を笑顔で迎えようと立ち上がったが、
 弘中隆包はそのまま表情を変えることなく進んで、
 隆房の前に立つと睨みつけるようにその目を直視した。


 「大内のためだっ…」


 今にも斬りかかってきそうな隆包の気魄に押されたのか、
 陶隆房の口からとっさに出た言葉は挨拶ではなく、
 この度の挙兵の理由だった。


 「わしは、大内家の将来をより強く盤石にしたいと思っただけだ。
  しかしお屋形様は、奸臣の相良武任などを重用し、
  遊興接待にうつつを抜かしては財政を逼迫させていた。
  だから、家督を譲られるようにお諌めしたのだ」

 「……」

 「お屋形様はご抵抗なされたが、最後には観念なさって、
  武士らしく御腹を召され、我らの声を聞き届けて下さった。
  決してわしは、お屋形様には手を出しておらぬ」


 黙ったまま眼前に立っている弘中隆包に対して、
 陶隆房は視線をそらさずに、その弁明を語り続ける。


 「我らはのう、弘中殿。お屋形様一代の家臣にあらず。
  大内家の末代までを見据えてお仕えしている身であろう。
  お屋形様もそれを組んで立派な最期を遂げられた。
  わしも断腸の想いだが、この現実を受け入れなければならんのだ」

 「陶殿…。して、義尊様はどこに」

 「……!」


 弘中隆包が突然口にした、大内義隆の嫡子・義尊の名を聞いて、
 陶隆房の言葉は止まってしまった。

 直面している問題というのが、まさにそれなのである。


 弘中隆包も、陶隆房が挙兵をした心情は理解できる。

 大内義隆が武断派を軽視して相良武任ばかりを取り立てるのは
 家中の混乱を招くからと、隆包からも再三意見書を送っていた。

 陶隆房は、若い頃から筆頭家老の重責を意識してきた武士であり、
 自分一人の利益だけで動く人間ではない。

 主君を殺して政権を簒奪するという「謀叛」をしたわけではなく、
 強制的に引退させる、いわゆる「主君押し込め」を謀ったに過ぎない。

 主君大内義隆を改心させること、
 そして陶隆房の蜂起を止めることはできず、一代の悲劇は起きたが、
 大内家そのものは、その後も続いていかなければならない。

 そこで必要となるのが、後継者、
 つまり義隆の嫡子である大内義尊の存在である。

 後に立てる後継者があってこそ、主君の押し込めには大義がある。


 だが、陶隆房から語られた義尊の居所は、
 隆包が予想していた答えの中でも最悪の答えであった。



「義尊様は……、お亡くなりになった」

 「……!」


 弘中隆包の表情は、みるみる青ざめていく。

 陶隆房は右手で隆包の肩をつかみ、
 放心をさせないかのように揺すりながら言った。


 「わしではないぞ、弘中殿。決してわしらでは…。
  わしは義隆公にご引退して頂き、
  義尊様に当主の座に就いてもらいたかったのだ。
  しかし…」


 陶隆房の眼から、ひと筋の涙が頬を伝い落ちる。


 「杉重矩だ。重矩の軍勢が、大寧寺から逃げる義尊様を捕らえ、
  我らの命令を待たずに、義尊様を…義尊様の首を討ったのだ。
  ……わしもつい先ほど、そのことを知らされたばかりだ」

 「……」

 「先ほど、相良武任から義隆公に出された申状が見つかってのう。
  それによると、我らに謀叛の疑いがあると義隆公に伝えたのは
  武任ではなく重矩であったという。…ようやく分かったのだ。
  全ての元凶は、我らにすり寄ってきた杉重矩だったとな」



 かつては陶隆房とは犬猿の仲であった豊前守護代・杉重矩は、
 最近になって突然隆房に同調をするようになり、
 隆房と一緒になって蜂起して大内義隆を追い込んだ。

 だが、その杉重矩は単独でその嫡子・大内義尊を追って捕らえ、
 陶隆房の意に反してその首を斬ってしまったのである。

 陶に寄り添いながら、杉重矩は心を同じくしていなかった。

 後から見つかった「相良武任申状」を見てよく考えてみると、
 大内義隆も相良武任も、陶隆房に対して敵意はなかった。

 この混乱の発端は、全て杉重矩にあった――――。


 そのことを知った陶隆房の激昂ぶりは、凄まじかった。

 隆房は腹心の江良房栄や宮川房長らに命じて、
 何食わぬ顔で領国豊前へと帰っていく杉重矩を追討させた。

 弘中隆包が、江良房栄とすれ違ったのは、
 その陶隆房からの命令を受けて退室をしている時だったのだ。


 杉重矩は江良房栄らに追いつかれて交戦したものの、
 やがて大内家中最強の江良軍に打ち破られ、
 長門国の長興寺に追い詰められて、その命を絶った。

 杉重矩の首級はすぐに山口の陶隆房の元に送られ、
 謀叛の教唆扇動、並びに主家殺害の罪で獄門に晒された。



 主君大内義隆の自刃をはじめ、その嫡子・義尊、
 奉行人筆頭の相良武任や筑前国守護代・杉興運、
 水軍の将・冷泉隆豊ら数多くの人間を死に追いやったこの事変は、
 豊前国守護代・杉重矩をも誅伐する事態となった

 さらに、主君義隆から和睦の仲介を依頼されたものの断った宿老、
 長門国守護代・内藤興盛は、自らの責任を重く見て、
 孫の隆世に家督を譲り、隠居した。



 大内家臣団の筆頭家老としての地位にあった陶隆房には、
 ますますその双肩に大内家の今後の重責が圧し掛かる。

 杉重矩の強い教唆によって兵を挙げた自らの行動を顧みて、
 陶隆房は深い後悔の念に心をえぐられていた。

 主君を死に追いやり、そして後継者をも失った今、
 自分の蜂起がいかに軽挙だったかを思い知らされたのである。


 隆房は家臣筆頭として、大内義隆の葬儀を立派に執り行い、
 国内混乱の元凶として杉重矩の首を、義隆の墓前に捧げた。
 
 そして大内の再興を心に誓い、剃髪して、
 全薑(ぜんきょう)という号を名乗った。



 大内の未来のために、いつまでも心折れているわけにはいかない。
 主君不在の大内の今を支えるのは、自分しかいないのだ。

 自分が全てを背負わねばならぬ――――。

 陶隆房は、大内義隆の墓前で長い弔いを終えて目を開けると、
 立ち上がって、再び政治の世界へと歩んでいった。



 (つづく)



 ――――――――――――――――
  『厳島戦記』武将列伝 [二十]
 ――――――――――――――――

 ■弘中方明 (ひろなかかたあき)

 大内家家臣。安芸国(=広島県西部)守護代に出世した兄の弘中隆包
 に代わり、領国周防岩国(=山口県岩国市)の統治及び水軍の指揮を
 任される。毛利水軍を率いる小早川隆景や赤間関代官となる堀立直正
 などと親交が深く、後に「門司城の戦い」でも大きな活躍を見せる。
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厳島戦記(十九) 如露如電の巻


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 厳島戦記(十九) 如露如電の巻
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                       第四部「周防大政変」




 仙崎港(=山口県長門市)は、
 長門本土から青海島に向けて伸びた砂嘴の上にできた港で、
 年中荒波の高い日本海にありながら、
 仙崎湾が高波を防いでくれる天然の良港と言える。


 大内の部将・冷泉隆豊は、わずか数騎の兵と共に、
 船で石見(=島根県西部)へ向かう主君・大内義隆を見送り、
 その船が望ヶ鼻の岬を越えて仙崎湾を出るのを見届けると、
 覚悟を決めたかのように、大きく深い息をついた。


 陶隆房や杉重矩ら反乱軍は、
 大内義隆の行方を追って
 周防山口(=山口県山口市)からこちらに向かっている。

 義隆を海に逃がして安全を確保した今、残る自分たちの役目は
 陶隆房の軍勢に舟を一隻たりとも渡さないためにも
 ここで陶軍を待ち構えて最後まで戦うのみである。

 
 (あとは、弘中殿が何とかやってくれるであろう…)

 冷泉隆豊は、明るくなりつつある荒れた空を見上げながら、
 安芸国(=広島県西部)守護代の
 弘中三河守隆包の顔を思い浮かべた。


 長年、大内の水軍を取り仕切っていた冷泉隆豊は、
 陸戦を得意とする陶隆房や杉重矩ら守護代連中とは
 どうも馬が合わなかった。

 しかし、守護代の中でも領国岩国(=山口県岩国市)に
 水軍を有していた弘中隆包は何かと気が合い、
 弟の弘中方明が元服した際には
 「水軍の用兵を弟に教えてほしい」と方明の師事を願ってきた。

 冷泉隆豊は弘中隆包の清廉潔白な人柄に好感を持っていたので、
 その弟の方明には自分の持つ水軍の知識を惜しみなく教え込んだ。

 立派に学んでいった弘中方明は、今度はその水軍の法を
 安芸の小早川隆景や能美宗勝らにも伝え、
 芸備(=広島県全域)の経略に大いに役立ててくれている。


 人の心は、次の者へ託されていく。

 ここで死しても何の悔いがあろうか、
 と冷泉隆豊は心の内で思った。



 ところが、しばらくして隆豊は一驚して目を大きく見開いた。

 先ほど見送ったはずの大内義隆を乗せた船が、
 再びこの仙崎港に向かって戻ってきているのが見えたのである。

 「なぜ……!?」

 冷泉隆豊は全身から力が抜けるような絶望感に襲われた。


 船が港に着岸すると、大内義隆たちが下船してきた。

 冷泉隆豊たちは駆け寄って、義隆の前にひざまずく。

 見ると、先ほどの船出の時に比べると、
 大内義隆の顔は見る影もなく憔悴しきっていた。
 
 髪は乱れ、白髪が突然増えたようにも見えた。
 目の周りが落ち込み、皺も多く目立つ。
 このわずか数時間で何年分も老け込んだかのようである。

 かける言葉の見つからない冷泉隆豊たちに、
 大内義隆は搾り出すかのように、か細い声を出した。


 「隆豊、すまぬ…。海へ逃げ出すことはできなかった」

 「……」

 「かつて海に沈んだ晴持が、海の底へ招いておったのだ…。
  このたびの反乱は、全てこのわしのせいである。
  しかし、子の義尊(よしたけ)には、何の罪もない。
  わしは…、我が子を再び海に沈めることはできぬ」

 「お屋形様……」


 嫡子・義尊の頭をそっと撫でる主君の様子を見て、
 冷泉隆豊は胸を痛めた。

 冷泉隆豊もまた、月山富田城への遠征に同行して大敗を味わい、
 大内義隆と共に大内晴持の溺死を目の当たりにしたからだ。


 陶隆房や杉重矩ら武断派たちの遠征強行の進言を受け入れ、
 最愛の養嗣子を出雲の海にて失った大内義隆。
 狂い叫ぶ義隆を、冷泉隆豊たちは山口まで強引に連れ帰した。

 その時から大内義隆は武断派と距離を置くようになり、
 そして今、その陶隆房や杉重矩らに追い詰められている。

 運命とは、かくも非情なものであろうか。


 (もはや、これまでか……)

 冷泉隆豊はやるせない想いで、握り締めた両手を振るわせた。



 大内義隆一行は行き場を失い、
 深川湯本(=山口県長門市)にある
 瑞雲山の大寧寺(たいねいじ)へと向かうことにした。

 大寧寺は長らく大内氏が寄進をしていた曹洞宗の寺院で、
 三年前に異雪慶殊という僧が十三世の住持となっていた。
 

 大内義隆は、異雪慶殊に面会する前に、
 せめて乱れた鬢(左右の髪)だけはかき上げて整えておこうと、
 大寧寺の前にある池の傍で、兜を脱いで岩の上に置いて、
 池の水面を鏡代わりに自分の顔を映そうと覗き込んだ。

 しかし、揺れる水面に、自分の顔は映っていなかった。
 
 
 (私のこの世での武運は、もう残されてないのだな…)

 陰の揺らめく池を見つめる無言の大内義隆。
 その顔には、苦笑にも似た穏やかな微笑がこぼれていた。


 ――――後世、義隆が兜を置いたこの岩は「甲掛の岩」、
 義隆が覗き込んだ池は「鬢水池」と呼ばれるようになる。



 異雪慶殊和尚は、
 大寧寺に落ちてきた大内義隆を快く迎え入れた。
 
 大内義隆の表情を見た異雪慶殊は、
 義隆が既に死を覚悟していることを一瞬で悟る。


 異雪慶殊は少し話すだけで、義隆の篤学ぶりに驚いた。

 栄華に酔い、尚武を疎んじた愚君であるという噂されていたが、
 大内義隆の禅に対する知識や興味は学者のごとく深く、
 仁者の哲学を悟っているかのようであった。

 ちょっとした主従の心の違いが、大きな軋轢を産んだのだろう。
 その無常気も、大内義隆は既に受け入れているようである。


 義隆はかしこまって、異雪慶殊に無念無想の法談を求めた。

 死を前にした義隆に、和尚は人の臨終における心得を説く。
 聞き入っていた義隆は、静かに口を開いた。


 「私の命運は既に尽き、この世に思い残すこともありません。
  ただ、我が子・義尊は、まだ齢七つの幼い命。
  義尊だけは、仏門にでも入れて生き延びさせたいと思います」

 「分かりました。
  拙僧が他国までお連れすることをお約束致します」

 「かたじけない。和尚は、最後の我が師にございます」


 大内義隆は異雪慶殊の弟子となることを許され、
 その証として、瑞雪殊天という戒名を受けることになった。


 硯と筆を用意してもらった大内義隆は、
 心静かに辞世の句を書いた。


  「討つ人も討たるる人も諸ともに

   如露亦如電応作如是観」



 金剛般若経の一節に由来する漢文調の下の句で締めくくった直後、
 これまで風の音しか聞こえなかった境内の外から、
 いきなり大勢の鬨の声が響いてきた。

 陶隆房たちの軍勢が山口から続々と到着し、
 ついにこの大寧寺を包囲したのである。


 攻め入ってこようと思えばあっという間であるはずだが、
 包囲している軍勢は大声を挙げるばかりで、境内には入って来ない。

 首謀者である陶隆房は、やむなく主君の押し込みを謀ったが、
 主君である大内義隆の権威を簒奪しようと思ったわけではない。

 大内義隆を討ち取るわけではなく、立派な最期を願っており、
 自刃が確認できるまでは手出しをしないように指示してあるのだろう。

 鬨の声は、主君の自害を促す声でもあった。



 大内義隆は、仏前に座って香を焼き、
 静かに目を閉じながら、これまでの人生を思い返す。

 冷泉隆豊が、刀を抜いてその傍に控えた。

 義隆はゆっくりと目を開けて隆豊の目を見ると、
 何も言わずに微笑しながら頷く。


 そして、懐剣を手にして、腹を横一文字に切り裂いた。
 
 冷泉隆豊はその立派な所作を目に焼き付けながら、
 刀を振り降ろして、主君の首を打ち落とした。


 大内義隆、享年四十五歳。

 六ヶ国の守護および従二位まで登り詰め、
 西国に大きな覇を誇った戦国大名・大内義隆の生涯は、
 こうして終わりを告げた。



 介錯を務めた勇将・冷泉判官隆豊は、
 首の落ちた主君から流れ出る鮮血に筆をつけて、
 手にした一切経の表紙に、一句を書きつけた。

 そして、大内義隆が焼いた香の火を、障子や板戸に吹き付ける。

 そのうち、義隆が自刃を果たした方丈は、
 鮮やかな炎に包まれ始めた。



 陶隆房の腹心である江良房栄や三浦房清たちが
 義隆追討の先鋒隊として大寧寺を取り囲んでいたが、
 遅れて総大将の陶隆房が到着した頃、
 境内に火の手が上がるのが見えた。


 「お屋形様…」

 陶隆房は、主君・大内義隆が自害したのだと悟った。

 そして一たび呼吸を整えると、全軍に突撃の合図を送った。
 包囲軍が一斉に大寧寺の境内になだれ込む。


 義隆の亡骸を守るのは、介錯をした冷泉判官隆豊をはじめ、
 黒川隆像、天野隆良、禰宜右延ら、わずか十一人の将だったが、
 この少数の家臣が、数百名の陶軍に勇敢に立ち向かった。

 そして次々と陶の軍兵を斬り伏せていくが、多勢に無勢、
 やがてその側近たちも
 次々と陶軍に討ち取られて、地に倒れていった。


 残る将は冷泉隆豊と天野隆良だけとなった時、
 天野隆良が陶隆房の姿を見つけると、
 「おのれ、奸賊!」と叫びながら刀を構えて突進した。

 しかし、そこに陶軍随一の猛将・江良房栄が立ち塞がり、
 天野隆良を一刀の下に斬り捨てた。

 音を立てて天野隆良の身体が地に倒れ落ちた時、
 陶隆房と江良房栄は、
 最後の将・冷泉隆豊の姿が消えたことにふと気がついた。


 「判官殿はあちらにございます!」と兵の一人が、
 障子が半開きになっている経堂のほうを指差した。

 陶隆房と江良房栄は経堂に歩み寄り、勢いよく障子を蹴り倒す。


 そこには、甲冑を外して立ち尽くしている冷泉隆豊の姿があった。

 見ると、立ったまま懐剣で自らの腹を十文字に斬り裂いている。
 鮮血を噴き出しながら、近づこうとする敵を睨みつける。

 大内家中で武勇の名高い陶隆房も江良房栄も
 そのあまりの迫力に声を失って踏み止まった時、
 冷泉隆豊は切り裂いた腹に自ら手を入れてはらわたをつかんだ。

 そして恨みの断末魔にも似た雄叫びを上げながら、
 隆豊は引きちぎった内臓を、陶隆房と江良房栄に投げつけた。
 思わず目を背けて、血まみれの内臓を手で払う二人。

 血に染まった冷泉隆豊は、何かを含んだ笑みを見せると、
 自らの喉を掻き斬り、そして前のめりに床に倒れ伏した。


 大内義隆に最後まで従った勇将・冷泉判官隆豊は、
 陶隆房たちの前で壮絶な最後を遂げた。
 享年三十八歳という。



 こうして、長門の大寧寺で大内義隆が自刃したことにより、
 山口の大騒乱は終止符が打たれた。


 時は、天文二十年(1551)九月一日。 

 この大事変を、後の世は「大寧寺の変」と呼んだ。



 たった一日にして決着のついたこの騒乱は、
 西日本の戦国時代の支配勢力図を大きく激変させることになる。


 運命の「厳島の戦い」まで、あと四年―――。



 (第五部へつづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [十九]
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 ■問田隆盛 (といだたかもり)

 大内家家臣。大内家の一族として石見国(=島根県西部)の守護代を
 務めたが、津和野(=津和野町)の吉見氏や益田(=益田市)の益田
 藤兼ら国人領主の勢力に押されていた。大寧寺の事変では、杉重矩ら
 と共に陶隆房の挙兵に加勢して主君・大内義隆を自刃に追いやる。

| 『厳島戦記』 | 17:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(十八) 西京炎上の巻


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 厳島戦記(十八) 西京炎上の巻
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                       第四部「周防大政変」




 頭上から振り下ろされる、猛将・江良房栄の大太刀。


 黒頭巾の若武者――――弘中方明の姿が、
 江良房栄の視界から一瞬消えた。

 槍でその太刀を受け払いながら、真横に身を転がしていたのである。

 獲物を喰らい損ねた江良房栄の太刀は、
 まるで重い鉄槌で家屋を取り壊すかのように、
 目の前の木壁をメキメキと斬り裂いていった。

 壁に食い込んだ太刀を引き抜くのに生じた一瞬の隙に、
 床に返った黒頭巾の武者は、
 軽やかに立ち上がってすぐに床を踏みしめ、身構えた。


 (海の男か…?)と、江良房栄は横目で追いながら思った。

 身を起こしても体の振れない均衡能力には足腰の強靭さが要る。
 荒海に慣れた船乗りには、その力が備わっている。
 この男の動きには、船乗りのようなその均衡感覚が見て取れた。


 再び江良房栄が太刀を振り上げようとしたその時、
 黒頭巾の武者は、江良房栄から逃げ出して入口へと走り出した。

 「止めろ!」と、江良房栄の指令が随行の部下たちに飛んだが、
 方明の前に立ち塞がろうとした部下の一人は、
 その左肩を方明の槍に突かれて、血飛沫を上げながら倒れ込んだ。

 そこに人壁の突破口を見た方明は、
 迫り来る他の部下共を槍で押しのけながら、外へと飛び出ていく。


 槍を持った怪しい黒頭巾の男を取り逃がしてしまい、
 部下たちは上司である江良房栄の顔色を伺った。

 しかし、江良房栄は一度舌打ちをしただけで、
 すぐに堂内をズカズカと歩き回り始めた。

 山口市中には他の陶軍の諸将たちが走り回っているから
 黒頭巾はいずれ捕まるに違いない、と思ったのであろう。

 房栄はこの寺に誰もいないことを確認すると即座に、
 部下たちに命じて寺の中へ次々と松明を投じさせた。

 その寺は、松明の火を受けて、あっという間に燃え上がった。
 空を焦がすような火炎が、御堂を包み上げていく。



 山口は、京の都を模した都市計画で造られた街であるから、
 街の中に城砦はなく、主君は大内御殿にて政務を執る。

 その大内御殿に併設された築山館に、
 大内義隆とその側近や新鋭部隊は立て籠もっていたが、
 街中に火の手が上がるのが見え、人々の怒号や悲鳴を耳にして、
 もはやここで命の限り防戦するしかない、と覚悟を決めた。

 豊前国(=大分県北部)守護代の杉重矩ばかりか、
 大内家の一族であるはずの石見国(=島根県西部)守護代・
 問田隆盛までも、陶隆房の反乱に加勢しているという。

 大内義隆も、自分に味方する者の少なさをようやく自覚した。


 冷泉隆豊など忠義の部将たちが武器を取って、
 迫り来る陶軍に対して応戦をし始めたのだが、
 義隆の寵愛を受けていた安富源内と清ノ四郎という近習たちが、

 「この築山館は防戦には向きません。取り囲まれたら終わりです。
  それよりも、山を背にした法泉寺にて応戦してはどうでしょう。
  法泉寺で耐え忍んでいる間に、きっと援軍も来るでしょう」

 と、大内義隆に進言を始めた。

 主君の安全よりも、自分たちの命が惜しいだけの進言だったが、
 寵愛する彼らの言に大内義隆はあっさりと納得し、
 京から訪問してきた公家たち客人を連れて、北の門から脱出した。

 冷泉隆豊たち側近の部将たちは、そのことを知らされておらず、
 主君が北の門から落ち延びていったという報を伝え聞いて、
 慌てて、守っていた築山殿を放棄して、義隆の馬を追う。

 あまりの混乱ぶりに、ますます義隆の護衛部隊は脱落していった。



 「山口が…、燃えている」

 大内義隆は、逃げ込んだ法泉寺の山門から、
 赤く炎に燃え盛る山口の街を眺めた。

 見慣れた街の、見慣れない様子。

 当時国内最大の栄華を誇っていた山口の壮麗で絢爛たる街が、
 一夜にして火の海と化している。
 義隆はまだ信じられない心地であり、頭が錯乱していた。



 築山殿から落ち延びた大内義隆が山口を逃れて
 安芸国(=広島県)や筑前国(=福岡県)などに逃げ出すと、
 また土豪たちを集めて勢力を回復し、ややこしいことになる。

 その前に大内義隆を成敗しなければならないと焦る陶隆房は、
 すぐに義隆の籠もる法泉寺へと軍勢を進めた。



 法泉寺には、敗北の空気が漂っていた。

 大内義隆を追って親衛部隊が法泉寺に辿り着いた時には
 六千人はいたはずの守備兵が、今や三千騎に激減している。

 これが、六国にわたり覇を唱えた守護大名の権威なのか。
 側近たちは胸を痛める。


 そんな中、法泉寺の御堂の奥で震える大内義隆を救おうと、
 名乗りを挙げた客人がいた。

 前の関白、二条尹房(にじょうただふさ)である。

 公家第一の位でもある関白まで上り詰めた公家・二条尹房公は、
 応仁の乱により失脚して京の都を追われたが、
 大内義隆を頼って周防山口まで下向してその世話になっていた。

 荒れた京の都に代わって公家社会を尊重する街となった山口で、
 前の関白という自分の経歴には、まだ大きな価値がある。

 その自分の価値が、この絶体絶命の危機を救うのならば、
 それを最大限に利用するべきであろうと考えたのである。

 思わぬ戦乱に客人たちを巻き込んで鎮痛していた大内義隆は、
 二条尹房公の申し出に、涙を流さんばかりに喜んだ。



 「興盛様、興盛様―――!」

 弘中河内守方明が、江良房栄など陶軍の猛追から逃れて
 辿り着いたのは、長門国守護代の内藤興盛の邸宅だった。

 大内義隆の重鎮・内藤興盛の安否が心配で駆けつけてみたが、
 内藤興盛は混乱する様子もなく応接の間に平然と座っていた。


 そしてそこには、方明が見知った人物もいた。


 「ザビエル殿ではないか…」

 方明は思わず声をかけた。
 昨年、方明が岩国まで送ったフランシスコ・ザビエルの一行だった。
 
 
 ザビエルは昨年、大内義隆に拝謁してその逆鱗に触れた後、
 弘中方明が岳父・堀立直正を通して堺の富豪を紹介したことから、
 その伝手を頼って堺、そして京の都へと上洛した。

 しかし、天皇の御所も足利幕府も
 応仁の大乱によって既にその権威を失っていたため、
 ザビエルは失望して、数日のうちに京の都を去っていた。

 そして、これからは周防山口が都に代わる大都市になる、
 と考えたザビエルは、再び大内義隆に拝謁しようと、
 平戸(=長崎県平戸市)の港で舶来品をかき集め、
 再び大内義隆に謁見することにした。

 珍しい舶来の品々を贈られて気を良くした大内義隆は、
 あっさりと山口でのザビエルの布教活動を許可し、
 街中に教会を建てる資金も援助したのである。

 そこで、ザビエル一行は仮の教会を建て活動拠点としたが、
 富田若山城で蜂起した陶隆房の軍勢が山口に乱入して、
 大内義隆の援助を受けたその教会を破壊したので、
 ザビエルたちは内藤興盛を頼ってここに逃げてきたのであった。


 内藤興盛は、ちょうどやって来た弘中方明に相談した。


 「ザビエル殿は異邦からの客人だ。大内家中の戦乱のせいで
  命を落とすようなことがあっては、どんな大問題になるか分からぬ。
  方明、何とか彼らを逃がす手立てはないだろうか」

 「はあ…。では、豊後国(=大分県南部)へ行かれてはどうでしょう。
  ちょうど今、ポルトガルからの交易船が豊後に着岸している、
  という噂を聞いております」

 「それはまことか」

 「はい。昨年に当主になられた大友義鎮(おおともよししげ)殿は
  異文化に明るく、本格的に南蛮貿易に着手される様子。
  ザビエル殿らを温かく迎えてくれましょう」


 方明の提案を通訳から伝え聞いたフランシスコ・ザビエルは、
 ポルトガル船のことを知って、大いに喜んでうなずいた。

 そして是非とも豊後に渡りたいと願い出た。


 「豊前(=大分県北部)からの陸路よりも、海路がいいでしょう。
  私はこれから岩国へ戻りますから、
  また船着場までザビエル殿を導いて護衛し、船で送り出します。
  興盛様、大友義鎮殿への紹介状を書いて頂けませんか」


 弘中方明の進言を内藤興盛が了解して筆を用意しようとしたその時、
 その内藤邸に一人の使者が駆け込んできた。

 京からの客人、前関白・二条尹房公からの使者であった。

 前関白の遣いとあっては、会わないわけにはいかない。
 内藤興盛は下座へと移り、弘中方明もその後ろに控える。
 言葉の分からないザビエルは、その横でキョロキョロしている。


 上座に座した尹房公の使者は、書状を出して口を開く。

 「ただ今、二条尹房様をお連れのご主君・大内義隆公は、
  奸臣・陶隆房、杉重矩らの軍勢に取り囲まれ、
  法泉寺にて立て籠もっておられ、危機的な状況にあられる。
  大内義隆公は、実子の義尊殿に家督を譲られる決意をなされた。
  内藤興盛殿にはその国政を今後も任せるとのことゆえ、
  義隆公と陶隆房の和睦の儀を、今すぐ調えて頂きたい」


 三家老の陶氏、杉氏に追い詰められている大内義隆は、
 二条尹房公を通して、残る三家老の一人、内藤興盛に
 仲裁してほしいと泣きついてきたわけである。

 弘中方明は平伏したまま、内藤興盛の対応を観察していたが、
 興盛の口から出た使者への返答は、
 方明の予想の中には全くない答えだった。


 「私は以前から、それが最前の方法だと何度も進言してきましたが、
  お屋形様は一向に聞く耳を持って下さらなかった。
  三日前ぐらいならば、私の力で何とかなったでしょうが、
  ここまで事態が悪化しては、私とて陶殿を止められぬ。
  こうなった以上、お屋形様はご自害あるべし」


 方明と同じく、使者もその返答は予想もしていなかった。

 忠臣の名高い内藤興盛の、迷いのない返答ぶりに、
 尹房公の使者は恐れから唇を震わせて、声を絞り出す。


 「な…内藤殿。ご主君を…ご主君を見殺しになさる気か!」


 「見殺さぬよう、ずっとお屋形様には進言してまいったのです。
  今日この事態を招いたのは、お屋形様が選んだ道にござる。
  このような事態の中にあっては、大内の家を守るために、
  大内家当主として取る道は、御腹を召される他あるまい」


 使者は腰を抜かして立てないほど、その返答に驚いている。

 もはや、家中随一の忠臣として国内外にその名の知られた宿老、
 内藤興盛でさえ、大内義隆を救えない事態になっている。


 弘中方明は、その事態の深刻さを心に深く感じた。

 この大事変の中、内藤興盛の邸宅を陶軍が襲わないのも、
 恐らく陶隆房と内藤興盛との間で話がついているからに違いない。

 方明は、二条尹房公の使者と内藤興盛が対面するその後ろで、
 中座してザビエル一行を連れ出し、邸宅を発った。

 キリスト教は、自ら命を絶つことを大罪とすると聞いた。
 内藤興盛は主君に対して自刃を要請しているわけだから、
 ザビエルにその内容を聞かせるべきではない、
 と方明は思ったのである。


 ザビエルは、弘中方明に守られながら山口を出て、
 そして、岩国から大友義鎮の治める九州豊後へと旅立っていった。

 それが、フランシスコ・ザビエルと弘中河内守方明の
 最後の別れとなった。
 
 豊後国へ渡ったフランシスコ・ザビエルはその後、
 豊後守護職・大友義鎮、つまり後の大友宗麟に大きな影響を与え、
 我が国の宗教史に大きくその名を残すことになる。



 陶隆房、杉重矩らの軍勢が続々と取り囲み始めた法泉寺。

 宿老・内藤興盛からも見捨てられたことを知った大内義隆は、
 ついにその命運が尽きたと感じて、うなだれた。

 安富源内ら寵臣の近習がちょっと席を外した隙に、
 側近の部将・冷泉隆豊が書状を手に現れて、ささやくように言った。


 「お屋形様。大切なお話が」

 「何じゃ」

 「実を言うと、安芸国守護代の弘中三河守隆包殿から、
  有事の際の手引きの策を頂いておるのです」

 「何っ。隆包から!?」


 大内義隆は飛び上がって、眼を見開いた。


 弘中隆包は現在、出雲国(=島根県東部)の尼子晴久が
 安芸国への侵攻を目論んでいて予断ならぬ事態、という
 吉田郡山城(=広島県安芸高田市)の毛利元就からの救援要請で、
 尼子軍の侵入を抑えるために安芸国内に留まっており、
 この緊急の事態でも山口へ駆けつけることができない状態にあった。


 思い起こせば確かに、弘中隆包はかつて、弟の方明を通じて、
 「有事の際は、冷泉隆豊を頼るように」と言っていた。

 その弘中隆包が、密かに冷泉隆豊へ一策を献じていたのである。

 大内義隆は、冷泉隆豊を頼るようにという弘中隆包の助言を
 すっかり頭の中から忘れていたことを大いに恥じ、
 同時に、弘中隆包の忠義の深さに大きく励まされた。

 心の底から元気がにじみ出るような心地がした大内義隆は、
 すがる気持ちで身を乗り出し、冷泉隆豊に聞いた。


 「冷泉判官。して、して、隆包は何と申しておるのだ?」

 「はっ。長門国の仙崎港(=山口県長門市)で船に乗り、
  石見三本松城(=島根県津和野町)へ逃れられよ、とのこと」

 「三本松城…。城主の吉見正頼は、我が姉の婿じゃ」

 「はい。そして、津和野三本松城の吉見正頼殿には、
  隆包殿の叔父上、弘中兵部丞頼之殿が仕えております」

 「ん、そうであったな」

 「既にその弘中頼之殿が須佐まで出迎える手はずが整っており、
  仙崎港にもその船が手配されているそうでございます」

 「おお…お…。やはり、やはり弘中三河守隆包じゃ!
  三河守がおぬしを頼れと言っておったこと、
  肝に銘じておくべきであったわ。許せ」

 「弘中殿こそ、真の忠臣でございます。
  その弘中殿は今、安芸にて尼子と対峙しておりまする。
  この隆豊、弘中殿に代わり、お屋形様をお守り致します」

 「隆豊よ。わしは、隆豊と隆包の忠義、生涯忘れぬぞ…」


 大内義隆は涙を潤ませながら、冷泉判官隆豊の手を取った。


 冷泉隆豊たちは、一日中奮戦して陶軍を寄せ付けなかったが、
 八月二十九日の夜に、裏口から大内義隆を逃がした。

 大内義隆一行は、わずか百騎足らずの護衛兵と
 京の都からの客人たちを伴って、
 日本海に面する長門仙崎へと、徒歩で落ちていった。





 法泉寺の北門から山口を逃れて美東綾木(=山口県美祢市)を抜け、
 深川湯本(=山口県長門市)の大寧寺の脇道を通り、
 大内義隆一行がようやく仙崎港へとたどり着いたのは、
 九月一日未明のことだった。

 そこには、安芸国守護代・弘中隆包が万一のために用意させた
 石見へ向かう船が待っていた。

 側近の冷泉隆豊は、大内義隆たちをその船に乗せると、
 自らは再び南に向かって、陶軍の追撃を食い止めると言う。

 大内義隆は冷泉隆豊の忠義に心を打たれながら、仙崎を出港した。
 陸を見ると、冷泉隆豊たちがいつまでも見送っていた。



 陸を離れてとりあえず難から逃れたと思われた一行だったが、
 そこで予想もしない出来事が起こる。


 仙崎港を出て一時も経たないうちに、海上に突風が吹き始め、
 高い波浪に船が大きく揺れ始めた。

 日本海の荒波には慣れている老練の船乗りたちは、
 「これぐらいの波具合であれば、石見には余裕で着けますよ」
 と自信を持って言い、不安がる一行を安心させた。


 ところが、その中で大内義隆だけが狂気の声を挙げる。

 一行は驚いて義隆をなだめようとするが、
 義隆は船室の一隅を指差して、あわわと口を震わせている。

 その指の先には、誰が見ても何もない。
 だが、義隆は何かに怯えてギャアギャアと騒いでいる。


 大内義隆だけは、その船室の端に、
 苦しそうにもがく、若者の姿が見えていたのである。


 「は…、晴持…っ!!」


 義隆の震える口から、一人の名前が漏れた。


 八年ほど前の月山富田城で大敗を喫した時に、
 揖屋(島根県東出雲町)の海の中に沈んでいった、
 最愛の養嗣子・大内晴持の姿が見えていたのである。

 「苦しいっ…」「なぜこんな目に…」とうめく晴持の姿。
 大内義隆の心胆が、大きな戦慄に締めつけられる。

 随行する側近たちには、その子供の姿は見えない。
 だが大内義隆は恐怖から逃げ惑うように暴れ回る。

 全身鳥肌を立たせて発狂したように船内をのた打ち回る義隆に、
 側近たちはなす術なく、大いに戸惑った。


 「許せ、晴持、許してくれぇーーーーっ!!!!」

 
 激しく揺れる船体の中で狂い叫ぶ、大内義隆の姿。

 六国を統べる覇者としてその栄華を誇った大内義隆の命運は、
 誰の眼にも、風前の灯として映っていた―――――。



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  『厳島戦記』武将列伝 [十八]
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 ■江良房栄 (えらふさひで)

 陶家家臣。大内家中最強の武人として、陶隆房の下で数多くの戦功を
 挙げ続けた猛将。陶隆房の反乱の後にも陶軍の中心的部将として活躍
 する。安芸国(=広島県)で暗躍する毛利元就からも恐れられる存在
 となるが、やがて周防岩国にて弘中隆包と対決の時を迎える。
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厳島戦記(十七) 赤雲再来の巻


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 厳島戦記(十七) 赤雲再来の巻
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                       第四部「周防大政変」




 年が明けて、天文二十年(1551)正月。


 筑前国(=福岡県北部)守護代・杉興運を通して、
 ある一通の書状が、周防山口の大内義隆のもとに提出された。

 名を、「相良武任申状」という。


 昨年に山口を出奔して杉興運の庇護の下にあった相良武任が、
 対立激しい大内家臣団の事態の真相を全て暴露し、
 自身の潔白を証明する、という訴状である。

 七ヵ条にわたって書き記されたこの申状が、
 大内家が築き上げてきた大勢力を激しく揺るがすことになる。



 大内義隆に差し出された「相良武任申状」の内容は、
 要約するとこういうことだった。


 「今、大内家中は非常に混乱をしております。
  その混乱は、この相良武任と陶隆房殿の確執にある、
  といろんな人が思っているようです。
  しかし、私は陶殿に対抗しようとは思っていませんでした。
  
  そもそも、陶隆房殿に謀叛の気配あり、と言い出したのは、
  豊前国(=大分県北部)守護代の杉重矩(すぎしげのり)殿です。

  しかし、杉重矩殿はそれを私の讒訴だと言って責任転嫁し、
  今度は陶隆房殿に歩み寄るようになりました。

  陶隆房殿は、杉重矩殿が味方に付いたことにより、
  残る三家老の一人、内藤興盛殿にも働きかけ、
  大内家中の御家人や国人領主たちにも協力を仰ぎ、
  何やら隠れていろいろと画策しているようでございます。

  私は政争を逃れて杉興運殿のところに留まっておりますが、
  私に悪意はないのだということを、どうかご推察下さい」



 要するに、「自分だけは全く悪くないのですよ」という
 責任逃れの言いわけを並べ立てていたのである。



 この「相良武任申状」を受け取った大内義隆は、どうしたか。


 相良武任の申し様によると、家臣たちは勘違いに勘違いが重なり、
 お互いを警戒しているのであろう、と義隆は思った。

 陶隆房たち武断派も、相良武任のことを誤解しているのだろう。
 お互いの誤解を解いて仲良くしてもらいたい。

 そう思って、大内義隆は同年四月、
 筑前に滞留中の相良武任を、三たび山口に呼び返したのである。

 相良武任は、自分の訴えが認められたのを大いに喜んで
 堂々と周防山口に戻ってきた。



 大内家中の混乱の火種である相良武任が、
 三たび奉行衆に返り咲いたことで、
 陶隆房たち武断派の失望と憤怒は頂点に達した。

 もはや問題は、相良遠江守武任だけではない。
 その奸臣を平気で重用する大内義隆こそが悪政の元凶である。

 武断派の怒りは、ついに主君にまで向けられることになった。

 これまでの武断派は文治派と対立するだけ済んでいたが、
 とうとう、その対立を容認し改善の意思の見えない主君を
 その座から下ろすしかこの国を正す方法はない、
 と武断派の意見がまとまり始めた。

 もはや、大きな反発の嵐は止まらない。
 


 昨年九月には、陶隆房の謀叛の噂が街中に広がったが、
 今度はいよいよ本当に、その噂が真実に変わろうとしていた。

 隠居を申し出て周防冨田(=山口県周南市)に籠もった陶隆房は、
 富田若山城で挙兵のための軍備を整え始めたのである。


 そこには、かつて陶隆房とは犬猿の仲であった
 豊前国(=大分県北部)守護代の杉重矩の姿もあった。

 重矩にとっては、大内家中の混乱の原因を自分ひとりに
 押し付けた相良武任がどうしても許せないし、
 またそれを平然と了解する主君・大内義隆にも失望していた。

 大内義隆は陶隆房と相良武任に絶大な信頼を置いているから、
 家中の取りまとめのためには杉重矩を討つのが一番早い、
 という判断を下すのは目に見えている。

 かつては対立していた陶隆房に助力するしか、
 自分が生き延びる手はない。

 こうして、重臣の一人・杉重矩も叛意を大きく募らせていった。



 だが、そんな事態になっても、大内義隆は平然としていた。

 万が一、武断派筆頭の陶隆房が暴走したとしても、
 評定衆はその専横を許さない仕組みになっていると考えていた。
 
 つまり、陶隆房の好敵手として相良武任を置いているし、
 また陶氏以外の三家老に、杉氏、内藤氏が睨みを利かせ、
 また大内庶流の問田隆盛と、新参守護代の弘中隆包も
 評定衆の中にいるから、互いが牽制し合う仕組みである。

 この評定衆の機能は陶隆房も分かりきっていることだから、
 隆房も勝手に暴走はしないだろうと、信じていたのである。

 だから、危機感がない。


 三家老の一人である長門国守護代の内藤興盛は、
 その娘が大内義隆の側室に上がり、
 また嫡子隆時の娘、つまり孫娘が陶隆房に嫁いでいるので、
 陶隆房に対抗できると思われる唯一の宿老である。

 その内藤興盛も、もはや家中の揺れは陶隆房の私憤ではなく
 相良武任を平気で復職させる大内義隆にあると見て、

 「子の大内義尊(よしたけ)に家督を譲り、
  いったん隠居をして、混乱を収束させてはどうか」

 と義隆に進言した。

 しかし嫡子義尊はまだ七歳。義隆は興盛の進言を退けた。


 また、武断派と文治派の仲裁役にあった水軍の将・冷泉隆豊は、
 周防富田で軍備を整えているという陶隆房が
 いつ山口に攻め込んでくるか分からないので、
 機先を制して富田若山城を取り囲むべきだと何度も提案したが、
 これも義隆が「隆房を信じるべし」と取り合わない。


 かくして、大内義隆は山口を揺るがすこの一大事に、
 これまでと変わらず貴族の接待や芸能の宴にばかり注力し、
 何一つ有事への備えを成さなかったのである。



 天文二十年(1551)、八月二十八日の夜。


 周防山口の大内御殿の上空に、赤く光る大きな雲が巻き起こった。

 その赤雲の下、御殿に併設された築山館に、
 大内義隆直属の衛兵たちが続々と集まってきた。

 忠臣・冷泉判官隆豊が、義隆直属の諸将たちに呼びかけて、
 築山館にいる大内義隆を守るべく、軍勢を導き入れたのである。


 冷泉隆豊は闇夜に怪しく光る赤雲を見上げた。

 かつて、陶隆房による謀叛の噂が山口を駆け巡った時、
 弘中河内守方明と共に大内義隆の御前で見たのと同じ妖雲だ。


 「冷泉判官、これは何事じゃ」と慌てて出てきた大内義隆に、
 冷泉隆豊は膝をついて、

 「陶尾張守隆房、富田若山城にて挙兵致しました!
  陶軍は、富田からこの山口へ進軍しておりまする。
  我ら、一丸となってお屋形様をお守り致します」

 と伝えた。


 隆豊の報告に、大内義隆の顔は一気に青ざめた。

 陶隆房が謀叛。まさか――――。
 信じられない顔つきで、義隆は夜空を見上げた。

 龍にも鬼にも似た、赤光を放つ大きな雲がうごめいていた。
 一年前の、隆房謀叛の噂が脳裏をよぎる。

 今度は、隆房が富田若山城を出撃したのは事実である。

 さらに、その陶隆房と対立し睨みを利かせていたはずの
 豊前国守護代・杉重矩もその反乱軍に混じっているという。

 怒り心頭に達した猛将が、この山口に迫ってくる……。

 大内義隆は、震えながら膝から崩れ落ちた。



 「我らが運も、お屋形様の運も、天道の計らいである。
  大内の末永き繁栄のため、国政を正しつかまつる」

 陶隆房は、周防国近隣の国人領主たちの協力を取りつけ、
 世直しと称して、富田若山城から二軍を率いて進軍。

 一隊は東口から、一隊は南口から、山口の街へなだれ込んだ。

 そして小隊に別れ、大内義隆と相良武任に通じる者の邸宅を
 それぞれが襲っていく。

 雅な山口の街は、陶の軍勢の襲来で大混乱に陥った。



 その混乱の中、山口の街中の一寺に飛び込んだ武者がいた。

 黒い頭巾で頭部を覆い、防具を最小限にまとって体を軽くし、
 両手に槍を持ったまま堂内に走りこんで来た。


 「周良殿っ。策彦周良殿はおられぬかっ…!」
 
 黒頭巾のその男は、一人の僧の名を叫んで探し回る。

 顔を隠したその武者の正体は、弘中河内守方明であった。
 方明は、陶軍の襲来に荒れる山口の街の中にいたのである。
 

 勘合貿易の使節として遣明船にて日明を行き来した
 臨済宗の僧・策彦周良は、どうやらこの寺にはいないようだ。

 方明は、奥の壁を見た。

 以前、ここで策彦周良に面会した時には、この壁には
 「秋景冬景山水図」という二枚の水墨画が掛かっていたはずだが、
 その画は二枚ともそこから消えていた。

 どうも、数日以上は空けている様子である。


 そうか…。

 あの時、兄の弘中隆包が策彦周良に渡した書状には恐らく、
 山口の街に近く大混乱が起こるから身を隠すようにと、
 助言をしていたに違いない。

 周良法師は文の内容に「あい分かった」と言った。
 きっと隆包の提案を受けて、壁に掛かった逸品を持って、
 どこか京あたりに旅立ったのであろう。

 きっと、策彦周良は無事である。



 方明が安堵の息をもらしたその瞬間。

 入口のふすまが蹴破られて、数人の武士が上がりこんできた。
 その先頭にいる大男が大股で歩み寄りながら言う。

 「貴様、誰だ?」


 そう言った巨体の男は、大内家中でも随一の猛将として知られる、
 陶隆房の家臣・江良丹後守房栄であった。

 (江良丹後か…。まずいなー)

 弘中方明は黒頭巾に手を当てて、さらに深く顔を隠した。


 寺社の中にまで、陶軍はなだれ込んでくる。

 大内義隆は、以前から山口領内の寺社に多額の寄進をしていた。
 そのため陶隆房は、山口の神社や寺院も、
 大内義隆の息のかかる者として、各小隊に襲撃を命じていたのである。

 江良房栄の一隊は、大内義隆が策彦周良が与えたこの寺院も
 義隆派と見て襲いに来たというわけである。


 方明の心臓が、大きく鳴った。

 方明はおろか、大内家臣の中にも恐らく勝てる者は一人もいない。
 一年前に首を締め上げられたところを陶隆房に助けられたが、
 その旧知の隆房は今はここにはいない。



 歩みを進めてきた江良房栄は、突然に豪声を轟かせて、
 常人ならば両手でしか持ち上げられそうにない大太刀を
 右手だけで振り上げながら、目の前の黒頭巾の武者に突進した。

 その巨体からは考えられぬ速度で迫ってきた江良房栄が、
 頭上から大刀を豪快に振り下ろす。

 完全に踏み込みに遅れた方明は、とっさに槍を構えるが、
 剛力を正面に受けられず、その大刀筋を右へと受け流した。 

 空を流れた江良房栄の大太刀は、素早くその刀身をひねって、
 方明の身体をえぐるかのように突き出されてきた。

 後方に跳躍して、間一髪でその刀先から逃れる方明。
 「……!」

 その背に壁を感じた。


 江良房栄は血走った目で、壁を背にする相手を見下ろしながら、
 さらに大太刀を素早く振り下ろした。

 轟音がうなる。

 荒れ狂う猛将を前に、
 弘中方明は絶体絶命の危機に追い詰められていた――――。



 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [十七]
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 ■杉重矩 (すぎしげのり)

 大内家家臣。豊後国(大分県北部)守護代として北九州の支配に従事
 する。杉氏に並んで三家老に挙がる周防国守護代の陶隆房を長らく
 敵視していたが、相良武任ら文治派の台頭によって隆房派に歩み寄る。
 周防山口の大政変の後に、隆房主導の政治の犠牲者になってゆく。
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厳島戦記(十六) 周防暗影の巻


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 厳島戦記(十六) 周防暗影の巻
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                       第四部「周防大政変」




 天文十九年(1550)十一月。

 前々月に奉行人筆頭の相良武任が九州へ出奔してから、
 周防山口(=山口県山口市)の大内家中の政局争いは、
 いったんは収束したかのように見えた。

 ところがこの月、また一つ、異変の種が芽生えた。

 武断派の筆頭である周防国守護代・陶隆房が、
 嫡子に家督を譲って隠居をする、などと言い始めたのである。


 「そんな馬鹿な」

 大内水軍を率いてきた部将・冷泉隆豊は怪しむ。

 当の陶隆房はまだ三十歳で、長男は十歳にも満たない。
 所領の周防冨田(=山口県周南市)に隠居と称して引き篭もり、
 軍兵を整えて蜂起するに決まっている。

 冷泉隆豊は隆房の陰謀を許してはならない、危険であると、
 主君・大内義隆に繰り返し注進したが、
 義隆は隆房の叛意など全く信じておらず、その言を退け続けた。


 陶隆房は、隠居に際して直接面謁してご挨拶を差し上げたい、
 ということで大内御殿に出仕することが決まった。

 「討つしかない」、と冷泉隆豊は覚悟を決めた。

 陶隆房は大内旗下きっての猛将であるから、
 真正面から力で挑んでも、恐らく誰も叶わない。

 そこで、隆房が大内義隆に拝謁しているところを狙って
 脇差の一刺しで仕留め、自分も御前で腹を切ろう。
 それがお屋形様のためなのだ、と冷泉隆豊は腰の刀を鳴らした。



 その刻がやってきた。

 冷泉隆豊は、大内義隆に万が一のことがあってはと、
 陶隆房の面謁の場に同席することを義隆に強く願い出ていた。

 義隆は「万が一のことなどないわ」と笑いながらも、認めた。

 そこで冷泉隆豊は、陶隆房の出仕よりも先に謁見の間に到着し、
 義隆の一段下で姿勢を正して、隆房を待ち構えた。

 冷泉隆豊の額に、汗がにじむ。


 そこへ、遠くからドカドカと大きな足音が近づいてきた。
 まだ姿も見えぬうちに、その音を聞いて、
 冷泉隆豊は「しまった…!」と息を飲んだ。

 陶隆房は一人ではなく、大勢の家臣を引き連れてきたのである。
 七十人、いや百人はいるかもしれない。

 面謁に際しては陪臣たちは別室に控えるのが常識である。
 しかし、小座敷衆は恐らく止めることができなかったのだろう。

 陶隆房が最前にどかりと座り、そのすぐ脇には
 江良房栄、三浦房清、宮川房長といった屈強の陶家臣の部将たち、
 その後ろには百人近い陶軍下の諸将が次々と腰を下ろした。


 「お屋形様。隆房、お暇乞いのため参上つかまつりました。
  これまで粉骨砕身、お屋形さまに仕えてまいりましたが、
  最近は病気になりがちのため、富田の地に帰り住んで、
  山々に囲まれながらゆるりと養生する所存でございます」


 白々しい隠居の理由を並べ立てる陶隆房の姿を見て、
 冷泉隆豊は歯噛みをしながら、拳を握り締めた。

 この場で陶隆房と刺し違えようと覚悟をしていたが、
 今ここで隆房を斬ることに成功したとしても、
 江良や三浦などの郎等が大内義隆に斬りかかるであろう。
 うかつに動くことはできない。


 「隠居を致すとしても、私の心は常に大内にあります。
  大内に何かある時は必ず、この家臣共が力になりまする。
  私も富田の地から精一杯大内を支えて参りますゆえ」

 と語る陶隆房を、大内義隆はすっかり信じきっている。

 これまで政敵であった相良武任が九州へ遠ざかったので、
 緊張の糸が切れてゆっくりと体を休めたいのであろう。
 義隆は、心の底から陶隆房の申し出をそのように受け止めていた。


 「ゆっくり療養して、また壮健な顔を見せてくれよ」
 と、大内義隆は隆房に優しく声をかけた。

 (壮健な顔、そのものではないか…)と冷泉隆豊は思ったが、
 まるでその心の中を見透かしたかのように、
 陶隆房は隆豊へと視線を移したので、隆豊は多少驚いた。
 

 「冷泉殿。貴殿と共にお屋形様をお守りしていきたかったが、
  残念ながら病の身ゆえ、富田へ隠居させて頂く。
  しかしながら、大内の行く末は常に案じておりますぞ」

 「…ご健勝をお祈り致す」


 冷泉隆豊の口からは、ありきたりの返事しか出てこなかった。

 陶隆房は、再び大内義隆に頭を下げると、家臣と共に退出した。

 大勢の武士たちの足音が遠ざかっていくのを聞きながら、
 冷泉隆豊は、何も果たせなかった無念を噛み締めるのであった。


 陶隆房が周防富田へと隠居したことは、
 山口の町人たちや農民たちの間にも様々な憶測を生んだ。

 近いうちに大きな騒乱が起こるのではないだろうか…、
 と多くの住民がその前兆を感じ取っていた。



 安芸国(=広島県西部)守護代・弘中三河守隆包の命を受けて、
 弟の弘中方明が周防山口に再びやって来たのは、
 ちょうどその頃だった。

 方明が向かったのは、長門国(=山口県西部)の守護代である
 大内家の宿老・内藤興盛の私邸である。
 
 弘中隆包・方明兄弟の母の実家は内藤家であり、
 方明たちにとって内藤興盛は母方の曽祖父にもあたる。

 弘中隆包は血縁である内藤興盛と頻繁に連絡を取り合っており、
 今回も方明は隆包の手紙を携えてやってきたのである。

 「おう、方明か。入れ入れ」という興盛の声に招かれて、
 方明は興盛の私室へと入ると、そこには数人の先客がいた。

 
 彼らの姿を見た瞬間、方明は無意識に身構えてしまった。

 方明がこれまでに見たことのない衣服を身にまとっている。
 中央の長身の男は、高い鉤鼻に青い瞳。

 (異人か…?)
 と、方明は警戒するかのようにその男の顔を見つめた。

 明らかにいぶかしんでいる顔つきの方明に、
 その長身の異邦人は優しく微笑む。

 内藤興盛は、方明に異国から来たその男を紹介した。


 「フランシスコ・ザビエル殿だ」

 「腐乱しす…、え?」

 「フランシスコ・デ・ザビエル様でございます」


 ザビエルという名を紹介された異邦人の横に控える青年が、
 改めてその名を紹介し直し、そして自分も名乗る。

 「そして私は、ザビエル様に仕える、ベルナルドと申します」


 いやいやいやいや、おまえはどう見ても日本人だろ。
 何なんだ、べるなるどって。

 弘中方明は、全くわけが分からない。

 以前から文化への理解が深い内藤興盛が、
 自分が理解できた限りのことを方明に教えた。



 フランシスコ・ザビエルは欧州スペインの出身の宣教師で、
 キリスト教という宗教の布教のためにポルトガルを発った。

 インドのマラッカ地方で布教活動をしていたところ、
 ヤジロウという若者に出会った。
 キリスト教がまだ知られていないという日本からの密航者だった。

 ヤジロウの好奇心と、日本という国に興味をもったザビエルは、
 ヤジロウの故郷である薩摩国(=鹿児島県)へ向かった。

 そして天文十八年(1549)、薩摩にたどり着いたザビエルは、
 薩摩の守護職・島津貴久に謁見し、薩摩での布教を許可された。

 その薩摩国内の布教活動で出会った町内の一青年が入信し、
 ザビエルの弟子となって随行するようになり、
 彼はザビエルから「ベルナルド」という洗礼名を授けられた。

 ザビエルはヤジロウやベルナルドなどの日本人信徒を連れて、
 肥前平戸(=長崎県平戸市)、そして周防山口へやって来た。

 そして、薩摩で島津貴久に会って布教の許可を得た時のように、
 この地の守護・大内義隆に拝謁を求めようとして、
 文化に理解のあるという重臣・内藤興盛を頼ってきたのである。

 異国の珍しい文化には目がない大内義隆ならば喜ぶだろうと、
 内藤興盛はザビエル一行を義隆に会わせることにした。

 義隆は案の定、喜んでザビエルたちを謁見の間に迎えたが、
 ヤジロウらの通訳を通してキリスト教の教義を聞いていた義隆は、
 突然に激怒して席を立ってしまった。

 キリスト教ではいわゆる「男色」が罪深きものである、
 ということを耳にしたからである。

 当時の戦国の武士の世では衆道、つまり男性同士の同性愛は
 当然であったし、大内義隆も大いに男色を好んでいたから、
 それを罪だと指摘されては、義隆にとっては面白くない。

 まさか許可を得られない理由が男色の指摘に出てくるとは
 全く予想もしていなかったザビエルは、うなだれて大内御殿を出て、
 内藤邸に再び戻ってきた、というわけである。



 そのようなことを繰り返し説明されても、
 方明には意味が全く分からない。

 ポルトガルやマラッカといった地名が
 一体どれほど遠い地なのかもよく分からないし、
 神仏以外の絶対神の存在があるということも理解できない。

 いちいち仏教や神道に置き換えて説明されなければ分からないし、
 キリスト教というものが何なのかも結局つかめなかった。


 ザビエルは、京の都へ行きたいと言い出した。

 我が国の人間からすると、守護職は大きな権威であるが、
 異国の人間から見ると、守護職は単なる一領主に過ぎない。

 その領主たちを束ねる「日本国の皇帝」に謁見したい、
 とフランシスコ・ザビエルは、内藤興盛に自分の考えを述べた。

 さすがに京におわす天皇へつなぐ力など無く、興盛は困る。

 「上洛なんて、あまりお勧めできないけどなあ…」と
 方明は助言するが、ザビエルは「それでも是非」と譲らない。


 そこで方明は、ザビエルの上洛を手助けすることにした。
 ザビエルのためというよりも、
 内藤興盛の困惑を少しでも解消したいという気持ちからである。


 「我が妻の父は瀬戸内の商人で、富豪たちに人脈が広いから、
  堺(=大阪府堺市)の富豪を紹介してくれるよう頼もう。
  堺は京に近い貿易港だから、堺の商人の知遇を得れば、
  京の内裏に通じる道が開けるかもしれない。自分で行くか」

 という提案をしたところ、ザビエルは大いにうなずいた。



 弘中方明は、兄に命じられた山口での所用を急いで済ませると、
 フランシスコ・ザビエル一行を警護しながら、
 所領の周防岩国(=山口県岩国市)まで帰り着いた。

 岩国では、堺へ向かう船が用意されていた。


 岩国には、錦川という美しく澄んだ清流が流れている。

 高台にある亀尾城から瀬戸内に注ぐ錦川を望みながら、
 フランシスコ・ザビエルは岩国領内の美しさに見惚れた。

 領民たちは皆笑顔で、先ほども弘中方明の帰還を喜んで出迎えていた。
 武士と平民が階級を超えてこんなにも笑顔で交わる場所など、
 ザビエルは欧州からの長い行程の中で初めて出会ったかもしれない。

 どうして領民たちが身分を越えて領主や武士たちを慕うのか。
 その理由を、ザビエルは方明に尋ねた。

 方明はそのようなことを、考えたこともなかった。
 昔ながらの光景だから、何も不思議に思ったことがないのである。

 方明は何を答えればよいのかためらったが、
 錦川の先に見える、川辺の森の辺りを指差した。


 「?」

 「この岩国の鎮守である、白崎八幡宮があの場所にある。
  我が兄は、この岩国の領主である上に、
  あの白崎八幡宮の大宮司を務めている身なのだ。
  だからこそ神の名に恥じぬ政事を行なっているし、
  領民もそれを信じて慕ってくれるのだろう」


 単なる政教合一ではない。
 宗教を政治に利用し政治を宗教に利用しているわけではなく、
 領民に慕われることで大宮司に置かれている。

 そういうことを、方明は言いたかったのであろう。
 その真意は、どことなくザビエルに通じていた。


 「今から岩国を発って堺へ向かってもらうが、
  その途中に、厳島という美しい島があるから見るといい。
  島全体が御神体であり、我々も必ず近くを通る時は参拝する。
  白崎八幡宮の大宮司の一族である我々であっても、
  厳島に行けばその御神体に戦や船旅の無事を祈るんだ。
  どの神がいてどの仏はいない、という考えは我々にはない」


 方明は宗教的な話は得意ではないが、
 我が国の仏や神の話で思いつくことは片っ端から語った。

 通訳をしているヤジロウやベルナルドももともと町人だから、
 僧侶や神職らの学術的な話を通訳するのは苦手だったが、
 方明の話すような一般的な考えを訳して伝えるのは楽である。

 ザビエルは、方明の言葉全てに耳を傾け、
 「この国の民は、純粋で美しい」、と思った。

 弘中方明の熱心な説明に、何かの糸口を見たのかもしれない。
 この国で布教をしていくことに、一層の勇気が湧いてきたようだ。


 ザビエルは、港まで送ってきた方明と堅く手を握り締めると、
 ヤジロウやベルナルドたちと共に、岩国を発って堺へと向かった。

 瀬戸内の海へ小さくなっていく船を見つめながら、
 弘中方明の心の中に、何か無常感のようなものが湧き起こる。

 ザビエルは、何十日間という長い船旅を要する広い海を渡ってきた。
 自分は水軍を率いる身ながら、瀬戸内海という世界しか知らない。
 自分はなんという小さな世界に生きているのだろう。

 そして、この周防を拠点に大きく拡がった大内義隆の勢力図も、
 様々な異国を見てきたザビエルの目には、
 それほど大きなものとは映っていないだろう。
 
 今、山口の街は動乱の前兆が見え隠れしている。
 もしかしたらこの騒乱も、
 ザビエルの歩んできた異国の世界からすれば、
 本当に小さなものではあるまいか。

 いつも耳にしている岩国の浜の波音が、
 今の弘中方明には、
 どこか世界の広さを感じさせるものに聞こえるのだった。
 

 フランシスコ・ザビエルと弘中河内守方明は
 この後また再会を果たすことになる。



 陶隆房が隠居と称して富田若山城へ引きこもり、
 フランシスコ・ザビエルが岩国から堺へと船で向かい、
 こうして天文十九年(1550)という年は暮れていった。


 そして天文二十年(1551)。

 戦国の世にあって栄華を極める周防山口の街に、
 動乱の暗影漂う一通の書状が舞い込むことになる――――。


 (つづく)



 ――――――――――――――――
  『厳島戦記』武将列伝 [十六]
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 ■フランシスコ・ザビエル

 カトリック教会イエズス会の宣教師。ポルトガルを発ってインドに着き、
 東洋に住む多くの人々をキリスト教へと導いた。やがて日本の薩摩国
 (=鹿児島県)を経て周防山口へと辿り着き、山口を日本でのキリスト
 教の布教活動の拠点と定めた直後、そこで起こる大政変に遭遇する。
| 『厳島戦記』 | 11:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(十五) 六国紛擾の巻

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 厳島戦記(十五) 六国紛擾の巻
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                       第四部「周防大政変」




 安芸国吉田(=広島県安芸高田市)の国人領主・毛利元就は、
 天文十五年(1546)に長男の毛利隆元に家督を譲って
 隠居してからというもの、公にはその顔を出さなかった。

 だが、毛利隆元を当主として表舞台に立ててはいるものの、
 実際にはその陰で着々と謀略を重ねていた。


 陰での動きを一部たりとも漏らされたくない元就は、
 隆元ら毛利一族の者や限られた重臣にしか会わなかったが、
 安芸国守護代の弘中三河守隆包とは頻繁に会っていた。

 その理由には毛利家と弘中家の親交の長さもあるが、
 何よりも弘中隆包が毛利家にとって
 大きな利益をもたらしている存在だからである。
 


 安芸守護代の座に就いた弘中三河守隆包の政策は、
 毛利ら安芸の国人衆たちにとって喜ばしいことばかりだった。

 山名理興の守る備後国(=広島県東部)の神辺城を落とすなど、
 自ら軍を率いて芸備の安定に東奔西走してきた弘中隆包だが、
 その隆包が特に力を入れたのが、安芸国内の産業の振興であった。


 まず海沿いの街には海運と漁業の発展の契機を多く与えた。
 その中でも大規模な事業となったのが、小さな船着場しかなかった
 佐東大田川(=太田川)流域に、大規模な港を建造したことである。

 そのためには大きな投資が必要であったが、そこには
 実弟・弘中方明の義父、堀立直正たち瀬戸内の商人たちから
 多大な協力が集まり、海運の良拠点ができあがっていった。


 さらに、山あいの集落にも殖産興業の重要性を説いて回り、
 その土地土地を治める国人領主たちと共に、農工業を育てた。

 例えば、隆包が安芸守護代に任じられて入城した槌山城のある
 西条(=広島県東広島市)は閑散とした山村であったが、
 隆包がその山々の湧き水の美味しさを知り、これを活かそうと、
 国外から熟練の杜氏を招いて、酒造りを根付かせることにした。

 また、弘中氏の元来の知行である周防岩国(=山口県岩国市)で
 農作物の栽培に適した堆肥の実験を成功させると、
 自らその実物を安芸国人衆の領内に持ち込んで技術と共に伝えた。


 領内の農工産業の振興の礎を作ってくれるわけだから、
 弘中隆包の来訪を、国人衆は無視せず喜んで迎えた。
 隠居と称して姿を消した毛利元就も、例外ではなかったのである。



 天文十九年(1550)九月、
 周防山口(=山口県山口市)に謀叛騒動が起こっていた頃、
 弘中隆包は吉田郡山城を訪れていた。

 隆包は常に自ら現場に足を運ぶ、珍しい守護代である。
 訪れた先から得られる領主や領民たちの声が、
 国内行政に役立つ何よりの情報であると分かっていたのだろう。

 この日も、当主の毛利隆元やその重臣たちだけではなく、
 普段は姿を見せない毛利元就も出てきて隆包を迎えた。


 「元就殿、今秋の吉田は、見渡す限り五穀豊穣のようですな。
  おめでとうございます」

 「いえ、これも守護代弘中殿のお力添えのおかげです。
  一同深く、弘中殿に感謝しておりまする」  


 毛利元就は、隠居後は一族と重臣しか入れなくなった私室に
 弘中隆包を招き、嫡子隆元と共に仲良く酒を酌み交わした。


 別室に控える毛利家の重臣たちは、気が気でならない。

 つい先月、毛利家中で大きな発言権を持ち専横を見せていた
 家臣・井上元兼の一族をことごとく誅殺するという一騒動が
 領内で起こったばかりだったからである。

 このことに対し、安芸国安定に走り回る守護代の弘中三河守は
 どのような沙汰を降すのかを、毛利家臣たちは恐れていたのだ。


 しかし、この話は弘中隆包と毛利元就の間で早々に決着していた。
 むしろ隆包が後押しをしたとも考えられる。

 弘中隆包は、安芸国人衆の中でも元就や隆元が率いる毛利家に
 勢力を持たせるのが、安芸国内安定の早道だと信じていた。

 そこで、周防山口の大内義隆にもその旨を進言して許可を得て、
 毛利家の成長を積極的に支援していたのである。


 毛利元就が隠居して、長男の隆元を毛利家当主にした後、
 次男の元春を吉川家後継者、三男の隆景を小早川家当主とし、
 毛利三兄弟に三家を抑えさせた時も、弘中隆包は大いに協力した。

 天文十八年(1549)、大内家重臣で長門守護代の内藤興盛の末娘を、
 いったん主君・大内義隆の養女とした上で、
 毛利家の新当主となった毛利隆元に嫁がせる手助けもした。
 大内家と毛利家との結びつきをより強めさせたのである。

 翌十九年(1550)には、吉川元春に家督を譲って隠居していた
 吉川氏前当主・吉川興経を廃することを容認。

 また、木村城の竹原小早川氏の家督を継いでいた小早川隆景に、
 小早川本家である高山城の沼田小早川氏の盲目の当主・繁平の妹と
 婚姻を結ばせることによって、
 小早川隆景を沼田・竹原の両方の小早川氏当主として認めた。

 そして、毛利家中で専横を振るう家臣・井上元兼の誅殺も認可し、
 「毛利両川」の三家の磐石を支えたのである。

 弘中隆包の指導の下、名実共に、
 毛利家は安芸国人領主たちの盟主となっていった。


 お隣りの石見国(=島根県西部)では、
 守護代の問田隆盛(といだたかもり)が全く権力を行使できず、
 国人領主の吉見正頼や益田藤兼らの勢力を抑えられずにいたから、
 それに比べると安芸国の守護代・弘中隆包と
 国人領主筆頭の毛利元就の信頼関係には、格別の深さが見えた。



 毛利元就、毛利隆元が守護代の弘中隆包と酒を交わしながら
 今後の政策について話し合っていた頃、
 隆包の弟・弘中河内守方明が、吉田郡山城に駆け込んできた。

 方明は、隆包の代役として周防山口へ行って
 守護職大内義隆に謁見してきたのだが、
 隆包が本拠の西条槌山城を空けて吉田郡山城に向かったと聞き、
 直接吉田郡山城の兄のもとへ山口から駆けて来た。

 「河内守殿、よくぞ参られた」と、
 元就は隆包の隣りに一席を設けて、方明に勧めた。
 「これはこれは」と、方明は普段の明るさで歓待を受ける。


 「武任殿の行方が消えたことまでは、早馬で既に聞いた」
 と、弘中隆包は方明に言った。

 周防山口の動向は安芸国の命運も左右することである。
 毛利元就も隆元も、方明からの続報に耳を傾ける。

 方明の口から、その後の様子が伝えられた。


 「相良武任は、九州は筑前国(=福岡県北部)の守護代、
  杉興運(すぎおきかず)殿の下に逃げ込んだようです」

 「興運殿のところか…」


 弘中隆包は、方明からの報告を聞いて深く息をつく。

 そして対面に座る毛利元就も、
 これから起こる事態を憂慮しているのか、眉をひそめた。



 大内家の行政最高機関でもある「評定衆」には、
 六国六名の守護代たちと、相良武任たち奉行人が列席するが、
 文治派の筆頭の相良武任にとって有利だったのは、
 武断派の守護代たちにもそれぞれ権力争いがあったからである。

 陶家・内藤家・杉家の三家は、特に「三家老」として権威を誇る。

 その筆頭である陶隆房は、内藤家から妻を娶っている関係で、
 内藤家との結びつきを強めようと画策しているが、
 残る杉家は、陶隆房とめっぽう仲が悪い。

 杉家からは、筑前国守護代の杉興運、そして
 豊前国(=大分県北部)守護代の杉重矩(すぎしげのり)という
 九州二国の守護代職が輩出されている。

 杉興運は、大内義隆への忠節一筋の宿老であったから
 陶隆房の権力に対しては我関せずという立ち位置だったが、
 杉重矩はなぜか陶隆房と一触即発の仲の悪さだった。


 陶隆房の権力に対抗するために、
 相良武任は他の守護代を味方につけたいと思っているから、
 武任が真っ先に頼るのは隆房と犬猿の仲である杉重矩であろう
 と、大半の人が予想していた。

 だが、武任は杉重矩ではなく、杉興運に取り入ったという。

 この事が今後どのような事態になってしまうのか、
 この時はほとんどの人間が予測できなかったに違いない。



 「なぜ武任殿は、豊前の重矩殿を頼らなかったのか…」

 弘中隆包は、左手に持つ杯の中に揺れる酒を見つめている。

 難しい理屈が苦手な方明は案の定、
 兄の方明が何をそんなに心配しているのかよく分からない。
 「武任を無理やりとっ捕まえて、二、三回しばきあげればいいのに」
 などと安直に考えるのだが、さすがに口には出せない。


 毛利元就や毛利隆元はというと、相良武任は九州ではなく、
 弘中隆包を頼って安芸へやって来るかもしれないと踏んでいた。

 弘中隆包は陶隆房と幼馴染とは言え、政治においては中立派で、
 先の出雲遠征の際にも、武任と反対意見を共にしたと聞く。
 義理難い上に安芸の経済力を大いに高めている存在とあって、
 取り入るには絶好の人物であるとも言える。

 だがこの時の毛利元就は、その情報収集力をもってしても、
 大内義隆の御前で弘中方明が相良武任に苦言を浴びせたことなど
 全く知らなかったから、しょうがない。



 どちらにせよ、相良武任が周防山口を出奔して、
 筑前守護代の杉興運の庇護の下に入ったことは分かった。


 安芸国内が政治面でも経済面でももうすぐ落ち着く頃である。
 大内本国の情勢一つで、その安芸の安定が崩れてしまっては、
 これまでの努力が灰燼に帰してしまう。

 弘中隆包は守護代として安芸国内にいながらも、
 評定衆の一人として中央の動向に手を打たなければならない。

 そんな責任を感じながら、弘中隆包は自分の考えを口に出す。

 
 「何かが起こるとすれば、年が明けて正月頃だろう」

 「何が起こるのですか」と、元就は杯を置きながら聞いた。

 「分かりませぬ」

 「九州にいる相良殿から、事が起こりますか」

 「恐らく。相良武任殿が九州から動き始めるとすれば、
  年明けの頃になるのではないでしょうか。
  元就殿、万が一のために軍兵の準備をしたほうがようござる」

 「年明けですな。分かり申した」


 毛利元就は、守護代弘中隆包の指示を受けてかしこまった。
 隆包には何かが見えているのであろう。

 頭の中の考えを整理した弘中隆包は、横に座る方明に言った。


 「私はまだ、この安芸から離れることができぬ。
  方明には私の代わりに、また山口に向かってもらうことになるぞ」

 「山口ですか」

 「そうだ。次は、興盛殿のところにも行ってもらう」


 方明への隆包の言葉の中に、
 今度は長門国守護代の内藤興盛の名が出た。

 毛利隆元にとっては昨年に娶った妻の父でもあるが、
 大内家中では陶隆房に並ぶ権力を持つ宿老である。


 西国を制覇する大内の大国が今、大きく動こうとしている。
 遠く九州まで巻き込む一大事の前兆が、うごめく。

 これまで安芸吉田の一国人に収まっていた毛利元就父子は、
 その広大な情勢のうねりを感じて、息を飲んだ。



 弘中隆包は、弟の方明と共に西条槌山城へと発った。

 毛利元就と隆元は、郡山城の城門まで隆包兄弟を見送り、
 その姿が見えなくなるまで、頭を下げて見届けた。

 
 「惜しいのう…」

 弘中隆包らの姿が見えなくなった頃、
 元就がふとつぶやいた。

 隆元は「えっ?」と元就の横顔を見る。
 元就は言葉を続けた。


 「弘中殿は、本当に我ら毛利のことを心底信じ、
  毛利と共にこの安芸の国づくりを成し遂げようとしている。
  だからこそ、あのような周防本国の大変な事情も、
  我らの前で打ち明け、相談してくれるのだろう」

 「はい」

 「ありがたいことよ…」


 毛利元就はそう言って目を細めると、踵を返して城内に戻った。

 隆元は、弘中兄弟の向かった方角へ再び目をやった。
 もちろん隆包たちの姿はもう見えない。


 父は、何に対して「惜しい」と言ったのであろうか……?
 父元就は、毛利家当主である自分にも伝えていない
 何か重大なことを抱えているのではないか……?

 激しい胸騒ぎが、毛利隆元の内に湧き起こっていった。



 九州筑前の杉興運の下へと逃げ込んだ相良武任が動きを見せるのは、
 弘中隆包の読みの通り、年明けになるのだが、

 それより二月前の十一月、
 隆包の代わりに弟の方明が再び向かった周防山口では、
 再び妙な騒ぎが起こっていた―――――。


 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [十五]
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 ■杉興運 (すぎおきかず)

 大内家家臣。筑前国(=福岡県北部)守護代として、北九州の軍事と
 貿易港博多の統治を一手に任され、大内の経済的発展に大きく尽力を
 果たした武将。大内三家老の一家・杉氏の出であるが、文治派筆頭の
 相良武任を庇護したことで、周防山口の政変に巻き込まれていく。
| 『厳島戦記』 | 13:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
厳島戦記(十四) 謀叛騒動の巻

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 厳島戦記(十四) 謀叛騒動の巻
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                       第四部「周防大政変」




 大内御殿は、増改築を繰り返して巨大迷路のようである。

 その豪華絢爛ぶりに、弘中方明の目は四方へ泳ぐ。
 あちこちに古美術品や異国の陶器などが飾られていて、
 およそ武家の執政の場とは思えない煌びやかさであった。

 勘合貿易を独占し、関門海峡や筑前博多の制海権を握る大内氏が
 いかに莫大な財力を誇っているかが分かる。



 「弘中河内守様、ご到着にございます」と、
 小座敷衆の一人が大きく声を発して、ふすまを開けた。
 
 そこには、百人は入ろうかという広い接見の間が広がっていた。
 見事な庭園も見渡せ、大きな開放感のある空間である。

 そしてその上座には、六ヶ国の守護職・大内義隆が座していた。


 広い接見の間ではあるが、その空間の中に見えたのは
 大内義隆を含めて三人だけだった。

 上座の大内義隆の左手前に座っているのは、
 奉行衆の筆頭である、相良武任(さがらたけとう)。

 そして、義隆の前でかしこまっているのは、
 忠臣の名高い水軍の将である、佐東銀山城城主、
 冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)であった。


 「おお、方明か。待っておったぞ。さあここへ」

 大内義隆は嬉しそうな声をあげて、方明へ手招きをした。
 方明はかしこまって「はっ」と返事をすると、
 義隆が勧める、冷泉隆豊の右側に腰を下ろして頭を下げた。


 
 庭園からの爽やかな風を横顔に受けながら、
 大内義隆は嬉しそうに、方明へ声をかける。


 「隆包の働きは十分に我が耳にも届いておるぞ。
  隆包は元気にやっておるかの」

 「それはもう。兄はただ今、佐東大田川の河口に、
  船舶の碇泊できる大きな港を建造中でございまして、
  この大事業のためどうしても安芸を離れることができず、
  山口へは愚弟の私が代役としてまかり越しましてございます。
  お屋形様に接見できぬ不義をお許し下さい、とのこと」

 「よいよい。安芸を平定し豊かにすることこそ、
  安芸守護代として何よりの義であるぞ。ところで……」


 義隆は閉じた扇子をくるくると回し遊んでいた右手を止め、
 改めて弘中方明に向かい直した。


 「実は、隆包にはつい先日、相談事を文にて伝えておっての。
  もし万一の有事の時にはいかにするのがよいかと」

 「伺っております」

 「おお、そうか! で、隆包は何と」


 大内義隆は身を乗り出した。


 方明の兄・弘中三河守隆包は、宿老中の「三家老」でも
 大内家庶流でもない、新しい守護代である。

 家老同士の対立が次第に深まってきた大内家臣団において、
 遠い安芸国から客観的に国全体を見ることができる
 弘中隆包の意見は、義隆にとっては貴重に思えるのだろう。

 義隆だけではなく、文治派筆頭の相良武任の眉も動いた。
 弘中隆包の動向は気にしていないというそぶりを見せながら、
 横目で方明を見て、その言葉に耳を傾けている。


 「隆包は何と申しておったのだ」

 「はっ。兄が申すに、有事の際には、
  冷泉隆豊殿に相談されるのが最善であろう、
  とのことにございます」

 「そうか」


 義隆は、方明の口を通して出てきた隆包の言葉にうなずく。

 その答えの中に名前が出てきた、当の冷泉隆豊は、
 方明の横で目を落としたままだが、安堵の息が漏れた。

 顔色を変え始めたのは、右筆の相良武任である。

 「有事の際」とは何を表わしているのかは明らかではないが、
 信じられないことだといった顔つきで、
 義隆の許しもなく突然に方明に問い詰め始めた。


 「弘中三河守殿が申していたのは、冷泉殿だけか」

 「はい」

 「この武任、奉行衆の筆頭としてお屋形様にご信任を頂き、
  国の行政全般を執り仕切ってまいったのだぞ。
  この相良武任を差し置いて、どうして冷泉殿なのだ」


 まるで自尊心を傷つけられた子どものような面持ちで、
 相良武任は弘中方明に言葉を浴びせ始めた。

 大内義隆は武任の癇癪に対してどうしていいのか分からず、
 冷泉隆豊は無言でかしこまったままである。

 相手が筆頭奉行であるにも関わらず、方明は平然と言う。


 「さあ。兄の考えでござるから、私には分かりかねます。
  私に分かることは一つ。
  別に武任殿の名前は出していなかったな、ということだけです」

 「さようなことはあるまい」

 「さようなことが、あるのでござる。そんなことよりも、
  これは兄の考えでもなく、誰の差し金でもなく、
  私個人の足りない頭の中で思うことですが、よろしいか」

 「何だ」

 「武任殿、あんた、評判悪いよ。
  確かに奉行衆の筆頭ともなれば、とても重責ではあろうが、
  武官筆頭の陶隆房殿といがみ合えば、大内家中が揺れることなど
  子供や犬猫にだって分かる理屈でござろう。
  それを、陶殿やその家臣たちの領土を召し上げて困らせたり、
  他の守護代へ合力を頼んで裏から手を回したり、
  ねちねちとした政治活動をやっておるから、評判悪いのだ。
  大内家は代々武家の国。武家らしく正大にいきましょうぞ。
  一人ひとりが仲良くやろうと思えばいいことでしょう」


 息もつかぬほど心の内をまくしたてる弘中方明の横から、
 「お屋形様の御前であるぞ」と、冷泉隆豊が小声でたしなめた。

 方明は頃合いを見て言い終わり、そ知らぬ顔をしている。

 あんた呼ばわりされた相良武任の公家顔が、
 痛憤の色へと変わっていく。

 武任はもともと無骨で粗野な武官の連中が好きではないが、
 面と向かってここまで思いのたけをはっきり言われたこともない。

 怒りに紅く顔を染めた武任は、平手で思いきり床を叩くと、
 立ち上がって、主君に挨拶をすることもなく、
 ドカドカと荒い足音を立てて接見の間を出て行った。



 一瞬の静寂が、接見の間を包み込んだ。
 困り果てた大内義隆は、苦笑しながら溜め息をついた。


 「はっきり言いすぎるのう、方明は」

 「申しわけございませぬ」

 「武任があれだけ怒るのも無理はない。
  実は、先ほどここに、隆房が参ってな」


 そう言えば、先ほど御殿の入口で陶隆房に出会ったな、
 と方明は思い出した。

 陶隆房が大内義隆に呼ばれた理由は、
 方明も耳にした、一昨日の謀叛の噂のことであった。



 事の次第は、こうである。

 天文十九年(1550)九月十五日、
 大内義隆は山口総鎮守の尊称を持つ今八幡宮にて、
 京より下向してきた貴族衆や、山口に滞在する文化人を集めて、
 大規模な管弦の宴を催すことになっていた。

 連日連夜の遊興にふける大内義隆であったが、
 その管弦の会の前日に相良武任が、

 「陶隆房殿が、居城・富田若山城(=山口県周南市)にて
  兵を揃え武具を備え、明日頃に山口に進軍する陰謀の気配あり、
  と、街中のみんなが申しております」

 と、陶隆房の企みの疑惑を強く伝えてきた。

 大内義隆は陶隆房の忠義を信じているから取り合わなかったが、
 相良武任は、陶隆房の狙いは義隆よりも武任自身である、
 ということがよく分かっていたので、気が気でならない。

 「管弦の会に出席される貴族たちに危害が及びますぞ」と
 武任が必死でせきたてるので、義隆も万が一に備え、
 数千騎の軍勢を大内御殿に集めて、当日を迎えた。

 ところが、陶隆房の軍勢は山口には一兵も現れなかった。


 そこで大内義隆は、翌々日の九月十七日、
 疑惑の真相究明のために陶隆房を御殿に呼んだ。

 義隆は両者の意見を聞こうと、相良武任も呼んでいたが、
 陶隆房と相良武任の言い争いが激化すると困るので、
 相良武任には声の届く奥の間にて控えさせることにし、
 逆上して飛び出してこないように、冷泉隆豊に武任を見張らせた。

 陶隆房は、江良房栄、宮川房長らの豪傑を従えて参上した。

 そして、十五日の謀叛の噂について、
 義隆が相良武任の名を出さずに隆房に尋ねると、


 「城内にて兵を集めて鍛錬をし武具を揃えて手入れするは、
  武人として当然の務めにござろう。
  それを聞いて謀叛だ叛意だと言うは、戦を任されたことのない、
  頭だけで生きている文弱な文士の戯言としか思えませぬ。
  そもそも、街中のみんなが申しておる噂とのことですが、
  街中のみんなとは、具体的にはどこの誰と誰なのですか」


 などと飄々と答えるので、大内義隆には返す言葉もない。

 そして、明らかに武任を見下しているような言い草に、
 隣りの間に控えていた武任は、怒りに切歯していたのである。


 弘中方明が陶隆房に会い、江良房栄といざこざを起こしたのは
 この詰問から退出している時のことだった。

 方明は、陶隆房と入れ違いで大内御殿にやってきたのである。

 陶隆房の皮肉を耳にしていたばかりの相良武任にとって、
 弘中方明の本音は怒りの火に油を注ぐようなものであった。


 
 大内義隆は困った。

 義隆は国政を顧みず芸事に耽った愚君と言う人もいるが、
 決して政治に興味がないわけではなかった。

 行政は奉行人の仕事であり、軍事は武官の仕事であり、
 それぞれが互いの長所を仕事に活かし助け合うことが
 国家経営の要であると思っている。

 有能な人材にそれぞれ相応の仕事を任せた上で、
 長たる自分の役割は、朝廷や室町幕府など中央との折衝や、
 国内文化の推奨と発展であると認識していた。

 だから毎日のように、中央政府の貴族たちの接待や、
 文化人との交流や芸能の吟味などに明け暮れていたのである。

 ところが、義隆の理想の政治とはかけ離れて、
 武断派と文治派はお互いを憎みあっている。

 憎しみ合わず、何とか仲良くしてもらいたい。


 今は目の前に、武断派とも文治派とも言わず、
 どちらにも属さない中立の立場にある冷泉判官隆豊と、
 弘中三河守隆包の弟・弘中方明だけがいる。

 大内義隆は、そんな想いを二将にささやかに語った。


 「大内家中は皆、国内外に誇る有能な名臣ばかりじゃ。
  皆が一人ひとりその力を発揮してくれておるからこそ、
  今の大内の世は歴代随一の勢力を持つに至っておる。
  だから誰一人欠けることなく、皆で国を大きくしたいのだ。
  皆で仲良く力を合わせ、良き国作りをしたいのだ」



 義隆がそう語った瞬間。

 庭園の方角から接見の間の中に突風がいきなり舞い込んだ。
 ふすまや掛け軸が、慌しく強風に揺れる。

 義隆も、また隆豊と方明も庭を見た。

 先ほどまで晴れ渡っていたはずなのに、
 突然暗くなって、どしゃ降りになった。
 庭に大粒の雨が叩きつけられる。
 

 急変した天候に驚いて「ひどい雨だのう」とつぶやきながら、
 大内義隆は立ち上がって縁側に歩み、雨の轟音響く庭園を眺めた。

 その時、バリバリと大きな雷が鳴ったかと思うと、
 御殿に併設された築山殿の上空に、
 炎のように赤い大きな雲が湧き上がって見えた。

 「何じゃ、あの雲は…」

 大内義隆は、怪しい赤光を放つ雨雲を不安げに眺めた。


 義隆の背中越しに赤雲を見た弘中方明には、
 先ほど晴天を見上げた時に感じた怖気が蘇ってくる。

 この山口に、何かが起こる――――。


 暗い雨幕の向こうに漂う赤い妖雲は、
 その前兆を知らせるかのごとく、奇怪な形でうねっていた。



 その突然の大雨の日の夜のこと。

 再び、山口の街から相良武任の姿が消えた。


 武任の威厳を恐れもしない陶隆房に身の危険を感じたのか、
 それとも弘中方明の直球の本音が逆鱗に触れたのか、
 この時点では誰もよくその真意が分からなかったが、
 相良武任は豪雨に紛れて、どこかへ出奔してしまったのである。


 陶隆房ら武断派にとっては、
 相良武任が偉そうに権威を振るうのが許せないわけだから、
 五年前に一度武任が失脚して山口を去った時のように、
 今回もとりあえず政局が一段落するものと思われた。

 ところが、この後に表れるたった一通の書状が、
 この繁栄極める山口の街を、
 大きく揺るがす事態へと向かわせることになる――――。



 (つづく)



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  『厳島戦記』武将列伝 [十四]
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 ■冷泉隆豊 (れいぜいたかとよ)

 大内家家臣。安芸銀山城城主。大内水軍を指揮し、安芸国への東征、
 伊予国への南征と大内勢力拡大に尽力した。智勇に優れ、武断派と
 文治派の対立深まる大内家臣団の中で、中立派として仲介役となり、
 最後まで主君・大内義隆に忠義を尽くして、壮絶な最期を迎える。

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